新富町にある水沼神社の湖水ヶ池公園にはハスの花が咲いています。 色は白色のものが多くピンク色のものはあまりみかけません。 この池で栽培されているレンコンは、第七代高鍋藩主の秋月種茂公が、農民の暮らしをよくするために栽培させたのが始まりだそうです。 (fuka)
新富町にある水沼神社の湖水ヶ池公園にはハスの花が咲いています。 色は白色のものが多くピンク色のものはあまりみかけません。 この池で栽培されているレンコンは、第七代高鍋藩主の秋月種茂公が、農民の暮らしをよくするために栽培させたのが始まりだそうです。 (fuka)
孫の遊び道具にと、竹を切ってきて水鉄砲を作ってみました。 子供の頃は、この簡単な方式のものと、山桜の皮を剥いできて逆止弁にして連続的に水を飛ばすものも作っていました。 こちらの方は次回に作ってみようと思います。 (fuka)
6月23日(日)宮崎県総合運動公園で、陸上競技の部が開催されました。
5kmロードに出場しましたが、残念ながら7位で延岡市の得点に貢献出来ませんでした。
陸上競技の部で、 男子は残念ながら2位でした。
優勝旗を持ち帰ることはできなかったので、写真に盗って(撮る)帰りました。
来年は6位以内に入賞し、延岡市に貢献したいと思っています。(sakarun)
ケーブルメディアワイワイのグリーンカーテンプレゼントに応募したところ運良く当選しました。
商品の中身は、支柱、ネット及びゴーヤの種でした。
プランターは自己調達です。
5月19日 : 種の植え付け
5月29日 : 育った苗をプランターに植え替え、支柱を組み立てネットを張りました。
6月12日 : 約30cmに成長しました。
6月27日現在、約190cmまで成長しています。
次はグリーンカーテンになった時に報告いたします。(sakarun)
散歩途中の堤防や草むらにピンク色をした「ねじばな」が咲いています。 以前、白い色をしたものも見かけていましたが、最近見かけなくなりました。 (fuka)
延岡から高千穂~高森~俵山トンネルを通過して熊本空港に向かう途中にある「ふるさと市場」、熊本特産のすいか・メロンをはじめ地元でとれた野菜や果物が所狭しと並べられています。 市場と言うだけあって値段も庶民的、季節感が伝わってくる所でした。 (fuka)
富士山が世界文化遺産に登録されました。 これはこれで大変うれしいことです。 やはり富士山は遠くから眺める山だと思います。 しかも雪化粧をした富士山がいいですね。 十数年前に富士山に登りましたが高山病にかかり、まるで二日酔い状態。 頭は痛いわ、食事は摂りたくないわ、吐き気はするわ、でひどくきつかった思い出があります。 (fuka)
我が家の庭の鬼百合が咲き始めました。 田舎の実家から2株もらって来たのですが、今では10株くらいに花がつくようになりました。 この花を見ると子供の頃の暑かった夏の頃を思い出します。 (fuka)
「鐘が鳴る鳴る城山の鐘が、あれは三百年時打つ鐘よ…」 で始まる延岡の新ばんば踊り、その中で、愛宕山から四方を見れば・・・と言う歌詞があります。 で、 この愛宕山からの風景を見てみましょう。
東しゃ大灘(日向灘の事でしょうね)
長浜海岸と緑の松林、旭化成の雷管工場(現、カヤクジャパン)とレオナ樹脂・原料工場、レオナせんい工場、この歌が出来たころ(昭和37年)にはレオナ工場はまだ建設されていませんでした。
延岡新港基地、それ以前は写真奥の土々呂町にタンク類がありました。
西ゃ山脈よ~
日之影、高千穂方面ですね。 現在は、東九州高速道が走り保健福祉大学(朱色の建物)が出来ています。
南、田畑の・・・、 当時は田園風景だったのでしょうが今はかなり田畑が住宅街になっています。
北は六つのマンモス工場
私の推定だと、火薬工場・レーヨン工場・ベンベルグ工場・食品工場・薬品工場・雷管工場の六つの工場ではないかと思います。現在はレーヨン工場と食品工場はありません。 名称が昔のままなのは、ベンベルグ工場だけですね。
雷管工場区域、煙突のある付近はレオナ樹脂・原料工場、雷管工場はレオナ工場と海岸との間の緑色をした区域です。
手前の煙突のある所がベンベルグ工場区域、奥の煙突付近がレーヨン工場区域。 現在は、両工場区域とも、電子機器の工場や医療器具の工場他多くの工場が出来ています。
一番奥の山が可愛岳(えのたけ)、西南の役で西郷軍が官軍の包囲を突破したことで有名な所です。
かすんでいてはっきりわかりませんが、写真奥の左あたりが火薬工場区域、一番手前が食品工場・薬品工場区域。
しかし、歌ができて50年、この歌の製作に携わってこられた方はもうほとんどおられないのではないでしょうか・・・。 時代は変わるものですね。
愛宕山展望台に通じる階段、綺麗に掃除されていました。 ありがとうございます。
延岡観光協会のHPより
延岡に伝わる「ばんば踊り」は、その踊りに使われる「音頭(口説)」の内容から相当古いものと考えられているが、一説には江戸時代後期に盛んになったと言われている。
それは、踊りと密接な関係にある音頭(口説)の文句に、江戸後期に民衆文化として親しまれた歌舞伎、浄瑠璃の内容がふんだんに盛り込まれてるからである。
踊りの中核となる音頭(口説)として延岡の場合、「白石ばなし」など多数ある。
また、その音頭は、明治末期までは堤防工事や橋梁工事、護岸工事などの地固めや杭打ちの際にも労働歌としても使われた。
日豊線開通(大正11年)以前は、延岡の政治・経済・文化や物品が海運(千石船)によってもたらされた。すなわち、土々呂、東海の港が代表するが、中でも大武港、東海港は古くから播州赤穂(ばんしゅうあこう、現在の兵庫県)との交流の拠点であり、徳川時代には参勤交代のため欠くことのできない港であった。
延岡の「ばんば踊り」は、その千石船を通して大武港や東海港に伝わり広がっていった。
①踊りと切っても切れないものが音頭であるが、延岡の「ばんば踊り」は、兵庫節とも言われる。
千石船で播州赤穂から様々なものが入ってきているが、その際、その「播州踊り」がなまって「ばんば踊り」になったという説。
②江戸時代に、時の藩主が豊作を祝うために「馬場(ばんば)」に農民達を集めて盛大な盆踊り大会を開いた。
それ以来、盆踊りの呼称が「馬場踊り」となり、さらに「ばんば踊り」になったという説。
※実際に東京都にも「新馬場(しんばんば)」という地名が実在する。
③九州東部の方言で、「激しい」、「にぎやか」というのを「ばんばん」という。
そういう激しい踊りということで呼ばれたという説。
「ばんば」の語源については3説があるが、播州赤穂との経済交流があったことなどから、「播州踊り」がなまって「ばんば踊り」になったという説が有力となってきている。
「ばんば踊り」は古くから伝えられてきた盆踊りの一種であるが、戦争中の空白もあって音頭をとる人も少なくなっていた。
戦後の混乱が収まるにつれ、各地のお盆行事も復活し、「ばんば踊り」も行なわれるようになる中で、「延岡のばんば踊りの音頭に地方色を加えて、誰でも楽しめる歌詞にし、全ての市民が踊れ、見物人がいない踊りの輪となるように」という意見が昭和27年頃に起こった。
こうした声を受け止めた当時の延岡市長 折小野良一(おりおの りょういち)は、小倉の「ぎおん太鼓」や徳島の阿波踊り」など市民総参加で情熱を傾ける姿を延岡にも植えつけたいと、延岡市出身の音楽家、権藤円立氏と話し合い、同じく延岡出身の作曲家で、松竹歌劇団の演出家であった並岡龍司氏に相談。
『伝統のばんば踊り』に新しい命を加えようということになった。
こうして、昭和37年につい最近お亡くなりになられた故・村田英雄氏を歌い手として、「新ばんば踊り」が誕生した。
※伝統の「ばんば踊り」を基調にし、地方色を盛り込み、現代調を加えた「新ばんば」の歌詞と踊りは人気を集め、急速に普及していく一方で、「ばんば踊り」は伝統芸能として延岡市郷土芸能保存会(昭和46年結成)により、大切に伝承されている。
子供(男)の子供(女)が満一歳の誕生日を迎えたので、誕生餅をついて祝ってあげました。 紅白の餅を背中にからわせ、藁草履をはかせて餅を踏ませようとしましたが、意味が分からないのか泣くばかり。 儀式は思うようには行きませんでした。
同じ一歳でも成長の差があるものですね。 この子は11か月頃から歩きはじめ、普通のご飯を食べ、せんべいなどの固いお菓子も3本くらいしか生えていない歯でボリボリ食べ、まるで大人と同じです。 が、母親のオッパイも飲みます。 いずれにしても健康で元気よく育って欲しいものです。
成長と言えば、先日スーパーで高校時代の同級生を見かけました。 顔にはしわが出来ていて「老けたな~」という印象を受けました。 配偶者に言わせると 「貴方はもっと老けてるよ~」 だそうです。 自分ではそういう事は絶対にないと思っています。 人間、内心では大体みんなそんなものではないかと思うのですが・・・。 私だけでしょうか? (fuka)