今週の法話

法華宗北海寺住職-二王院観成による仏教用語と法話集です。毎週水曜日に更新いたします。

日本での死刑廃止の最初の天皇は聖武天皇である。

2004-12-15 23:20:41 | 皇室
 日本で最初の死刑廃止の詔を下したのは聖武天皇である。
神亀2年(725)12月、聖武天皇は一時的に死刑廃止の
詔を下した。人殺しというような残虐な犯罪をなくするため
には、民を治める国家権力者みずからが、国家の殺人である
死刑を廃止すべきである。国家が手本を示し、身を以て教え
れば人民もこれに従うだろう。また、悪人といえども生きる
権利はある、という思想からであった。これは、仏教の影響
が大きいといわれている。
 「もしも人が反逆を企てたならば、彼を殺さず、迫害せず、
他の国土にしりぞけよ。自己を見ること、敵を見るがごとく
厳しくあれ」(大薩遮尼乾子所説経)
 「古の聖王に順へかし。刑戮(死刑)を行ずることなかれ。
何を以ての故に。人道に生まれることは、勝れたる縁の感ぜ
しところなり。もしその命を断たば、定んで悪報を招く」
                (仏為勝光王説王法経)
これらの仏教経典などに触発されたものであろう。
 聖武天皇は熱烈な仏教信者であった。唐の鑑真の来朝を、
栄叡、普照に勅請を託したのも聖武天皇だった。
 次いで嵯峨天皇は、弘仁9年(810)、律を改正し、死
刑を完全に廃止した。それは26代にわたる天皇、年数で、
347年間の長きにわたり死刑廃止は完全実施された。まさ
に日本史の奇跡と呼ぶにふさわしいものであった。この34
7年間は、平和で、きらびやかな王朝文化が開花した時代で
もあった。この日本の死刑廃止の歴史的事実は、世界に誇れ
るものである。
 しかし、保元の乱直後、源為義に対する斬刑で死刑は復活
した。この時、死刑復活反対論を唱えたのは中院右大臣雅定
入道などである。「もし今、為義を死刑にしたら、必ず源氏
の縁類が末代まで恨みをふくみ、いつかその恨みを世に現し
てくるだろう。裁かば裁かれん。おそろしい輪廻の約束と、
業の繰り返しではありますまいか」と雅定は主張した。これ
に対し、少納言信西は、一蹴し、為義は斬刑に処された。
 雅定の言葉どおり、源氏と平家は、一殺に次ぐ百殺、百殺
に次ぐ千殺万殺という血で血を洗う戦乱時代に入っていった
のである。さらに殺伐とした武家政治へと移行したのである。
 ところで、死刑に関する奇聞を紹介しよう。石川五右衛門
は煮殺された。釜ゆでの刑である。その時、五右衛門の母と
子も一緒に処刑された。五右衛門は頭の上に子を差し上げて
かばったが、最後は湯の中に子を投げ入れ、自分の足で踏み
つけた、といわれている。これは、子を苦しめて死なさせま
いとする親心である。この時の釜ゆでの刑は、水ではなく、
油だった。秀吉の残忍さがわかるであろう。
 一方、この釜を見た家康は、自分も煮殺を考えた。しかし、
忠臣本多作左ェ門は、「天下を治めるに、民を煮殺さねばな
らぬほどの悪人を作るほうか゜悪い」といって、家康の前で
その釜を打ちくだかせた。家康は、その忠言を快く入れて、
煮殺の刑は消えた。
 明治5年11月28日、田中藤助は絞首刑に処された。遺
族が死骸を引き取り、荷車に積んで帰宅途中、「少々脈動を
発して」生き返った。当時の石鉄県(愛媛県)にこのことで
伺いを立てたところ、「すでに絞罪処刑後に蘇生す。また論
ずべきなし。直ちに本籍に編入すべし」と石鉄県は回答した。 
その後、田中藤助が犯罪を犯したという記録はない。後にも
先にも、絞首刑後に蘇生したのは、ただ一人である。 

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