脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

仲良くするって何ですか?

2011-08-31 | Weblog
何十年も生きて来て未だ理解できない日本語がある。
それは「仲良くする」ということであるが、私はこの言葉と言うか感覚がよくわからないのだ。
たぶんこの言葉は概念的なものよりも、むしろ感覚的な言葉であると思うのだが、はっきり言ってよくわからない。
たぶん外国では考え方が違うのでこういう言葉はあまり使わないと思うのだが、相手を尊重するとか、尊敬するということとは違う、この仲良くすると言う言葉は日本人独特の単一民族であるから理解できる古い言葉である。
日本人はよく固まると言うがまさにそうだ、本能的なものかどうかはわからないが、集まるとそこには必ず同じ考えで集まったグループと言うものができるのだが、程度の低い人間になると、自分たちはこんなに仲がいいと言うことを強調し、私のように親が特殊で、子供のころから人との違いと言うものを感じて来た人間にとっては、非常に理解しがたい言葉である。
前にも言ったが、外国に行けば同じということよりも、人との違いが見えてくると言ったが、この違いを認めることが今の社会では大事なことでこの違いを認めると言うことでできなければ、個など育つことはないと言える。
日本はこの仲良くすると言うことができなければ、住みにくい、現に仲良くできない人間に対してはあつかいにかたよりがあるし、ひどい奴になると存在そのものを無視する傾向がある。
以前帰国子女の多い大学に通っていた人たちが、帰国子女はいいたいことをずけずけというからやりにくい、きついと言っていたが、しかし私はそうは思わない。
私自身も彼ら彼女らとそうかわりないと実感しているが、私が察するところでは、彼ら彼女らが意見を強く主張するのは、日本人の独特の雰囲気と言うか、同じような仲間で集まる半ば本能みたいなところにとまどいとストレスを感じているのではないかと思うが、実際私のようにグループに属すことができない人間にはそうきつくあたらないし、自己紹介の時名前を金虎英だと言うと私の文化がそっちの文化だと思ったのだろうか、その文化にあわせるような態度で接してくれることもある。
おそらく欧米人はかたまることに対して非常に抵抗があるのではないかと思っているのだが、現にグループができると一対一の話し合いができないことは事実であり、何かそこで意見を言うと一対大多数になるのは目に見えているからで、こういう一見結託とも思える集団行動にとまどいと不安をおぼえるのではないかと見ている。
しかしにもかかわらずこういう軍団はたくさん存在する。特にスポーツの世界には多いと実感しているが、その程度もまだある程度良識のある人間が集まるぐらいなら弊害はないが、程度の低い人間が集まると結託し、ややこしいことになる。
私が下品だと思う連中は、俺は何も分からないがと言って発言する連中である。
無知なくせに俺は経済学など勉強していないのでそのことについてはわからないがと堂々と持論を展開、たかだか年上だと言うだけで言わせてもらえるだけなのだが、にもかかわらず勘違いして自分の狭い経験を語るのだが、それは教育の現場で自分は教育のことはよくわからないがと言って、抽象的な昔の話をして教師を困らせるバカ親と同じである。
わからなかったら話すなと言うのが一般論であるが、しかしそいつらのまわりには必ず仲間がいて、そうだそうだと援護射撃をし合うのだが、こういう奴らがいる場でまともな話し合いなどできるはずはない。
しかし根本的に問題なのは発言することではない。確かに何も分からない人間が偉そうに言うのは問題であるが、問題なのは論理や学問を俺は何も知らないと言って無視して賛同を求めることで、程度の低い人間たちが実際よく理解して考えず、仲間だからと言って結託することである。
教育に関して言えば、当たり前だが教育理念には必ず、バックボーンがある。
昔は幼児心理学などでも学校によってピアジェかエリクソンという立場を明確にしていたらしいが、しかし最近ではいいところをミックスさせてそれぞれの理念に取り入れるというような感じだと思うが、しかし相手がどういうことを考えてどういう方針であるかということを理解するためには、最低でも理解しなくてはいけないことがある。
勘で恐縮だが、ここで言うとルソーやシュタイナーなどを学ぶと言うことは、教育理念を語る上では必要なことだと思っているがもし大風呂敷を広げて偉そうなことをいうのならば、せめてそういうことを知ってから偉そうに言うのが常識で、相手が有名大学で経済学を学ぶんだのだったら、そこから何かを学ぼうと言う姿勢を見せればいいだろう。
しかしそういうことは認めたくないのか、知らないと言うのを認めたくないのか、こういう人間はお山の大将になりたがるわけで、こういう輩たちがねたみで結託していじわるをしたり、仲良くできないからと言って排除するようような村社会が存在すること自体おかしいことで、私の見解では往々にして何かを話す時は、しっかりとした学問的な基準に立つことが必要で、それぞれそういうことを無視して自分の体験や感情だけを語ればバランスがわるくなるだろうが、結託するような人間は往々にして、情や恩でつながっている連中が多く、本当に何が正しいか何が公平なのかと言うことは客観的に物事を見れないので理解できないと思っているが、よく言うが自分たちのような公共のスポーツクラブという場で特定のグループができたり、スナックでもあるまいし女性にちゃんづけをしたり、特定なあだ名や名前で呼んで仲良くしているのがいるが、しかしこういうこと自体ごく当たり前に考えたら公平性にかけるわけで、当たり前のことがわかっていないのではないだろうか?
いろいろと人から話しや意見、悩みを聞いて、私の率直な意見としては、今はまともにものを考える人間が損をする時代で、社会でも学校でもそういうわけのわからない、連中にふりまわされているのが現実であるが、そういう人間が大多数になるとそういうくだらない考え方にあわせていかなくてはならないのだろう。
そういうことからかストレスで胃に穴が開いたと言うことをよく聞くが、この仲良くすると言うのは、大人が使う言葉ではなく、小学生レヴェルのことばで、こういうことも言うのもなんだが、もし大人が使うならば仲良くでは尊重と言う言葉で、いい年をした人間が仲良くしましょうなどと言う感覚を持つ自体間違っているのであって、このような稚拙なグループをうみだすのではないか。

最近大学生や社会人に英書購読を教えている。
理由は彼ら彼女らが就職や仕事をするにあたって英語が必要であるということを実感しているからで、聞いた話では面接の時にいきなり「あなた英語は話せますか?」と聞かれたり、会社によっては外国人の支社長が突然来て英語で面接と言うのもあるようで、彼ら彼女らはこのままではいけないということで、せめて英語で情報を集めるようになれるためにと英書購読を習っているのだが、もう日本もそういう時代になってきたのである。
しかしこういう現実は同じような考え、同じようなレヴェルで集まる所謂仲間で集まる村社会では見えてこない、仲良くしようと言うのも小学生ならいいのだろうが、しかしいい大人になってこういう言葉や感覚を強調するのはまさに幼稚な発想で、非常にせまい村社会をつくりだすと思っている。




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フェザーがなくなって

2011-08-29 | Weblog
何年か前から階級大幅にかわった。
ライトウエルターから上の大きいクラスはさほどかわったわけではないが、しかしフェザーがなくなり、いきなり階級がバンタムからライトにあがるのは、われわれ日本人にとってはかなり調整しにくくなったと言えるのではないだろうか。
おそらくこういう階級の見直しはどう見ても日本人にとって不利な階級の分け方である。
重量級が多い欧米ならライト級以下はどうってことないと思うのだが、しかしフライ、バンタム、フェザーというのは日本人の階級の中でも大多数が占める階級であり、この階級を崩されると調整しにくくなると言えるだろうが、おそらく日本は独自の減量という考え方を持っているので、なれるまでにかなり時間がかかるのではないかと思っている。
正直ここまでかわってしまうことに、誰もとまどいをおぼえないのだろうか?
私たちのような社会人中心で、試合に出るのがごくわずかなクラブでも。この階級の変更にはとまどいとやりにくさを感じているように思えたのだが、ここまで行けば、東洋を無視しているのではないかと思ってしまうが、誰もこのことに対して意を唱える人間はいなかったのかとさえ思ってしまうのである。
よく言うが今はっきりとものが言える、すなわち議論できる人間が必要ではないかと思っている。
私がよく封建的な軍団を批判しているが、日本は未だこういう軍団が多く、こういうシステム中では自分の意見を主張すると言うすなわち議論できるアビリティは養うことができないからだ。
だいたいこういう軍団には必ず親玉がいて、まわりがその親玉をあたかも自分のおとうさんのように奉るシステムが出来上がっているのだが、しかしそういうシステムにどっぷりつかっていては認められることはあっても自分の考えなど持てるはずはない、ましてや意見など言えるはずがないと思っているのだ。
実際こういう軍団につながっている人間は考えているようで考えていない、第一言うことが親玉と同じで、ひどいやつになると行動も同じようなことをするので、本当に自分の意志と言うものがあるのかとさえ疑ってしまう。
もう今は恩や情でつながる時代ではない。
封建的であると恩や情でつながってしまい、それが人間関係をしばる弊害になるのだが、先輩後輩、師弟関係がそういう恩や情と言うものと深く結びついていると思っているのだが、だいたいこういう軍団は個人的なことよりも集団的単位でものごとを考えているから厄介で、中には自分たちが教えられた信念とか言うようなものや、アスリートとしての生き方みたいな自分の世界に関してはおうむがえしのように語るのもいるが、しかしもともと何かを学んだり外の世界を知っているわけではないので、それはただ思ったことを言っているだけにすぎないのだが、こういうレヴェルでは意見はおろか議論なんてできるはずはない。

正直こういう封建的なシステムが人にものを考えさせないと思っているのだが、いろいろな会場でいかめしく、威厳を保とうとしている人間を見かけるが、私はなぜそういう親玉が偉そうにしたがるのかよくわからない。
よくこういう輩は試合会場などでたわいもないことで人に注意しているが、しかしだいたい注意する相手は、私たちのようなよわっちいクラブで、そういうよわっちいクラブに偉そうに意見するのなら、世界を相手に議論してみろというのが、私の率直な意見であるが、まずそういう世界を相手に議論していくためには英語と言うものが必須条件であり、おそらく今の現状を考えたら、リーダーシップの第一条件は外国語を話せると言うことが第一条件だと思っているが、私はこういう鎖国のような考え方を打破していくためにも、そういう価値観を持ったリーダーが必要であると考えている。

アスリートが試合会場でアスリートが監督に気をつかったりしている姿や、言われたことに対してはいはいといっている姿を見たらなさけないのを通り越してかわいそうになってくるのだが、最近時々ではあるが相談を受けることが多い、どういう相談かと言うとスポーツに関する相談である。
よくあるのがあるスポーツを一生懸命やっていたけど、途中で何をしていいかわからなくなったということであるが、そのスポーツを一生懸命やってある程度いい成績をのこしてきたが、しかしやっているうちにどんどんどんどん自分には目標が課せられて途中でしんどくなってしまって脱力して何もしたくなくなるというのだが、こういうこともただ運動部と言う封建的な軍団の中で、はいはいと従わされ、全国に行けとかチャンピオンになれとか煽られてきたための犠牲であるが、実際そういう相談は多くある。
正直日本の熱心なクラブに入っていると、それ以外は何も見えてこないのは確かである。
中高生ぐらいならほかにいろいろとやりたいことやできること、そしてさらに言うならば才能をいかせることができることがあるだろう、その時期にやるスポーツなんかはそういうことのとっかかりにすぎないとさえ思っているのだが、しかし全国に行けとかやるからには命をかけてやれなどと煽るようなやり方に、私は横暴さと異常性を感じるのだが、こういうことの犠牲者になっている人間は意外といる。
親玉がバカだとそれ以外に何も教えることはできない。
よく私が本を読んだり、いろんなことを学ぶ必要があると言うのは、そういうことをやってこなかった人間は他のことを考える余裕がないからで、かえって自分のやってきたことだけを美化する傾向があるからだ。
現にスポーツ馬鹿のうざいところは自分の自慢話しかしないところであるが、そう言う奴に影響された結果が燃え尽き症候群的になるのではないか。
今そういうレヴェルを問うことも必要だ。特にアマチュアスポーツを教えることに関して、それ以外はわからないやったことがないというのは危険だと思う。
そういう余裕のない人間に幅広く人生の選択を考えさせることなどできないと思うのだが、逆に言えば学業もおろそかであったとか、ひとつのことしかできない、しかも自分の好きなことしかできない人間から、まともな生き方など学ぶことができないと思うからである。

さらに聞く話によると言葉の暴力や実際の暴力もあるらしい。
私もいくつか報告を受けているが、こういうことに関してももう少しアメリカのようにそれに対応できるシステムが必要であり、そういうことがある程度容認されていることにかなり驚いている。

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Do you know Da kine

2011-08-25 | Weblog
「Da kine」は、英語で会って英語ではない、おそらくHIのローカルしか分からない英語である。
意味はうーんたぶん「あれ、あれ、ほらあれだよ」みたいな感じだが、ローカルの人間はよく使う言葉である。
Hiの英語はビジンイングリッシュと言って独特の英語である。日本で言うと間違いなく、なまりのの強い言葉で、さらに彼ら彼女らは独自の文法を持つがこうだ。
「I wen go to school」
「I like go Surfing」
「I no can speak japanease」
まず彼ら彼女らは基本的に「Do」や「Does」は使わない、軽い疑問文で聞く時は、平常文を気持ちを込めて疑問形にするのだが、ローカルがよくつかうYhaという語尾に使う言葉はまさにそのニュアンスを伝える時に生きてくる言葉だが、それはある意味文法を無視したユニークな英語である。
まず「I wen go to school」というのは「I went to school」で「Wen」は過去を意味する言葉で、過去を表したい時は動詞の前に「Wen」をつける。一見変だがしかし慣れてくると過去にしたい時は、全部「Wen」をつければいいので楽である。
さらに何々したいは「like」すなわち「I want to go」の「want to」が「like」であるが、否定型には動詞や助動詞の前に「no」をつけるなど何ともへんてこなEnglishで、ローカルの人間がメインランドに行って思わずビジンイングリッシュを使ってしまうと「Speak english」と言われるそうだが、このほかにもたくさんの独特の単語や表現が存在する。
このように英語はビジンイングリッシュだけでは、その土地やその国によって表現や言葉の違いがある。
そう考えるとEnglishはもはやEnglisiesなのではと実感してしまうが、どうやら日本人の話す英語にも特徴はあるようだ。
よくアメリカ人の人は「日本人は文法に厳しい、完璧な文法を話そうとする」と言うようなことを言うが、しかしはたしてそうだろうか?
たぶんこのことに関しては受け取り方の違いもあるだろうが、しかし私はこのことを実際ネイティヴスピーカーが実感していることではなく、英語を習っている人間が、流暢に話せない理由として挙げていることを真に受けて、そういうような言い伝え的なものみたいになっていると思っている。
実際基本的な文法がわからないから話せない人間が多いと思っているが、基本的な事柄がわからなければ理解することは不可能である。
よくわからないのに英語は文法じゃないと言う奴がいるが、しかし基本的な文法を話せない人間にナンパ以外でまともに付き合うことはないだろう。

よく英語の重要性をブログで挙げているが、間違いなく英語と言うのは必要言語である。
ビジネスでも日本国内のシェアがせばまってきている現在海外に売り込んで行かなくてはならない時代、話せるか話せないかの差が出てくると言うことは世間的に認識されていることである。
それはスポーツとて同じことであるが、情報を集めるには英語は不可欠であるし、これからは英語や外国の習慣を知り、相手と対等に付き合って情報をどんどんぬすむようなスパイ活動をしなければだめだ。
特に心理戦などは相手が何を考えているかわかなければしかけることができないと思うが、日本人はこの心理戦が苦手だ。
以前ブログで書いた母国語しか話せないと言うことにコンプレックスがあるから、それを逆手にとって交渉を進めるということもそうだが、相手がどうすればいやがるかとかやりにくいかということを考えてはいない、正直すぎると言うか人がよすぎてだまされやすい。
極端な例だがスポーツに関しても、ラテン系の人間はよく試合前にラップなどの音楽を聞いてリズムをつくってくる。そういう人間の前で盆踊りの曲をかけてやったら集中できない、ぶち壊しであるが、ここまでやる必要はないだろうが、しかし相手の心理と言うか行動を読むと言うことは大事なことで、その相手の動きや心理を知るためにより多くの習慣や行動などの情報を集めることも必要なことでそのため英語は必要不可欠である。
海外の人間はわれわれが思っている以上にとんでもないことを考えている。
私などもそういう経験を何度かしているが、おどろきの連続で、そういう常識はもはや日本人の常識では測ることができない事も多い。
昔元の襲撃を受けた時に日本人は「やあやあ我こそは」と名乗ってから戦うやり方で応戦したら、その名乗っている間に相手が攻撃を仕掛けて来たということがあったが、いつまでたってもオウンルールにしばられていては進歩がない、そういう固定概念の殻を破るためにも英語教育と言うのは不可欠であり、今最優先しなければならない事柄として見ている。











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漢字文化

2011-08-23 | Weblog
アメリカ人を揶揄した言葉でこういう言葉がある。
「二か国語話せるのはバイリンガル、三か国語はトライリンガル、そして一か国語しか話せないのがアメリカ人」
これは私の個人的な意見であるが、意外とアメリカ人は、日本人が英語を話せないことにコンプレックスを持っているとまではいかないが、けれども自分たちが英語しか話せないことにコンプレックスを持っている。
まさにこの言葉はそういう一面をついた言葉であるが、私は時々この心理をついて、自分は日本語が話せるんだと言うことを会話な中で強調することがあるのだが、これは母国語でない言葉で会話している時に、そのディスアドヴァンテージをアドヴァンテージにかえる戦術でもあり、自分の土俵に相手を上げる手段でもある。
例えばある概念を説明する時に、日本語ではこういう言葉があって、それは漢字ではこう書くのだが、その漢字にはこういう意味があると説明する。
漢字や四字熟語というのは一つ一つの言葉に意味があって、非常に完結しているので意味が伝えやすいものである。
もともと漢字と言うのは記号論的であるので、英語と違ってそれを見れば一体何が言いたいのか意味が分かるのであるが、それは我々が中国語を見てその漢字から意味を推測できることとよく似ているかもしれない。
例えば「喜怒哀楽」という言葉にしても、この四字熟語だけで「喜怒哀楽」と言うものがどういうものか伝わってくるのだが、英語で表現するとせいぜい「Emotions」であって、この4つの人間の感情はいちいち説明しなければ伝わらないだろう。
しかし漢字だとひとつひとつが完結しているので伝えやすく理解しやすいのである。
このように漢字と言うのは言葉を伝えるのには、非常に便利なものであり、奥深いものであるのだが、こういう漢字の話しひとつとって説明するだけでも、日本語が話せると言うことをアピールできるし、お前日本人と話しているんだよということに気づかせる手段でもあり、だいたいアメリカ人も含めヨーロッパ人が集まると自国の文化について語るのだが、漢字を説明すると言うことは自国の文化や歴史について語ると言うことでもあるので、相手から尊敬を得れるであろう。

昔東京大学の研究生だった韓国人の人が、あるアメリカ人が漢字の起源について書いた本を翻訳して、出版しようと計画した。
一応私を含め4人がその計画にくわわった。著者に我々の履歴書を英語で書いておくり、許可を得て担当部分を訳して出版と言うところまでこぎつけたらしいが、しかし意見が食い違い頓挫、たぶん漢字は宗教的な意味もあるので、そのことを説明するのにお互いの相違があったと思うのだが、これを訳す時に私以外の3人は韓国人なので、この本を日本語を訳す時に、それが適切かどうかということを判断してもらうために、一応日本人を私をスタッフに加えたと言うのだが、今考えたら高名な学者でもあるまいし、私のような素人にそういうことをまかせること自体どうだったかと思っている。

日本語と朝鮮語は非常によく似ている。
例えば英語を聞いていて、われわれとは少し違うと思うことは「YOU」と言う言葉を連発することであるが、しかし日本語では「あなた」と直接語りかけることは無礼とされ、特に目上の人に使うのはご法度である。
韓国語にも「タンシ」と言ってあなたをあらわす言葉があるが、これは特に夫婦間などの親しい間柄に使われる言葉で、日本語と同様ご法度で、他に二人称でノ(君、お前)というような言葉があるが、タンシは使い方なども日本語に似ていると思う。
韓国語は昔世宗という王様が女性や子供でも読み書きができて、言葉を表現できるようにと学者を集めて発明した言葉であるが、そのせいかその響きはやさしく聞こえる。
よくおやじがぞんざいな言葉をつかうのは、言葉がマッチしていないからわざとそういう言葉になるのだろう、大韓空港やアシアナ空港の客室乗務員が魅力的なのは、綺麗な韓国語を話すからであり、その言葉の性質上綺麗な韓国語を話す人は非常に魅力的であると思っている。
しかしその反面一時期彼ら彼女らは漢字教育をしてこなかった歴史がある。
特にわれわれの世代の人間はそうであるが、ハングルこそが自分たちの言葉だと自負して、漢字を軽んじたせいか、書けない人が多いと思う。
たぶんその世代の人に少々複雑な事柄を(地名とか名前以外の)「ハンチャロ オットッケソヨ(漢字でどう書くのか)」と聞いても書けない人がいると思うが、これはいくら教育がある人でも漢字教育を受けていないと言うことである。
金文学という人はこの点について、コミニュケーション手段や文化がそこなわれたというようなことを言っていたと思うが、漢字と言うのは文化を知る上でも重要であり、漢字と言うのは我々の言葉のルーツでもあるのだ。
欧米人と深く付き合いたかったら、自国の文化や歴史を伝えることができるということは、基本的な事柄だが、まさに漢字を説明することはこの歴史と文化を説明することで、漢字はある意味便利なツールである。

以前「Winter love」の「百億の雪が伝う」という表現が好きだということをブログに書いた。
雪と言うのは抽象名詞であるからアンカウンタブルである。英語で言えばそういう表現は理解されないが、しかし「百億」のというのはたくさんのと言うことをあらわしていて、こういう表現は日本語独特だと思うが、日本語の良さはこういう曖昧な表現が漢字によって生かされることである。
特にそれは自分の感情や思いを伝える時に、この「百億の雪」のように表現されるそれが日本語の魅力であると思っている。






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自己肯定感

2011-08-19 | Weblog
フランスの作家ロシュフコーの言葉でこういう言葉がある。
「過ちをおかさないよりも、過ちを白状するほうが立派な場合が多い」
今真面目に生きている人間がそんをする時代であると思っているが、まさにこの言葉はそのことについてある種の風刺的な言葉として私たちに語りかける。
よく元ヤンキーや不良が立ち直って絶賛されていると言うことは格闘技の世界ではありがちである。
しかし私にはよくわからない、今まで散々悪いことをやってきた人間が、少し当たり前に生きたぐらいで素晴らしいと言われるのはちゃんちゃらおかしいし、ボクシングや格闘技と言うフィルターを通して、そういうことが人生のサクセスストーリーとして語られたりすることはかなりバランスが偏っているように思えるのだが、真面目に一生懸命がんばって生きて来た人間のほうが尊いと私は考える。
カイジという有名な漫画がある。
だいぶ前アニメで見たのだが、私はあまり好きではないが、その漫画にはよく胡散臭い奴がでてくる。
そのキャラクターは特定の人間だけではなく、その他一同の脇役も社会不適合型の雰囲気をただよわせているところが何とも言えないのだが、そういうアウトローたちの姿を描いた漫画のようだ。
ここにはアウトロー的な人間はいない、むしろここの会員は、社会的にもしっかりしていると言えるのが自慢である。
社会的にしっかりしていると言うのは、上下関係をよくわきまえていて、でかいこえであいさつするというような程度のことではなく、教養のレヴェルもあって、社会人として自分の仕事に誇りをもっているということである。
そういう社会的にも自分の仕事にほこりをもっている人と言うのは、バランス感覚がいいので、余計なルールや決まり事など必要としないのだが、金銭的なことにたいしてもきちんとしたバランス感覚をもっていて、しょうもないことでせこいことはまず言わない。
また人の役に立とうと言う気持ちも強くもっているので、親切に人にふるまえるし、公平な感覚を持っているので、非常に気持ちよく接することができるので、入会した人から、バランスがいい、できた人が多いと言う意見をよく聞くが、だいぶ前は面接の担当をしていた人が、自分が人を人選していると思っていろいろと聞いてきたぐらいであるが、そのことに関しては、私は誇りをもっている。

しかし以前ここで教える立場にもかかわらず。だめだと見限った奴が何人かいる。
正直話したら恥ずかしくなるぐらい人間としての行動ができていないのだが、しかし自分たちはわかっていない。ある程度きちんとした人間なら理解できるのだが、そういう人間を観察して分かるが、まずこういう人間はなぐられたり、どなられたりしないと物事を理解しようとはしないということである。
うわべではあいさつができてハイハイと礼儀正しく振舞えるが、しかし根本的にきちんと物事を考える訓練ができていないので、かなり物事を恣意的にうけとり、怒鳴らない人間や、暴力を振るわない人間にはなめてかかるのが、こういう輩の特徴である。
むかし経験者で会費を計画的に踏み倒した奴がいた。
入ってくる時は礼儀正しく「こんにちは」帰る時はきちんとむかって「ありがとうございました」大きい声で、いかにもボクサーとして礼儀正しい人間のようにふるまっていたが、しかし金銭的なことになると全くその逆、催促しても給料日がころころかわるし、最終的にはその給料日にはぜったい持って来いと言うと、その前日まできてその次の日からドロン、まさに犯罪そのものであるが、こういう奴は我々のように言葉で解決しようとするとなめられる、暴力や恫喝をもっておさえつけなくてはだめなのだろう、まさにアウトローであるが、最近モンスターペアレンツに見られるようにこういう輩が増えて来ているのではないか。

正直こうい奴を見ていたら、本当に教育って大事だと思う。
物事の基本的なことが分からない人間は、情でつながり、何が正しいかということをきちんと公平には見れないので、まともな判断ができないのだろうし、聞いても理解できるキャパがないと思っているが、だいたいこういう奴の意見と言うのは、自分はこうだからこうだというような木を見て森を見ずの恣意的な意見で、しかしこういう奴に限ってよその土地に行ったことがない、本を読まない、語学もまったくだめであるが、冷静にに考えてこういう人間が、客観的に物事を考えることはできるはずはないのだが、おそらくこういう人間に何が公共的で正しいことかということを教えるのは、サルに芸を教えることよりも困難であると思っているが、往々にしてこういうたちのわるい輩には同じような仲間がいるから厄介である。

ここには県外から出張の時に教えに来てくれる人たちがいる。
その人たちは非常にバランスがよく、いろいろな人に話しかけて指導してくれるのだが、彼らは社会人としても自分の仕事にほこりを持っている。
しかしこれに対してキャパのない人間はバランスがわるく偏りがある。
自分の通用する相手や女性にならば、積極的にべらべらと自分の価値観や生き方について語るが、しかし自分よりも高い教育をうけた人間に対してはコンプレックスがあるので、どうしても距離を置いてしまう、その態度は見ていたら明らかにわかるが、そういう人間が自分にとってやりやすい人間、都合のいい人間を集めて師弟関係を結んだり、仲良くなったりするのがいわゆる仲間である。
しかしそういう特定の価値観で集まった人間と言うのはどこか影があり、さっきあげたカイジのその他一同のグループのように見えてしまうのであるが、こういう輩は往々にしてこの集団では仲がよく、明るく、協力し合うが、しかしひとりびとりは社会不適合型が多く、さっきも言ったように何となく影があるので、こういう輩が同じような仲間で固まると言うことは、非常に物事の味方のバランスをうしなう傾向があると言うのは周知のことである。

最近ではボクシングも一般の人間も競技する時代になってきて、少しわけありの人間が、人生を大逆転させるために競技するものではなくなってきていると思う。こういう時代にやたらアウトロー的な雰囲気をただよわせて、意地や根性を強調するのはナンセンスだし、もしそういうことを強調するならば、かなりバランスは悪くなる。
たぶん今の子供に意地とか根性と言ってもわからないであろう。
ここには運動神経はいいが、ことマスボクシングになるとしり込みする子供も結構もいるが、しかし昔のように根性でやってみろとか、意地を見せろと言うようなことは言えない、なんせ時代が違うのだから、無理にやらせばかえってトラウマになる。
しかしそういうことを言うと、今の時代はそういうしんどいことを乗り越えていく力が必要だと言うのもいるが、しかし殴り合いは別、だいたい常識で考えて自己肯定感と言うものがあるならば、殴り合うと言うことはいくらルールがあっても、自分や人を傷つけるのだから、はばかるのは当たり前、それを自分たちの世界の発想でひくなにげるなと意地をぶつけさせることは、かなり問題があり、そういう自分たちの世界や価値観を強調して集まると、さっき言った独特の雰囲気を持つ集団になってしまうのではないだろうか?

もうボクシングもおちこぼれや不良のやるスポーツではないだろう。
やれとかがんばれ根性を出せと言ってもかっこつきの人間しか集まらないだろう。
自己肯定感の低い人間なら、多少自分を傷つけてもいいと意地になれるが、しかし普通に教育をうけて、普通に生きていたら、多少のコンプレックスはあってもそれを完全否定するような気持ちなどなれない。
ましてや自己肯定感があるこどもはそうであるが、たたいたりたたかれたりするということは特別なことで、そういう特別なことを、むかっていけとかにげるなというような単なる意地に置き換えることは愚かなことで、ボクシングは殺しあいだのつぶしあいだのいう奴がいるが、こういう言葉はまさに自分を否定的にとらえているから言えるのであって、自己肯定ができる人間はこういうことは言わないだろうと思っているが、やはりこういう厳しいスポーツを競技させるに当たっては、それなりに思慮分別のある言葉を選ぶことが必要であると思っている。













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質問力

2011-08-17 | Weblog
以前ある紹介で会った学生がこういうことを言っていた。
私はその学生にあることの相談を受けるために、実際にあったのだが、それは紹介していた友人が自分のことをこう言っていたらしい。彼にどんなあいまいな内容の質問をしても、必ず的確な答えがかえってくる。とにかく相談のしがいがあるから一度会って話しを聞いてもらえばいい。
まあここまで評価されるのはありがたいことだ。
たぶん本をたくさん読んでいるからだろうというようなことを言っていたが、おそらくそれは学生時代に人と議論すると言うことを訓練されたせいだと思うが、MCなどの進行係になると相手の言っていることの本質を見抜いてそれを取り上げなくてはならない深い洞察力が必要なので、そういう訓練をしてきたからだろう、いろいろな立場の人間の話を聞くと言うことは、キャパを広げていく上では非常に大事なことである。

私がよく引用する学者でサンデルと言う人がいる。
もう有名なので説明する必要もないが、彼のすごいところは、その学生達の意見の聞いてそれをうまく吸収して、Issueを建設的に話し合っていくことで、この彼のひとつの議論のかたちをつくっていく方法論は何かを教える人にとっては非常に勉強になると思っている。
彼の答えの引き出し方は、古典的である。
私は彼が学生と対話する中にソクラテスの産婆術的な手法を見るのだが、産婆術と言うのは相手にあえてアンチテーゼを述べることで、相手の理性的考え方を刺激して、アイデアを生み出す方法であるが、これは英語では「Socratic Method」と呼ばれ、建設的な議論をする上での基本である。
サンデルの質問の仕方を聞いていてとてもうまいと思うのは、このアンチテーゼの出し方である。
相手を完全否定することなく、受け入れつつもその矛盾点や限界点を指摘するのだが、その矛盾点や限界点を指摘し建設的に話し合っていくというところが、その議論と言うか彼の授業の魅力ではないかと思っているのだが、強いて言えば彼のほうがソクラテスよりも弁証法的であると言ってもいい。

グローバルスタンダードの視点に立った場合、何を話すかということよりも、どういう答えを引き出しまとめていくかということが重要であると思う。
あたりまえだがこの多様性の時代に、ひとりの人間が一方的に何かを話しして、それをまわりが聞いてごもっともというような時代ではない。縦社会の限界はもはやこの点にあると思うのだが、同じ民族同じ仲間であれば対立などおこることはないが、しかし今やいろいろな人種やそれに伴って考え方の違いを認めるという時代においては、いろいろな考え方や意見を吸収していくことが大事であり、そのため質問力と言うのが求められるのではないかと思っている。
少し卑近な例であるが、最近SKYPEの普及率が高くなってきたが、わたしは仕事でこのSKYPEを活用している。
仕事同様プライヴェートでも活用しているのだが、外国にいる友人たちとはこのSKYPEを通して、話しをしているのだが、外国人と話す時もそうだ、本当に何か情報がほしかったら、何をどう質問するかが大事であり、その質問の内容によっては、こちらが望んでいた情報が得れると言うことがあり、もしそこで質問がしっかりしていなければ、何かとりとめのない話しになり、結局は日本のアニメや若い人などは恋愛の話しでおわってしまうことさえある。
質問と言うのはある意味、刺激を与える効果があり、相手の能力を引き出していく上では効果的な方法である。
建設的な議論がしたかったり、まともな情報がほしければ、しっかりとした質問力を養うことがだいじである。
ユダヤの学校なんかはこの質問形式でやりとりされて学ぶと聞いたが、特にティーンエイジャーなどは、一方的に話しを聞くことも求めるよりも、何を質問するか、聞くかということが大事なことであり、この質問によって刺激され、答えていくという作業が大事なことではないかと理解しているが、縦社会ではせいぜい何か言いたいことがあったら言えで私はこの言いたいこと考えていることをうまく引き出しまとめていくのが質問力であると思っている。
そのため我々がどういう質問をするかと言うことは重要なことである。
どう質問するかと言うと、その方法論的なことを延々と語るのがいるが、しかし大事なことは、どれだけ比較できるぐらいの知識があるかということと、自分がしっかりしたものさしをもっているかということで、サンデルはこの幅が広く自分のしっかりとしたものさしをもっているので、学生ひとりびとりの力を十分に引き出し、誰もが建設的に会話できる場として授業をつくっていけるのだろう。

オリーヴはミーティングを持たないようにしているのだが、それにはわけがある。
そのわけとは稚拙なミーティングならする必要はない、もし私がするとしたらかなり激しい議論になるということが予想されるからで、今はあえてそういう時間を割く必要性はないのでさかないようにしている。
ここは社会人が多く、それぞれのフィールドでばりばりやっている人間に、ミーティングと言うものの本質を知らない人間が、その時見たこと、聞いたことだけで「はい何々さんはどう思うますか」なんていうような稚拙な質問はできない、そういう稚拙なことを現役バリバリの社会人に対して言うのはバカである。
特に優秀な人間はこの質問力があれば、おのずと集まってくると思っているが、できる人間を認めるためにもこの質問によって刺激を与えることは非常に効果的なことであると信じている。
よく「あめとムチ」などという言葉で手なずけようとする人間がいるが、本当にかしこい人間はこういう原始的な方法ではなびかないし、意味など持たない、大事なのは相手の考えやアイデアを認めてやることで、その上で限界点や矛盾点を見つけてやることが本当のモティヴェーションにつながるのだと信じている。それを生かし、尊重するためには質問力と言うのは大事な力だ。

私が大阪に行く時高速バスを利用するのだが、この高速バスを利用するにあたって非常に不快なことがある。それは何かというとバスの車内案内である。その案内は一度テープで案内をしてから、またさらに乗務員がべらべらと話し始めるのだが、何が深いかと言うと当たり前のことを延々と20分ぐらいかけて説明されることで、この同じことの繰り返しは私にとって不快である。
知っていると言うことだけをべらべら話されるミーティングほどばからしいものはない、仲間内では冗談など言い合ってわきあいあいとするのだろうが、しかし上から一方的に語られるのはナンセンスだし、これから知らないことを発見するのが対話であり、こういうことが指導するする人の質問力や問いかけによって高められていかなくてはならないだろう。







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読書のすすめ

2011-08-15 | Weblog
少し前の笑った話であるが、ある会員の人が言っていたのだが、暴走族がおやじ化しているそうだ。
時々道路などで徒党を組んで暴走車が走っているそうだが、見るとほとんどがおやじであるそうだが、そういう見るからにいい年をした大人が最近では子供に交じって改造車で走っているらしい。
たぶんこういう現象が見られるのは、ひとつは大人であってがきというような人間が増えて来たということ、そして何をしていいかわからない人間がふえてきているのではないかと思っている。

この言葉はおもに高校生や大学生に向けた言葉だが、若いうちに言葉をおぼえたり、語彙や知識を身につけると言うことは、人間関係の幅をひろげていく上では非常に大事なことである。
言葉や知識がつたなければ、付き合う人間の幅が限られてくるが、しかし言葉や知識を蓄えると言うことは、それなりに人間関係の幅をひろげる意味では重要なことである。
たぶんいい年をして暴走行為をする人間は、そういう幅がないからであろう。
もう少しまじめに勉強して教養を積んで人間関係のキャパをひろげていけば、こういう仲間内で、自分たちの通用する世界だけでかたまることはないと思っているが、言葉や知識に広がりが持てなければ所詮こんなもんだ、同じような仲間でしかあつまることができないのではないか。
これは私の見解であるが、国によってはどう見られるかはこういうことと関係している。
すなわちこの人本当にまともか信頼できるかどうかという、そのひとつのものさしが、この人話していて本当に教養があるかで、特にアジアのよな儒教の国は学歴の高い人や、教養のある人は尊敬されるので、国によっては付き合って損はないと思われれば、結構大事にしてくれて、いい交流が持てると思う。

ボクシングの世界も何もやることがないからという理由で単に集まって、仲間意識を強調するだけならば、この暴走族とそうかわりはないと思っている。
その群れの中でその指導する人が教養を持つか持たないかということは、その群れを本質的によくしていく上でも非常に大事なことである。
仲間内では饒舌で自分の生き方や理想を語るが、しかしいきなり教養の高い人間が来たらたちまち警戒して、言葉がつよくなったり、寡黙になったりする奴がいるが、こういうことはまさにいい例で教養とか知識と言うのは人間関係の幅をつくっていく上では大事なことで、何かをしっかりと学んでいなければ、たくさんの人と会話することはできないし、自分に自信などもてないであろう。
さらにこういう自分たちのレヴェルやフィールドだけでのみ通用して話す話題や会話というのは、時には悪口や差別を生みだすこともある。
以前ある悲惨なな事件のシーンをテレヴィで見て「最初見た時あれはテレヴィのCMの宣伝かと思った」などと口にした人間がいるが、こういう冗談まがいのことは、自分たちの仲間内だから言えることであって、そういう人間はよく軽率なこと言ったり、失言みたいなことをするのだが、たぶん自分たちの生きている世界がせまく物事を客観的に見ていないので、何がわるいのかは分かってはいない、たぶん仲間内で話すこととそれ以外では違うと思うのだが、人間と言うのは固まり過ぎるとろくなことはない、そういう集団をつくらないためにも客観的な目を養わなくてはならないと思っている。
滑稽なことを言ったり、バカな発言をする人間と言うのは客観的に物事が見れない、自分たちの仲間内が自分たちのすべての世界だからで、こういう群れの持ち方をしていたら、いくらそれがスポーツと言えども、間違いであると思っているが、その広がりをもたせるのは学問ではないかと思っている。
とにかく若いうちは仲間とつるむのもいいが、ニーチェやドストエフスキーなどをじっくり読んで人間の本性やあり方を学んで孤高に生きて見るのもいいと思う。
少し前はやった太宰なんていうのも、彼がとらえた人間の本質というか本性について描いているし、そういう視点でものを見ると言うのも物事の考え方の幅を広げていく上では大事なことかもしれない。
とにかく本を読むと言うことは人生において重要なことで、基本的に指導する人間が本を読まないと言うことはボクシングやスポーツの基本ができていないのと同じ、もし何かお勧めの本は何かと聞かれて何も答えることができなかったら、人生の手本にはできない。

で今日は私が最近読んだいくつかの本を挙げたいが、5冊ある。
この5冊は入門所見たいな本なのですぐに読めると思うので、興味があれば読むことをお勧めする。

「菊川令の数学生活のすすめ」
ぱらぱらっとめくって面白いので買ってしまった。この本は身近な確立のような数学的に解決できる問題を取り上げて、それに答えているのだが、意外とこの本を読んで分かることは、われわれの社会のしくみって意外と確率的なことが多いと言うこと。
そう考えると星座占いのような統計学的なものも一応学問としての余地はある。
とにかくこの本は簡単で面白く、私のような文系的人間には目からうろこである。

「3.11後の心を立て直す」
精神科医の香山さんが書いた本である。
コメントすると長くなるので書かないが、香山さんは職業柄、物事を客観的に公平に見る力があると思っているが、この本は特にお勧めである。

「朝鮮王朝の歴史と人物」
この本は隣の国韓国と言う国を知る上でも興味深い。
読む前に少し朝鮮史の知識を入れとく必要があるが、朝鮮の歴史はかなりの量の文献がのこっていて、しかもその当時の様子がつまびらかに記載されているので、大河ドラマなんかを見てもわかるように、その人物が生き生きと描写されている。
世宗とイスンシンは聞いたことがあると思うが、この二人は私が好きな歴史上の人物である。
世宗は王でありながらも徳の高い人として今でも崇められているが、ハングル文字をつくったのもこの王である。
当時漢字がおもにつかわれていた時代に、読み書きができない人でも読み書きができ、意見が言えるようにとの計らいであるが、歴史上王の中でも最も徳のある王とされているのが、世宗である。
イスンシンは進行してきた豊臣軍をかえりうちにした天才戦略家、彼の戦術は時の明治政府が興味をもちそれを研究していたとか。亀甲船は彼の考案であるとされる。

「ニーチェの哲学」
今まで私が見たニーチェの入門書では一番わかりやすかった。
永劫回帰という思想はいまだ謎であるが、しかしこれを一冊読めばニーチェはある程度分かると思う。
私が著者の物事の捉え方にあっこのとらえ方センスがあるなと思い笑ってしまったのはルサンチマンを「人生の大逆転」と表現していたことである。
たいていはこのルサンチマンは「うらみ」「つらみ」と表現されているが、人生の大逆転と言うのはさらにそのうらみつらみで自分の今あるなげきを逆転させようとするところで、英語は文法じゃないとか、社会で賢いのと勉強で賢いのは違うと言うのはまさにそれである。

「できる上司のモティヴェーションマネジメント」
8月の初めごろに読んだので、あまり記憶にないが、たぶんジョンアトキンソンのモティヴェーションマネジメント理論をモティーフにしている。
この理論を学ぶとモティヴェーションをあげるのは単に煽るだけではない、ひとつひとつの観察力が大事なことであることがわかる。少し専門的であったと思うが、読んで見ると意外とおもしろい。









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Think over over and over again.

2011-08-13 | Weblog
前回意見を主張するには、客観的に物事を見る力と物事を考える上での骨子ををもたなくてはならない、そうでなければ自分の言いたいことに終わってしまうと言うことを書いたが、しかしこういうことはボクシングで練習するように訓練ができていないとできない。
前回のブログでも滑稽なことを言う奴をあげたが、まさにそういう滑稽なことを言う奴はいい例でその訓練ができていない。
おそらくそういう人間は自分が感銘を受けた本や、人に何かいい本をすすめると言うことはできないと思うのだが、こういうことは非常に大事なことで、特に子供や青少年にとって、一歩間違えれば蛮行とも思われるスポーツは、指導する人にそういう資質が求められてもおかしくはないと思っている。

私は論語をそう評価していないが、論語の言葉で「過ぎたるは及ばざるがごとし」という言葉がある。
この意味はよく知られているので詳しくは書かないが、この言葉は孔子の中心的な哲学思想であると言ってもいい「中庸」という思想をよくあらわした言葉である。
孔子はその思想において、バランスを第一に考えていると言っても過言ではない、ただこの中庸というのは、ある意味弁証法的で、少し説明しがたい言葉なので、詳しくは述べることはできないが、おそらく彼が学問を志す理由と言うのはこの中庸を求めるところにあるのではないかと思っている。
彼は論語の中で「正義感がともなわない勇気と言うのは、ただの蛮行だ」と言うことを挙げているが、まさにこういう言葉からをわかるように、人間の行為はある種の考えや理念に基づいて行われるもので、その考えや理念がしっかりしていないと人間の行為は時には間違ったものになってしまうということ、そのために学問を学んでバランス感覚を持てと言うことを言っているのではないかと思うのだが、今のこの時代まさにこの孔子の論語から何かを学ぶと言うことは大事なことかもしれない(ただシステムは最悪であるが)。

だいぶ前にある人が今の子供は「うたれよわい」運動をやった人間のほうが、上からいろいろなことを言われているので、多少はつかえるんじゃないかと言った人がいた。
確かにスポーツをやっている人間は、先輩や監督から偉そうに言われたりおこられたりしているので、そういう免疫はついているだろう。しかしこういうことは時には、まさに過ぎたるはおよばざるがごとしで、何もも考えていない奴らがそうだと、人権を無視したり、いじめまがいのようなことも起こるが、それはうたれづよいというよりも、単にまひしているのではないか。
おそらく彼ら彼女らはうたれづよいというよりは、縦社会の群れに順応するのがうまいだけの話しで、スポーツをしたことがある人がしたことのない人間よりもうたれづよいと考えるのは少し短絡的だと思うが、今の若い人が「うたれよわい」というのは、何もスポーツなどの経験をしてたたかれることをしていないからではない、現にスポーツをやっていてもうたれよわい奴はたくさんいる。

おそらく今の子供や若い人がうたれよわいというのは、彼ら彼女らに考える力が養われていないから、そういうことを養ってこなかったからだと私は理解しているが、日本のような丸暗記式の学校制度のありかたでは、こういう考える力と言うのを十分に養うことはできないであろうと考えている。
考える力というのは今のこの時代には、非常に大事なことだと思っている。
特に若いうちはいろいろんことを学び悩み葛藤することは、その人生のこやしとなり、のちに自分を知る上では大きな力となり、そのことがある意味自信につながるのだろうと思う。
うちのアリンがここに来て孤独だった時に、難しい本を読むことで、気を紛らわせていたということを以前書いたが、私は彼女を見て何か強さを感じるのだが、おそらく彼女の強さと言うのは、何があっても考えることをやめないという、彼女の考える力にあるんじゃないかと思っているのだが、彼女は一応むこうでは優秀な人間のぶるいである。
彼女からいろいろと話を聞いていて、分かることはフランスの学校は、前回書いたアメリカの学校のように、自分の考え方や意見を主張することが多いらしい。そのせいか哲学や思想などにふれることも多く、大学の試験も日本のように暗記が勝負というような科挙システム的なものではなく、もう少しいろいろなことをはばひろく選択して大学に行けるそうであるが、彼女が日本に留学したのもその大学に入学するために有利にするためで、フランスの学校はそういう意味で余裕があるので、文学や哲学書を読む余裕があるのだろう。アリンも実際にはおとなしくひかえめだが、16歳にしてきちんとした自分の意見を持ち、言えるのだ。
こういう時期に文学や哲学書を読んで人間の生き方について考えることは、人間を豊かにする上では必要なことで、こういう時期に物事を考える上での土台と言うものをつくっていくことは大事なことではないかと思っているが、こういう土台をつくっていくことでうたれづよくなっていくのではないだろうか。

たぶん私が思うに日本の教育システムの間違いは、体育に精神のあり方を求めたところだ。
日本はまだ戦後教育からぬけだせていないところがある。それが体育信仰である。
もう会社の採用基準がTOEIC700点と言う時代にすたれつつあるが、常識で考えて体をつかうだけで精神を向上させることは不可能だ、健全な精神は健全な体に宿る。「Oradum est ut sit mens sana in copore sano」はまず精神があっての体である。これを逆転させるとおかしいことになる。

余談だがある運動クラブの話しだが、彼らはあいさつをきちんとする非常に礼儀正しい人間らしい。
しかし彼らは集団でタバコをとある場所に学生服でスパスパ吸いに行くそうだが、これって本当に礼儀正しいのだろうか。
かたちだけなら誰でもできる。もしこういうかたちだけをみとめてこういう集団が礼儀正しいと認めたら、間違った価値観を持ってしまう。
何が言いたいのかというと、以前運動部の人間になぐられた子がいる。
理由はあいさつをしなかったか、ため口をきいたかどちらかだが、これも彼らの中で価値観と言うものがすでに出来上がっていて、あいさつしなかった礼儀がなっていないから暴力をふるったのであるが、彼らの中では暴力はわるいことではなく、あいさつをしないことのほうがだめらしい。
私は思ういくら健全な体をつくっても精神が健全でなければバランスをかく。運動をしてあいさつができるのが礼儀正しいことではない。
とにかく運動ばかりさせないで、学生のうちは勉強もしっかり義務づけることは必要ではないか。
よく言うが朝は朝練ではなく、読書だ。










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哲学的思考を学べ

2011-08-11 | Weblog
私の知り合いで、ある大学生がいる。時々大阪に行った時に連絡があるので、会って話しをすることがあるのだが、彼はよく学生などのフォーラムに行くそうだが、その時彼はパネルディスカッションをパネルをつかうからパネルディスカッションだと思っていたらしい。
これには笑ってしまった。「君そんなこと本気で思っていたのか、しかもそれでフォーラムに参加していたのか」と笑って言ったが、しかし意外とこういう勘違いは多いし、実は私もよくするので本当は笑ってはいられない。

少し話は変わるが以前うちの中学生が宿題のことを話していたのだが、その時彼は宿題に「弁論」というのがあるということを言っていた。
弁論?????私たちの世代にはそういう宿題はなかったので、聞くと、あまり詳しくわからないが。とにかく自分の感じたことや思ったことを書くエッセイのようなもので、たぶんこれはアメリカの学習をまねたものであると思われる。

英語(米語?)では、一般的に宿題をホームワークとは言わない、宿題=家でするからホームワークと習ったが、しかし普通むこうで宿題と言う時は、アサインメントという言葉がつかわれるのだが、このアサインメントは宿題のほかにも、おもに大学生のレポートなどのことを言うのだが、このアサインメントは単位を取る意味では非常に重要であり、グループでディスカッションしてそのアサインメントを完成させていく、グループアサインメントのようなものもある。
でこの弁論と言うのはおそらく、そのアサインメントのエッセイのことだと思われるが、日本でエッセイというと随筆のことで、それはテーマなど決めずに自由に書く論文と言うか感想のようなものである。
しかしアメリカで言うところのエッセイというのは少し違う。
エッセイと言ってもただ単に自由に感想を述べるのではなくて、そこでははっきりとした意見が求められる、すなわちイエスかノーかがはっきりしていなければんらないわけで、自分はどういうスタンスでこのことに関して物事を考えているのかということが問われるのであるが、それがアメリカでいうところのエッセイである。

少し辛口な意見であるが、最近の学校では、弁論のような宿題と言うか取り組みがあるというが、もしここで自分の意見と言うものを主張することを訓練させるというもくろみがあるならば、哲学と言うものをまず第一に学ばせる必要があるのではないか?
たぶん物事を客観的に見たり、考え方の骨子というものをもたない人間が、本当に自分の主張ができるはずがない、おそらくそれは自分の言いたいことを言うだけの恣意的な意見で、おそらくその後もグループディスカッションなどをしなければ、その主張は意味がなく終わってしまうのではないかと思っている。

前回のブログで滑稽なことを言う奴と言うことを挙げたが、こういう奴はおそらく物事の基本が分かっていない。
私はこういう人間たちほど単純極まりないと思っているのだが、人に何か物事を伝えたり、教えたりする人間は哲学を学ばなくてはならない。
哲学や学問と言うのは物事を客観的に見たり、その骨子をつくっていく上では非常に重要なことで、物事を客観的に見ていく上では学問と言うのは欠かせない作業であり、滑稽なことを言う奴はまさにそういうことが理解できていないからで、まさしく前回挙げた減量はかっこいいというのはいい例であるのだが、何かを教えたりしようとするならば真面目に学問の基本と言うものを学ぶ必要があると思っている。

私は以前からこういうコミュニティーの質と言うものについて書いているが、もし子供や青少年が減量をかっこいいというようなこっけいなことを本気で思って、以前ブログで書いたような滑稽な発言をあたり前のようにうけとめたり、上限関係や師弟関係のあるような力関係を意識させたりするような小さな世界で生きると言うことは、将来社会に出ていく上では弊害になると思っている。
以前ある人間はこういう世界では、話すのも嫌な奴がいると言っていたが、意外とそういう訓練ができていないのに臆面もなくぺらぺらと語る奴がいると思う。たぶんこういう上下関係や師弟関係のなる世界では、そういうことが言えるのだろうが、まさに年上になったら言いたい事が言える世界で、おまけにその中でもまともに何かを学んだり、本など読んだことがない人間が、情やしがらみでつながった人間の前では堂々と意見が言えるから恐ろしいものであるが、こういう集団にならないためにも指導する人が哲学や学問を学ぶと言うことは大事なことであると信じている。

子供や青少年が何かを学ぶ上ではコミュニティーは大事である。
そのコミュニティーがよければいい影響を与えられるが、しかしそうでなければそれなりであるが、もし本当に社会で生きていくのならば、よくそのコミュニティーを観察することも大事なことであろう。

手前みそだがオリーヴはそういう仲間こそないが、受験生が志望校に合格し、サラリーマンや学生などで海外留学や勤務を希望する人が結構いるが、これらは自分たちがボクシングと言うスポーツやこのコミュニティーを通して刺激を与えたからだと信じているが、この社会で大切なのは何かにつながるのではなくて、自分自身、個人と言うものを考えた時に自分たちはどうかかわっていけるかと言うことを考えることが大事なことではないだろうか。
私自身、人間を正しい道に導いていくのは、何かを学ぶ力だと信じている。ホモサピエンスというのは知性を持つものの意味であるが、この知性を持つと言うことは人間であるからで、この知性にしたがって生きることが人間らしい生き方であって、これを軽んじては、人間の群れはバランスをうしなうのだと思うのだが、同時にこの学力がすすんだ時代に、コーチングする人には当たり前のように求められるのではないだろうか。







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ブロークンウインドウズ

2011-08-09 | Weblog
先日大阪に行っていた。最近「SLYPE」で連絡がとりあえるので、大阪に行くことは減ったがそれでも月に1、2回は行くことがある。今回子供を妻の実家にあずけるために一緒に連れて行ったのだが、大阪も私が住んでいた時から比べたらかなり変わったようである。
私は子供に将来外国に行った時のために危機管理と言うか、警戒すべきことについて時々レクチャーしているのだが、大阪と言うところはここに比べて都会であるので、それなりに警戒しなくてはいけないところがある。
実際私はそういうところに子供と連れて行って、こういうところは警戒すべきだと言うことを言うわけだが、今回はある繁華街に近い地域に行くことがあったので一応子供にレクチャーしていおいたが、警戒すべきポイントは2つである。
一つはお金の流れのあるところ、当たり前だが繁華街のようにお金が流通していて、夜になると酔っ払いが多くなるようなところは、それにつけこんで悪いことをしたり、金に目がくらんでえげつないことをするような人間がいるので要注意だ。

そしてもうひとつは落書きのあるところである。
これに関してはある根拠がある。実際海外に行っても街中の多くに落書きがされているところは、治安がわるいとされているのだがこれはアメリカの犯罪学者ジョージ ケリングの「ブロウクンウインドウズ現象」にもとづく結果である。
この「ブロークンウインドウズ現象」というのは、今や犯罪心理学の基本であると言ってもいいと思うのだが、何年か前に北海道の警察が無断駐車している車を徹底的にとりしまったのはまさに「ブロークンウインドウズ現象」を参考にしたからで、誰のものかわからない駅においている放置自転車を一層するのもこの「ブロークンウインドウズ現象」によるものだと思う。
でブロークンウインドウズ現象というのは、どういう現象かというと40、50年ぐらい前にアメリカのSFの空家に数人のヒッピーが住みつき、それを周囲が黙認していた。
するとその家の一枚のやぶられたわれ窓から周囲は、どんどんあれはじめ、しまいにはその美しい、秩序あった街が崩壊寸前の危機に立たされたわけだが、割れた窓や落書きを放置しておくと、そこから他の凶悪犯罪なども増えると言う、犯罪学的な理論であるが、私が子供に警戒しろというのは、実際日本でも落書きが放置されているようなところは、他のところよりも治安がわるいように思えるからだ。

以前HIに行った時に、私の友人に自分たちが時々練習に行っていたジムに行かないかと誘ったことがある。
もう何十年も行っていないので、久しぶりに行ってみたいと言うと、彼はあそこはだめだ行かないほうがいい、なぜだと言うとなぜならあそこには銃を持った奴がいて、たいへん危険で、今ではギャングなどがうようよしているそうである。
そう言えば、私がそこに時々行くようになった頃、落書きが目立ちはじめた頃である。
着始めたころはなかったのだが、しかし何ヶ月かすると確かに落書きが。
なぜそういうことをおぼえているかと言うと、そのひわいな落書きの中に大きく「BAKAYOROH」と書かれたあったからで、こんなことを書かれたら俺がうたがわれるじゃないかと思ったからである。
余談であるが、以前語学学校の近くのとある場所につとめる人間が私のところに相談に来たことがある。
それはどういうことかというと日本のあるものが、そこの自動販売機に利用されて、かなり損害がでているのだという。
おそらくこれは日本のもので、近くに語学学校があるので彼ら彼女を疑っている様子であったが、これは本当に日本のものであるかという確認と、そして日本語で注意書きを書きたいからどう書いたらいいのかということであった。
私はすかさず「防犯カメラ」と書いて、適当にそれらしいものを置いておけ、そうしたら大丈夫だろうと言うことを提案したが、実際にその甲斐あってかそれ以来その犯罪はなくなったそうである。
これは日本のあるものをつかえば簡単にできる軽犯罪で、正直観光客でもできるので、おしえることはできないが、犯罪と言うのは自分の意志と言うよりも、むしろ機会から生まれるのであって、そういう機会ができると人間はわるいことをしてしまうのではないだろうかと思うのだが、まさにその割れた窓や落書きと言うのはそのきっかけである。

我々は子供を犯罪から守る必要がある。
私の考えでは特に高知のようなところから、都会に出ていくと言うことは少しかってがちがうし、特に外国では自分の身は自分で守らなくてはならず、そのためこういうことを子供のころから教えておくことも必要ではないかと考えている。
実際におもて沙汰にはなってはいないがHIでもこういうことがよくわからず、犯罪にまきこまれているケースが多くあるが、こういうことにまきこまれないために、こういう警戒心を持つことは大事なことだし、ある意味それは国際感覚を持つことにもなるのだろうと思う。













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