電王戦考察、電王戦考察・その2の続編です。
前回の記事その2.では、《1.このままソフトが強くなっていったら、将棋は大丈夫なの?って心配。》について書いたので、今回は、《2.強い将棋ソフトを作るのは何のためなの?っていう疑問。》について思うところを書いてみます。
ssayさんの記事の中でも取り上げられている遠山五段の記事、電王戦総括 「将棋界は何と戦っていたのか」。
そのコメント欄でもこのことに関してのいろいろな意見が出ています。
白石淳さんのコメントの一部を引用させてもらいます。
《私の素朴な疑問に、そもそも研究者の方々は何のためにソフトの開発をしているのか、というのがあります。将棋文化を破壊してまでする開発に、それに見合った成果は何なのか、ということです。
私は、コンピュータ将棋側の人からも、将棋連盟からも、コンピュータ将棋が強くなることの意義を聞いたことがありません。
山本さんによれば、この国の情報科学としては偉大な一歩であり、編集長様も、将棋が社会の役に立つ、素晴らしいと大喜びされてますが、それは具体的には何なのでしょうか?(将棋ファンは、将棋が社会の役に立つから将棋が好きなわけではないと思いますし、そもそも文化というのは別にこの世に絶対必要なものではないものばかりではないでしょうか)》
さらに、電王戦についてさんのコメントです。(部分的に引用させてもらいます。)
《それは過激な言葉を用いるならば上の方が言うように「文化の破壊」であり、より正確にいえばいままでの「将棋」を成り立たせていたいろいろの前提が、コンピューター将棋の到来によって覆される、ということであって、個人的には今回の電王戦でプロ棋士がまさに「全生命をかけて戦っているように見えた」理由は、そうした前提が覆されることに対する将棋に人生をささげたプロ棋士の抵抗心そのものゆえだったと考えます。もちろん、人によっては自動車と人が100メートル走を競うようなものだから、たとえ負けたとしても人間の尊厳や将棋そのものの魅力にはいくばくかの影響も与えないとする意見もあるのですが、それはいくつかの理由により不適なたとえだと考えます。
<中略>
電王戦の結果が明らかになった今本当に語られるべきなのは、コンピューターの棋力が人と相並び超えるというもはや避けられない現実がもたらし得る様々な可能性のすべてについてであり、すべてが調和され共存共栄とともにあるバラ色の未来の話や、ネットやテクノロジーを用いて将棋という文化の魅力をいかに盛り上げていくかといった前向きな話だけではなく、上で具体的にあげられているような将棋という「伝統文化」の成り立ちを変えていくかもしれない負の側面についてもいまこそ真剣に語られるべきと信じます。》
技術開発の目的は?
何のための開発なのか?
上記の方々のコメントに対して、それは近視眼的な意見だ、とか、
下記のシーサーさんのような意見も出ています。
《数年、数十年後に別の技術が発見された時、コンピュータ将棋でノウハウを蓄えてきた
とあるアルゴリズムが思わぬ応用のされ方をして有用な何かができるようになる…
技術というのはそんな感じで発展していきます。長い目で見ましょう。》
莫大な時間も労力もお金も使ったコンピュータに関わるハード、ソフトの開発、技術革新はどこに向かって進もうとしているのか。
果たして社会のためにどんな役に立とうとしているのか、という疑問。
そして、将棋の強いソフトを作ることが人類を幸せにすることに直結するのかどうか。
前回までに問題提起した危険性の話をもとに言えば、むしろ不幸にすることにならないのだろうか、という不安。
もしも研究開発の目的が達成感充足感とか、知的好奇心のレベルであったなら、今後の将棋のまっとうな発展に対して大きな影響力を持ちすぎるのではないか。
技術の粋を集めて寄ってたかって神様しかわからなかった将棋を丸裸にしてしまう功罪はいかがなものなのか。
否定するわけではないけど、一抹の不安がうずまく。
前の記事《電王戦考察》では週刊将棋の松原先生の記事を紹介しましたが、先日、NHKの視点論点で「将棋ソフト勝利の意味」というテーマの話をされていました。
《人工知能の研究、人間のように賢いコンピュータやロボットを作りたいということから出発したし、そもそもの発端は子供の頃に鉄腕アトムを作りたいという純粋な夢だった。
その研究には、ルールが明確なチェスや将棋を題材にすることが適している。
ずいぶん前に世界チャンピオンを負かしたチェスのソフトはその後探索の部分を生かし電車の乗り換えソフトに応用されている。(世の中の役に立っている。)
人間より強いコンピュータが現れてしまったチェスがその後どうなったかと言えば、すたれてもいないし、トッププレーヤーはずっと尊敬され続けているし、食えなくなったということもない。
つまり、人間が負けたからと言って人間の尊厳が傷つくものでもないし、人間の脳の存在意義が脅かされているということはない。
コンピュータの発達は人類の幸福の実現に貢献しているものの、その一方で人間の従来の仕事、あるいは生き甲斐の範囲を狭めている側面がある。
人間は、発明、創造性など、人間にしかできないこと、人間だからこそできることにシフトしていくようになっていくはずだ。
コンピュータとどう付き合って、どううまく使っていけばより住みやすい社会ができるようになるのか、それが我々に問われている。》
松原先生の話はとてもわかりやすかったし、説得力もありました。
当然強い将棋ソフトを作ることのその先には人工知能やロボットをより高度にしていくことでどうしたら社会に役立つようにできるのか、ということが根本にあるのだと思います。
人間がよりよい社会を作るために、より幸せな未来を築くために、コンピュータを道具としてうまく使いこなさないといけない。
当初の意図、目的とは違って、コンピュータに使われるようになってはいけない。
そこがブレて行ったら本末転倒。
結局のところ、そこにずべてかかっている。
要は使い方次第。どっちにも転がっていく。
人間が良かれと思って開発したコンピュータなのだから、その本来的な目的のためにきちんと使われていくのかどうか、それを確認し、検証し、しっかり使っていくことが重要。
しかし、人間て結構弱いし、脆いし、忘れるし、適当でいい加減な部分もかなりあるので、人間より賢いコンピュータができたら結構そこが悩ましいポイントになる。
飼い犬に手を噛まれるみたいなことになってしまってはバカバカしい限り。
噛まれないような飼い主に我々はちゃんとなれるのだろうか。
この先、人間とコンピュータの関係はどうなっていくのだろう。
さてさて話はとめどなく広がっていって収集つかない状況に。
そんな時、またまた下記のブログが更新されました。
ちきりんさんの人間ドラマを惹き出したプログラム
ますますどう収集つけたらいいのかわからなくなってきました。
この先どういう展開にしていくのか読めてはないし、説得力ある結論が導き出せる自信はまるでないのだけれど、とりあえずまだまだ続きそうなので今日はここまで。
多分まだ続きます。