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珈琲大勝軒@人形町 「人形町大勝軒の歴史」

2012-11-25 00:00:01 | ラーメン(東京)
人形町大勝軒のルーツを辿る。
永福でも、東池袋でも中野でも代々木上原でもなく、
そもそも丸長でもない大勝軒。

珈琲大勝軒の看板に久しぶりに灯がともっている
と聞いて居ても立ってもいられずに珈琲を愉しみに
うかがいました。





すべてはそこで聞いたおかあさんの話。
危うい記憶、おばあちゃんからの伝聞。
でも、それがたのしくて重くて、時間が経つのが
あっという間でした。



「支那御料理」と書かれた店舗には
大勝軒、と名乗る前、前身のお店があった。
この写真は昭和3年の写真。

現在の珈琲大勝軒からはちょっと離れた
「き(喜の旧字)寿司」の隣だか、裏手だか。



もちろんラーメン屋ではなく、今でいう中華料理。
広東料理のお店です。当時は大陸から料理人が
来て腕を振るっていた。言うまでもなく、現在の人形町系
大勝軒は冠に「中華料理か中国料理」とつきますね。



後の2代目人形町大勝軒をたたみ、銀座に突如復活した
よし町大勝軒には、

「明治38年創業の日本橋人形町芳町の検番の裏手にあった『大勝軒総本店』」

という店名の由来につながる歴史が記されているが、
おかあさんの話だとちょっとこの記述と相違がありそう。

大勝軒、とした由来については、「日露戦争の勝利にあやかって」説が有力
だが、おかあさんの話だと「大正に入ってからつけたんで、たいしょう、となった
んだけど、勝つ、のほうがいいかなということで、とおばあちゃんから聞いたのよ」と。


優しさなのか、娘には戦争にこじつけた
話で伝えたくなかったのか、そんな思いもふくまれてた
のかもしれませんね。
そんなことを想像するのも楽しい。

明治38年(1904年)は確かに日露戦争直後。
一方、創業を1912年とする説は大正元年。たいしょうという元号に
新鮮さと新たな意気込みを乗せて大勝としたという話もしっくりくる。

歴史とは往々にして都合の良いように脚色されるものだが、
屈託のない笑顔のおかあさんが楽しそうに語る姿を最大に尊重して、

「大正になってたいしょう軒と名乗るとしたが、もともとのお店の創業、1904年の
 日露戦争の大勝利にもあやかって大勝軒と名乗るとしよう」

という自分なりの答えを導いてみたりする。

その妄想を裏付けるエビデンスが、この写真の上に飾られている。



あの乃木中将が書いた「大勝軒」の額。
余談だが、日露戦争時、乃木「大将」であったことは偶然でしょう。
支那御料理屋として、大陸の料理を提供していたこと、
乃木中将が台湾総督府の要職についていたこと。
少なからず、そういった交流の中から、大勝、という名前は
つけられたものと思います。

そして、隣の写真は浅草にオープンしたばかりの“大勝軒 浅草支店”。
鳩が開店のフライヤーを撒きます、と書かれている。すごいわ。昭和8年の写真です。





その後、珈琲大勝軒の隣にあったという大勝軒(昭和59年閉店。ちなみに
よし町へとつながる2代目人形町大勝軒は昭和61年創業)から巣立っていった
お店の話で盛り上がりますが、そこで切り上げてきました。

おかあさんの話だと元祖人形町大勝軒が業態をかえて喫茶店になった
のではなく、隣で喫茶店もはじめてみた、のが真相。

おかあさんに、なにか縁の物が見たいな、という気持ちでおじゃましたんですよ、と
言ったら、支那御料理店の写真にみえる木彫りのような装飾は実はステンドグラス
なんですよ、と。そして、それと同じように、ホラ、あそこもステンドグラスでしょ、と
店内の壁面を指差すのでした。





もうひとつの大勝軒、と呼ばれる人形町系。
しかし、その歴史はもうひとつ深く、面白いものでした。





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