脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

ひとりびとりに向き合うクラブ

2017-11-30 | Weblog

あるスポーツ校の生徒が自分の担任の体育教師を言及した時に、あの先生は何か忘れたがあるスポーツで全国制覇した人ですと言っていた。その時思った、ああこの学校のクラブの指導はまず権威づけからはじまるんだと。はっきり言って自分に自信がない人間に限ってそういうくだらない経歴をちけひらかそうとするのだが、おそらくこういう顧問の権威づけからはじまるクラブは少なくはないと思う。ボクシングでも何とかチャンピオンとかほんとたいしたこともないような実績をあげて指導するのも同じこと。うちのクラブには私のメダルやトロフィ、さらに言えばボクシング関係のものを一切置いたり飾っていないのは、ここではたかだかボクシングをやっていたからえらいとかそういうことではなく同じ目線で対等に向き合って指導したい。そして各人が思い思いのままに楽しくボクシングしてほしいからである。私の経験ではコンプレックスを持った奴は往々にして、人が知らないと思ってたいしたこともない実績やスポーツの経験を針小棒大にしてどうだ俺はすごいだろうとばかりに語ってえらく見せようとする。俺たちだけがそのスポーツをよく知っているんだ、お前らまだまだわかっていないとばかりに特別な態度をとるようなコンプレックスを持ったアホたちが集まったら思い思いのままにボクシングができないし、常にそいつらに遠慮しなくてはいけない、こんなあほらしいことはないだろう。

自分を大きく見せようとするような指導法はアホなヒエラルキーをつくるだけ。何も持たない自信のない人間がこういうことをするのだが、指導する人間はそういった自分のくだらない実績をいったんごみ箱に捨ててその競技者に向き合うことが求められる。えらそうに言わせてもらうとうちのクラブでみんなが楽しく思いのままにボクシングしているのは、私が一切自分の実績を語ったり、人と比べたりしない、そしてそのひとりびとりの権利を尊重しているからである。うちのクラブに来たらわかるが、みんな女性も子供もおっさんもすごく楽しそうだ。自分の教えてもらったことを教えあっているそういう会員の人たちの親切な姿が見られるだろう。もし私が自分の実績を語っていかにも自分はすごいんだということやトレーナーたちの実績をあげて、いかにそれがすごいかなんて言うことを言っていたら、たぶん会員の人たちは思い思いのままにボクシングができない。私は自分のやったことがすごいなんて思っていないし、それは単なる思い出だと思っている。それよりも今ここに来てくれているひとりびとりが何かをしようとしていることが大事なことで、そんな過去の小さいことはごみ箱に捨てていつも新鮮な気持ちでみんなに接することで、生き生きとした楽しく健全なクラブを運営することができると信じている。私は思う。べらべらとお前いつまで同じことを言ってんだというような自分の自慢話をして人に何かをさせることだけがスポーツの指導ではない。もちろんトレーナーが中心だが、その習ったことや自分で気づいたこと取得したことをまわりが教えあったりみんなで協力して何かをさせていくのも指導であり、その役割を担うことでコミュニケーション能力や協調性が身についたり、自信がでたり、人としても成長すると思っている。

 

 

 


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근성 보여라 Show us what you're made of!!

2017-11-29 | Weblog

うちのせがれがたるんでいる時に言う言葉がある。それは「韓国軍に1週間体験入門させるぞ」だ。なさけないことをしたり言ったら、もちろんそんなことはできないが友達に頼んで特別許可がもらえると言っている。最近の若い男性ははおとなしい、どうおとなしいかというと草食系男子と言う言葉があるようにがつがつしていないのだが、うたれ弱い人間が多いように思う。こういことを書けば少し勘違いのもとになるが、最近のスポーツはどちらかと言えばゲーム的であるように思う。特にボクシングはルールも厳しくなってきたのでそう言えるが、しかしスポーツとは言えどそれは勝負事、もっともっと闘志をむき出しにしてもいいと思う。最近の若い人はたぶんボコボコに行かれると言う経験をしたことがない。ボコボコにされると言うのは暴力的なことではなく、実力差がある人間と本気でむきあって圧倒されてみじめな思いをするということである。前にやめた若い人が言っていた。自分はまけずぎらいでまけたくないから試合はしない、マスでもうまい人がいて勝てないからやめたそうだ。まあ続ける続けないは本人の自由であるが、しかしそういう理由で試合に出なかったり、ボクシングをやめると言うのはよくわからない。スポーツで得ることができる最も大きなものはファイティングスピリットだ。それは自分よりも強い相手や大きなものに向かって行くからこそ養えるスピリットである。ハワイのボクシングはそれこそいろいろな目的でボクシングをしててみんな自由であるが、しかし試合は結構シビアであったと思う。自慢ではないが私などは自分と同じぐらいの階級で強そうな相手がいたら、あいつは絶対にやっつけてやると虎視眈々とその機会を狙っていたし、少々階級が上でもたたきのめしてやるぐらいのことは思っていたものだ。でもしかし強い人間は強い、ハワイと言えどアメリカは広かった。スパーリングをしても全く相手にならないことに結構くやしい思いをしたものである。これは男性特有の性質かもしれないが、競技者はボコボコに行かれることで学ぶことが多い。そしてそういう大きな相手に闘志むき出しでかかって行くからこそ逆転劇があったりとそこにドラマが生まれる。今は天才と才能ばかりに目が言っているよな気がするが、しかし凡才が天才にまさるためにはこの闘志が必要だと思うのだが、最近のスポーツは初めに才能ありきの世界でそういう闘志むき出しで来る競技者が少なくなっているような気がしている。私などはくやしい思いをした時に「son of bitch」と唇が勝手に動いたものである。たぶん相手も「Go for it(やってみろ)」なんて思っていたのだろう。しかしどんなに闘志をむき出しにしても私の闘志はしょぼかったのでとどかなかったようだが、けれども自分で言うのも何だが強くなりたい絶対にやってやると言う気持ちが自分のボクシング人生を支えたのだと思う。言葉が違う文化も違う、そして外国人として異国で競技したらわかるが、多くの壁が存在する。そしてそこでやっていくためにはまず気持ちが強くなければできない。でなければ才能などない私など決してやっていくことはできなかったであろう。


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O Holy Night in Hawaii

2017-11-27 | Weblog

Kerrie Roberts: "O Holy Night" Performance Video

もうすぐクリスマスだ。でもクリスマスは嬰児の大虐殺があった日でもある。だから私はお祝いをしないで、この日は一番弱い人たちをおぼえて(発展途上国の子供たちや、虐げられている女性など)何かの役に立てることをしているが、宗教団体をのぞく団体に寄付をするようにしている。私が学生の頃の話であるが、親しくしていた韓国人の女の子に教会に誘われた。なんでもChoirで歌うから来てくれ、豪勢な食事も出るからと言うことであった。ミニスターがお話をした後Choirが登場、はっきり言ってその話はたいくつではやく終わらないかと思っていたが、しかしChoirの歌は感動した。ある作曲家は歌は祈りだと言ったが私はその時彼女たちが畏敬の念を込めて祈る姿を見たのだと思うが今日あげた動画はまさにそこで歌われていた有名な曲O Holy Nightである。

私自身心が満たされなかった人間であるが、これだけははっきり言えることはある。それは人間は与えられるだけでは満たされない。自らが何かを与えることによって満たされるということである。さっきも言ったが私がボクシングをはじめたのは自分の心が満たされなかったからだ。でもボクシングを競技してもその心は満たされることはない。よく自分の自慢話をして自分がどれだけすごいかと言うことを聞いてもらえる相手にほざくやつがいるが、しかしそんなことは一時しのぎの満足である。本当に心が満たされたかったら何か人のため、弱い人たちのために何かをすること、人に何かを与えることが必要である。そしてそのことは決して自己満足ではなく、その人たちの痛みを共有しようとする気持ちが大事だ。確かにこんなに裕福な社会で生きていたら、そういう人たちと痛みを共有するなんておくがましいことだが、しかし人間の弱さをおぼえて向き合う時、いくらかそれが多少なりとも共有できると信じているが、それが人間が持つ共同体の強さにつながると思う。私はボクシングを外国で競技してわかったことは自分は弱い弱すぎるということだ。でもその弱い人間だから痛みを共有できる。そしてその痛みを共有することで人間は誰かのために何かをしようとする気持ちが生まれる。その時その人は成長し、心がいくらかでも満たされるのだろうと思う。



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これがオリーブだ

2017-11-27 | Weblog

「管理者がボクサーに興味がない」

向こうはすでに知っているという体でボクサーのことを話してくるが、しかし「誰やそいつ」と言うことがよくある。だから興味がないというところにまったく興味がないと入れてもいい。いわゆる私は日本の格闘家とかボクサーがきらいである。理由はまずインタビューなどを聞いていて目立つことしか考えていないような気がして好きになれない。エラそうなことを言っていても引退したらお笑いにいじられたり、犯罪にはしる系が多いということ。そして社会や世界情勢にたいして無知であるからだ。だからかと言ってボクシングがきらいというわけではなく、マイノリティが生き生きと競技しているボクシングに救われたことも事実であるし、ボクシングは素晴らしいスポーツだと思っているので、ようは日本のボクサーが好きになれないのだろう。ちなみに私は発展途上国の人間と日本のボクサーが対戦したら必ず発展途上国の人間を応援する。

「あだなでフェイスブック登場」

ウオンバットトレーナー、下っ端オーラ満載の福ちゃん、じじい、ヘタレ総長、原人岩さん、ジャガー、影武者、少年係長、最近ではアブザヤフとPCぎりぎりのあだ名まで登場させているが、、中にはあだながかわっていって気がついたらじじいになっていたというものあるが、下っ端オーラ満載の福ちゃんなんていうのも気がつけば勝手にそうなっていたパターンである。

「開き時間よりもはやくいくと語学のレッスン」

土曜日はもちろん朝からレッスンがあるので3時までは入れない。中にはすごく優秀な子がいてかなり難しい文章なども読んでいるのだが、これからはより多く情報を集めたり、世の中の感覚を磨くためには英語は重要である。年に一度ぐらい会う韓国人の後輩の高2の娘は日本語、韓国語、英語を話す。日本に住んでいるので日本語のほうが堪能らしいが、東京オリンピックがはじまろうとしているのに英語やほかの語学がまったくできないなんていうのははずかしさを通り越してみっともない、国際社会では相手にはっきりと意見言うことが求められる。そしてそれを伝えるためには英語を話すことが不可欠である。

「サービス精神が旺盛な人間たち」

特に夜のおっさんが多い時間帯は何とか場を明るくさせるために、おっさんたちが笑いで場を盛り上げようとする。もう夜も9時に差しかかる頃トレーナーが帰った後、おっさんたちのコントや漫才が始まる。しかしこのおっさんたちの漫才やコントはネタをあわせとんのんちゃうかと思うぐらいおもしろいのだが、たぶんうちのクラブはボクシングよりもお笑いの才能がある人のほうが多いかも。そのおっさんたちだがそれだけではなく、時々女性に女王様どうですかと気を利かせてくれるが、そのサービス精神には感謝である。

 


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リベラルアーツの意味

2017-11-21 | Weblog

Facebookでも取り上げたが「世界一考えさせられる」入試問題と言う本がある。これはオクスフォードとケンブリッジの入試問題であるがその問題と言うのは「歴史は次の戦争をとめえるでしょうか」歴史学「火星人に人間をどう説明しますか」医学「あなたならどうやってタイムトラベルしますか」物理学とすごく個性的な問題ではあるが、しかしこれらの問題を述べることは難しいことであり、答えがないので相対評価される問題であると思う。もちろん問題はこれだけではなくいくつかある問題で、ほかにもアメリカのSATのように高校などの成績が考慮されると思うが、しかしこのような問題は何もオクスフォードやケンブリッジだけではなく、京都大学の英語の問題で、絵を見てこの状況を英語で表現せよと言うような問題が導入されていることも事実であるが、これからの日本人も入試の問題や教育がかわることでステレオタイプの人間形成から個性を重視した教育にグローバル化に向けて少しづつかわっていくように思える。

私が思う個性とは思考である。このタイプの入試問題も実は簡単そうに見えるがそうではない。ただ単純に自分の言いたいことを伝えるのではなく、あらゆる自分の知識を持ってなぜそうなのかと言うことを主張しなくてはいけないのだから、そこには基礎知識や想像力だけではなく、事柄を客観的に見たり、意見をオーガナイズする文法力や語彙力が求められ、そこで人と相対化されるのだから、彼彼女らの意見は当然個性的な意見が求められるであろう。たぶん英語で話ができる人間はわかると思うが、それなりに教育をうけた外国人はしっかりとした意見を持っている。しかしその意見もスポーツの親玉程度が聞いてもらえるからと持論をぐだぐたと並べつらねるのではなく、勉強してきたことがきちんとベースになっている意見である。欧米の大学ではリベラルアーツをかなり徹底的に勉強させられる。リベラルアーツと言うのは一般教養とも訳されるが、いわゆる専門知識を学ぶためのベースになる学問と言ってもいい。話はオクスフォードの入試問題の話に戻るが、なぜ大学側はこういう抽象的な問題を出すのかと言うのは、単純に言えば欧米が日本の教育はひとつの答えを求めさせられる教育ではないからだ。様々な人種がいて文化や宗教も違う人たちが生活している欧米ではしばしば紛争などがおこるが、民族も宗教も違う人たちが自分の考えは正しいと言って争っている中で正解はこれだという発想は役に立たない。その中で「正解を見つける」ことよりも、ものの考え方・感じ方が違う人たちの中で、いかにその人たちの立場を理解し、他人の意見を聞き、自分の意見も述べ、共存していけるのかが問われる。だから欧米ではひとつの正解よりも多様性の理解が大事で自分の頭で考え、自分の心で感じ、自主的に判断し行動することが求められている。そうやって自分で判断するためには、たくさんのことを知っておく必要がある。そのためにはリベラルアーツが求められる。

日ごろは競技者に親でも言えないことを言う日本人のスポーツの親玉が海外では借りてきたネコの子のようにおとなしく豹変するのは英語が話せないからだけではない、基本的な考え方ができないから同じ土俵にのれないからだ。これからの日本もかわってくるだろう。私のような立場の人間が自分は違うということを主張しやすくなった。いろいろな立場を主張し、それにくわえて教育も欧米のようになりつつある中、しっかりとした個性を持つためには必要な学力を持つことである。

 


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コミュニタリアンである群れ

2017-11-19 | Weblog

メンバー紹介で自分はコミュニタリアンと言うことを書いている。リベラリストがは正義と言うのは多様性があるから何が正義かと言うことは議論せずに手続き的な正しさに基づいて正義を決めていく立場で、一方共同体を重んじるコミュニタリアンは何が正義かと言うことをみんなで話し合って決める立場である。すなわちそれは個人にとっての正しさよりも世の中の正しさを追求することであり、それがコミュニタリアンの正義である。少し話は違うかもしれないが、いじめを解決するということはもはや個人の問題ではなく、コミュニティーで考えて行かなくてはいけない問題だ。いじめと言うのは自分たちの共同体の中で起こる悪質な事件である。だからそれを黙認したり、何もしないと言うことは同罪であると言ってもいい。共同体にとっての正義がいじめをしないということであるならば、それは見逃されるべき問題ではなくそれを止めなくてはいけないということを伝えていくことは重要なメッセージであり、もはやこういうドラスティックな改革をしていかなくてはこういう問題は根本的に解決されないのではないかと思っている。
揚げ足取りになってしまうかもしれないが、ある評論家がこのいじめが起こる原因のひとつに、教師が生徒と同じ目線にたっていないというようなことをあげていた。
しかし私からすればこういう発言は時代錯誤もはなはだしい。一般的にうけのいい評論家は、どうしたら人に話を聞いてもらえるかと言うことを最優先するので、話が感動的になったりするものだが、こういう場で語られる教師が生徒の目線に立つなんて言う言葉は自己満足、欺瞞を生み出す原因で、人間などそう強くはないのだからひとりの人間にそこまで背負わせるようなやりかたは、まさにスケープゴートを生み出す考え方である。
大事なことはこの問題を共同体でどうとらえ考えていくかと言うことで、こういう問題はその講演を聞いて、いい話が聞けたと言うようなことが問題ではない、いじめというのは共同体で起こる犯罪であるから、その犯罪に対して語られるメッセージは、ひとりびとりがそれに対する責任を負うための警告でなければならないと思う。

オーストラリアであったと思うが、このいじめの問題をうまく解決しているらしい。
本で読んだのか、テレビで見たのかはおぼえていないが、オーストラリアの学校はいじめに対して、それをまわりが無関心ではいけない、行動を起こす義務があると言うようなことを伝えることでいじめを解決しているらしいが、彼ら彼女らはいじめと言う問題をいじめる側といじめられる側と言う構図でとらえるのではなく、そのまわりにいるあなたたちにも責任はあるのだというメッセージを送ることで解決しようとしたのである。
しかしこの解決法は我々とは持っているバックボーンが違うから可能であると言える。
彼らのバックボーンはキリスト教だ。彼ら彼女らもいユダヤ教やイスラム教と同じく旧約聖書の戒め十戒を守っているが、十戒において偽証と言うのはただ虚偽の証言をすることではなく、積極的に知っていることは話さなくてはならないという義務があり、共同体においては知っていることを話すという義務がある。それゆえに彼ら彼女らはアンガージュマン的なかかわりができるのである。

日本人は感情的ではあるけれども、良心の痛みを感じることができる民族である。
私はルソーのような性善説には立っていないが、しかし人間には良心はある。
私のような無責任な人間でも、苦しんでいる人間を助けてあげることができなかったということを悔やんでいるということをブログで書いたが、もし人間にこういう痛みを感じる良心と言うものがあれば、十分にその責任を負うことができるであろう。いじめをする奴はごみ同然だ。人を傷つけたり、苦しめたりするのに理由などない。そしてこういうごみを出したのは我々の責任であり、ごみをきちんとかたずけるのが社会のルールである。

最後に補足しておくが、いじめをする奴はごみだという意見は私の私的感情で、こういうことをする奴らがいかに最低かと言うことを表現したまでである。
この感情がまた新たなスケープゴートを生み出さないためには、われわれの共同体をかたちづくる何かが必要で、私は彼ら彼女らのような主教的バックボーンを持たない日本人が今、その宗教に代わって持つ、バックボーンとして、コミュニタリアリズムを学ぶことはいいことだと思う。


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うちのクラブ

2017-11-17 | Weblog
手前みそであるがうちのクラブは来た人に雰囲気がいいとよく言われる。時には教育的で考え方がしっかりしていると言われることもあるが、最近よくほかの人からコミュニティの管理について聞かれることがある。うちのクラブの雰囲気がいいというのはそれは決してのりがいいといいことではない。それは常識のある大人たち健全な人たちが集まるゆえの安心感であると言ってもいいだろう。

私がこのコミュニティをよくするためにまず考えたのは誰を中心にするかということ、競技者の中からトレーナーを選び、そしてここで成長させるということだ。基本的にチーフトレーナーは自分のクラブから出す。いわゆるはえぬきと言うやつであるが、そういうトレーナーをクラブの中心に選ぶということは重要なことである。十年ぐらい前に原監督がチームに就任した時、方針を聞かれてジャイアンツ愛だと言っていっていたが、それはプロの集団を率いていくにしてはいささか甘いと響く言葉であった。その時はなんかしっくりこんなと思ったものだが、しかしチーム愛と言うのは大事なことだ。生え抜きを選ぶというのも、競技者としてそのジムに在籍し、そしてそのクラブにかかわっている人間にはそのチーム愛があると思うからだ。私は10年ぐらい前からそういう人材を探していたのだが、ある程度ボクシングの技術もあって人間的にもポテンシャルの高い、最初から完成されている人間だとお互い変化が求められないし、進歩もない。それは粗削りであっても失敗してもクラブとともに成長できるポテンシャルのある人間を選ぶことは大事なこと。さらにただボクシングができるだけではだめだ。人としての能力も重要だ。面倒見がいい、何よりも弱い存在をおぼえてサポートできるということ、そして自分だけが得をするというような人間はなく、大人としての自己犠牲がある人間。そういう人間はおのずとまわりから信用されるものだが、そういうチーム愛がある人間を中心におくことで、群れの存在は安定する。みんなが安心してトレーニングできるだろう。
私自身いろいろな人間を見てきたがくだらない人間と言うのはすぐに言い訳をするし、結果的に自分が得をすることしか考えていない。そういう奴らは往々にしてクラブを利用しようとする。中途半端にジムだからいばれると自分の実績をこれみよがしに自慢する奴がまさにそうだが、金をもらえないからトレーナーをしないとか、特別扱いされるからとか、何もすることがないから教えているというような人間にはここでは教えることはできない。なぜならここに来てくれている会員の人も同じ共同体の仲間であり、そういう人たちが楽しくトレーニングできるためのクラブでもあるのだから、そういう人たちからも信用されないとここまでは雰囲気はよくならないであろうと思う。私自身はトレーナーもそうだがここに来た会員の人たちにはここに来てよかったと思ってくれたらいいと思っている。そのため全体の雰囲気をどうよくしていくかということは重要である。そして最近つくづく俺の考え方は間違っていなかったんだと彼ら彼女らを通して思う次第だ。

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左対策なんかいらん

2017-11-14 | Weblog
パリングを教える時日本では左に対して右右に対して左と教えていると言うことを聞く。しかし私が競技したところでは右とか左ではなくインかアウトすなわち相手を中に入れたくなければアウトサイドパリーそして中に入って攻撃したければインサイドパリーと使い分けていた。さらに日本では左対策とか言うがそんなことを聞いたことがない。なぜなら左対策とかと言う前にスイッチしてくる人間やくせのあるスタイルの人間がいるのだから、そういうことにこだわっていたらきりがない。たぶんこういう言葉が出てくるのはステレオタイプの人間が多いからだ。それよりも人種的なくせがある。典型的なのがヒスパニック、フックのほかにスマッシュと言うロングフックのようなパンチでそのパンチを手が長い彼らが中距離ぐらいからひっかけるようにうってくるのは非常にやっかいであった。おまけに彼らはスイッチしてくる。そのスイッチもテンポラリーなものでもなくおそらく彼ら彼女らにはそれが変則と言うことではなくて一つのスタイルとしてあるのだろうと思う。さらに白人系はデトロイトスタイルと言うのかフリッカー気味のジャブをうつ、ジャブも立て続けに1 2 3と連続についてくるのだが、しかし鼻が大きいので鼻をうたれると意外にもろい、うちのバーガーも白人系で優勢に立っていた試合が鼻を思いっきりうたれて劣勢になんていうこともあった。基本的には相手がサウスポーとかそんなことを言う前に自分のスタイルを確立させることだ。いろいろな人種やいろいろなスポーツを経験した個性的な人間たちの中で生き残っていくためにはまず自分ありきである。私のスタイルはワンツーのみ、うてる間合いに入ってワンツーをうつと言うめちゃめちゃワンパターンの攻撃である。しかしジョージのトレーニングのおかげでめちゃめちゃはやいストレートがうてるのでパパーンともらうとたいていは面食らった。かっこよく言えば居合切りのような攻撃はスピードがあるのでこれだけでも十分通用した。しかしトップレベルの人間には私のワンパターンの攻撃など通用するはずはない。それも現実だ。坂本龍馬は日本人に尊敬されている人物のトップ5に入る歴史の人物で非常に人気が高い。しかし私は彼よりも壬生の浪士たちのほうに好感が持てる。古い考え方をすてずにただひたすら前進し討ち死にして言った姿は愚かに見えるが、しかしそのぶれない考え方に私はひかれる。そして何よりも私は自分の居合切りのようなボクシングスタイルを彼らになぞっていたことは確かなことで、近藤、土方、沖田の存在と言うのは当時の自分にとってひとつの偶像のようなものであったと思う。たぶん今の私を知っている人から見たら新撰組の生き方は今の私の考え方や生き方とは正反対に見える。外国語を話せて合理的な考え方の私がそういう生き方に惹かれると言うこと自体不思議であるように思えるだろう。しかし私がスポーツで批判していることはまさに自分の体験談であり、自分の留学経験の中のこれじゃあダメだと感じたことを綴ったのが脱あしたのジョーである。
外国の観客はあつい。それはアマチュアであってもだ。ヒスパニック系の人間とすごい打ち合いをして判定勝ちをおさめた時、声援がすごかった。あの時はお互いへとへとになりながらのすごい打ち合いだったと思うのだが、2ラウンドあたりからイケーみたいな感じですごく盛り上がって、そして最終ラウンドが終わってブルーコーナーのコールがされた時、拍手がどっとおこって声援が、中にはチェゴ!(最高!)と言ってくれる人もいて、この自分におしみなく声援を送ってくれるのだが、この声援でマイノリティーの自分が自信を持つことができた。そしてこの時いつも自分はボクシングをやってよかったと思った。

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ダイエットを軽く見るな

2017-11-07 | Weblog
「右にまわって、そこでもっとひくくかまえて」とトレーナーの声、女性も一生懸命アドバイスに従ってトレーニングをしている。しかしその姿は決してピリピリとしたものではなく、本当に楽しそうだ。教えることで一番難しいのは相手にそれをどう楽しく伝えさせるかということだ。親玉がさもえらそうにサル山のようなヒエラルキーをつくり、目標は大きくもてだとかニンジンをぶらさげて煽って半ば洗脳のようにしてトレーニングさせることはたやすいだろうが、しかしうちのように社会人や女性が多いクラブは程度のひくいやり方では誰もついてこないであろう。おもしろくさせるためには環境が必要である。格闘技ではマイノリティである女性をクラブではどう尊重するかということが大事なことだ。男性の競技者の取り巻きになったり、女だけのグループなんてできることはクラブ内で女性が尊重されていないからである。たぶんこういう考え方は指導する側の教養の問題でもあると思うのだが、ダイエット目的をたかだかダイエットと軽く見たりしないことだ。ダイエットを軽く見る奴に言うが、どれだけ真剣かわかるか?と思う。ボクシングの試合に出るとか出ているぐらいのことがそんなにえらいことなのか。ダイエットを軽く見ることは愚かである。人間の幅が狭いからそういうことを軽んじるのだと思うのだが、今やボクシングと言う競技は試合に出るためのものだけではない。ダイエットのためのものでもあるし、演技と言うコンテストもある。もし演技と言うコンテストが試合に出るための女性が通らなければならない条件とするならば、それは明らかに女性差別だ。しかしその演技を目指してトレーニングしている人もいるのだから、それははっきりとした目的であってA級まであるのだからそれを目指して頑張ることもひとつの楽しみ方だと思っている。何を言いたいかと言うとボクシングと言うのは明日のジョーのような男くさいスポーツではなく、競技の仕方やトレーニングの仕方で誰でもできるスポーツであると言うことだ。うちのクラブでは女性が楽しそうに生き生きとトレーニングをしている。最初はダイエットではじめたボクシング、しかしトレーナーが熱心に教えてくれるので演技の試合に出てみようと言う人も増えてきて、今では検定にうかった人たちが女性たちにアドバイスをしてくれるまでになった。
Every day, in every way, I'm getting better and better.はある小説の主人公が言った言葉。この話は実話である。物語はルキミアの子が一生懸命野球に励む、のこされた命を無駄にしたくはないと野球チームに入って練習をするが、しかしハンデがあまりに大きく一向にうまくならない。そこでたまりかねたチームメートが彼に野球をやめることを伝える。しかし彼はそれでも続けると言った言葉が「Every day, in every way, I'm getting better and better」である。もうだいぶ前に読んだので内容はわすれたが、たぶんその小説は少年が試合に出てフライをキャッチできて目的を達成したと思う。うちのクラブはたいした業績はないが、しかしもともと運動音痴で何もできなかった人やへたれが何かを残すことができたというような人間ドラマがある。そしてそういったドラマは生きていく上での我々の励ましになると思っている。偉そうに言わせてもらうが感動はつくるものではなく生まれるものだ、そしてそれが生まれるためには多くの養分や土壌が大事である。

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金さんが外国人をさばいたら

2017-11-02 | Weblog
「そのひとことネイティブ英語でこう言います」という本を見つけて立ち読みしていた。
その本は日本人が使う日常的なカジュアルな表現をネイティブのアメリカ人がピックアップして、英語にすればこうだということが書かれてあったのだが、次の言葉を英語で表現するとどう表現するかわかるだろうか。
「腹筋がわれる」「ウエストがくびれる」
この二つの言葉はダイエットや健康維持などでもよくつかわれる言葉である。
女性はウエストにくびれがでること、そして男性は腹筋が割れることはある週の理想であり、まずこのことを目標にしている人たちも少なくはないと思う。
でそれらの言葉を英語でどういうかと言うとまずウエストにくびれが出るは「get ones west back」そして腹筋が割れるは「get some abs」である。
英語の表現は人それぞれ表現の仕方が違うので、著者の性格や考え方によってその表現は違うが、しかし逆にこれだけ日本人が使う日常会話を理解していることに驚いた。
さらにその本には時代劇版と言うのがあって、金さんの「このさくらふぶきに見覚えがないとはいわせねい」「これにて一件落着」なども表現していたが、非常におもしろかった。
話は金さんの話になるが、たけしがこの金さんの裁きのシーンで顔を見て分からない奴が、いれずみを見て分かるはずはないと言っていたが、同感だ。
ついでに言うと彼は遊び人だと自称しているが、しかしもし本当に遊び人であるならば「お前は何ものだ」と言われて。堂々と自ら「私はただの遊び人だ」となどとは絶対に言わない。
本当に遊び人だと、うしろめたさがあるので、そう言われたらうすら笑いを浮かべてただにやにやと笑っているだけで、ましてや堂々と太刀まわりなどを演じない、やっかいなことが起こればこそこそ帰っていくのが遊び人である。
この金さんが自らを遊び人だと称することに、私の友人が、彼は俺はお奉行なんだという自負があるからそう言えるんだと言っていたが、そう考えると金さんはとてつもない「ドS」である。
まあ冗談はさておき、英語の表現は非常に自由でその人の習慣が入るので、日本語と違ってその人の性格がよくあらわれる言語である。最近ではこういう役に立つ表現集などたくさん出ているのだが、表現もそれぞれあって、その著者の性格やもののとらえ方がよくその英語に表現されているのだが興味深い。
以前ある会員の人に、英語教育と日本語教育はどちらが大事だろうかと聞かれたことがあるが、もちろん日本語教育はアイデンティティを確立させる上ではかかせないことであり、われわれはこの確立した母国語と言うものを持っていること自体ほこりに思えることであると思う。
しかし実際この英語力が必要な時代になってきていることは確かなことであり、われわれはこの国際社会で情報をつかみ、自分たちの主張をするためには英語が不可欠である。
世界はどんどんと小さくなってきている。
おそらく常識と言う言葉もコモンセンスにかわり、そのコモンセンスも自分たちの今前の習慣や考え方でははかれないものであり、そのため言葉をおぼえて他の文化と交流することが求められるのである。
へ理屈かも知れないが金さんシリーズにもし外国人が登場したら、たけしの言うようにいれずみを見せられたぐらいでは「ははーっ」とひれ伏せたりはしない。
そう言われると「なんだそれは?」「証拠を見せろ」と言うのが欧米社会で、日本人特有のメンタリティで時代劇を見るからおもしろいわけであって、こういうメンタリティはもはや過去のものである。

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