※今回の日記は本サイト「ニコと酒場へ」の追悼コラムの転載です。
小さい頃、生き物は死ぬとお星さまになるのだと聞いた。でも生きているときからお星さまだったものはどうなるのだろう。
ずっと昔、人の運勢を左右するのは星だと考えられていた。星回りといったりする。だが、私の幸運の星となってくれた馬の星回りはどうだったのだろうか。
アドマイヤベガ、2004年10月29日 永眠
私がアドマイヤベガをはじめてみたのはある雑誌でのデビュー以前の写真だった。馬の見方の右も左もわからなかった私は、それでもこの馬の品の良さにそのとき直観で随分と惹かれたのであった。私は今でもそのときの“直観”を今でも自分の中に大切に、そして誇らしげとっておいてある。自分が好きだと思った馬が想像を遥かに超えて凄い成績と感動を残してくれたからである。
そのデビュー戦は衝撃以外のなにものでもなかった。牝馬のような薄い体から繰り出された信じがたい末脚。結果降着となったのが逆に何かを予感させてくれた。その秋、滅多にないめぐり合わせで強いお手馬が集まっていた武豊が、この降着でいくつかのレースに乗れなくなることが分かっても、ひどい落胆をみせなかったのも嬉しかった。アドマイヤベガが強いのだ、と感じ取っていたからなのだ、と想像できたからである。
未勝利戦を使わずエリカ賞へと向かったことで私の期待はグングンと更にあがっていった。デビュー戦をみれば、誰もが負けることなど考えもしないだろう。単勝1倍台。故障さえなければ後にいくらでもレースを勝てた隠れた名馬スリリングサンデーをおさえて完勝。デビュー戦のような派手さはないが、武豊の笑顔とコメントがその地味なレースの本当の意味を語っていた。
そして、暮れのラジオたんぱ杯。すでに同じ厩舎からアドマイヤコジーンという主役が登場していたが、話題性では決して劣らなかった。藤沢厩舎の素質馬マチカネキンノホシをこれまたエリカ賞のときのように余力たっぷりにおさえきって重賞初勝利。世間ではアドマイヤコジーンへの評価が高かったが、武豊のトーンは微妙に違っていた。母ベガに乗っていたからかもしれない。だが、この年念願のダービー初制覇を達成していたジョッキーの勘は経験によってはじきだされたものだった。勘は誰よりも優れていた。
年明け、復帰戦は一度はすみれSと決まった。僚馬アドマイヤコジーンが弥生賞という王道を使う予定だったからである。だが、すぐにその計画は頓挫する。コジーンが故障してしまったからである。アドマイヤベガが弥生賞に向かう。勝利の女神は激しくアドマイヤベガを引き寄せている。勿論、当日は1番人気である。
誰もが美しいほどのキレ味をみせるアドマイヤベガの勝利を期待していたが、そこに雄大で逞しいナリタトップロードが立ちはだかった。美しく勝つ、は難しいことである。武豊はダービーを想定して脚をはかったか。後方から差を詰めて2着に負けた。ナリタトップロードは主役たる堂々とした勝ち方で、フロックなどでは決してなかった。皐月賞でもっとも注目されるべき馬であった。だが、そんな常識よりも非常識なキレ味を発揮した馬がいたのだ。この時点で皐月賞の1番人気はアドマイヤベガとなることを皆が語っていた。
後から聞けば、この間、アドマイヤベガは疝痛を起こしたらしい。ともかく体調の変化は皐月賞の1週前からおかしくなった。飼葉を食べなくなり、熱はあがる。オーナーと調教師の気まずい会話。オーナーは栗東に3日間泊まってアドマイヤベガに付き添ったという。普通なら出走しないケース。だが、追いきりを1日のばして(木曜)でさえ皐月賞には出走した。当日、パドックでは体重を大幅に減らしたアドマイヤベガが元気なく歩いていた。天気が悪かったせいもあるが、ひどくやつれているような気もした。だが、名馬というのは体のバランスが総じて良いものである。それでも人気に推されるだけのバランスは保っているようにみえた。
しかし、惨敗。果たして日本ダービーへの勝利の可能性も限りなく薄くなった、と皆に思わせるに十分の結果と内容だった。つまり、体調が思わしくなく、それでいて惨敗。短期間の巻き返しはいかに優秀でもありえない、と。
関係者のそこからの努力は、語られるよりもダービー当日の馬体の輝きに端的に表れていた。今は亡き大川慶次郎氏をして「今日、抜群に良くなったのはアドマイヤベガです。抜群にいい」と言わしめた。そのときは不安に思ったが、あとで見返すとその優れた回復力を実感できる。皐月賞とは違って天気もよかった。枠は1枠2番。アドマイヤの勝負服には白か青の帽子が似合う、と個人的に思っている。新馬戦も白だった。皐月賞も白だった。ラジオたんぱ杯と弥生賞は青だった。美しく勝つ。帽子にも恵まれているような気がする。
前年度ダービーを初制覇した武豊には経験があった。皐月賞を勝った後の名馬テイエムオペラオーと実力は遜色ないナリタトップロードを前にみて、ずっと末脚を温存していた。誰もみたことのない大胆なダービー制覇はアドマイヤベガの誰も見たことのない末脚をもって、武豊に勝利を確信させていたに違いない。事実手綱を動かしてからのアドマイヤベガの信じがたい追撃は、わずかの間にこの2頭の後ろに迫ったことで観衆を釘付けにした。私は全身を硬直させて、アドマイヤベガだけをみていた。皐月賞とは違う、あの新馬戦のような動きをみて、あとはひたすら勝つことだけを祈っていた。
その日は暑かったが、汗がその暑さと関係なく流れ出した。ダービーを勝つことは関係者にとって最高の幸せであろうが、私も嬉しかった。ダービーを勝つためのドラマを半年少しかけて観ているような気分だった。出来すぎた話だが、アドマイヤベガの容姿と血統からはドラマ仕立てが一番似合うような気もした。オーナーは興奮のあまり眼鏡を飛ばして泣いたという。眼鏡は結局紛失してしまったようだ。橋田調教師はサイレンススズカという名馬を失ったショックを少しは癒せたかもしれない。
秋、復帰戦をダービーのような脚で圧勝するも菊花賞は折り合うことなく惨敗した。今思えば、ダービーまでの、それ以上のドラマなどあるはずもなかった。その後、左前繋靭帯炎を発症。種牡馬入りとなった。
ベガにサンデーサイレンスが種付けされ、受胎したとき、その子供は2頭、双子だったようである。競馬の世界では双子は走らない。アドマイヤベガだけを産み、アドマイヤベガは見事に競走馬として大成した。そして、子供を幾世代か残してまた、産まれることのなかった兄弟の元に戻っていった。
嬉しいことにアドマイヤベガの子供たちが活躍している。競走成績と同じく、その真の実力はわずかな世代ではわからないかもしれない。だが、それがアドマイヤベガらしい、少し控えめな貴公子らしいドラマなような気もしている。いつでも抜ける末脚を持っているからなんだろうなあ。
輝ける一等星ベガの子供としてうまれ、その星回りに恥じぬ美しさを放った稀代の貴公子アドマイヤベガ。この馬こそ星となるべき存在である。生きながらにして眩い光を放っていた地上の星は、そのうち天空でみられることとなるだろう。私はアドマイヤベガに恋愛に似て、家族への愛情にも似た感情を持ち続けていた。アドマイヤベガが大好きだったようである。
合掌
小さい頃、生き物は死ぬとお星さまになるのだと聞いた。でも生きているときからお星さまだったものはどうなるのだろう。
ずっと昔、人の運勢を左右するのは星だと考えられていた。星回りといったりする。だが、私の幸運の星となってくれた馬の星回りはどうだったのだろうか。
アドマイヤベガ、2004年10月29日 永眠
私がアドマイヤベガをはじめてみたのはある雑誌でのデビュー以前の写真だった。馬の見方の右も左もわからなかった私は、それでもこの馬の品の良さにそのとき直観で随分と惹かれたのであった。私は今でもそのときの“直観”を今でも自分の中に大切に、そして誇らしげとっておいてある。自分が好きだと思った馬が想像を遥かに超えて凄い成績と感動を残してくれたからである。
そのデビュー戦は衝撃以外のなにものでもなかった。牝馬のような薄い体から繰り出された信じがたい末脚。結果降着となったのが逆に何かを予感させてくれた。その秋、滅多にないめぐり合わせで強いお手馬が集まっていた武豊が、この降着でいくつかのレースに乗れなくなることが分かっても、ひどい落胆をみせなかったのも嬉しかった。アドマイヤベガが強いのだ、と感じ取っていたからなのだ、と想像できたからである。
未勝利戦を使わずエリカ賞へと向かったことで私の期待はグングンと更にあがっていった。デビュー戦をみれば、誰もが負けることなど考えもしないだろう。単勝1倍台。故障さえなければ後にいくらでもレースを勝てた隠れた名馬スリリングサンデーをおさえて完勝。デビュー戦のような派手さはないが、武豊の笑顔とコメントがその地味なレースの本当の意味を語っていた。
そして、暮れのラジオたんぱ杯。すでに同じ厩舎からアドマイヤコジーンという主役が登場していたが、話題性では決して劣らなかった。藤沢厩舎の素質馬マチカネキンノホシをこれまたエリカ賞のときのように余力たっぷりにおさえきって重賞初勝利。世間ではアドマイヤコジーンへの評価が高かったが、武豊のトーンは微妙に違っていた。母ベガに乗っていたからかもしれない。だが、この年念願のダービー初制覇を達成していたジョッキーの勘は経験によってはじきだされたものだった。勘は誰よりも優れていた。
年明け、復帰戦は一度はすみれSと決まった。僚馬アドマイヤコジーンが弥生賞という王道を使う予定だったからである。だが、すぐにその計画は頓挫する。コジーンが故障してしまったからである。アドマイヤベガが弥生賞に向かう。勝利の女神は激しくアドマイヤベガを引き寄せている。勿論、当日は1番人気である。
誰もが美しいほどのキレ味をみせるアドマイヤベガの勝利を期待していたが、そこに雄大で逞しいナリタトップロードが立ちはだかった。美しく勝つ、は難しいことである。武豊はダービーを想定して脚をはかったか。後方から差を詰めて2着に負けた。ナリタトップロードは主役たる堂々とした勝ち方で、フロックなどでは決してなかった。皐月賞でもっとも注目されるべき馬であった。だが、そんな常識よりも非常識なキレ味を発揮した馬がいたのだ。この時点で皐月賞の1番人気はアドマイヤベガとなることを皆が語っていた。
後から聞けば、この間、アドマイヤベガは疝痛を起こしたらしい。ともかく体調の変化は皐月賞の1週前からおかしくなった。飼葉を食べなくなり、熱はあがる。オーナーと調教師の気まずい会話。オーナーは栗東に3日間泊まってアドマイヤベガに付き添ったという。普通なら出走しないケース。だが、追いきりを1日のばして(木曜)でさえ皐月賞には出走した。当日、パドックでは体重を大幅に減らしたアドマイヤベガが元気なく歩いていた。天気が悪かったせいもあるが、ひどくやつれているような気もした。だが、名馬というのは体のバランスが総じて良いものである。それでも人気に推されるだけのバランスは保っているようにみえた。
しかし、惨敗。果たして日本ダービーへの勝利の可能性も限りなく薄くなった、と皆に思わせるに十分の結果と内容だった。つまり、体調が思わしくなく、それでいて惨敗。短期間の巻き返しはいかに優秀でもありえない、と。
関係者のそこからの努力は、語られるよりもダービー当日の馬体の輝きに端的に表れていた。今は亡き大川慶次郎氏をして「今日、抜群に良くなったのはアドマイヤベガです。抜群にいい」と言わしめた。そのときは不安に思ったが、あとで見返すとその優れた回復力を実感できる。皐月賞とは違って天気もよかった。枠は1枠2番。アドマイヤの勝負服には白か青の帽子が似合う、と個人的に思っている。新馬戦も白だった。皐月賞も白だった。ラジオたんぱ杯と弥生賞は青だった。美しく勝つ。帽子にも恵まれているような気がする。
前年度ダービーを初制覇した武豊には経験があった。皐月賞を勝った後の名馬テイエムオペラオーと実力は遜色ないナリタトップロードを前にみて、ずっと末脚を温存していた。誰もみたことのない大胆なダービー制覇はアドマイヤベガの誰も見たことのない末脚をもって、武豊に勝利を確信させていたに違いない。事実手綱を動かしてからのアドマイヤベガの信じがたい追撃は、わずかの間にこの2頭の後ろに迫ったことで観衆を釘付けにした。私は全身を硬直させて、アドマイヤベガだけをみていた。皐月賞とは違う、あの新馬戦のような動きをみて、あとはひたすら勝つことだけを祈っていた。
その日は暑かったが、汗がその暑さと関係なく流れ出した。ダービーを勝つことは関係者にとって最高の幸せであろうが、私も嬉しかった。ダービーを勝つためのドラマを半年少しかけて観ているような気分だった。出来すぎた話だが、アドマイヤベガの容姿と血統からはドラマ仕立てが一番似合うような気もした。オーナーは興奮のあまり眼鏡を飛ばして泣いたという。眼鏡は結局紛失してしまったようだ。橋田調教師はサイレンススズカという名馬を失ったショックを少しは癒せたかもしれない。
秋、復帰戦をダービーのような脚で圧勝するも菊花賞は折り合うことなく惨敗した。今思えば、ダービーまでの、それ以上のドラマなどあるはずもなかった。その後、左前繋靭帯炎を発症。種牡馬入りとなった。
ベガにサンデーサイレンスが種付けされ、受胎したとき、その子供は2頭、双子だったようである。競馬の世界では双子は走らない。アドマイヤベガだけを産み、アドマイヤベガは見事に競走馬として大成した。そして、子供を幾世代か残してまた、産まれることのなかった兄弟の元に戻っていった。
嬉しいことにアドマイヤベガの子供たちが活躍している。競走成績と同じく、その真の実力はわずかな世代ではわからないかもしれない。だが、それがアドマイヤベガらしい、少し控えめな貴公子らしいドラマなような気もしている。いつでも抜ける末脚を持っているからなんだろうなあ。
輝ける一等星ベガの子供としてうまれ、その星回りに恥じぬ美しさを放った稀代の貴公子アドマイヤベガ。この馬こそ星となるべき存在である。生きながらにして眩い光を放っていた地上の星は、そのうち天空でみられることとなるだろう。私はアドマイヤベガに恋愛に似て、家族への愛情にも似た感情を持ち続けていた。アドマイヤベガが大好きだったようである。
合掌