mugifumi日誌

海外旅行の体験のほか園芸、料理などの生活雑感を思いつくままに綴っています。

美空ひばりさんの歌から2

2016年10月04日 | 人生
 昨日に続き美空ひばりさんの歌をお伝えしたいと思います。
 それは、昨日の最後にレポートしました「川の流れのように」です。
 作詞は秋元康さん、作曲は見岳章さんです。
 この曲は元々は1988年発売のアルバム「川の流れのように~不死鳥パートⅡ」の表題曲で、シングルカット(の曲)は、ほかの曲になっていたものをレコーディングしたひばり本人の強い希望でこちらに変更されたそうです。
 さらに、ウキペディアの説明を読みますと、次のような趣旨のことが書いてあります。
 「ひばりは、ほかの曲をシングルカットする意向だったスタッフに対して、自分の人生と本楽曲を重ねて「1滴の雨が木の根を伝い、せせらぎが小川になる。水の流れがあっちにぶつかり、こっちに突き当たりしながらだんだん大きくなる。やがて大河になり、ゆっくりと海にたどり着く」と発言し、シングルカットを希望したといいます。
 1989年(平成元年)1月11日に日本コロンビアより発売されたが、同年6月24日、ひばりは52歳で死去し、結果的に本楽曲は遺作となった。没後にシングル盤は売り上げを伸ばし、150万枚を売り上げるミリオンセラーとなり、「柔」に次ぐヒット曲となった。・・・<中略>・・・日本放送協会(NHK)が1997年4月から12月にかけて実施した「20世紀の日本人を感動させる歌」の人気投票で、全国1775万4314票・1万9824曲の投票の中から本曲が43万7518票を獲得して1位に選ばれた。」と言いますから、美空ひばりさんの思いの強さや人々のこの歌への感動が伝わってきます。

 それでは、人生への思いが重なるような感動の詩(もちろん、曲も素晴らしい!)をご覧ください。

 知らず知らず 歩いてきた
 細く長い この道
 振り返れば 遥か遠く
 故郷が見える
 でこぼこ道や 曲がりくねった道
 地図さえない それもまた人生
 ああ 川の流れのように ゆるやかに
 いくつも 時代は過ぎて
 ああ 川の流れのように とめどなく
 空が黄昏に 染まるだけ

 生きることは 旅すること
 終わりのない この道
 愛する人 そばに連れて
 夢 探しながら
 雨に降られて ぬかるんだ道でも
 いつかは また 晴れる日が来るから
 ああ 川の流れのように おだやかに
 この身を まかせていたい
 ああ 川の流れのように 移り行く
 季節 雪解けを待ちながら

 ああ 川の流れのように おだやかに
 この身を まかせていたい
 ああ 川の流れのように いつまでも
 青いせせらぎを 聞きながら

 本日は、これにて失礼いたします。

 



美空ひばりさんの歌から

2016年10月03日 | 人生
 先ほどまでかみさんが録画しておいた3時間の音楽番組を見ていました。
 昭和の時代を代表する方々の歌の数々を音と映像で楽しんだのですが、中でも、番組の最後に登場した「美空ひばり」さんの美声と森昌子ちゃんが歌った「愛燦々」に魅了されてしまいました。
 美空さん以外に石原裕次郎さんや、島倉千代子さんなどが登場しましたので、本当に楽しい時間を過ごすことができた!と心が勝手に久しぶりに潤んでしまいました。

 特に、最後に森昌子ちゃんが歌った「愛燦々」の詩を聞いていますと、「人生には愛が満ち満ちている」と訴えているようで、作詞作曲した小倉圭さんの深い愛に対する思いを感じる作品となっていると思うのですが、皆さんはどのように感じるでしょか。
 そこで、その詩を掲載したいと思います。

 1 雨 澘々(さんさん)と この身に落ちて
   わずかばかりの運の悪さを 恨んだりして
   人は悲しい 悲しいものですね
   それでも過去達は 優しく睫毛に憩う
   人生って不思議なものですね

 2 風 散々(さんざん)と この身に荒れて
   思いどおりにならない夢を 失くしたりして
   人はかよわい かよわいものですね
   それでも 未来達は 人待ち顔して微笑む
   人生って 嬉しいものですね

 3 愛 燦々(さんさん)と この身に降って
   心密かな嬉し涙を 流したりして
   人はかわいい かわいいものですね
   ああ 過去達は 優しく睫毛に憩う
   人生って 不思議なものですね



   ああ  未来達は 人待ち顔して微笑む
   人生って 嬉しいものですね

 いかがですか?「わずかばかりの運の悪さ」や「思いどおりにならない夢」に続く「人は悲しいもの」や「人はかよわいもの」という部分を読みますと、思わず「そうだねⅠ」と同意したくなってしまいます。

 この歌もいいけれど、秋元康さん作詞、見岳章さん作曲の「川の流れのように」もいいね!
 という方がいると思いますが、この歌は次の機会に譲りたいと思います。

般若心経、心の「大そうじ」から

2012年03月26日 | 人生

 今日は久しぶりに「般若心経、心の「大そうじ」(名取芳彦氏、三笠書房)」を読んでいます。

 般若心経の意味はわからなくとも、大きな声で読んでいますと、心が何となく「すっきり」するのは小生だけでしょうか?

 いつ読んでいるのか?といえば、初詣での神社で意味もわかないまま呪文のようにお坊さんの声に従って読んでいるということです。

 それでも、意味がわかった方がいいに決まっています。

 そこで、書店で見かけた名取氏の本を購入したのですが、いつもの小生らしく気が向いたら読む、という誠にいい加減な読み方で、なかなか先に進みません。

 今日は二行目に出てくる「行深般若波羅密多時(ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー)」についてお伝えしたいと思います。

 「般若若波羅密多」の意味は、「彼岸(迷いのない心安らかな境地)に到る智慧」ということのようです。

 でも、あの独特な言い回しの「はんやはらみった」という漢字は、サンスクリット語の音写語だから意味がないというのですから、字面に拘らない方が良さそうです。

 さて、観自在菩薩が彼岸に到る智慧を行じる(修行する)というのが、ここでいいたいことのようです。

 つまり、修行が大事なテーマとなっています。それを「認知症になっても本性は残るか?」という医師とのやりとりを通じて話をしているのです。

 認知症になっても本性は残るのか?という問いに「基本的な性格は変わらないでしょう。」と医師が答えています。

 それでは「エライことだ!」と、びっくりするのですが、さらに突っ込んで「性格はなおらないですよね」と聞くと、「いや、なおそうと思えばなおるでしょ」という珍問答が書いてあります。

 いったいどういうことなのか?「だって、住職。それを仏教で“修行”って言うんでしょ」となっています。

 そして、その修行の中身のことが書いてあります。その修行の中身は、「たとえば、ケチそうな人は、お金に対してどうしても自分がそれほどまでに執着するようになったのか、自分にとってお金とは何なのかを心の中でで掘り起こしてみるのです。」となっています。

 まぁ、修行とは、「心の掘り起こしをしてみなさい。」ということのようです。

 でも、小生が気になったのは、ここの文章ではなく、最後の文面でした。

「何のこだわりもなく、好きなこと、やるべきことをしていて、その言動が人を傷つけることなく、人に心に安らぎと勇気を与えてくれる人、そういう素朴な人に出会うと、私はその皺や瞳の中に「深般若」を感じることがあるのです。」

 こういう「自己の内面をトコトン掘り起こさなくとも、深般若を体得している人が世の中には随分いそうだ」と言ってます。

 小生のように、いつも心の掘り起こしが必要な人間から見れば、まったく羨ましい限りです。


日々是好日:自然には幸せの種がいっぱい

2011年06月11日 | 人生

P1010007  

 今日は「超訳、心から安らぐ仏教の言葉(中公新書)」から「日々是好日」についてお伝えします。

 「日々是好日」という言葉は、臨済宗の最重要聖典とされる禅の公案集「碧巌録」のおさめられているそうです。

 小生などは、この言葉を単に「毎日、穏やかに明るく楽しく、つまり、幸せに過ごせる」ことを願っている言葉と理解していました。

 これに対して超訳では次のように書いています。

 「春になれば一面に桜が咲き、初夏はみずみずしい新緑にあふれ、夏は空の彼方までも入道雲がわき上がる。

 自然はいつだって、こうして季節の幸せを運んでくる。邪心もなく、慢心もなく、ただ淡々と、誰のもとにも・・・・・。

 これ以上の幸せの種があるだろうか。

 誰かの幸せの種になっているだろうか。誰かの幸せの種になることが、自分にとっても最高の幸せになるだろう。

 生きている意味はきっと、そうしたところに見出せる。」

 今はそのみずみずしい緑にあふれる初夏ですが、自然の美しさに気がついて、感謝する気持ちが大切なのでしょうね。

 そして、自分は自然と同様に誰かの幸せの種になっているのか考えてみることが必要なのでしょうね。

 お前は誰かの幸せの種になっているのか?という問が聞こえそうですね。

 邪心や慢心の塊みたいな小生には出来ない話ですが、せめてかみさんの幸せの種にはなりたいものです。

 巻頭写真は「幸せのオレンジ色のバラ?」です。


人と生まれたことに感謝を

2011年04月28日 | 人生

 東日本大震災からこのブログを休止していました。

 最初は原発が恐くて心が落ちつきませんでした。

 そして、その後の余震でもっと心が乱れてしまいました。

 我ながら本当に情けない話です。

 被災された方々や福島の方々のことを考えると、自分の不甲斐なさに呆れるばかりです。

 自分に何ができるのか?NHKのあさいちの情報による寄付(3.000円の野菜)と日本赤十字社への寄付、そして中国旅行で知り合いになった石巻のTさんへの生活用品支援ぐらいしかできない自分に歯がゆさを感じています。

 こういう時に人は何を考えて生きていくのでしょうか?というより人生そのもの?そうではなく、何かに頼りたい!という気持がわき起こってくるのです。いい年をして情けない話なのですが、人としての生き様の指針になるようなものを求めてしまうのです。

 そこで今日は「<超訳>心から安らぐ仏教の言葉(中公新書 本郷陽二編著)」からブッダの「人身受け難し」の超訳「人と生まれたことに感謝を」を紹介します。

 『世に存在するものは、すべて因縁による。花はこの世に現れる因縁により花として咲き匂っている。鳥は鳥として生まれる因縁によって、いま、空でさえずっている。

 そんなさまざまな因縁の中でも、人間に生まれるのは、まれにみる幸運に恵まれたからであり、このうえなくありがたい。

 人は両親から生まれてくる。その両親にも両親があり、そのまた両親にも両親がある。そうして何代何十台と遡ってみると、一人の人間は驚くほどの人の命があって、ようやく誕生するのである。

 そのおかげで生まれてきたことに、心から感謝して生きていこう。

 そのうえで、誰に遠慮することもなく、自分らしい人生を切り開いていけばいい。それこそ、生まれてきたことへの感謝を表す生き方なのである。』

 と超訳していますが、この大震災で亡くなられた方々のことを考えますと、言葉もありません。もっともっと長生きして生まれてきたことに感謝しながらを生きたかったのではないでしょうか。