日本の多くの人は、太平洋戦争は1945年(昭和20年)8月15日に終わったと刷り込まされこれを信じている。正確にはこの日は、天皇がポツダム宣言を受け入れたことを、正午になって国民に知らせた日でしかない。ポツダム宣言に署名していた国との戦闘はこれで終わったと言って良い。中国本土や東南アジアではそれも良かろう。
しかし、日本と不可侵条約を結んでいたソ連とは違う。1946年4月まで有効な条約であるが、一年前に非継続を通告していた。ソ連のシグナルを日本の官僚は見抜けなかった。
ソ連のスターリンは戦後の世界の形を決める、ヤルタ会談に出席していた。アメリカのローズベルト大統領とイギリスのチャーチルで話し合ったのである。ドイツの敗戦後ソ連は3カ月で日本に参戦することを決めていて、ぴったり3か月後に宣戦布告した。
スウェーデンの大使館員で諜報の神様と言われた小野寺信は、2月に行われたヤルタ会談の密約を日本に幾度にもわたって通知していた。日本の大本営はこれを握り潰して、首相の鈴木貫太郎に伝えていなかった。又陸軍はすでにイギリスを通じて、ソ連の参戦を予知していた。こんな重大なことを御前会議にも出さなかった。軍人を含む官僚の失態であり、このことが延々と今日まで尾を引いているのである。
何も知らされていない鈴木首相は、幾度にもわたってソ連に終戦の仲介を依頼している。知らなかったとはいえバカげた話である。ドイツ敗戦後3カ月という、極東に兵士や兵器を運ぶ十分な時間をスターリンに、稚拙な外交の日本は提供した。
ソ連の参戦を、終戦作業のために首相になった鈴木が耳にしていれば、6月ごろには終戦を迎えたはずである。6月に終戦してれば、二度の原爆投下も日本各地での空襲もほとんどなく、満州や千島や樺太の惨劇もなかったはずである。
しかしそれを最大限利用したのがスターリンである。幼稚な外交しか展開できない日本を手玉に取ったのである。
ポツダム宣言の場を作ったのはスターリンであるが、其処には選挙で敗北したチャーチルも4月に死去したローズベルトもいなかった。
主役はスターリンであるが、ソ連はポツダム宣言に署名していない。終戦の報告をソ連は受けていないと言い張っている。スイスとスウェーデンを介して通知したという、確認文書すら存在しない。
日本が連合国に降伏調印するのが9月2日である。この日が終戦の日である。宣戦布告した8月9日から24日間はソ連は逃げまどう日本兵、民間人その他の民族をいいように襲撃殺害した。卑怯であるがそれが戦争である。上図は千島列島に侵攻したロシア兵の足跡である。歯舞島には9月5日であるからソ連が主張する戦後であるはずだ。
更に、歯舞島、色丹諸島は根室国の一部、即ち北海道の一部であって、ポツダム宣言とその後の連合軍の話し合いの日本本土に当たり、戦勝国のものにはなり得ない。
このことを盾にして、鳩山一郎は1956年日ソ共同宣言をし歯舞色丹の返還を約束した。
これに激怒したのが、アメリカのダレス国務長官である。ダレスは東西冷戦の始まりを背景に、ソ連の進出を阻止する目的で、北方領土は4島だと日本に言わせた。ソ連が絶対に飲まない方針を日本に提出させたのである。
二島返還は夢に終わったが、根室の友人たちは1957年春に、市内の小中学生が集められ、二島返還を祝って提灯行列をしたことを今でも鮮明に覚えている。
日本の官僚は終戦の通告をソ連にすることを怠った。終戦記念日を8月15日に決めて、ソ連が戦後南樺太と千島を不当に占拠した地域と言い続けている。このお笑いのような主張は今ではあまりやられなくなった。
ダレスの命を受けて、当初は”占領された地域”Occupied northern territory と呼ばせていた。これは刺激的で、北方領土はその後定着させた言葉である。
鈴木宗男と佐藤優が二島返還を掲げると、スキャンダルをでっちあげられ失脚している。余程官僚はアメリカが怖いのである。
プーチンと本気で領土交渉している安倍晋三は世界の笑いものであった。プーチンが1ミリたりとも領土を手ばなすはずがない。事実本ブログで繰り返しているが、見事に3千億円提供して領土問題は決着した。
日ソ戦争は24日しかなかったが、残した傷跡は大きく、ようやくソ連崩壊後30年で資料が出てくるようになった。この辺りの経過は、「暗闘」長谷川毅著、「日ソ戦争 南樺太・千島の攻防」「日ソ戦争1965年8月」富田武著に詳しくやっと出たという感じである。