行縢探検倶楽部

延岡市にある行縢山(むかばきやま)を気楽に楽しんでいる皆さんの情報交換の場ですのでお気軽に書き込みください

新ばんば踊り、愛宕山からの風景

2013-06-23 06:13:58 | Weblog

「鐘が鳴る鳴る城山の鐘が、あれは三百年時打つ鐘よ…」 で始まる延岡の新ばんば踊り、その中で、愛宕山から四方を見れば・・・と言う歌詞があります。 で、 この愛宕山からの風景を見てみましょう。

 

東しゃ大灘(日向灘の事でしょうね)

長浜海岸と緑の松林、旭化成の雷管工場(現、カヤクジャパン)とレオナ樹脂・原料工場、レオナせんい工場、この歌が出来たころ(昭和37年)にはレオナ工場はまだ建設されていませんでした。

 

延岡新港基地、それ以前は写真奥の土々呂町にタンク類がありました。

 

 

西ゃ山脈よ~

日之影、高千穂方面ですね。 現在は、東九州高速道が走り保健福祉大学(朱色の建物)が出来ています。

 

 

南、田畑の・・・、 当時は田園風景だったのでしょうが今はかなり田畑が住宅街になっています。 

 

 

 北は六つのマンモス工場

私の推定だと、火薬工場・レーヨン工場・ベンベルグ工場・食品工場・薬品工場・雷管工場の六つの工場ではないかと思います。現在はレーヨン工場と食品工場はありません。 名称が昔のままなのは、ベンベルグ工場だけですね。 

 

雷管工場区域、煙突のある付近はレオナ樹脂・原料工場、雷管工場はレオナ工場と海岸との間の緑色をした区域です。

 

手前の煙突のある所がベンベルグ工場区域、奥の煙突付近がレーヨン工場区域。 現在は、両工場区域とも、電子機器の工場や医療器具の工場他多くの工場が出来ています。

一番奥の山が可愛岳(えのたけ)、西南の役で西郷軍が官軍の包囲を突破したことで有名な所です。

 

 

かすんでいてはっきりわかりませんが、写真奥の左あたりが火薬工場区域、一番手前が食品工場・薬品工場区域。

 

しかし、歌ができて50年、この歌の製作に携わってこられた方はもうほとんどおられないのではないでしょうか・・・。 時代は変わるものですね。 

 

愛宕山展望台に通じる階段、綺麗に掃除されていました。 ありがとうございます。

 

 

延岡観光協会のHPより

延岡の盆踊り(ばんば踊り)の起源

延岡に伝わる「ばんば踊り」は、その踊りに使われる「音頭(口説)」の内容から相当古いものと考えられているが、一説には江戸時代後期に盛んになったと言われている。
それは、踊りと密接な関係にある音頭(口説)の文句に、江戸後期に民衆文化として親しまれた歌舞伎、浄瑠璃の内容がふんだんに盛り込まれてるからである。

踊りの中核となる音頭(口説)として延岡の場合、「白石ばなし」など多数ある。

また、その音頭は、明治末期までは堤防工事や橋梁工事、護岸工事などの地固めや杭打ちの際にも労働歌としても使われた。

延岡のばんば踊りはどこから?

日豊線開通(大正11年)以前は、延岡の政治・経済・文化や物品が海運(千石船)によってもたらされた。すなわち、土々呂、東海の港が代表するが、中でも大武港、東海港は古くから播州赤穂(ばんしゅうあこう、現在の兵庫県)との交流の拠点であり、徳川時代には参勤交代のため欠くことのできない港であった。
延岡の「ばんば踊り」は、その千石船を通して大武港や東海港に伝わり広がっていった。

ばんば踊りの語源

①踊りと切っても切れないものが音頭であるが、延岡の「ばんば踊り」は、兵庫節とも言われる。
 千石船で播州赤穂から様々なものが入ってきているが、その際、その「播州踊り」がなまって「ばんば踊り」になったという説。

②江戸時代に、時の藩主が豊作を祝うために「馬場(ばんば)」に農民達を集めて盛大な盆踊り大会を開いた。
 それ以来、盆踊りの呼称が「馬場踊り」となり、さらに「ばんば踊り」になったという説。
 ※実際に東京都にも「新馬場(しんばんば)」という地名が実在する。

③九州東部の方言で、「激しい」、「にぎやか」というのを「ばんばん」という。
 そういう激しい踊りということで呼ばれたという説。

「ばんば」の語源については3説があるが、播州赤穂との経済交流があったことなどから、「播州踊り」がなまって「ばんば踊り」になったという説が有力となってきている。

新ばんば踊りの誕生秘話

 「ばんば踊り」は古くから伝えられてきた盆踊りの一種であるが、戦争中の空白もあって音頭をとる人も少なくなっていた。
戦後の混乱が収まるにつれ、各地のお盆行事も復活し、「ばんば踊り」も行なわれるようになる中で、「延岡のばんば踊りの音頭に地方色を加えて、誰でも楽しめる歌詞にし、全ての市民が踊れ、見物人がいない踊りの輪となるように」という意見が昭和27年頃に起こった。

こうした声を受け止めた当時の延岡市長 折小野良一(おりおの りょういち)は、小倉の「ぎおん太鼓」や徳島の阿波踊り」など市民総参加で情熱を傾ける姿を延岡にも植えつけたいと、延岡市出身の音楽家、権藤円立氏と話し合い、同じく延岡出身の作曲家で、松竹歌劇団の演出家であった並岡龍司氏に相談。
『伝統のばんば踊り』に新しい命を加えようということになった。

こうして、昭和37年につい最近お亡くなりになられた故・村田英雄氏を歌い手として、「新ばんば踊り」が誕生した。

※伝統の「ばんば踊り」を基調にし、地方色を盛り込み、現代調を加えた「新ばんば」の歌詞と踊りは人気を集め、急速に普及していく一方で、「ばんば踊り」は伝統芸能として延岡市郷土芸能保存会(昭和46年結成)により、大切に伝承されている。

 

(延岡新ばんば踊りの風景調査員 fuka)

 

 


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