脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

fac, quod rectum est, dic, quod verum est

2016-07-30 | Weblog

英語のwillの名詞は意志である。意志であるから人間が主語になると何々しますと言う意志になる。it will be rainは主語が人間ではないのでだろうと訳すがしかしwillは基本的には意志であると言うのが私の考え方である。特にi willと言うとぜひそうするとか、絶対そうすると言う意味だ。それがweになるとするでしょうぐらいでいいのだが、しかし基本的には意志が働くのがwillだ。韓国語にも一応未来形となっているが겠と言う動詞につく言葉がある。これは一人称で語れば強い意志をあらわすのだが、この感覚は英語と同じでたぶん韓国語の学習者はwillのニュアンスがよく理解できると思う。

語学をマスターすることは特にスポーツ界においては重要なことだと理解している。と言うか絶対にスポーツ指導者は短期留学でもいいからする必要があると思う。はっきり言って外に出た言ったことがない人間の言うことは本当に薄っぺらい。物事を多面的にとらえることができないのだから考えが凝り固まる。体育会の常識が黄金律みたいに思っている人間がまさにそうだが、パブロフ犬見たいに条件反射的にあいさつができるぐらいで(しかもチワーッス)礼儀正しいなんて笑止である。それよりも正しい日本語と正しい敬語をおぼえるのが先だ。言葉をまともに使えない人間はまともな社会では恥をかくだけである。同じようなレベルの人間を相手にするのならいいのだろうが、しかしスポーツクラブと言うのは子供を含めていろいろな人間が集まってくるので、ある程度日本語の能力が求められるであろう。私などはこういうコミュニティを管理するものは言葉のプロでなければいけないと思っているが、外国語を話すと言うのもまさにその必要性があるからだ。勉強しません、外の世界に出ていったことがありませんでどう人間に対応していくのだろうか。たいしたこともない実績をちけひらかして自慢話をしてそれについてくるような人間を子がいにしたり、取り巻きををつくってもりあげようとするのは非常に稚拙な手段である。クラブには子供や高学歴な人間そしてステータスの高い人間も集まってくる。まともな人は人を選ぶ、話をしていてバカだと思ったら見限られる。あのおっさんこんなアホなこと言ってたぞとか言われたり、学問的な話でついていけなかったりズレたことを言う奴、学校の話になると武勇伝やわけのわからないやんちゃ話しかできない指導者は正しく健全な群れを形成できない、群れと言うのは言葉によって形成されると言うのが私の考え方である。語彙がない、言葉や表現力にとぼしい、語学力がないとどこかでその群れはズレてくる。うちのクラブではマスなどであてられてカーッときて敵意むき出しでなぐりかかっていったり、すごい勢いでなぐりかかっていくような暴力とみなされる行為はないと言える。人がこれだけ来てロッカーに鍵がなかっても何かなくなったというようなことは今だかつてない。うちのクラブの雰囲気がよく、正しい人たちが集まっているのはきちんとその責任者を見て選んでいるからで、彼ら彼女らはいわゆるただ何となくここに集まってきたと言うような人たちではない。ここはそれしかできないボクサーが刑務所仲間をたよるように自分の居場所や人よりもアドバンテージをとれる場ではない。それなりにみんなステータスがあってある意味自分に自信と責任を持って生きている人たちが多く集っている。そういう人たちが責任者をよく見て理解してくれて助けてくれていると言うことである。そして私自身も見られているということからほぼすべての人に対応できるように教養をつむことに余念がない。彼ら彼女らにこれが自分たちのクラブの責任者だと堂々と言えるようにそういう努力はおしみなくしている。

 

 


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seek ye first the righteousness; and all these things shall be added unto you.

2016-07-25 | Weblog

この前インターネットの記事にマナーについて述べられていた。マナーは自分がどうかということではなく相手がどうかということだ、それはoxfordの辞書にそう書いてあると言っていたが、私もだいぶ前にコモンセンスについて述べていたが、おぼえている人はわかるであろうがそれはまったく同じこと、おまけにoxfordを参照にしているのも同じである。だから学校教育と言う場において教室に髪を派手にに染めた子供がいるのは一般的には好ましいこととは言えないと思う。一般的にと言うのはそれが高校や中学では往々にして校則違反であるからだ。そういう行為をあえてするのはは教師側から見れば不快とも言える、親は何を考えているのかはわからないが、しかしそういう時期から目立つとかかっこいいとか中身のない個性を表現するのは小さいころからマナー違反を教えているのと同じ、DQNはなぜアホだと思われるのにああいう恰好をするのかわからないが、せめて子供には常識的な髪型やかっこうをさせるのが人として正しい教育ではないかと思う。

私自身クラブを安心させる場として道理が7で義理が3のバランスで行動しているがこのバランスは群れを導いていく上では大事なことだ。最近は義理と言う言葉は任侠映画以外では語られなくなったが、しかし人間関係においては大事な事柄である。国語辞書には義理についてこう書かれている。これはあくまで一般的に我々がつかう言葉としてであるが、1社会生活を営む上で、立場上、また道義として、他人に対して務めたり報いたりしなければならないこと。道義。「―が悪い」「君に礼を言われる―はない」「―をわきまえる」2つきあい上しかたなしにする行為。「―で参加する」と書いてあったが、言葉をかえれば義理と言うのは恩に報いる行為と言ってもいいだろうが特に東洋の世界は相互関係においてこの義理と言う関係でつながり人間関係をタイトなものにしていると言っても過言ではないだろう。クラブでおっさんたちがせっかくトレーナーに教えてもらっているのにうまくならなくちゃあわるいと感じるのもトレーナーに義理を感じるからで、彼ら彼女らがきてくれているのだから楽しくトレーニングしてもらいたいと感じるのも然りである。しかしコミュニティは義理だけでは成長しないし正しいコミュニティとは言えない。人間が集まるのだからそこに正しさの基準がなければ群れは間違った方向に向かうだろう。義理という言葉はそれ自体はいい言葉であるが、しかし人間は義理だけで行動すると正しさからはずれることもある。はっきり言って体育会と言う集団は欧米に比べてへんてこりんなルールがある。これって明らかに女性差別じゃないのかというのもあっておどろいているのだが、水をトレーニング中に飲むようになったのも最近であるが、こんなことはもう何十年も前から欧米では当たり前のようにやっていることである。私などはトレーニング中にドクターペッパーを飲んでいたが、こういうことひとつにしても日本にはまだまだ何を基準にしているのかはわからないが、あしき習慣と言うものが存在する。そういうものが存在する背景には親玉たちには何も言えないいびつな義理関係がそこに存在するからだ。日本のスポーツ界特にボクシングのようなマイナースポーツは考え方が徳川幕府以下だと思っている。道理と言うのは人間が行う正しい筋道と書いてあったが、その正しい筋道からはずれないためにも指導者はスポーツだけではなく教養をつむことは非常に重要なことで、特に我々のような社会人が集まる集団はある程度のレベルが求められる。筋道を通すというのは何も勉強していないような奴がただ言いたいことを言わせてもらえるからと言うことではなく、この時代はしっかりと先のことを見据えて何が正しいかどうあるべきかということを考え選び取っていくことだ。正しい道理は今の時代はきちんと勉強してアンテナをはらなくては通すことはできないと考えている。語学が全然わかりません日本語もあやういです、本読みませんと言うような人間が今の時代にまともに道理など通すことなどできないと思っているが、実際にアホが導く集団は体育会のルールがすべてだと思っているがしかしどこかズレている。はっきり言って教育上よくない。群れにとって本当に何が正しいか平等と言えるのかと言ったことをしっかりと学問を基準にして選びとって行くことが大事だ。

ヘブライ語で義をツエダカー(正確にはツエダーカー)と言う。英語ではjustice少し形式ばった言葉でrighteousnessと訳されているが、正確には日本語で言うところの義と正義と言う言葉がかさなりあった言葉である。ツエダカーと言う言葉はもともとは聖書の言葉で神の正しさと理解されている。キリスト教ではどちらかと言うと正義よりも愛と言う言葉がよく語られているが、しかしold testamentで語られているのは神の正義で、その正しさゆえに神は人間を罰することもある。old testamentと言うのはそのツエダカーが終始一貫して語られているのだが、私はユダヤ人が優秀な民族であると言われているのはツエダカーが彼ら彼女らの行動の基準あるいは道しるべとなったからであり、ツエダカーは私的には義理3道理7と言う理想の言葉だ。

 


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아프지마세요 痛くならないでください。

2016-07-21 | Weblog

SKYPEのなりすましで少しがっかりしてしまい、ヘギョンに아프지마세요と言われた。아프지마세アプジマセヨあるいはパンマルで아프지마アプジマは直訳すると痛くならないでくださいと言う言葉だ。例えば頭が痛い時、そんな時相手を気遣って アプジマセヨ と言ったり、心が傷ついて苦しんでいる時にも アプジマセヨ と言うのだが、心や体が痛い思いをして欲しくないそんな気持ちが含まれている言葉で、こういう表現はコレアン独特の表現であると思う。コレアンには独特の遠慮と言うものがある。自分が相手の心に入って行くあまり相手を傷つけてはいけない迷惑をかけてはいけないと言うそういう気持ちが遠慮と言うかたちをとってあらわれる。だいぶ前に見た映画でこういう映画があった。幼い時にわけがあって親戚の家にあずけられていた主人公は小学生の時に男の子と出会う。黄色のレインコートを身にまとった彼女は自分は宇宙人だから私にさわればしぬと言う。男の子は主人公に恋心を抱いていたのでそれでも彼女に接近しようとするが、しかししばらくしてその子は何も言わず去っていく。そしてそれから10年彼は高校生になった。すでにソウルに引っ越してきたのだが、ある時突然主人公から電話がかかってきて、親戚の寺で一緒に試験勉強をしようと誘われる。初恋の人だったのでもちろん承諾、寺に泊まり込みの楽しいひとときではあったが、しかし彼女は試験勉強がおわるとまた再び何も言わず去っていく、そしてさらに何年かたったある日もう成人になって銀行につとめていた男性の前に再びあらわれるのだが、その時はじめて彼女がルキミアだということをつきとめ、その彼女が突然いなくなった理由がわかるのである。この映画は韓国語でトマベムと言う映画である。後輩の奥さんに見せてもらった映画で、最初はあほかと見ていたが、しかしその映画の別れのラストシーンは思わずジーンときてしまった。ルキミアは彼ら彼女らがよくつかう映画の常套手段であるが、しかし私はこのシュチュエーションはその彼ら彼女らの遠慮と言うか、そういう世界を表現しやすいと思っている。日本人はよく奥ゆかしさと言うが、私はこの遠慮と言うのはコレアン独特の奥ゆかしさだと理解しているが、아프지마세요と言う言葉は日本語にない素晴らしい言葉である。友達の使っている韓国語の教科書に아름다운 한국어(美しい韓国語)と言うのがある。日本語でもそうであるが言葉を学ぶと言うのは、そういう文化にふれることができる素晴らしい手段だ。

가지마 사랑 사랑 사랑 아아아아
제발 제발 가지마 아아아아
눈물투성이 상처투성이 내 가슴은 어떡해
아파 아파 아파 가지마 사랑아


 

 


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Cinderella

2016-07-17 | Weblog

なりすましはひとつのリクエストからはじまった。私の親しかった韓国人にはイングリッシュネームがあってCindyと言う。そしてよく彼女がゲームなどでそれにかけてcinderellaと言う暗号を使っていたのだが、SKYPEのリクエスト番号がまさにそれ。最初リクエストがきた時、あまりに懐かしかったので思わずare you sure?そしたら名前をタイプしてきたのでlong time no see since.......とうつとやや正確な答えが、もう二度と会うことはないと思っていたが、しかしその彼女が使っていたシンデレラと言う名前は偶然だかよくわからないが、その名前はことあるごとに使っていた名前だ。私がよくイングリッシュネームはそれに近いが、お前にはふさわしくないとからかっていたことを思い出すが、はっきり言って本人であるということはありえない。しかし人の思い出を踏みにじろうとする奴に一言꺼져(コジョ(うせろ))ass hole。

東京都知事選に3人の有力者候補が挙がっている。せがれに誰がいいのかと聞かれ、これと言う人はいないがしかし消去法だが小池さんだろうと答えた。理由は私なりの視点ではあるが、彼女がカイロ大学を出ていてアラビア語と英語が堪能なこと、これからの東京オリンピックとテロ対策などを考えた時に一番ふさわしい都知事だと思うからである。フランスではテロ事件以来イスラム教徒に対してかなり警戒している。あるイスラム教徒がインタビューで自分は何回も職務質問されたと言っていたが、どうやらテロ=イスラム教徒結びつけてしまってトランプの発言もそうだが欧米ではいささかイスラム教徒に対しての風当たりが強いようである。巷は差別だと言っているが、しかしはたしてそうであろうか、私はイスラム教をわるい宗教だとは思ってはいないし、差別する気はない。ただその性質がテロに利用されやすい宗教でそこに大きな問題がある。キリスト教特にプロテスタントが個人の信仰によるものだとするとイスラム教やユダヤ教と言うのは共同体の宗教である、もちろん信じるのは個人であるがしかしその信仰は親などによって継承されそれが共同体によって守られていくと言っても過言ではない。キリスト教などの個人宗教は戒律など存在しないがしかしイスラム教は戒律が存在し、その戒律が社会全体によって守られていくことはよく知られていることで、日本人がよく理解できないのが、日に何度かメッカにむかってひれ伏せることさらに食事などの戒律であるが、これらのことはそのイスラム社会の中では権利として与えられていて社会や国によって守られていることは確かである。イスラム教と言うのはキリスト教や仏教などとの個人の信仰とは違う。イスラム教を信じると言うことは彼ら彼女らの社会やすべての常識であって国家でもある。そういう性質であるからはっきり言ってテロに利用されやすい。だから警戒されても仕方がないであろう。少し前韓国で話題になったフランスの小説がある。それは「soumission(日本語では服従)」と言うミシェルウエルベックの小説である。内容は2022年の大統領選挙に極右民族主義政党と新生ムスリムがのこった結果極右をおそれた国民がイスラム政党を選択して、その結果国がイスラムに支配されると言う小説である。もともとミシェルウエルベックの小説は過激すぎるのとあまり日本人にはうけそうにないので日本語訳にはなりにくいが、しかし彼の小説はヨーロッパ特にムスリムが多いとされるフランス政府の問題を浮き彫りにした小説であると思う。これ以上このことについて言及することはさけたいが、イスラム教と言うのは共同体の宗教だ、少数派であっても右を向けと言えば全員が右を向くそういう性質がテロに利用されやすいということを宗教的立場から言えると思う。


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もらったお守り

2016-07-16 | Weblog

私は時々なりすましをされる。だいぶ前はフルネームで某掲示板で私の名前をつかってけんかしていた。それがまた私が言いそうなことを堂々と言うので笑ってしまったが、ある友人から連絡があってお前の名前が使われてるぞと言うことで、その掲示板を見たら私の名前で堂々とチャットしている。さらにそいつはその掲示板の人間たち全員を敵にまわすぐらいの勢いで主義主張していたがしかし内容が薄っぺらかったのでもっとしっかり勉強してから私の名前を語れと思ったぐらいだ。そして最近ではある親しい友人になりすまして私から情報を聞き出そうとしていた。私はLINE KAKAOTALK、SKYPEと使い分けて連絡をとっているのだが、ある日、SKYPEに私の友人らしき名前で友達申請が、念のために「お前誰だ」とタイプしたら私とその人間しか知らない情報をポンとおくってきたので承認、その後久しぶりと30分ぐらいチャットをしたのだが、しかしすごく久しぶりにチャットした人間が最近の私の情報を知っていたので途中でおかしいことに気づいてYOU AS○ HOLE!とコネクションをたったが、しかしどこでどう調べたのか明らかに私の情報がもれている。おそらくこの人物は私のことを知っているか興味のある人間で英語が話せる人間だ、英語の使い方からネイティブではないことがわかるが、たぶんSKYPEかKAKAOTALKのどちらに侵入できる人間だろうと思うのだが、私の私がクラブのHPに写真をのせたり、人の出身学校や仕事などをのせないのはこういうことがあるからである。

うちのクラブの隊長が入院をすすめられている。さほど緊急をようするものではないらしいので、先送りにしているらしいが、しかし本当は入院したくない。なぜか?その理由は病院によくある話。所謂幽霊が怖いそうである。何でも若いころは相当見えていたようで、話を聞いたらわかるが、その体験談は結構怖い。某トンネルを通った時、後ろに気配を感じたので振り返ると後ろに白い服を着ていた女性が、しばらくしてその女性はいなくなったそうであるが、しかしトンネルの出口を出たら、その女性は再びトンネルの出口に立っていたらしい。隊長は見えていたらしい。その幽霊にびびって入院したくない。もししたら9時以降に来てシャワーもあるから泊りに来てくれと本気で言っていたが、怖いのはわかるがいいおっさんなんだから。実はまだ隊長が入院すると思っている人がいて隊長何号室ですかと聞かれるが、この場をかりて言うと隊長はおばけにビビッて入院しません。

私はまったくそういうのを見たことがないが、一度だけすごくすごく不思議な体験をした。それは学生時代の話、夜遅くのどがかわいたので近くのセブンイレブンにジュースを買いに行った帰り、APTの入り口に何やら東洋人のかわいい子が立っている。私はナンパなんてするタイプでもないし、夜も遅かったので、普通だったらまず声などかけることなどなかっただろうが、しかしなぜかよくわからないのだが、その時は引き寄せられるように近づいていっていつの間にかその子と話をしてしまっているのだ。さらに不思議なのは自分が言葉を使って話していなかったような感じである。英語?日本語?韓国語?とにかく言葉をつかうことなく頭の中でテレパシーのような感じで話を30分以上はしたと思う。おぼえているのはその子がそこの大家さんの娘だと言うこと、でもよくよく考えたらそこの大家さんの年齢では孫だったらわかるが彼女ぐらいの娘がいるのはまずない、ここからはまだ言っていなかったことであるが、私は思いっきりこわくなったのでそのことを仲がよかった韓国人の女性に言ったら、彼女曰くどうやら私は彼女に気に入られたようである。あの付近にセメタリーがあるのでそこの住人だと言っていたが、このままじゃあ連れていかれるかもと言うことでお守りをもらったのだが、そのお守りは効果覿面その後その子とは会うことはなかった。

実は私は彼女にかなり大きな影響を受けている。当時韓国社会では弱い立場の子供や女性が犠牲になっていること。なぜアメリカには韓国人の養子が多いか、さらにHIには多くのシングルマザーがDVや子供を本国では育てられないのでここで新天地を求めて生きている。というような話をアメリカ系韓国人の立場から話していたが、今でも出身地が同じだと結婚できないカップルがアメリカ国籍を所得するという話もあるが、私がマイノリティや女性問題に関心があってドネーションをするのは彼女の影響が大きい。もう彼女とは会うことはないであろうが、もらったお守りは大事に持っている。

 

 

 

 

 


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HEROES

2016-07-13 | Weblog

Heroes Rebornのメインキャストに抜擢された祐真キキさんという女優がいる。この人が女優になった経歴が面白い。高校卒業後フリーターをしていたそうだが、子供の時から難民キャンプの映像を見て自分は恵まれているのにこの人たちはどうしてどうにかしたいという思いがあり、人道支援や環境保護などに深い関心を持っていたそうだ。そしてお金を貯め単身スーダンへ、そこで知り合った人道支援に取り組むアメリカ人に人道支援に取り組むには大学院などの学歴が必要だと言うことを聞かされ、それじゃあジョージクルーニーやアンジェリーナジョリーのように有名になって自分の考えていることを実現したいそう思って英語をおぼえてアメリカに渡ったそうである。彼女の考え方は日本人には珍しい考え方だが、欧米では人道支援や環境保護に関心を持つ人が多く、欧米ではさっきあげたハリウッドスターだけではなく多くの企業家やスポーツ選手などが人道支援や環境保護などに取り組んでいる。国外に目をむけて成功する人間の考え方は違う。はっきり言ってグローバルな時代は地球規模で何かを考えなくてはまわりから認められない、自分が有名になって力をつけたら人道支援をすると言う彼女の考え方はまわりから賞賛されるべき考え方であるし、弱いものをおぼえて支えると言う考え方は正しいことでそれは当たり前のことである。よくやりたいことを見つけろとか目標を持てと言うがしかし大事なことは自分には何ができるかと言うことを考えることであり、学歴や自分のスキルが無駄にならないためにも自分には何ができるか、言い換えれば自分は人のために何ができるかと言うことを問うことが大事なことだ。教養をつんで英語をおぼえて国外に行けばたくさんのことを学ぶことができる。今やもう自分のことだけ考えていたらいいと言う時代ではない。日本も震災を経験しているが、支え合って生きる、そしてそのためには自分には何ができるかと言うことを考えなくてはいけない時代でそのことによって我々は必要とされるし、それができない人間は決して成功者とは言えないであろう。

私はこういう考え方が民主的であってコミュニティにおいては正しい考え方だと信じて疑わないのだが、弱いものやマイノリティにたいする配慮がかけるようなコミュニティは低度がひくい。よく言っているがこのような格闘技のクラブでは誰がマイノリティになるのか。うちのクラブではもはや女性はマイノリティではないが、しかし男性中心の世界では女性はマイノリティであるし、競技には出ない子供もまたマイノリティだ。マイノリティと言う言葉を乱用するのは少しためらいがあるが、しかし今の日本の格闘技のような世界はそういうことに対して本当に無知な人間が多いのでこれぐらいインパクトのある言葉を使う方がいいと思うので使わせてもらうが、うちのクラブでは裸でトレーニングしたり(当たり前だが)乱暴な言葉を使ったり、ボクサーを特別あつかいしないのは女性やまたダイエット目的の人がここで遠慮しなくてはいけないという状況をつくりたくないから、私の哲学がそうさせている。うちのクラブはボクサーを養成する場ではない。しかしコミュニティとして確固たる哲学があるし、その哲学と言うか雰囲気を若い人たちが感じて影響されてくれたらいいと願っている。もちろん人間は弱いが、しかしその弱さをおぼえつつグローバルな視点に自分を置いてその弱い自分に何ができるかということを考えて支える側の人間となり、そのことによって本当に必要とされる人間になってもらいたいと願っている。

うちのクラブも人道支援として定期的に募金をしているが、私の募金に対する考え方はお金の援助と言うものではない。確かに我々がする募金なんてアンジェリーナジョリーや他の企業家から見たらびびたるものだが、しかしそれをすることでそこにつながっている。そこにつながってその人たちのことをおぼえるということが大事なことだと言う考え方で募金をしている。


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体育会の掟が黄金律だと思う奴はズレている

2016-07-09 | Weblog

最近読んだ記事でシャエアウスにいるおやじのことだが、シェアハウスには時々うざいおやじがいてこまるらしい。どういうおやじかと言うと若い人たちが集まって話しているとその中に入ってきて高圧的な態度で海外で放浪したとかたわいもない自慢話をする。こういうおやじが若者の隙につけこんで説教したり、自慢話をするらしいが、はっきり言ってこういうところにいること自体あかんやろと思う。そしてそれは何もシェアハウスだけではなく、場合によっては格闘技のクラブもそういうおやじがあぐらをかいていすわりやすい場であるが、それしかできないような人間が集まるようなクラブでは、たいしたこともないスポーツの実績をかさに着て、自慢話ややんちゃ話や武勇伝、ついでに言うとたいした教養もないのに説教じみたことやわかったことを言うようなおっさんがでかい態度でいれるような場所になりやすいが、そういう場所には絶対にしたくない。うちのクラブは体育会のルールが黄金律であるとは考えていない、程度のひくい集団は体育会のルールが黄金律のように考えているが、しかし今や道徳や常識と言った日本人だけに通用するようなルールなど通用しないし、体育会と言う小さい小さいルールなんて言うのは言語道断、これからはコモンセンスの時代であり、ある程度共通の常識やルールと言うのがあるが、さらに国や文化そしてジェンダーの違いを理解しつつ公平な基準を持って共存していくことが求められる。卑近な例ではうちのようなボクシングクラブは女性が多いのだから裸でトレーニングしないなんて言うのもひとつのコモンセンスであると言ってもいいだろうし、あいさつなんていうのもメンタルのことを考えて配慮する必要もあるだろう。うちのクラブではあいさつは強制ではない、大人がしっかりしているのでその大人があいさつすると子供もあいさつするようになる。何のためにあいさつさせているのかわからないが、あいさつはコミュニケーションの潤滑油のようなものだ、こんにちはとにっこり笑ってあいさつするから気持ちのいい会話ができる。そういうことはヤクザ社会のように強制させてやるよりもこっちからにっこり笑ってあいさつしてやれば、時間がかかってもその子はやがてあいさつできるようになり、そしてさらにそういうことを受けてきた子供はたとえむこうがあいさつしなくても下級生にあいさつするようになる。そういうあいさつのほうが気持ちがいいし、もしあいさつを教えるのであればそういうかたちで教えるほうが教育的あると思うのだが、しかし体育会は下級生が上級生にするのが下級生に対するしつけみたいになっているようだ。私が顧問だったら上級生がまず下級生にあいさつしてやれと言うだろうが、やくざのように力でおさえてその群れを統制するようなやり方は程度がひくすぎるし、そういう集団に集まってくるのはたかだか知れている所謂アウトローやそれしかできない人間だ。この多様性の時代はいろいろなことを考えて群れをとらえていかないといけない。そしてその群れをしっかりととらえて導いていくにはノリや勢いモチヴェーションがどうだとかではなく、幅広い意味でのインテリジェンスが必要で、しっかりと勉強して教養をつんで学問的なものさしを持つことが求められる。うちのクラブはこれだけ人が集まるのに更衣室で物がなくなったとか乱暴なことをされたというような話は一度もない。前に社会人の人がうちのクラブはそれらしき人間がいないと言っていた。それらしきと言うのは想像におまかせするが、少なくともアウトローくさいのが集まったりたかだかボクシングができるぐらいでは大きな顔ができない健全なクラブである。

 

 

 


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In the beginning was the Word, and the Word was with God.

2016-07-02 | Weblog

この前ある子供がいる女性と10分間の話で3つのことを言いあてた。それはご主人がはげであること、お父さんの職業そして子供に必ず寝る前に本を読ませているということである。この3つを言い当てた時彼女はすごく驚いていたが、しかしプロファイリング的な判断で絞って行けばすばりとあたることもある。前に言ったが私にはconfidential documentというのがある。結構えげつないがこれがあるからクラブが平和に運営されている。学校関係者や会社の管理職の人間が見たがっているが、それなりに価値はある。しかし絶対に見せることはしないが、それらは日本語以外の言語で書かれているのである意味難解である。

よく人からなぜあれだけ言葉が流暢にでてくるのだ、しかも外国語まで話せるしうらやましい、プレゼンさせたらすごそうと言われる。でもしかし私だって最初から言葉が流暢であったわけではない、どちらかと言えばあまり流暢ではなかったように思える。言葉が流暢に話せる秘訣は何か?日本語に関してであるが、ここでひとつ教えよう、それは私がやってきたことで、まさにこれを習慣的にやってきたからこそ言葉が流暢になったのだと思う。でそれは何かと言うと国語辞書をこまめに引くことだ。とにかくわからない言葉があったらそれを引く、そうするとその言葉の意味は分かりやすく理解できるように書いてある、そういう説明を読んでその言葉をきちんと理解することはその言葉を支配すること、即ちその難しい言葉を簡単に説明する能力それが国語辞書には書かれているのだが、それをしっかりと理解すること、そういうことをひとつひとつやっていくと言葉が流暢になると思う。日本語の漢字と言うのは便利なものだ。どう便利かと言うと英語は専門分野が違うとその用語は全く違う、だから専門が違うと言葉がわからないので翻訳できない。しかし日本語は漢字があるのでその漢字から専門用語を推測することも可能である。私からしたら日本語ほどむずかしくて便利な言葉はない、私は思うがすべての成功のカギは日本語を支配し、生かし、活用することだと思っている。現にうちのクラブはまだまだ十分ではないが言葉を重要に考えている。そこでどういう質の言葉が語られるかと言うことが重要であってそれは言葉の使い方はもちろんのこと知性なども要求された言葉だ。そしてそう言う言葉が語られるクラブにはしっかりした人や正直な人間が集まると信じているが、まさにうちのクラブはそうであると思っている。事実よく女性からここの男性はやさしいよくゆずってくれる(実際は気をつかってくれているだが、)女王様なんかもお願いしますと言えば試合前でも快くひきうけてくれるし、みんなよく教えてくれることは確かなことだ。私のまわりには日本語だけではなくいくつかの言語で書かれた本があるが、それらはまわりの質を上げるためにまず自分自身が知性を磨くと言う理由で暇な時はよく本を読んでいる。


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