脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

The life you can save

2015-06-29 | Weblog

池上氏の番組で韓国人のインタビューが意図的に誤訳されていると話題になっている。問題のインタビューは「嫌いですよ思いっきり韓国を苦しめたじゃないですか」である。思い切り日本語を大きくしているので聞き取りにくいが「ムンファガ ノムチョアヨ クリゴ ウエグギニ チョンマル マニ ブラブラブラ」で「文化がとても好きです。そして外国人がたくさん訪問してます」と言うようなニュアンスで、彼女は何も日本人に対して悪いことは言っていない。決定的なのは韓国語の嫌いだというシロヨと言う単語があるがそれが出てこないことだ。過去にもテレビ局が従軍慰安婦問題の時に同じようなことを流していたが今回は番組が番組なだけに問題となったのだろうと思う。言葉と言うのは非常に大事だ、韓国語はそうたいして影響はないがしかし英語がわからないと何をするにもディスアドバンテージでそれはスポーツにおける共同体を形成することにおいては特に重要である。

話は共同体の話になるが私がすすめたい本がある。それはpeter singerの書いた「the life you can save」である。この本は2010年ごろに出版され日本語訳にもなっているがとどのつまり誰かが本当に困っている人たちのことをおぼえて寄付すれば世界の人たちの大半が救われるという本であり、読めばそれは非現実的であって現実であることが理解できるであろうと思う。シンガーが日本人にとって読みやすいのはまず誰もが問題意識をもっている貧困ということを上げていること、そして彼の哲学は倫理学そして道徳的な考察を持って推し進められていることで、西洋の合理主義が理解できない日本人にとっては読みやすい本だからだ。その本の中で彼が正義に対してヘブライ語の言葉をあげていた。ヘブライ語で正義はツエダカーというのだが、これは正義と言う言葉のほかに慈悲と言う言葉にも訳せる言葉である。ここからが私の考察もはいるがヘブライ語はユダヤ人が使う言葉であるが、この言葉は非常に宗教的な言葉である。まず正義と言うのは彼ら彼女らにとって神の正義だ、彼ら彼女らにとって厳密に言えば人間の正義など存在しない、すなわちその支配者である神のみが正しいわけであって、宗教裁判と我々の裁判制度に大きな隔たりがあるのが何を絶対権威とするかであり、彼ら彼女らは神の名、すなわち法典によって裁くのである。さらにこれが慈悲と言う解釈になるのは、自分たちが神の御慈悲が与えられることで神の正義が示されたということである。領土問題の根本は自分たちはその土地を神から与えられたという考え方からくるのであって、勝手な話だが土地が与えられるというのは自分たちに対する御慈悲であってそのことによって正義を示されたということになる。だからツエダカー=正義、慈悲となる。しかしシンガーはこういう解釈でツエダカーと言う言葉を解釈しているわけではないが、与えることは正しい生活をおくるための本質的な事柄で、ただごみを出してそれをもやすだけの人生よりもよりよい生き方をすすめている書物である。スポーツの指導者はおそらくこういう少し難解で哲学的な本を読むことは必要なことだ、よく店頭で見るような「リーダーとしての条件とか」「人を動かす」とか名言集みたいなものはまずきちんと考察できる基礎を磨かなければ読んでも意味がない、人に基本基本と言うのであればまずおのれも言葉や考え方の基本をみがく必要がある。

 

 

 


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言葉をみがけ

2015-06-28 | Weblog

運動系の親玉は自分の子飼いには親でも言わないようなエラそうなことは言えるが、しかし海外に行くと何も言えない内弁慶が多い。クレームをつけるときでも相手に向かって言うのではなく通訳にむかってすごい剣幕でまくしたてるのだが、そういう姿を見ると本当に情けない。しかしそういう内弁慶であっても自分のテリトリーだと思いっきり威厳たっぷりにふるまうのだが、なぜそういう指導者は威厳を保とうとするのかわからない。能力のない人間が威厳を保とうとしてもそれは所詮張子の虎だ、みっともない奴になるとその威嚇がしぐさや言葉づかいそして恰好にでている。私の親しいコーチはそういう人間たちとは全くちがうタイプである。知的でどなったり吠えたりまた言葉の使い方も慎重で無知さゆえにバカなことを言うというようなことはない、それこそインテリ系にも尊敬される人間である。彼がよく言うのはリングを降りたらジェントルマンであれと言うことだが、彼いわくボクシングと言うのは暴力なのだからそれを扱う人間はまともでなければダメだだから頭を磨けということである。よく運動系の奴らは礼儀と言うがたぶん彼ら彼女らの言う礼儀ってただでかい声であいさつできたり先輩に服従するようなことぐらいで、はっきり言ってこういうことは中身がないただのパフォーマンスである。礼儀と言うのは言葉と深くかかわっている、私は日本語を正しく話し敬語を正しくつかうことが礼儀正しさにつながってくる、すなわち正しい言葉を話すことが礼儀正しく生きることだと思っているがどうであろうか?特に我々ぐらいの年齢になると言葉を知らないと恥ずかしい思いをする、話していてボキャブラリーが少ない、同じようなことしか言えない、いかにも理想的で立派なことを言っていてもつっこんだらぶれるような考え方ではまともな人間はついてこない、そういうあさはかな考えかたに追従するのはたかだか知れている。親玉が言葉を知らないとその群れの質が悪くなる、スポーツの集団と言うのは暴走族ややくざもどきの群れではないのだからもう少し群れの質を上げるために指導者は言葉を磨くことは不可欠なことで、アホなヒエラルキーを維持するためのあいさつや服従は必要ない、むしろ人の顔色を見るような人間を生み出す弊害であると思っている。だいぶ前にあるサッカー選手の話す英語が話題になった。英国では話す英語でその人の知的レベルや地位的なものがわかるそうで、そのサッカー選手が話す英語がひくい英語であるということを指摘されたと思うのだが、英語圏あるいはヨーロッパではその人間の地位や身分そして知的レベルをはかるのはその人がどういう言葉を使うかと言うことであり(そういうことに厳しいわりにはミススペリングが多いが)、そのことは日本よりもはっきりとした区別があるように思える(だいぶ前にあるハリウッドスターが自分はいつも辞書を持ち歩いていて、ひまがあればその辞書を見て言葉をおぼえていると言ったが、まさにそれは自分は言葉を知らないから恥をかかないようにと言うことだと思う)。日本人は恥を知る民族だと言われているが、こんなことを言ったら恥ずかしいとか言葉を知らなければ人前で話すのはみっともないというようなことは思わないのだろうか?同じようなレベルで同じような人間で固まっていたらそういうことは感じることはないのだろうが、しかしもう少し視野を広げて自分のレベルをよく考えてもっと研鑽することも大事なことだ。格闘技をする人間は目立ちたがり屋が多い、常にどうしたらかっこよくみられるかと言うことを考えていると思うのだが、かっこよく思われたかったら南米の鳥のように真だった恰好をしたり人から注目されようと奇抜なことを言って勝負しないで、言葉を磨いて母国語を知的な言葉を用いてきれいに流ちょうに話すというように知性をみがいて人と差をつければまわりからも見直されると思うのだが、少なくとも私はそのほうが今やっていることの付加価値をもたらすと思っている。

 


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木曜日の憂鬱

2015-06-22 | Weblog

私は毎週木曜日は憂鬱である。それは毎週木曜日は語学の活用をおぼえるテストがあって1年間ずっとこのテストが3科目あってたいへんな思いをしたからである。特にコイネーの変化は複雑で覚えるのがたいへんであった。古代の人間ってこんな複雑な言葉をつかっていたのと思うぐらいたいへんなもので、それらに比べたら英語なんてpiece of cakeだ、英語を習得したければ他の語学特にフランス語やドイツ語などのヨーロッパ圏の言葉を学ぶことをすすめる、そうすれば英語が楽に思えてくる。実は古代の言葉には順番はない。どういうことかと言うと英語のようにs v oやs v o oのようなかたちがなく、とにかく単語が並ぶということだ。さらに人称名詞は使わない、なぜなら動詞にすでに人称が含まれているからで、あえて人称を使うとそれは強調文となるのだが古代の言葉は単純でかつややこしい。

よく自信をつけるというがはたして本当に格闘技やスポーツで自信がつくかどうかは疑問である。よく人は強くなるために格闘技をするというが、格闘技をやってて本当に強くなるとは思えないし、たいていの人間は理想的なことを言ったり大風呂敷をひろげて自分の通用する世界だけでほえているだけだ。強さを求めることが人間の目的ではない。ニーチェを読むとあたかも強者として生きることが正しいことのように書かれているが、しかしそれは単なる理想論であって本人もそのことはわかっていただろうと思う。人間は弱い、弱いからこそその弱さを認めることが大事なことだ。そしてその弱さを認めることができるからこそ、同情と言う意味ではないが他者の弱さを気遣うことができる、人間とはすなわちそういうものではないかと思っている。弱いくせにほえている人間ほどみじめなものはない、私は人間が一番自然体でいられることが理想であると考えているが、自然体でいられるためにはまず自分の弱さを認めることである。しらじらしくも人を威嚇するような恰好をしたり、エラそうなことを言うような人間は自然体で生きているわけではなく、常にまわりのことを気にしてビクビクして生きている。そういうみっともない生き方だけはしたくないというのが私の哲学である。スポーツの競技においてもそれしかできないような軍団がわがもの顔で会場をたむろし、人を威嚇するような話や態度をとることに非常に不快感を感じている。いちいち会場に入ったり出たりするたびにあいさつ、特にさらに親玉が入ってきたらチワッスチワッスとあいさつするが、そんな状況で落ち着いていられるはずはない。靴がそろってないことぐらいでおこる人間がいるが、そんなものは出たり入ったりした時にそうなったかもしれないのだから、いちいち呼び出して小さい権威を見せつけるのではなく自分で整頓してやればいいだろう。こういうしょうむない茶番劇をやるよりもまわりをくつろがせてやろうとなぜしないのか不思議である。

粗暴でバカそうな奴らがラスト30ファイトー頑張れとか和製英語で叫んでいるのを聞くと偏差値30代だい、もっとがんばれーと聞こえてしまう。

 


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マハロ ボクシング

2015-06-22 | Weblog

私は学生の時ハワイ州でメダルを取ったのだがボクシングの才能はない。ただ腕っぷしが強くパンチのスピードが速かっただけ、たいした技術もないので技術を必要とする今のボクシングだと通用しないと思っている。ただ相手のことをよく見ていたことは確かである。あいつはこれをうったらガードがさがるとか、特にヒスパニック系のフックは苦戦、スマッシュ気味の角度で下からくるのでパンチが見えない、右をあてようとしたらスコンとあれっと思ったらダウンしていたことがある。そういう相手と対戦する時は左のガードを下げない、そういう選手のたいていのクリティカルヒットはフックだからそれを封じたらケンチャナヨだ。アマチュアは基本的にリードからくるのでそのリードにあわせてパリングのようなジャブをうってストレートをうつとことで先手をうつというのが私のやりかたである。

友人のピーターと言う台湾人が試合をするのでセコンドについた。ピーターにとってこれが初戦、その初戦のトーナメントに向けてそれなりに一生懸命にトレーニングをした。しかしその初戦相手がわるかった。相手はノーランというギャングのグループに属している奴でのちに彼は強盗をおかすのだがゴールデングラブに出場している強者である。思わず思ったこりゃああかんわ、一緒にセコンドについているアレンもたぶんダメだと思っているのか、ピーターにあぶなかったらタオルを投入するぞと確認している。びびりまくるピーター、冗談交じりにyou must break himと言うと思い切りひきつって笑っている。そして運命のゴングが運命のゴングが鳴るやいなや玉砕覚悟で飛び出していったピーターであったが、開始わずか数秒で相手のパンチをもらいダウンをくらうその後戦意喪失とみなされRSCとなり試合終了、なぜか終わってリングを降りてきた彼の姿は堂々としていたが、しかし彼にとって何もできなかった無駄な試合であった。試合が終わってお決まりのようにハンバーガーを食べに行く、少し遠かったらお持ち帰りで車の中で韓国人の女性と3人でペチャクチャと食べながら帰るのだが、この日も確かワイパフあたりで試合をしたので車の中でハンバーガーをほおばった。海岸線沿いを潮風にあたりながら3人で食べるハンバーガの味は格別である。海沿いの景色を通ってペチャクチャとアジア人がいろいろな言葉を交えて話す。本当に楽しいひと時であった。彼は試合にこそ負けはしたもののしかし3人で食べたハンバーガーの味は格別でそのことは今でも彼の思い出となっているだろう。たぶん我々にとって勝ったとか負けたとかいうのはどうでもいいことだ、ただボクシングが面白くて好きだからこうして試合にでている。そしてそうであるから試合全体を楽しむことができるのだ。日本人はもう少しスポーツの楽しみ方を欧米から学ぶ必要がある。それしかできないことをストイックに置き換えているが、もっともっと広い視野で余裕を持ってスポーツを競技することは必要である。


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エクソシストとオリーヴのコミュニティ

2015-06-21 | Weblog

最近子供を入会させるにあたって英語を教えてほしいと言う依頼がいくつかある。英語は共通語で小学5年生の時から授業があるので、そのアドバンテージをとるためであると思うのだが、わたし自身受験生や大人に教えた経験はあるが小学生のような子供には教えたことがないので、現在教科書選びをしている段階である。

話はうちのクラブの話であるが、私がDQNと判断する人間は入会させないのにはきちんとした理由がある。私がDQNと言うのはずれた感覚を持った大人のことである。ずれたような大人は日常の行動や交友関係に問題がある。教育には疎い、本を読まなくては同じようなレベルで集まるし、ましてや交友関係が悪ければまともな人間などまわりには集まってこないであろう。私自身日ごろからギャンブルや酒など誘惑が多くトラブルになりやすい場所をさけているのは、健全性を保ち誰もがここに来ても安心できるような雰囲気にしたいからだ。類は友を呼ぶという言葉があるが責任者が学問を無視してたら、同じような仲間が集まってくる、自分たちの通用する言葉や常識で会話し、その世界が正しいと思い、俺はこう思うといったらそれが一つの主張になるのだが、客観的に考えることができない、勉強もしない本もまともに読まないそんなとぼしい考え方で俺はこう思うなんて勘違いも甚だしい、ずれた感覚を持った大人の集まりとは実にこういう人たちの集まりで、こういう大人が集まるとそれはやがて子供に悪影響をおよぼす。あの川崎の事件などはその少年たちの背後にこういった大人たちの存在があったと思う。コミュニティというのは子供や人にとって大事な存在である。どういうコミュニティに自分は属するかと言うことはすべての人たちにとって重要なことであり、私はここを社会人もそうだが、子供も何もかも忘れて楽しんで、ここに来たら癒されるような気持ちになる、そんな場にしたいと思っている。自慢ではないが私は時々そういう専門の機関から助けを求められたり、相談されたりしたこともあったのでアルコール依存症やDVやネグレクトの犠牲にあった子供たちを見てきている。私の見解では人を受け入れてその人を癒すというのは個人の力では限界がある。限界があるからこそそのコミュニティが大事であって、そのコミュニティをどういうコミュニティにしていくかということが問題である。

話はエクソシストの話になるが、エクソシストと言うのは悪魔祓い師のことでイタリーなどのヨーロッパでは実際盛んにおこなわれているそうで、キャソリックの総本山のバチカンではエクソシズムと言う学問もあるようだ。ただこのエクソシスト悪魔と戦う時に重要なのはその戦う前に身を清めるということで彼らは断食などの行為によって身を清めてから悪魔祓いに臨むらしい。ずれた考え方と言うのはいわゆる人間の娯楽や快楽からそのほとんどがくるであろう。まともな本を読まない、新聞を読まない教養がない人間は刺激だけで物事を解釈する。漫画や映像がまさにそうであるが、そういう映像や漫画のような刺激の世界がコミュニティを健全に導く上で正しい礎となり指針となるか疑問である。それよりもやはり悪しきものをさけて知恵や教養にたよるほうがきちんとした礎を築き健全性を保ち、誰でも安心して入ってこれる雰囲気を持つことができる。そういう意味で私は弱い人間であるからできるだけ誘惑が多いところは避け、極端に刺激を求めない生活をしている。

ここは進学校に通っている子供もいるし親も比較的教育に熱心である。たぶんボクシングは受験のアドバンテージや体を動かさなくてはいけないということでここを選んでくれたのだろう。その期待に応えてなるべくいい影響を与えるようにスポーツを競技することの楽しさと人と交わることの貴重さを教え、少なくとも決して試合に出たいとか言うようにはさせてはいけないと思っている。

 

 


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視聴者側のメディア論

2015-06-17 | Weblog

少し前にあるボクサーのパフォーマンスがやりすぎだということが話題になった。彼らだけではなく格闘家と言うのは自分を追い込むためにわざと挑発するようなことを言って相手をけしかけるようであるが、しかしそのパフォーマンスも行き過ぎると不快に思った視聴者から疑問の声があがり時にはボクサーのようにバッシングをうけるであろう。おそらく挑発するボクサーにはボクサーなりの理由はあると思う。ここで特にそいつらをバッシングする気はないが、しかしそれを放映するメディアには問題がある。よくメディアとかマスコミと言う言葉を耳にする。最近ではメディア論などと言う学問が台頭してきているが、しかし日本の場合特にメディア論と言う時それを使う側からしか語られていないがもう少しそれを受け取る側の立場に立った語られる必要もあるだろう。テレビに出てる奴よりも視聴者のほうが当然多いし、見る側の権利と言うものがある。教育上悪い態度や不快極まりない態度など誰も見たくないだろうし、教育を否定するような発言や行動や態度に子供がわるい影響をうけないとは言い難いであろう。事実現実分析への影響を明らかにするための分析の研究結果として、テレビは現実社会に対して暴力シーンが多く描かれているいるが、視聴者の現実認識について分析するとテレビの視聴時間が長い人は暴力に巻き込まれる頻度がより高く見積もる必要があることが指摘されている。おそらく学校教育をまともにうけてないような格闘家にメディアの影響を考えろと言っても無駄、そいつらをバッシングしても意味がない。たぶんそんなこと理解できないし、そういうとかえってくる答えはいやなら見なくてはいいという答えだと思うのだが、子供に与える悪い影響や女性にたいする不安感を与えておいて格闘技のパフォーマンスだと片づけられたのではたまったものではない。日本におけるメディア論はそれを放映する側からしか語られていない、何のイデオロギーもない目立つだけのパフォーマンスをただのうけねらいで放映するメディアの倫理観と道徳観の欠如、メディアは未来に対する影響を考えて報道しなくてはいけない、メディア論はどう報道するかと言うことだけではなく、どう報道されるか視聴者側からも語られる必要がある。

話はスポーツクラブの話になるが弱者をいたわれないスポーツクラブはダメだ。私はそれしかできないのにそれができるからとでかい顔をするような奴らが中心になってジムを牛耳るようなクラブにしたくない。はっきり言ってスポーツしかできないというのははずかしいことであって自慢できることではない。むしろひっそりとトレーニングしているような人たちに気をつかえるかが大事なことで、うちではなるべく女性や子供を優先している。女性や子供あるいは気の弱い人にとって悪影響だと思うことは排除するし、そういう人たちが不快を感じたりこわがったりするような奴は決して入会させない。しかしクラブによってはその親玉が怖がられるような雰囲気をわざと出しているから不思議なもので、こういう輩を見るとこいつら話し合いで解決できないのか言葉があるだろと思ってしまうが、たぶん自信がないからそういう威嚇でおどしているのだろう。弱者と言うのはもの言えぬ存在である。弱者と言うと力関係をイメージするが、もちろんそれもあるが、それは誰でも環境によっては物言えぬ存在になりうるからで、特にこういう格闘技のジムにはじめて来るということは誰でもそういう存在になりうるということであり、そういう存在をつくらないのが私のポリシーである。

 

 


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純文学的な感情

2015-06-16 | Weblog

少し前の話であるがある方のところに捜査二課から電話があったと連絡をいただいた。どういうことで悪用されたかと言うことは書けないが話によるとその方の電話番号が勝手に不自然な形でどうやら不正目的で使われていた可能性が強いらしい。その方は非常に社会的にも信頼のある方でその電話番号の使われ方があまりにも不自然であったのでかなり不快な思いをしたらしく、その使われ方があまりにも意図的であったので一応被害届を出すことをすすめたのだが、その方いわくこういう不正はあいまいにはしない、捜査二課の人に事情を説明してもし犯罪につながっていたら誰が悪用したか(心あたりはあるらしいが)ということをはっきりさせると言っておられたので、もし人の電話番号を勝手に悪用して犯罪に使われていたならばしょっぴいて行かれる可能性もあるだろう。

先日受験英語にこういう文があった。I love you all the more for your fault.「欠点があるからこそあなたをもっと愛する」と言うようなニュアンスだと思うのだが、哲学的な話になるがこの文に西洋人のloveと言う観念がでていると思う。もともと西洋で言うloveと言うのは宗教的な意味合いが強くloveと言うのは神の愛を訳したもので、もともとギリシャ世界には愛と言う言葉が3つ存在するということを前に説明したと思う。ひとつはελοsそしてΦιλοsさらにαγαπηでこのαγαπηが究極の愛で一方的に与える愛日本語的に言うならば慈愛である。だから彼らがI love youという時その背景には神の慈愛がある。このI love you all the more for you.と言うのは神が自分をすべて受け入れてくれたのだから、自分も他者をそのように受け入れ愛するということである。

それにたいして韓国人のサランは時には遠慮のサランだ。こういう歌詞がある。サランヘヨ サランヘヨ クデマヌル。アプン ネ サライジョ。ギョッテ イッチマン ガジルスヌン オンヌサラン。クデマヌル タンシマヌル サランヘヨ。アップンサラン ッテムネ モンチョジジアナ。チャック ヌンムリナヨ サランヘヨ。 特にギョッテ イッチマン カジルスヌン オンヌサラン。クデマヌル タンシマヌル サランヘヨ。は日本語に訳すとそばにいるのに行くことができないサランだ、相手を傷つけたくない、そして相手を傷つけることで自分も傷つきたくないという遠慮があるのだろう、The more I tell saranheyo, the more sad I feel.そういえば言うほど相手は遠くに離れていく、そういう深みのある表現でそういう言い尽くせない感情やジレンマが時にはウオンやハンというかたちを通してあらわれるのだ。彼ら彼女らは人を愛する時にもある一定の遠慮がある。それは朝鮮王朝時代の身分や長い徴兵や結婚観の違いからくるのだろうか、日本人には理解できない遠慮がそこにはあると思う。最近であるが私は言葉や表現に民族の違いを感じる。言葉と民族と言うのはつながっている、韓国語のセリフや歌詞にじんどくる私は一体何者であろうか。

 

 

 

 

 


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何をかくそう私はケグジェンイでした ミアネヨ 

2015-06-14 | Weblog

MOBは女性の比率が高い、なぜそこまで高いのかと言うことはよくわからないが、たぶん殺伐とした雰囲気をつくらない、ボクシングを楽しむことに徹底しているからだと思う。日本人はスポーツを修業と思っている奴が多い、とにかく自分をおいこまなくてはやった気がしないというのは日本人気質なのかクラブがうえつけてきた考えなのかはわからないが、英語でplayと言うのは遊びのことなのだから元来のスポーツの解釈は遊びであって楽しむことなのだが、日本人はクラブでそういう価値観をうえつけられてしまうので遊びと言ってもシステムがシステムなだけに理解することは難しい。私がバカだと思っているのは基本とか基礎とか言って子供に地道なことをさせることだ。地道なことをさせること自体はいいことなのだが、しかし問題なのはそれだと競技の楽しさや本当にその競技が自分に向いているのかと言うことがわからない。欧米の小学生は同じスポーツをずっといとつだけしかしないということはない、小さいころから3つ4つはかけもちでする。なぜ3つも4つもできるかと言うのは実戦形式でゲームで参加いていくからで日本のように基本とか言って素振りのようなことをさせることはない、ただ子供のうちは参加してスポーツの楽しさを教えるのが目的だ。MOBでも子供には実戦形式でボクシングをさせる。ここでは未成年の頭をたたいてはいけないので大人に向かってうっていくだけだが、しかしこれが子供にとって遊びになると上達もはやい、現にうまい子がいてトレーナーなどはもっと真剣にやらせたらかなりうまくなりますよと言うが、しかしやるやらないはその子が本当にこれでいいのかということをさらにいろいろなスポーツと比べて決めたらいいと思うわけで、メディカルな問題も含めてボクサー予備軍にする必要はないと思っている。このマスボクシングを子供にさせるというのは発想的にはフィリピンの草健闘的発想であるが、実際実戦形式で人とまじわるとそのスポーツの楽しさがわかる。確かにそういうかたちで競技させると能力差と言うのが明らかにでるが、しかしそこは趣旨をかえればいいことで、ここではボクシングが面白いか面白くないかということが問題であってボクサー予備軍をつくるところではない、個人がそれをどう競技するかということだ。

私が日本のスポーツがきらいなのは競技場の雰囲気だ、親玉が偉そうにして競技者もやっているというよりはやらされている感のほうがつよい、それだけしかできないような奴がいばる雰囲気、縦社会やっていて本当に楽しいのかとさえ思ってしまうのだ。私が競技したところは非常に自由で競技しても楽しかった。前にも言ったが私はある試合のインターバルでかえってくるなりコーナーマットをけったことがある。確か向こうのディフェンステクニックがうまくてパンチがなかなかあたらなかったことのいらだちだと思うのだが、1ラウンド終了のゴングがなってコーナーに戻った時にコーナーマットをけったのだ、普通だったら注意されるところであったがその時審判をつとめてくれた人は目配せをしてダメだと伝えるだけだった、そして試合がおわると私のところに近づいてきてこう言うようなことを言ったと思う「BOW」「えっ何と」思ったら「君の国ではお辞儀があるだろ、君の国は礼儀正しいと聞いている、だから次は気をつけて」それ以来私はかなりポライトな態度で試合に挑んだことは間違いない。たぶんこんなことを日本でやれば大問題だ、この他にも私はセコンドの友人があまりやかましいので「shut your facking mouth」とついでかい声で言ってしまい会場を大爆笑させた経験もある。まあはずかしい話であるが私は問題児だ、しかしにもかかわらず彼は私を罰することなく競技者として尊重してくれた。その私が経験したこのことは今でもこのクラブの会員に接する上で大きな原点となっている。私が学生時代あの国の審判たちは安易に競技者をストップなどととめることなく、自由に競技させてくれたと思っている。それはたぶん彼ら彼女らが競技者を信じていたからであり、こここまでトレーニングしたのだからファウルなどしないという信用があったからだと思っている。

 

 

 

 

 


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La route

2015-06-12 | Weblog

韓国語悪い言葉と数字の18は同じ発音だ28はさらに悪い言葉であるが不覚にも最近よく使ってしまう。学生の時聖書における笑いと言うタイトルで発表した時にその教授にまずは笑いについて知るためにということでベルグソンを進められた、後日感想を求められた時によくわからなかったのでよくわかりませんと言うとそれは原書がフランス語だからフランス語で読めと言われた。思わず思った18くそ教授、他の語学だけでもたいへんなのに読めるわけねえだろドイル○セッ○○ガー。しかし語学と言うのは非常に重要だ、語学が堪能だとインテリジェンスがひろくなる。インターネットでもそうだが英語のサイトを見れるか見れないかでその情報量はかなり違う。了見の狭い奴はわけのわからない持論に固執する。知識の足りなさからくるコンプレックスと物事をひろく柔軟に考えることができないことがそうさせているのかわからないが、非常に陳腐でくだらない持論を少ないボキャブラリーでほえるからみっともない。場合によっては逆らうことが正しいことだと勘違いして言う奴もいるが、語学ができない本も読まない、専門の勉強をしない人間は話していても同じことの繰り返し、こういう奴らの持論を聞くのは時間の無駄だそういう奴は結構日本のスポーツ界には多い。

私がひつこく勉強せいと言うのはそういう輩が蔓延しているからで特に格闘技はどういうわけか多くて困っている。私がジムに来る人間を人選するのはそういった背景もあるからでそういう人間ばかりを集めるとクラブ全体の雰囲気が悪くなるからだ。うちのクラブはへたれ歓迎である。自分は弱虫で精神力を鍛えたいから来たと言う人間も中にはいるが、そういう人間だからこそ自分たちが支えて頑張ってトレーニングして何かを達成する、そういう手助けをするクラブである。しかし間違ってはいけないのはコンプレックスをぶつけてしょうむない闘志を持つことだ、こういう闘志をニーチェ的にいえばルサンチマンと言うのだがそういう闘志はみっともない、将来の自分のビジョンを見据えてボクシングは趣味として頑張る、その将来を見据えて頑張るからこそボクシングがその人間の付加価値となる。私に言わせればたかだかボクシングされどボクシングだ、自分にとって本当に大事な目標を考える。そして本当に社会で生きていくためには知識が必要であってそういったことをしっかりと学びつつ趣味として楽しくボクシングをすることがここの教えである。私が若い人に時々言う「バカでもボクシングはできるがバカだとここでボクシングはできない」と。 


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日本のミッション系の大学はなぜ左寄りか?

2015-06-11 | Weblog

うちの会員の高校生が英字新聞を購読している。長文読解になれるのと時事英語をおぼえるためだと言っていたが、英字新聞と言うのは日本のことだけではなく民族や宗教の問題と言った日本ではあまりとりあげられない事柄を記事にしているので読む価値はある。少なくとも倫理観にかけた内容の記事をのせる、小さいスケールでしか物事をみることができない地方の新聞社よりもベターであると思っている。日本人は宗教や民族の問題に関して疎すぎる。世界で問題になっているのは宗教や民族の問題であるのだが、しかし日本人はそういうことを学ぶ機会がないのかそういうことには疎いようである。確かにロールズなどの近代哲学は宗教を理解していなくても理解できるし、私が昔読んで感銘をうけたノーム・チョムスキーの「現代世界で起こったこと」と言う本は単にキリスト教の二元論的な善か悪の問題ではなく、利害関係においてそれが善となり悪となるかということをテロリズムと防衛と言う言葉を用いて説明しているが、しかしそういった概論的な事柄を知っていても対話や議論はできない。なぜなら人が考えることのほとんどはその人が持っていたり影響を受けている宗教的な概念があるからであり、哲学にしてもそのほとんどがキリスト教かあるいはそれを否定する立場であるかと言っても過言ではないが、このことをしっかりと理解し踏まえておかなければグローバルスタンダードでは議論できないのだ。例えば脳死や尊厳死そして陪審員の問題はどこに基準をおくかということで、私は日本のそういった事柄のとらえ方は彼ら彼女らに比べて感情的で独特であると解釈しているが、やはりそれは彼ら彼女らのように裁く基準がない、それは宗教的な違いであると思っている。話は前に会員と話をしていた時の話であるが、ミッション系の大学を出た人に対して、ミッション系は左だと言ったら、ある会員がいやアメリカではキリスト教系は右だと言ったのだが、確かにそうだ本来ならばキリスト教と言うか国と言うのは神が与えた嗣業であるのだから自分の国を愛するというのが本当で現在イスラエルを巡って内戦が続いているのはまさにそれ、神が与えた嗣業の地であるから自分たちは当然そこに住むべきであるという解釈から来ている。しかし日本の場合は少し勝手が違う。じゃあなぜ日本のミッション系は左寄りなのか、それは彼ら彼女らが日本政府によって宗教弾圧をうけてきた歴史があるからである。第j二次世界大戦当時日本は天皇を中心とする大日本帝国であった、当時の考えでは天皇が神でありそれを否定したり、ほかに神を堂々と主張するものは弾圧の対象となっていて、その弾圧の対象となったのが共産党(別の意味もあるが)とキリスト教徒でそれは彼ら彼女らに言わせてみればひどい弾圧であったらしい。実際に投獄された人間もいてその様子はあまりのこってはいないが獄中書簡などに記されている。調べたらわかるがたいていのキリスト教のグループは独自の戦責告白をもっている。もうそういうことは時代錯誤でむしろあやまる必要があるのかと言うことにさえなっているのだが、自分たちはアジア諸国に対して罪をおかしたなんて堂々と書いているグループもある。むしろこんなことを書くと日本での布教活動のさまたげになるのではないかと疑っているが、しかしそんなことよりもその弾圧のうらみは強くそれが思想的にそういうかたちでのこっているのだろう。宗教を知ると世界が見えてくる。哲学もそうだが例えば何かについて批判しているような文章を見てああこれはキリスト教を非難しているんだろうであるとか、そういうものが見えるとその当時の状況と言うものがよりよく理解できるのではないかと思っている。しかし宗教を知るということは信心するということとは別、さらに信心と信仰も違うと理解しているが、だいぶ前あるキリスト教徒の学生が第二次世界大戦が勃発しようとした時にあるミニスターの集団が戦争を避けるようにアメリカに働きかける計画があったが、その計画は政府によってつぶされてしまった、しかしもしそれが実現していたら少なくとも日本は戦争にまきこまれなかったと都市伝説みたいなことを本気で言っていたが、しかし宗教を知るということはこういう狭い考え方にとらわれることではなく、何事も客観的な目で見てその考え方や何を信じているかと言うことをよく知り、その宗教がもたらす弊害とそして有益を日常的な問題においても深く考察することが大事なことである。

 

 

 


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