眞砂岳から野口五郎、三ツ岳までコマクサが随分残っていた。お盆に歩いた常念山脈でも今年は遅くまでさいてるなあ・・と思ったのに、この裏銀では、その2週間後の今もけっこう沢山残っていたのです。
水晶岳に続く赤牛岳の向こうに、薬師岳2,926mをピークとする長い稜線を観ている。
薬師岳の特徴であるカール群がよくわかる。 “カールに雪が残っている頃に写真を撮りたいものだね。7月がいいね” と話しながら歩いている。
昨夜、古いアルバムを確めた。写真がべたべた貼ってあるだけで、詳細が書いてない・・
ブナ立て尾根を登って、一泊目は烏帽子小屋に泊まっている。二泊目と3泊目はどこに泊まったか書いてない。雲ノ平に下りたこと、三俣小屋から西鎌尾根に向かう途中、霧の中で30分ほど道に迷った。同行者に泣かれ、計画を変更、伊藤新道(*)を下ったのだった。しかしその伊藤新道が吊橋だらけで厳しく、蛇が次々に出てきてまた泣かれたのだった・・・最後は湯俣の「青嵐荘」につき4泊目となったようだ。
*野口五郎辺りを歩いている時、岐阜県大山町観光課のおじ様たちとしばらく一緒に歩き、写真のシャッターを押してもらったのだった。ふたりともその当時のリュック「キスリング」を背負って、革靴のしっかりした登山靴を履いてるなあ・・・晴々した顔してるのは私だけで、同行のS子さんこの時、既に“もう疲れたあ~”という顔してるなあ・・・
*湯股から三俣までの「伊藤新道」は昭和31年に三俣山荘の主・伊藤正一さんが個人で開通した。が昭和の終わり頃、廃道となっている。湯俣川の吊り橋は亜硫酸ガスによる傷みが激しく、修復が追いつかなかったという。
あれから50年近くたった。ふたりとも昭和17年12月生まれ。どうぞ数えてみてください・・・そう、もうすぐ○○才になります。万歳!!
私たちが山を下りてきて2日後(8月29日)の信濃毎日新聞朝刊にこのような記事が載った。
山小屋とともに;父母に倣い登山客見送り
野口五郎小屋継ぐ3代目 上條 文靖さん(40)
この記事で小屋の歴史や小屋を維持することの大変さを知ることが出来た。この小屋は昭和39年に祖父の鉄一さんが「非難小屋」として建てたという。
そこで、昨夜古いアルバムを出してみたところ、私は昭和40年8月22日~26日に縦走している。小屋が出来た翌年だったのだ。
稜線歩きになって、少し気楽になったが、ガスが次々と上がってきた。
14;05 野口五郎頂上
14;25 野口五郎小屋着。
小屋は強い風を避けるためだろうか。窪地に建てられ、たくさんのドラム缶で囲ってあった。昔、泊まったはずだが、まったく記憶に残っていなかった。17時の夕食のテーブルについた宿泊者は20人弱だった。