前回は、石窟庵の話でした。
石窟庵は、新羅千年の都といわれる慶州にあり、当時は韓国の仏教文化が花開いた時期でもあったとされています。
当時などといいましたが、石窟庵が建立されたのは、西暦750年代だそうです。
庵は、吐含山という山の中腹にあり、外観は、木造の建物と山を切り開いて盛り上がっている墓のような形をした構造物からできていると思われます。
中は、ドーム型の天井のようになっており、そこには、この庵(寺)の象徴である如来座像があり、これが世界遺産になった大きな要因であろうと思われます。
美しい座像ですが、残念なのは、日本の植民地時代に一部の宝塔と仏像が日本人によって持ち去られて、未だに戻っていないことです。
どのような座像かですが、高さが3.45㍍とされていますが、残念ながら写真がありません。
撮影禁止だったような気がします。
さて、次に仏国寺ですが、この寺は、新羅の王様が「我が都が仏国(極楽浄土)のように平和であるように」と念願して530年頃に創建した、と伝えられています。
しかし、現在の寺の基礎が造られたのは、石窟庵の着工と同時とされています。
どういうことなのか分からなくなって来ましたが、その後、話がまたまたややこしくなってきます。
と言いますのは、この寺の現在の姿は、「1970年から3年をかけて行われた修復工事によって」とされているからです。
何があったのか?といいますと、1592年の文禄の役で、侵攻した日本軍によって火を放たれ、建造物が焼失し、石垣や石段などの石造り建築物のみが残った、とされているからです。
文禄の役は、ご存じのように豊臣秀吉が中国に侵攻するためにおこした戦いです。
現地へ行ってみますと、大伽藍への入口として紫霞門をはじめ仏国寺の正面の建物が印象に強く残ると思います。
今日は、自分の勉強不足を感じながらのレポートでした。
旅は、楽しいのですが、歴史と文化、そして、そこにかかわった人々など勉強することが沢山あります。