脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

クラブ何やってんの?

2012-08-31 | Weblog
オリンピックが終わったが、しかしパラリンピックはその真っ只中、正直オリンピックとパラリンピックの取り上げ方にこれほど差があるというのは納得できないが、日本は特にそうである。
前回取り巻き社会と言うテーマでブログを書いたが、捕捉したいことは、日本人はスポーツすることが素晴らしく、スポーツする人間は素晴らしい人間だという考えが強いが、オリンピックが終わって今後そういう考え方が定着し、目立つことが偉いなどと言う錯覚を起こさないことである。
よくオリンピックが終わったらアスリートたちが大学院で勉強するなどと言っているが、しかし大学側も安易に単位をやらないこと。
勉強もそっちのけでやりたいことだけをやってきたので、大学院と言っても実際一から勉強の仕方を教えなくてはいけない奴もいるのではないかと疑っているが、まず単位がほしければ英語が読めると言うことが必須条件で、学士ならまだしもマスターは博士課程前期であるので、英語を読めないと話にならない。まあ英語が読める読めないと言うのは専門分野にもよるが、しかしスポーツ科学などと言う分野はたかだか日本語だけでは知れている。英語が理解できないとそういう高度な論文を書くことはまずできない。
私は休みの日に友達とチャットをするのだが、その時思わされるのは今の若い人たちの勉強の仕方である。
時事問題を話すときでも、彼ら彼女らはインターネットでいろいろな情報を得て、それをリンクして送ってくるのだが、これは我々が専門の辞書や参考文献を調べるのとは違い、非常に効率のいい学習の仕方で、おそらく大学生は論文を書く時、こういうインターネットの情報をフル活用しているのだと思うが、しかしその情報を集めるには日本語だけでは話にならない、英語が最低でも読めてこそ大学院の勉強ができると思っている。
オリンピックに出たのはそれはそれで認めるが、しかしこういうことをかさにきて楽に学位をもらって、講壇に立っても自慢話しかできないバカな講師では悪影響を及ぼすだけである。
それだけならばまだしも日本は政治の勉強などしたことないのに、アスリートだからと言って選挙にでるからえげつない話であるが、それは日本が未だそういう奴らを偉いと特別扱いするからである。

前に大学生と30代ぐらいのおっさんが話をしていたが笑った。
まずそのおっさんは学生に開口一番言ったのだが、それは「クラブ何入ってんの」だ。
もちろんここでいうクラブと言うのは運動クラブであるが、大学と言うのはまず勉強しに行くところである。
英語圏の人間だったらまずwhat do you study?何を勉強してるのと聞くのが普通だが、しかしクラブ何やってんのには驚いた。
バカじゃないのかと思ったが、しかし意外にもこういうことを聞く人間はいる。
はっきり言って日本はスポーツに浸食されている。
さっきの政治の話でもそうだ、国会議員になりながらも柔道の試合に出るなどと言うバカもいたが、アスリートなんて言うのは所詮それしかやってこなかったので、この程度の人間が多い。
すべてがそうではないと言ったとしても、しかし政治や大学の勉強と言うのはもっと地道に勉強して基礎学力を養わなければできないことで、英語が理解できない、ましてや政治などは今では国際政治学なんて言うものを理解していなかったらだめだと思うが、しかしそれを国民の前で元アスリートが一から勉強します。自分がやってきたことを社会に役立てたいなどと笑顔をふりまき頭をさげるだけで当選してしまうから恐ろしい。
よく毎年新聞をバカアスリートどもが凶悪犯罪で騒がせるが、こういう奴らは日ごろ特別扱いされて勘違いしている。
たぶん学校でも何とかクラブと言えば単位を見逃してくれるのだろうと思うが、こういう奴らに当然の義務を課すことなく特別扱いして野放しにするから、こういう凶悪犯罪がおこるのだと思う。
これはある大学の先生に聞いた話だが、ある有名な野球選手の話である。
彼はその大学のクラブに属していた。彼はその先生の授業をとっていたらしいが、しかしレポートを提出しなかったそうだ。
そこで先生がレポートを提出するように注意したのだが、その時帰ってきた答えは「えっ僕野球部ですよ」。普通大学の先生にレポートを提出しろと言われたら、わかりましたというのが当たり前だ義務なのだから。
しかしこういう言葉が平然と出てくるのは、こういう奴らをいかに擁護しているというか甘やかしているのがわかる。
これにたいして柔道の金メダルをとった人は立派だったと言っていた。
この人は学生時代からかなり有名な人で、国際大会などに出場していて忙しかったが、しかしそれでもきちんとレポートは書いてきたらしい。
今この人は大学の教授をしていると思うが、私はこの人だったら納得できる。現に英語で講演などもしているそうだが、それは彼がきちんとまじめにコツコツと勉強を積み重ねて、そこに行くまでに当然の義務を果たしてきたからであると思う。

とにかくアスリートには勉強させる必要はある。
学校の単位も何とかクラブだからやってはいけない。改善を図るのであればむしろ厳しくすべきであると思っているが、アメリカやヨーロッパのようにこういうことを義務付けると軍団の強化がはかれないので、筋肉バカの猛反発にあうと思うが、しかし逆にそういうことしか考えられない筋肉バカは今の時代には必要ない。
日本人は物を作ったり、技術的なことはすぐれている。私などは世界一だと思っているが、しかし世界の企業でもうひとつ生き残っていけないのは、体育会的なものの見方が定着していたからだと思うが、もうそういう考え方は通用しない。そこから脱却する必要がある。
なのにいまだにアスリートを持ち上げ、さらに政治の舞台に上げようとするのは非常におろかなことだ。

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取り巻き社会 

2012-08-30 | Weblog
だいぶ前の話だが学校の寄り合いでの話。
あるおやじの発言だが、おやじがまず「俺は教育のことはよくわからないのだが」というようなことを言って発言していた。
しかし何を言っているのかよくわからないのだが、たぶんこのおやじの言いたいことは昔の教師は豪快で子供の気持ちもわかっていた。それに比べて今の教師はとでもいいたいのだと思うが、はっきり言ってアホかと思った。稚拙すぎて話にならない。
たぶん仲間内がいて、聞いてもらえる、言わせてもらえるから言えるのだと思うが、まず教育のことがわからないのならこういう場でこういうことを発言する必要はない。しかし日本の教育の現場特に村社会的な地域では、自分たちレヴェルでしか通用しない話が意外とあって、さらにそういうことは普段の井戸端会議ではなされているのだろと思うが、共通意識として狭い価値観を共有していることがある。
私はどちらかというと彼ら彼女らにとってHOLY COWである。
議論に慣れているし、人がどう思おうが自分の意見を述べる、自分で言うのも何だがこういう村社会の寄り合いで話をするようなレヴェルでもない。おそらくそういう存在が非常に邪魔なのだろう、こういう場では必ずマークされて多数決で押し付けようとするので、キレてめちゃくちゃ言ってしまったら大変なことになるので、できるだけこういう場には顔を出さないようにしている。

だいぶ前にクラブの話しでこういう話を聞いた。
それはクラブの顧問が遠征中にいかがわしい店に行ったり、女を連れ込むと言う話である。
正直おどろいた。なぜこういうことが問題にならないのか不思議であるが、こういうことが黙認されるのはいわゆる彼ら彼女らの世界が縦社会、いわゆる村社会だからである。
おそらくこういうたぐいの奴は、自分と親しい取り巻きたちが、卒業して成人になったらキャバクラやソープに連れて行ったりする話しを聞くが、それはかなりおかしいことである。
もしそういうことが暗黙の了解として認められていたり、教師が取り巻きたちを女の店に連れて行って、豪快に酒を飲んで酩酊する姿を見せたり、キャバクラやソープに連れて行くなんていうのはたとえ彼らが成人であってもすべきではない。
ここまでくればもはや教師と生徒ではなく、親分子分の関係だからで、むしろこういう失態を見せ合って落ち着く傾向がわるい縦社会にある。
前にも言ったが縦社会は「かわいがる」「かわいがられる」の世界である。おそらくそういう親分子分の馴れ合いの世界ではこういう行為もゆるされて、むしろそれは豪快なこと人間らしくていいなんていわれるのだろう。
たぶんこういう村社会で生きるおやじたちの発言も、そういう面倒見だけを教師に求めた姿であると思うが、それは全く見当違いである。
日本人は教育を悪とみなすところがある。受験戦争とか詰め込み教育などと言うネガティヴな言葉からもわかるように、実際に教育イコール自分たちから自由を奪うものであるとみてきたことは確かなことである。さらにこれに輪をかけたようにテレヴィでは学校を悪にしたてあげて、それをチンピラ教師がもっもなことを言ってその学校の悪を懲らしめていくのだが、おそらくこういう番組は何十年前からあって結構な視聴率を上げている、我々はそういう番組に少なからずとも悪影響を受けている。そういう中で本当の理想の教師像や教育と言うものが、捻じ曲げられていっているように思えるのだが、このおやじのはちゃめちゃな親分的存在を求めるような発言はまさにそうである。

しかし私が思うに教育なんて地道なものだ。はっきり言って教育学なんて言うのも非常にたいくつで面白くないが、他人から見てそういう地道でおもしろくないことをコツコツと積み上げていくのがいい教師だと思っている。
しかしテレヴィが教育イコール悪と言う図式を作り上げて、バカなことをして目立った教員がいい教師などと言う錯覚を起こさせているが、そういう目立つことしかできないバカと比べて、まじめにコツコツやる人間を平凡だとか、ものの見方が狭いなどというのは暴言である。そういう考え方があるからクラブなどで名をあげて目立とうとするバカがでてくるのだと思っている。

未だどうしょうもないバカ教員と言うのはたくさんいる。
そういうバカでもクラブなどで名をあげて、まわりのとりまきをつくったら、評価されて、多少のおめこぼしがあるのだろうが、しかしそれは間違っている。
柔道でレイプしたなんて疑惑が上がっている奴なんかもまさにいい例であるが、こういう奴もレイプするまでは豪快で人間らしいなどと言われていたのだろう。
そういう奴らのほとんどは縦社会を築き上げて、取り巻きをつくり、それでまとまっているなどと思っているが、しかしそういう縦社会になじめない人間はたくさんいる。正直で不器用だから、疎外されて仲間外れにされたり、いじめられたりするのが日本の現状であるが、余計なことを言ったり人と違うことをしたらたたかれたり、無視されたりするのが日本の現状で、そういうことは未だ村社会で、小さくまとまろうとする奴が多いからだと思っている。



 












 

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おひさしぶりです

2012-08-28 | Weblog
日曜日韓国人の友人と会った。
娘はSKYPEでしか見ていないのでどれだけ大きくなったかは実感がなかったが、しかし実際に会ってみると、うちの子供より年は一つ上だが、頭ひとつ分でかい。アジアでは身長は韓国系が一番高いそうであるが、それは女性もそうで、おそらく日本人よりも身長は3,4センチ高かったと思われるが、あった時に娘が「こんにちは。おひさしぶりです」と流暢な日本語で話しかけてきた。
彼女は少女時代のソヒョンに似ているので、ここではソヒョンと呼ぶことにしているが、朝鮮顔のまあまあの美人である。
彼女は前にも言ったがこの他にも英語を話すトライリングアルであるが、以前彼女が私が日本人が普段使わない言葉を使うと言葉があって、それの言葉をあった時に教えてあげるということであった。
気になっていたので、一体なんだと聞いたらそれは「はよっ」と言う言葉らしく、例えば「それ何々して、はよっ」とか人をどかせるときに「はよ行け」などと言うそうである。
ところでこの「はよっ」と言う言葉は、漢字で書けば「早よ」大阪人は早くと言う意味で使うそうであるが、私の場合はその言葉が頻繁にでてきて、それは韓国語のパルリ(早く)というような感じで使われるようで、いらいらして言っているわけではないのだが、こういう言葉の使い方に自分たちと同じ民族性を感じるそうである。

夕食を一緒にということだったので、何が食べたいのかと娘に聞くとラーメンが食べたいというので、京風ラーメンと言うのがあるのでそこに、しかしそこで気づいたことがある。それは彼ら彼女らは韓国語をつかおうとしなかったことである。
最初のあいさつにしても彼女はまず「あんにょんはせよ。ちゃるしねっそっそよ」と言ってくるのだが、今回は日本語で「こんにちは」親子のちょっとした会話でも、私をはさむようにして日本語で話したりしていたのだが、彼ら彼女らの態度はかなり竹島のことで気をつかっているのように見えたのだ。
まああまり詳しいことを書くと、どこのだれがそんなことを言ったんだと言われて、彼らがどえらい目にあわされる可能性があるので、かなりぼかして書くが、私が思い切って今回のことをおやじに聞いたら、意外な答えが返ってきた。
今回大統領が竹島に行って竹島は自分たちの領土だと言うことをアピールし、さらに天皇の訪韓について問題発言をしたわけであるが、この一連の行動を向こうの人たちは、大統領の支持率の低下と国内の正疑惑を何とかするためにとった苦肉の策だと思っているらしく、逆にこの問題を深刻にとらえすぎて、お互いが疑心暗鬼になってしまい、さらにこじれることを恐れていると言うようなことを言っていた。
たぶん20年ぐらい前ならばこういったことでも、それが民族感情につながって支持率を得ることができたかもしれないが、しかし日本との摩擦が生じると、ビジネスでの損害が大きく、損をすることは目に見えている。現にデモもそれほど大きな規模で起こったわけではないので、旅行なども独立記念公園に行ったり、女性の一人旅ではないかぎりは大丈夫だと思っているが、今回の大統領が起こした問題は、民族感情をあおるどころか何の成果ももたらさなかったわけで、逆にビジネスにおいてはかなりマイナスであったように思えるのだ。

李明博大統領は、大統領予備選挙中に母親は日本人だというデマを流されたそうであるが、実は大阪生まれで大阪で育ったので(日本名は月山明博)日本語を流暢に話し、英語も流暢に話す。
特に彼は英語教育には熱心で、韓国の国内の授業も一部は英語で行ったらどうかという案を出したこともあるそうだが、彼が親米であるのはおそらく英語が話せると言う共通言語理解にもよるのだと思う。

余談だがアメリカが建国時代に、共通の言葉を何語にしようかと言うことを取決めする会議があったらしい。
当時アメリカはピューリタンの国で英語をつかう人たちが多かったのだが、しかしのちにドイツからも移民が増えてドイツ語を話す人も多くなったそうであるが、この時共通語いわゆる母国語を英語にするかドイツ語にするかで迷って会議が開かれたわけであるが、最終的に多数決で英語になったわけであるが、しかしその多数決の差がわずか1票、その1票差でアメリカの公用語は英語になったわけだが、もしこれがドイツ語になっていたならば、ひょっとしたら歴史がかわっていたかもしれない。
こんなことを歴史学者に言ったら笑われるが、しかしもしそこで公用語がドイツ語になっていたら、アメリカと言う国はドイツよりの国になって第二次世界大戦でドイツについていたかもしれないなんて考えるが、まあこういう次元の話は小説レヴェルの話であるが、しかしこれをヒントに小説を書くことも可能だ。

言葉と言うのはアイデンティティを結び付けるもので、人間は誰でも同じ言葉を話す人間に親近感を持つ。
最近韓国語を学ぶ人が増えてきているが、これはお互いにとっていいことだと思う。
韓国語は日本語と文法が同じで、他の言語を学ぶよりもずっと修得しやすい言葉である。
さらに言葉を学ぶことで共通性を見出すことができると思うが、この共通性はルーツが同じと言うことで、政治的なものではないので、素直に共感できるものである。そういう共通理解を政治ではなく、言葉を通して知ると言うことはお互いが交流していく上では大事なことだと思っているが、今後日本も韓国のように高校で第二外国語を教え、そして韓国語を奨励したらどうかと思う。

今回大統領の暴挙に対して、日本人が起こるのは当たり前のことである。
しかし私の友達のように、友好関係がこわれてしまうと懸念している人たちもたくさにることは確かで、そうだからこそ韓国語を使わずに日本語を使ったのだと思うが、こういう遠慮ははっきり言って少し前の世代にはなかったことである。

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情にうったえろ

2012-08-25 | Weblog
チジミという韓国料理がある。日本で生活している人間にはわかるが、しかしチジミって何?たぶん韓国人にいっても何かよくわからないと思うが、日本人がいつからこの言葉をつかうようになったのか、韓流お好み焼きをいつしかチジミと呼んでいる。
チジミは正確にはチジミではない。むこうではプッチンゲと言うが、これはこのチジミをつくる粉のことであり、日本でいうチジミをいう時、プッチンゲというのが一般的に使われる言葉である。

最近また親書をめぐって日韓で争いがおきている。
親書を送った、送り返すのやりとりで、一体何が大人の対応かはわからないが、しかしお隣の国にそういうやり方で自国の主張を伝えても無駄なことで、こういうやりとりはもはや意地の張り合いのようにも見える。
私はその専門家ではないが、しかし日本人は韓国人のことをあまりわかっていない。政府もどこまで詳しい人をスタッフにおいているかわからないが、私から見れば政府は韓流におどらされるばかりで、本当にそういう専門家をスタッフとしておいているのかという懸念はある。
竹島のことにしてもそうだ、今回の親書をめぐって大統領は追い詰められている。竹島が自分たちの領土だと言い張るには分がわるいから、ああいう逆切れ的な行動を起こしたが、しかし政府どうしではどうかわからないが、しかし前にも言ったが民衆レヴェルにおいては
韓国側と日本側では論点が違う。
少しかけはなれた発想かもしれないが、この竹島の問題を解決するために、日本側が今そこに住んでいる人たちの権利と人権を守るということに努める努力を見せてみてはどうだろうか?どう権利と人権を守るかと言うことはむずかしいが、例えばあり得ないが名前を竹島ではなく、向こうに住んでいる人間の居住権を考えて、改めて独島にするとか、とにかく竹島は国際法では自分たちの領土だと主張するよりも、彼ら彼女らの情(チョン)にうったえるのもひとつのやりかたではないかと思う。
韓国人の性格をあらわす話しにこういう話がある。
それは日本人と中国人そして韓国人の子供たちをひとつの部屋に水を飲ませないで、我慢をさせるという話しである。
この時もう限界が来たら「私は犬畜生です」と言ってスイカを食べていいルールがあるのだが、しかし韓国人だけが自分は犬畜生と絶対に言われたくないので、最後の最後まで我慢すると言うおろかななたとえ話であるが、彼ら彼女らはいったんこうと決めたり、自分の名誉のためには絶対ひかない。たとえそれが犬畜生と言うだけのくだらないことであってもだ。
だから意地の張り合いをしても意味がない、情と言うものにうったえかけるのもひとつのやり方かもしれない。

民衆レヴェルで主張するのもなんだが、最近向こうの人間と独島のことを議論するが、しかしこれがまったく話にならない。
前にも書いたがそもそも論点が違う。
領土権のことを国際法に基づいて話しても、日本が侵略したからと言う問題にすり替えられて、話しは平行線をたどるわで、それにまだむこうは民主化が進んで20年ぐらい、本当だったら民主化にむけて歴史が再解釈される必要があるのだが、しかし実際に歴史と言うものが再解釈されたりする余裕はみられない。
映画「シルミド」で表現された国家の重要機密が今まで開示されなかったように、政府レヴェルで開示していないこともまだあるのではないかと思っているが、今では経済的には日本よりも発展をとげつつあるが、しかし民族意識の高さが何が真実なのかと言うことを考えることのひとつの弊害になっているような気がしてならないのだ。
私は両国を客観的に見てきているが、韓国人は歴史認識にかたよりがある。
はっきり言って日本人の主張の方が国際法的には正しい解釈である。
しかし日韓の問題はそういうレヴェルではないと言うことも確かである。

ファーブルと言う韓国人の自分よりも年上の奴がいた。彼は大学で虫 の研究をしているので、自分がつけたあだなであるが、彼は自分の気に入っている女性が自分と仲良く、そして年上に偉そうに話すことに非常に不快感を持っていて、自分のことをたいへん嫌っていた。
しかし自分が帰国するので彼にありがとうなと言いに行った時、号泣したことをおぼえている。
「あれこいつ俺のこときらっていたんじゃなかったのか、確かこいつはその韓国人の女性に「あいつだけは絶対に礼儀と言うものをたたきこんでやる」と言ってたはずであるが、しかし彼が自分に言ったことばは「お前日本で苦労しただろ、でも向こうに行っても頑張れよ」というような言葉をかけてくれたのだが、正直その言葉にはおどろいた。
ジョンという言葉は訳すのに少し難しく、特に韓国語では日本語にないような情の使われ方をする。例えばそれはわるい情が移るという言葉である。これはいやなうっとうしい部長が転勤になった時に、次の部長のやり方になれるまでたいへんだよなあというような感じで使われるのだが、こういう人間関係をつないだり表現したりする時に彼ら彼女らは情と言う言葉をよくつかう。
ある程度つきあえばうっとうしい嫌いだと思っていても情がでてくる。そういう文化である。
民衆レヴェルの考え方であり、これは国家レヴェルの事柄としてとらえることはどうかと思うが、韓国人と言うのは人間関係を表すときに非常に情という言葉をよくつかうが、この情は人間関係をつなぐのに大事な言葉である。

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犯人はヘーゲル

2012-08-23 | Weblog
シリアで女性ジャーナリストが戦闘に巻き込まれて死亡したと言うニュースが流れた。
シリアは正式名はシリアアラブ共和国、一応共和制と言うことになっているが、実質国民は大統領の独裁政治のもとにおかれている。勝彼女はこういう内戦がおこる国に出て行って、そこで起こっている惨劇について、特に女性や子供たちがいかに犠牲となっているかと言うことを報道することを専門としているのだが、こういう貴重な人物がなくなったと言うことは非常に大きな痛手である。
これと並行してまたくだらない記事が載っていた。なるべく目立たないように乗っていたのだが、おそらくそういうことはもうあたりまえのようにあるので、そう珍しいことではないのかはわからないが、運動クラブのレイプ事件である。
はっきり言ってこういう世界に危険な場所に行って、その女性や子供たちがどれだけその内戦や戦争の犠牲者となっているかということを伝えようとしている人がいるのに、こういう女性をレイプするという事件が起こること自体かなり不快なことである。
毎年夏ごろになると必ずこういうアスリートによる凶悪犯罪がおこるのだが、はっきり言ってこういう凶悪犯罪に対して、責任を感じていないのだろうか?卑劣な奴はとかげのしっぽ切りのようにスケープゴートを差し出しているが、しかしこういうことが毎年のようにおこることは異常なことで、こういうことが起こると言うことは、その体質や組織に問題があると言うことに気付かないのか不思議である。
これに対してニューヨーク大学の教授がおもしろい論文を発表している。
日本文化とホモソーシャルと言うタイトルであるが、ホモソーシャルとは平たく言えば家父長制、男尊社会のことで、そのホモソーシャル的な社会では女性は物としか扱われない。日本で起こるそういう奴らのレイプ事件と言うのは、運動しかしないようなバカがその女性を性欲の対象としてしか見ていないから欲望を満たすための一種の狩りのようなもので、同じことしかさせないホモソーシャルの短絡的な制度というものが、未だ存在する限りは毎年こういう異常な凶悪犯罪がおこると思う。

私はなぜこいつらに、もっと勉強させないか不思議である。
人間と言うのは両面を鍛えなくてはバランスがわるくなる。運動クラブの奴は授業中寝ていると言う話を聞くが、頭をきたえて物事を深く考える訓練をさせなくては、本能が暴走する。
最近映画館で優秀な大学生が、勉強に行き詰って銃などを乱射したという凶悪事件があった。5年ぐらい前にもこれと同じような事件がアメリカのある工科大学でおこったが、それと同じで運動ばかりして体の機能を高めるだけでは体の機能ばかりが発達して、特にそういう成長期では性欲が強くなるのは当たり前のことだ。
連盟だか軍団かわからないが、なぜそいつらは高校球児などのアスリートに勉強をさせることをもっと強く言えないのか?
アメリカでは基本的に学校と言うところは勉強するところであるので、成績が不振だと奨学金がうちきられたり、試合出場停止になったりするのだが、それぐらいやる必要性が今出てきているのではないかと思う。
しかし日本ではそういうことは絶対にない。なぜならそういうことを義務づけると軍団の強化や練習ができないからで、全国大会とか言っているバカな監督の猛反発にあうからである。

前から言っているが朝練などという国民の義務や人権を無視したバカなことをさせるよりは、読書をさせろ。
私は本を読むと言うことは学生時代には必要なことだと学生にはよく言っている。
本と言っても漫画や読みやすいHow to本ではない。それはなにこれ退屈と言うような本である。
「どういう本を読むんですかと聞かれたら」「古典や」と言って何冊か古典的な本をあげるが、少し前にはやったニーチェの「ツアラストラはかく語りけり」という本でもいい。とにかくそいつを読んだら「こいつはかなり時間がかかりそうだ」というような本を選んで読んでみることである。
古典と言うのは最初読んでいると退屈で面白くないが、しかし読んでいくうちにその書いていることが自分の体験や悩みなどにオーバーラップして、ああこういう考え方もあるのかと感心させられるのだが、そういう体験が物事を見たり考えたりするうえでのものさしや考え方の骨子となる。
運動系の奴がまともな自己主張ができないのは、体ばかりをつかって深く物事を考えるこういう訓練されていないからであるが、それは日本の学生についても言えることである。
日本の大学はどちらかというと理数系などの技術系の学部のほうが盛んで、文科系に比べて理数系と言うのは大学に入ってもかなり勉強させられると思う。
これに対して文系はどうかと言えば、大学に入学しても勉強をしなくても卒業できるシステムである。
真面目に勉強する時は、ゼミや論文を書く時ぐらいで、欧米のように一生懸命勉強しない。
どちらかと言えばこういうアカデミックな勉強をおろそかにしているところがあるのだが、このことが日本人が論理的に物事を考えることができない原因のひとつではないか、すなわち運動でいうところの基礎練習ができていない。そういう土壌がないのである。

古典や哲学書のような硬い本は、読むのにはかなり難解である。時々「なんじゃこれはこいつは何を言いたいんだ」というような内容にぶつかることもしばしばあるのだが、それは哲学で言えば、時にヘーゲル以降の哲学者の考え方を紐解く時にあることだが、これは弁証法と言う論理の組み立て方に日本人は慣れていないからである。
以前大学生でワンセメ留学をした奴が、あるめちゃくちゃ複雑な哲学書の内容を英文で送ってきた。「これどう訳せばいいんですか?」って。
正直言って自信がないので「お前勉強しに行ってんやったら自分で訳せ」とごまかしたが、哲学書特にヘーゲル以降の古典は難解である。しかしそれを読むことで新しい考え方に導かれたり、他の考え方を受け入れることができる。そういう体験を通して鍛えられ、物事を考えていく上でのものさしが築かれるのである。







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日本スポーツ村衰亡史

2012-08-21 | Weblog
昔朝鮮の王は1日3回勉強の時間をつくっていたという話しを聞いた。
朝鮮と言う国は儒教の精神の上になりたっているので、徳を積まなくては国民の信用を得ることができないという考えから朝、昼、晩と時間をつくって学問にいそしんだらしいが、朝鮮王朝は科挙システムによって、優秀な人間を官僚として登用していたため彼らをうまくつかいこなすためには王にもそれなりの教養と知識が必要だったらしい。
しかしこのことは何も朝鮮王朝に限ったことではない。
それはわれわれの現代のコミュニティのありかたについても言えるわけで、今日教育が進んでほとんどの人間が大学や専門学校に進む中ただのスポーツバカではだめだ、公平にうまく群れをまとめていくには、指導する人間にもそれなりの学が必要であると思うが、実際に言葉や教養と言うのはその群れを形成するひとつの目安にもなる。
多くの人間を相手にするのであれば、すべての人に対応できるように、指導者ができるだけ多くの知識を得ることは偏りのない公平なクラブを形成できると信じている。

今回オリンピックは日本ではかなり盛り上がったようであるが、しかしアメリカなどもそうであるが、フランスをはじめ欧州は経済不安で、それどころではないというような危機感さえも感じたが、オリンピックは年々盛り上がりにかけてきている。
そんな中日本では最近ではよくわからないアスリートたちが、テレビに出て楽しくぺちゃくちゃとオリンピックの裏話や感想などを語っているが、ヨーロッパでは経済が不安定で、今フランスから遊びに来ている大学生がフランスで就職することは大変だと言っていて、半分本気で日本に来て就職できたらと言うようなことを言っていたが、そういうことから考えると、日本の盛り上がり方は異常な感じさえもするのだ。

ギボンと言う歴史家が書いた「ローマ帝国衰亡史」という有名な歴史書がある。
これはローマ史を学ぶ上では欠かせない大作で、ローマ帝国の栄枯盛衰を書いた書物であるが、ローマ帝国がほろんだ原因は国民が平和ボケして刺激を求めて、コロッセウムでの競技やサーカスばかりを楽しんで、自国を自分たちの力で守ろうとしなかった結果こうなったということが読めばわかる。
原発や尖閣諸島、竹島などの問題が山積みになっているのに、オリンピックがどうのこうのと、アスリートをバラエティ番組に出場させて異常な盛り上がりを見せるのはおろかすぎる。
今でもそういうことをやるのかどうかはわからないが、昔メダルをとった時にコメントを求められて、メダルを噛んだバカがいたが、こういうことを外国のメディアでやれば間違いなくバカだと思われる、そういうことをやったのは一人や二人ではなくだいたい決まって噛んでいたが、おそらくイギリスを聞かれてフランスを指した人間がいるぐらいであるから、日本のアスリートというのはそういうレベルの人間が多く、そういうたぐいの人間が多いからバラエティーなどでいじられるのだと思っている。
こういう人間たちがマスコミにでて人気者になるのは、そういう山積みされた問題に目を向けない、向けささない、ローマのようにコロッセウムやサーカスに夢中になっている姿がオーヴァーラップされるのだが、こういうスポーツのイヴェントに異常に盛り上がりを見せるのは、平和ボケしているからで、もう少し日本の置かれている現状や自分たちが考えなくてはならないことに目をむけたら、中高生が部室で話すようなアスリートの雑談がそれほど重要なことなのか分かるのではないかと思うのだが。

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イギリスの正式名

2012-08-16 | Weblog
私はどうも日本のアスリートという人間たちが好きにはなれない。
私が言うのはいわゆる運動しかできないスポーツバカという奴らのことであるが、前にもある代表選手がイギリスってどこにありますかと聞かれて、フランスあたりを指さしていたそうだが、こういう常識的なことを答えられない人間が、自分たちの国の代表で行くと考えたら非常になさけない話しである。
イギリスというのは正式名ではない。もう説明する必要はないが正式名は「The united kingdom of Great Britain and Northern Ireland」よくUKという言葉を使っているが、これは頭文字をとった略で、英語のUnitedと言う言葉が表すように、イギリスは4つの国から構成されていて、未だ民族的宗教的なな対立がある島、それがGreat Britainである。
前回竹島で韓国人選手が竹島は自分たちの島だということをアピールしたわけだが、しかし私が驚いたのは、これに対して日本人選手がそれに対する自分の考え方を述べてはいないことである。英語が話せないのでコメントを求めても無駄だと思われたのだろうか、しかし実際はイギリスがどこにあるのかも知らない人間もいるのだから、そういう問題については何もわかっていない、興味がない人間が多いのではないかと思っている。

UKもそうであるが、民族問題や内戦があるような国も参加してきている国際舞台で、そういう問題が起こった時に自分たちの立場や考え方を国の代表選手が語れないとしたら、それは非常になさけない話しではないか?あの問題にしても英語が話せて自分たちの主張を逆に海外のインタヴューをうけて主張してやったら、むしろ国際的に自分たちの立場が認められるカウンターパンチにもなるのではないか、しかし日本政府がそういうコメントをひかえさせているのか、本人たちに興味がないのかはわからないが、芸能人とうれしそうに話している姿にげんなりしてしまうが、それはどう見ても竹島の問題や政治的なことには関心がないように見えてしまう。
日本人は平和ボケして見えていないが、世界と言うのは内戦がたくさんあるし、民族紛争や人種差別などもある。そういういろいろな事情をそれぞれの国が抱えて出てきている中で、スポーツだけしかできない、他のことに関心がないと言うような人間ばかりを養成しそれを日本の代表として送り込むのははじをさらすようなものだ。
イギリスがわからなかったというのは、おそらくそれを聞いたアナウンサーがうけをねらってやったのだろうと思うが、普通そんなことを聞くこと自体失礼であるが、しかしスポーツしかしない人間は、そういうレヴェルであると思われているのだろうか、こういう失態はまさにいい例である。
正直私はアスリートたちが出てきて、芸能人とかと中高生の部室で話すようなべちゃくちゃ話をするような番組にげんなりしている。
よくわからないがお笑いや芸能人を囲んで自慢話などをするのであるが、話しが中高生の雑談みたいでよくこういう話を聞いているなあと聞いててあきれてくることさえもあるのだ。
よく日の丸を背負うというような奴がいるが、しかしそれはオリンピックのような国家を交えた事柄であると、競技レヴェルで語られることではなく、もしそう言うのであれば政治的なことそして民族的なことを十分に理解して使ってもらいたいと思っている。

古い話であるが昔韓国人とプレイステイションで、サッカーゲームをしたことがある。
もちろん私は日本を選択、彼は韓国でそのゲームは日韓戦となった。普通ゲームごときでと思うが、しかし我々は日ごろからお互い両国の国の問題で意見の相違があって、そのことに関してはお互い納得いかないものがあった。
そうなればそのゲームはまさに代理なんとかさながらのゲームである。ゲームと言えどお互い真剣まさに白熱したゲームとなった。
そのゲームは私が日ごろやりなれているせいか、途中まで圧倒的に私が有利で、私はここぞとばかりにゴールをバシバシと決めてやったが、しかしたとえゲームと言えど、韓国対日本と言うことで彼はまけたくなかったのだろう。途中5点ぐらい差がついたところで急にリセットボタンを押してこれはゲームだからと言いだしたのである。
たぶん日本人とフランス人がゲームごときでサッカーをしてもそういうことにはならない、しかし韓国人には日本に対する遺恨というものがあり彼ら彼女らはたえずそのことを我々に対して持っている。だからゲームと言えど日本にはまけたくないという思いがあるのでこういう行動をとったと思うが、韓国人は我々が考える以上に自国について考えている。
そういう人間たちと対話していくためには、まず自分たちの立場をはっきりさせなくてはならない。今回のことをきっかけに竹島と言う島がなぜ日本の領土と言えるのかということをとらえなおす必要もあるだろう。

しかしこういうことを書いているが、私のルーツは韓国にもある。
現に肉親は韓国人だし、友達やそして私をしたってくれる子供もいる。この前もこの子と話をしたが、彼女は自分に何の疑いもない100%信用してくれている。だから私がこういうことを書いたり伝えたりすると言うことは、断腸の思いで非常に心苦しい、でも自分は日本人であるが、韓国人との間に立っているのだから、自分の立場をはっきりさせるために、意見を持たないといけないのである。


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シュリ

2012-08-15 | Weblog
サッカーの銅メダル決勝戦で韓国が「独島はわが島だ」というメッセージボードが物議を醸しだしている。
あの出来事はファンが差し出したものを受け取ってかかげたことで、偶発的に起こったことで意図的なことではないと主張しているが、しかしIOCでは、オリンピックにおいて国が政治的なメッセージを何らかの形で主張することをゆるされていないので、明らかにこの行為は彼らの暴走行為であったと思う。
私はよくこういう問題があるとコメントと言うか意見を求められる。もちろん韓国、日本の両方からであるが、先日も韓国人のある女性と話になった。彼女は私が血が混ざっているからであろうか、これが言いたいことをずけずけ言ってくる。この時もオリンピックの話になって自分たちはメダルを日本よりも多くとった、世界で6番目だったとか言っていたが、しかし今欧米ははっきり言ってオリンピックどころではない。今世界的に経済状態がよくないから、オリンピックなども盛り上がりにもかけると思うのだが、こういう時代にメダルをいくつとったと言う議論はさほど重要ではないように思える。
話しはオリンピックの話題になったので、あの問題について聞いてみた。韓国人選手が独島はわが島というメッセージボードをかかげたことについてどう思うのかと聞いたのだが、彼女はすんなりとあれはOKだ独島は自分たちの領土だからあそこで主張することは決して間違っていないと言っていた。たぶん日本人ならばあの行為に関してIOCではオリンピックと言う場で、政治的な主張をすることは認められていないと言うルールを尊重し、そのルールを守らなかったのだからだめだという立場に立つ。普通だったらやってはいけないというルールがあるだろという問題になってくる。そしてそれは独島の問題もそうやろと思うのだが、しかし彼ら彼女らの考え方の中にはそういった法やルールを越える基準のようなものがあって、そこを理解しないと議論しても話し合っても問題解決が見えてこない。時々韓国人と話し合っても平行線をたどるだけだと言う意見を聞くが、それは日本人と物の考え方やとらえ方が根本的に違うからで、そのとらえ方の違いに両者に大きなへだたりがあるように思えるのだ。

よく彼ら彼女らと独島の話をして出てくるのが「今独島に住んでいるのは誰ですか?」と言う問いである。
それを聞く時彼ら彼女らからどうだ答えてみろと言う、何とも言えない自信のようなものを感じるのだが、しかしこれは日本人から見て、論点が違う、まず日本人が問題にするのはサンフランシスコ平和条約で独島は韓国の領土ではなく、日本のものであるということが事実上その国際法で認められたことで、日本人が問題にするのは条約と言う国際法でどう認められたのかと言うことである。
しかしそれに対して韓国人は「あの島には誰が住んでいるのか。その住んでいる人たちの領土を奪うと言うことは、人間としてのモラルの反するのではないか」と言うことで、おそらくこの考え方が彼らが独島は自分たちの領土だと主張する理由だと思う。
この問題を国際司法裁判に付託しようと日本が提案した時に韓国側がそれを拒否したことを日本人は、韓国人たちは事実をかくそうとしている、自分たちの分がわるくなるからだ、正しいと思うならば堂々と国際法に基づいて公平な判断を仰ぐべきであると言うが、しかし彼ら彼女らにしてみれば、この問題は自分たちの民族の住むところが奪われると言う倫理的な問題であって、そういうモラル的なことを第三者に裁かれることに不快感と危機感を持っているのではないかと思っている。
ルールをまもる日本人にしてみたら、倫理的な問題よりも国際法のほうが守らなくてはならないルールだ、しかし韓国人はそうではない、やはり儒教の精神が強いせいか、倫理観や道徳と言う観点に立って物事を考える、そこが日本人と韓国人の考え方が全く違うのである。

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every effort, however small it is, will count in the end.

2012-08-13 | Weblog
ようやくロンドンオリンピックが閉会された。
スポーツがあまり好きではない私としては、この夏高校野球とオリンピックのダブルヘッターはきついが、しかし4年に一度ではあるが日本人が自国の選手をひとつになって応援することは素晴らしいことである。
ボクシングも奮闘メダルととったらしいが、しかし10年以上前と今とでは事情がまったく違うと理解している。
正直言って20年ぐらい前にLAでオリンピックが開催されたが、あの時はボクシングもまあまあ盛んで、あのメンバーが今回同じ条件で出場していたら、かなりの確率でとっていたのだはないかと思っているが、それに比べたら現在はボクシング大国と言うのも聞くことはなく、アジアとか言葉はわるいが小国の選手が目立ってきたように思えるのだが、経済力のある先進国で盛んであるのとそうでないのは、競技するうえではかなり違ってくる。
しかし先進国のアマチュアボクシング離れはチャンスである。欧米では人権問題ややアマチュアは金(money)にならないということで、ボクシング離れが目立っている。それどころかアメリカなどでは競技人口がへっているらしいが、そういう中で目を付けたのが中国、今では国がメダルを取るためにそういう養成機関をおいているらしいが、メダルをとるというメンツだけを重要視した中国がにわかに力をいれるということ自体あやしいもので、そういう意味ではまだまだ日本にもチャンスは十分にあると思っている。
私はこの競技は今後中東やアジアなどのメダルには縁のない国が競って競技して来ると思うが、日本人選手の場合大学生ぐらいの一番いい時期の出場者よりも20代後半ぐらいの人間が目立つように思えるが、やはりこれは国外での試合形式に慣れていない、なれるまでに時間がかかると言うことではないかと思うが、今後ボクシングが西から東に移行して来る中で、英語をおぼえて国際社会に慣れると言うのも一つの課題であると思っている。

日本人は優秀であるが、唯一のディスアドヴァンテージは言葉ができないことである。
だいぶ前韓国のSMエンタテイメントというアジアで、最も大きい芸能プロダクションの社長がテレヴィに出ていた。
そこでその芸能プロダクションの戦略を語っていたが、社長曰く韓国と言うのはマーケットシェアがせまいので、韓国国内だけでは利益を上げることができないので、他の国に行って実際に利益を上げることが求められている中、まず芸能人をそこでうるために徹底して文化を調べ、語学教育などを行っているそうであるが、この方法は自国のシャア率を広げるためには基本的な戦略で、やはりそこでカギになってくるのは語学教育であるが、その語学取得に韓国人は非常に熱心であることがわかる。

実際に日本でも、もう国内だけにマーケットシェアを求めることができない時代になって来ている。
たぶん我々のようなフリーランスは特にそういうことが言えると思うが、私などは今アジア人相手に日本語のtutorの斡旋業を計画しているが、これは韓国や中国が昔に比べて経済が豊かになっているからできることであって、今までは日本円が強いので相手が日本語を話していたが、しかし今後はこちらが相手に合わせなくてはいけない時代になってきている。
実際にあるアジア人に日本語のtutorをしているが、1時間で2000円近くのレッスン料を支払っている。
しかしそういうことは10年ぐらい前の韓国や中国にはできなかったことで、もはや経済がここまで強くなっているということを実感しているが、私は今後仕事を日本人から他のアジア人にシフトすることも考えている。
私が感じることとしてもう韓国人は日本語を話すことを今までのように重要視してはいないだろう。
むしろマーケットシェアを国外に広げているので、英語修得に力を入れているが、経済が強くなって日本と対等になった今は相手が日本語を話すと言うよりも、共通語の英語を話す必要があると思うが、特にスポーツ界はもっと語学習得に力を入れるべきだと思っている。
語学を勉強するということは非常に地道で時間がかかる作業である。
スポーツのように気持ちがいい汗をかくことはないが、しかし今の現代社会においては間違いなくそれは必要なことであると思う。










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今週のお知らせ

2012-08-07 | Weblog
今週はtutorの業務が忙しいため。ブログは休止します。
来週月曜日からはじめます。

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