即席の足跡《CURIO DAYS》

毎日の不思議に思ったことを感じるままに。キーワードは、知的?好奇心、生活者発想。観る将棋ファン。線路内人立ち入り研究。

考えない社会

2007年10月11日 23時38分23秒 | 
北風は太陽に負けない!―脱・常識的思考の方法論で勝ち残る! (角川oneテーマ21)
宮川 俊彦
角川書店

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国語作文教育研究所長の宮川俊彦さん。作家でもあり、教育評論家でもある。

企業や自治体における、作文、論文についての採点、評価、分析を長年手がけてきた中で、宮川さんが感じたことをまとめた本です。

普段から感じていることが、しっかりと具体的に書かれているので、とても参考になりました。
要は、思考法の話です。

いくつか、印象的な部分、引用します。
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《前書き》
今、サラリーマン的な意識が日本中に蔓延して、足腰が弱くなってきていることは
随所で指摘されている。
組織の中で、個人が部分的な機能を果たすことだけに終始してしまっている。
言われたことしかしない、もしくは言われたことすらできない社員が急造していると聞く。実力があるとされている人材すら近視眼的で、広い視野を持った行動が取れなかったりする。
行動を起こして失敗するよりは、何もしないほうがまだいいという停滞を生む。
見抜いている社員はそういう職場に嫌気が差すが、かといって行動を起こす気力が低下している場合もある。
能力を充分に発揮できる職場というものは、本来自分が作り出すものなのにも関わらず、ただ待っている社員もいる。
日本企業の停滞の理由を構造論に求めていくのは、浅薄な考えに拠るものだと言わざるを得ない。構成員の能力や意思という、素朴かつ基本的な要因に目を向けるべきであろう。
ならば人を形成している中身は何かと考えれば、自ずと思考力が求められる。
自己を分析し、対象や環境を読解し、方法論と結果を模索することが求められているのだ。思考力とは、与えられた問題に対して、正解を導くためという狭い範疇で求められているのではない。自己の生きる道を開拓していくための知恵、もしくは技術として身につけていくべきものなのだ。うまく行きぬくというと処世術めいた方法論に偏りがちだが、より実際的な指針を示すものなのだ。
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そして、ケーススタディーとして、例えば
どうすればうさぎはカメに勝てるのか?
とか、
北風はなぜ太陽に負けたのか。北風の問題点を分析しなさい。
なんて例題がたくさん載っている。
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「作文から社会へ」
作文は書き手本人を経過して表される表現であるから、そこには個人の見解や論拠、思索の視野が必ず具現化されていく。
注意して読んでみると、作文の内容や語彙とともに、背景が示されていく。私の30年間の経験を顧みるに、子供たちの作文がパターン化され、画一的になっていった理由はそこにあると考える。

だからこそ私は、人と同じことを語るのは作文ではないというスタンスを守り続けてきた。しかし、これを理解してくれるのは、ほんの一部の親と子供たちに過ぎなかった。作文を学ぶ目的は学校という評価社会を泳ぎきるための手段にすぎず、その枠を逸脱するものは排除されていく傾向にあった。作文や読書感想文コンクールなどもそのような価値観の元に成立しているし、作文の評価は教師の好みの水準に拠る場合も多い。あるいは一定の思想の元で価値をつけられてしまう場合も多いのだ。
これは如実に現代社会の支配的価値観に順応していくことを強要しているのであり、そのための作文自体や書き手に対する理解や認識は必然的に固定化するしかなくなる。
つまり、学校に限らず、固定化した評価が蔓延している社会においては、理解を疑い、問い直す行為は、評価される側の戦略にかかっているということだ。もちろん戦略には個々の能力も関わってくる。実際に、本当に能力のある者たちは評価社会を見抜いて、自分をコントロールしていく。そこには高いレベルの平衡感覚が求められるが、その平衡感覚を積極的に促進したり、支えていくような教育活動は、これまで乏しかった。
平衡感覚を持つ者は、本来は社会でのエリート層になるはずだが、実際あまりいい立場に置かれることは少ないように思う。また自制が強すぎるからこそ、自分の能力をつぶしたり、屈折したりもする。
ますます評価基準が固定化して強化されていくと、余裕の部分がなくなって、ますます生きづらくなってしまう。生きることに戦略性を持たない者は、受け入れられることや相手が望む方向へと自分を変えていこうとするから、余計に圧迫が強まってしまう。生きることに真摯であればあるほど、余計に生きづらくなってしまう。かといって、個人で社会に対峙しつづけるだけの能力や意志が脆弱だとつぶれてしまう。
個性の発揚を、と言うのは簡単だが、社会が成熟していけばいくほど、難しくなっていくように思う。個性、多様性という言葉は魅力的だが、社会とは相容れられず、感覚や感情として宙に浮いてしまうことも多い。
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現代社会は評価社会だ。評価社会において、表現はさまざまな意図に裏打ちされている。しかし、思考の方法も表現様式も、使う麗句でさえ定型化してしまっている。
言い換えれば、皆同じような表現に凝り固まっている。
そんな状態で、作文の分析を続けるだけでは、評価社会を乗り切るような戦略的自己表現力を持った人間を育成できないのではないか。また例え他者からどう評価されるかということを意識していたとしても、そこに自己の基軸がなければ、ただ他者の評価に流されるだけの人間になってしまう。現代の社会では、そのような人間が多数派を占めている。子供から大人まで、この評価社会を泳ぎきることだけを目的にしているいるではないか。
ちゃんと考えろと言われても、考える方法を知らなければ、何も考え出すことはできない。しかし、残念ながら、学校でも社会でも、考える方法というものは提示されなかったように思う。
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ここで書かれている今の社会の状況、最近の仕事の中で、特に強く感じます。

無事に、問題なく、大過なく、間違いを犯さず、汚点を残さず、
流される、泳ぎきる、離されずについていく、
チャレンジしない、リスクは負わない、手は出さない、
パターン化、固定化、画一化、無個性化。

標準的な普通のサラリーマン。
日々恙無く。
安住と保身。
ひょろひょろ潜り抜ける能力。

システムや歯車のひとつとしてであれば、機能はしている。
しかし、今の停滞は、
昨日と同じ今日を送りたい、という
小市民的、無難な安定、小さな平和、が基盤になっている。

それ自体は誰も否定はできないけど、
これでは、システムには血が通わない。
チャレンジとか、リスク覚悟で、とか、過去の成功事例は忘れて、とか、
ということがないので、
新たな仕事の活力や創造にはならない。

自分だったら、こうする。
誰にどう思われようとも、こうすべき、こう考える。

おりゃああ、おめえら、なに考えとるんじゃああああ。

暴れん坊、侍、無頼の人、
いなくなりましたよねえ。

考えない現代人。

考えない社会。

幸せだなあ・・・・。
コメント (4)
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