昨日に続いて、愛国心を考えてみたい。現代の若者たちには、この国に対する国家と言う概念が極めて薄い。例えば、海外から若い研修生がやってきて、自国の歌を歌ったり踊ったりと様々なお国自慢をするのに対して、わが国の若者たちにはそれがほとんどできない。自国を意識することがほとんどなく、海外の文化を優先させて、国籍不明の音楽や芸術に傾注する若者に薄らぐ日本の姿を強く感じる。
何を見ても「カワイイ」としか表現できない若者たち。例えば、花なら美しい、楚々とした、凛とした、華やいだ、愛おしい、愛らしい、可憐等など日本語には幅も奥行きもあり、表現者の内面をより深く表現する言葉が豊富にある。それらを全て「カワイイ」の一言で言い表す、日本語表現の貧困さの若者たちに日本を見失う。
こうした若者たちの現象を見ていると、愛国心どころか日本そのものさえもを失う日本人に、一抹の寂しさを感じるのは私だけではないだろう。少なくとも日本のように伝統が曲がりなりにも、脈々と継がれている国家にこのような現象の起きている国家はないと思われる。
愛国心とは国を想い慕い、愛おしく思う心であるが、国と自己の距離が遠いために意識の形が見えないのかもしれない。家族愛や郷土愛に置き換えると少しわかりやすいような気がする。
ならば、郷土愛をカリキュラムに組んでその達成度を評価することは、本末転倒でもある。こうしたことは強要されてはならない。郷土を自慢する、家族を誇りに思うことは容に嵌めて作られるものであってはならない。
戦前の、愛国心教育はまさしくそのようなものであった。そして若者たちに限らず、国民の多くの心の中に愛国心が、純粋な形で醸成されたのである。国家にとって、愛国心ほどありがたいものはない。とりわけ戦時下にあっては、愛国心はあらゆる武器より優れたものであることを、為政者たちは熟知しているのである。
日本が国家としての誇りを国民の心に取り戻したい気持ちはわからなくもない。上記のような現状に不満はあるが、国家が非愛国心者を詰るなら、国家を思うことを形あるものとして、見せ合って相互に評価するような教育制度であればむしろない方いいとすら思う。、これが愛国心を国家として利用するための補完作業であるならば、強く反対するものである。