今週の法話

法華宗北海寺住職-二王院観成による仏教用語と法話集です。毎週水曜日に更新いたします。

「日蓮本仏論」は間違っている

2006-02-14 06:41:19 | 仏教
 日蓮系の既成宗教と新興宗教の中に、「日蓮本仏論」
を主張する教団が複数ある。しかし、それらの教団が主
張する「日蓮本仏論」は間違っている。その理由は「偽
書」を論拠としているからである。

 その代表的な偽書とおぼしきものに、「産湯相承事」、
「百六箇抄」がある。これらはすべて偽書である。
 ①「産湯相承事」は、口伝書といわれる。日蓮聖人が
入滅に際し、日興にだけに言い残した秘伝であるという。
その内容は「日蓮は天上天下の一切衆生の主君なり父母
なり師匠なり」。「日蓮は無量劫の能報者(能化)なり
」、というものである。
 しかし、日蓮入滅の時には日昭、日朗、日興などを始
め、多くの門弟などが池上に駆けつけて来ている。その
中で、上記の内容を日興一人に言い残した、ということ
はあり得ない。また、「聖人の言わく、此の相承は日蓮
摘摘一人の口決唯授一人の秘伝なり、神妙神妙と言い給
いて留め畢んぬ」と書いてある。すなわち、日興にだけ
言い残すものである、という意味である。また、「日興
之を記す」とも書いてある。
 これは明らかな偽書である。内容も信じることはでき
ないものである。日蓮聖人は、ブッダをないがしろにす
るようないことを書いた「御書」は一つもない。聖人は、
それほど傲慢な人ではない。
 さらに、「日蓮は無量劫の能報者(能化)なり」とい
うことを聖人はいうはずがない。「観心本尊鈔」に
「仏すでに過去にも滅せず未来にも生ぜず、所化もって
同体なり」といっている。すなわち、能化たるブッダも
教化されるわれわれ所化の生命も同じである、という意
味である。能化はブッダ一人で、それ以外の人々は聖人
自身を含めてすべて所化だと思っていたのである。「自
分は能化だ」というような不遜なことを聖人が言うはず
がない。
 また、臨終前後のことは、「御遷化記録」として残っ
ている。その内容は「宗祖の御一代記」、「本弟子六人
の定」、「御葬送次第」、「御遺言」、「輪番帳」、「
御遺物配分」などであるが、聖人滅後の翌年(弘長六年
正月)に六老僧がそれぞれの内容を確認した上で花押(
署名捺印)を裏判している。その「御遺言」の中に、上
記のようなことは書かれていない。第一、そんな遺言な
どあるはずがない。
 以上の理由で、「産湯相承事」は日興の名をかりて後
代の誰かが作った偽書と言わざるを得ない。、この「産
湯相承事」は、「史伝書」として現在にいたるまで伝え
られているが、「死人に口なし」といわれるように、日
興滅後に作られた偽書である。

 ②「百六箇抄」は、「法華本門宗血脈相承」といわれ
る。「本因妙の教主本門の大師日蓮 謹んで之を結要す
万年救護写瓶の弟子日興に之を授与す云々」とある。
 しかし、日蓮聖人は「法華本門」という言葉を使った
ことはあるが、「法華本門宗」といったことは一度もな
い。
 また、日蓮聖人が「大師」という場合、「天台大師」
か「釈尊」ことを意味している。あるいは朝廷から賜る
「大師号」のことである。聖人が「現身に大師号もある
べきか」といったことがあるが、自分のことを「大師」
といったことは一度もない。
 さらに内容であるが、第13に「天上天下唯我独尊は
日蓮これなり」と書かれている。これは笑止千万な話し
である。聖人はそんなに傲慢な人ではない。そんな言葉
は他の御遺文のどこにも出てこない。
 さらには、この「百六箇抄」(法華本門宗血脈相承)
は、「相伝」の中の「法門相承」の一つとして扱われて
いる。「御書」として扱われていない。さすがに気が引
けるのであろう。
 これらの理由から「百六箇抄」も偽書であると断定せ
ざるを得ない。日蓮本仏論を言い出したのは日寛上人で、
その前後にこれらの偽書は故意に作られたのであろう。
 以上のような偽書をもって「日蓮本仏論」を展開して
も、正当な論理とはなりえない。「日蓮本仏論」は完全
に間違っている。

参考書籍 
   「日蓮正宗聖典」(宗祖日蓮大聖人六百八拾遠忌
            記念「聖典刊行会」)発行