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大木正夫の日本狂詩曲を聴きながら和田町から横浜まで歩く

2007-09-19 06:55:55 | 古典~現代音楽日本編
子どもの頃、私の父はお酒を飲んでほろ酔い気分になると
よく尺八やハーモニカなどの楽器を演奏することがあった。
見よう見まねで私も尺八を吹いたことがある。
そんなこともあって、私は大学に入ってから、
サークルの勧誘で、邦楽部に入り、尺八に本格的に挑戦した。
尺八には琴古流と都山流という二つの流派があり、
私は琴古流の尺八を習い、毎月大学に教えに来る先生に
本曲(虚無僧などが吹いたりするような尺八本来の曲)と、
外曲(琴や三味線などと合奏するための一般的な曲)を
4年間にわたって教わったものである。
なぜ、こんな話から始めるかというと、
今回とりあげる1901年静岡生まれの大木正夫は、
私と同じように少年時代に尺八ばかりを吹いていたようで、
その辺りが一致しているということからである。

昨日は、和田町から横浜駅まで歩きました。
昨日は曇りがちの天気だったので歩きやすかった。
途中聴いた曲は、大木正夫の日本狂詩曲である。
彼が育った静岡は首都圏などと比較すると
当時の状況の中であまり音楽的環境には恵まれてなかった。
当時彼が育った静岡市ではピアノが3台しかなかったそうである。
オーケストラなどの練習する音も聴こえず、
聴こえてくるのは尺八や筝を練習する音だったらしい。

そんな中、彼にとっては他の音楽と接する方法は、
SPレコードぐらいしかなく、そこから義太夫、長唄などの邦楽、
そしてクラシックの名曲の数々を知っていったようである。
それらの体験を通し、オーケストラの世界に憧れ、
自分も交響曲や管弦楽曲を作曲したいと思ったようだ。
彼は中学卒業後大阪高等工業学校の応用科学科に進み、
科学技術者になろうと思っていたので、
音楽は最初趣味の範囲に過ぎなかったが、
関西の大都市圏での生活は彼の音楽経験を豊かにし、
級友らと作った合唱団で合唱に親しみ、
学校卒業後も東京で丸善石油に技術者として勤めながらも、
声楽の勉強をし、和声等の音楽理論は独学で習得していった。
その後長野の上田市でしばらく教員生活をし、
その後教職を捨て東京に戻った大木は、
石川義一という人物に弟子入りをしている。

彼がオーケストラ作品を世に発表したのは1930年である。
「交響無言詩」という作品だったようだが、
その後彼は自分の作品を自作自演で発表し続けた。
日本狂詩曲は1938年にラジオで作曲者の指揮で初演された。
この曲は底抜けに明るい作品であるが、
ある意味ではまだいろいろなものを吸収している最中の曲で、
彼らしい持ち味が発揮されてはいないのかもしれない。
曲は「木曾節」をモティーフにしたりし、
日本的な部分を断片的にみせながらも曲は西洋的である。
途中、ストラヴィンスキーのペトルーシュカを思わせるフレーズが、
ピアノ・パートのところで登場するのはおもしろい。
きっと大木が当時SP盤か何かで聴いて印象に残り、
その影響として、曲の中に入ったのかもしれない。
しかし、そして日本の将来に理想的なものを求め、楽天的に考え、
音楽作品を残していた彼が苦悩するのが終戦後である。
彼は、厳しく自己批判をする一方で、
それを乗り越えていかなければいけなかった。
作曲家も歴史に振り回されると大変なものである。

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