mugifumi日誌

海外旅行の体験のほか園芸、料理などの生活雑感を思いつくままに綴っています。

ルーマニアの社会問題

2013年05月15日 | 国際・政治

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 昨年10月に訪れた「ブルガリア・ルーマニア大周遊」の旅行記をホームページに書いていて、現在、ルーマニアのシギショアラの部分にさしかかっています。

 ブルガリアもルーマニアもヨーロッパの原風景が残っている国として、自然も文化も、そして、人々も素朴で暖かい!という印象をもって旅行をしたのですが、よく考えると経済がどうなっているのかに思いが到りませんでした。

 そんな中で、もう大分前になりますが、朝日新聞にルーマニアの社会問題ともいえる記事が載っていましたので、機会があればその記事をこのブログで紹介したいと考えていました。

 この記事が掲載されたのは、今年の1月9日ですから、もう4月前の記事です。

 国際面の14面に大きな見出しで「国外出稼ぎ 残る子に影」とあり、その次の中くらいの見出しに「ルーマニア自殺・非行が問題化」という文字が躍っていました。

 内容としては、「8年前に欧州連合(EU)に加わったルーマニアで、他国への出稼ぎが急増している。母国への仕送りが家計を豊にする一方で、残された子供たちの自殺や非行といった問題がメディアの報じられ,社会の注目を集めている。」というものです。

 そして、記者がブカレストの中心地、低所得者層が多く住む、ラホバ地区の第141小学校を訪ね、校庭の隅の別棟の教室で、ダイアナちゃん(8)という女の子の記事を載せています。

 彼女の父親が5年前にフランスに出稼ぎに出て以来、幼かったダイアナちゃんはだれとも口をきかなくなった、というのです。

 さらに、次の段落では、「祖父母に預けられた16歳の少年がシンナー吸引で死亡、預け先の叔父に虐待された少女が7歳の弟と路上生活をしているところを警察が保護」といった報道が相次いでいると書いています。

 こうした問題は、親がEUの他の加盟国で働くことが出来るようになってから劇的に増えているそうで、昔の日本の東北のような「出稼ぎ」が原因のようです。

 その数、国内人口、1900万人に対し250万~350万人ともいわれているそうです。

 そして、どんな国に出稼ぎに行っているのかといいますと、「2011年にイタリアで登録されたルーマニア人移民は97万人、スペインでは84万人。」だといいます。

 なぜ、この両国に多いのか?「高齢化が進む両国で、言葉が似るルーマニア人労働者の需要が家事や介護の現場で多く、貧しい女性の出稼ぎにつながる。」のです。

 簡単にいえば、言葉が似ていて、貧しい!、そして、他国の高齢化が出稼ぎの需要につながっているという話ですが、ルーマニアの貧しさを象徴してるような出来事でコメントのしようがありません。

 ちなみに、2011年のブルガリアの一人あたり国内総生産(GDP)はEU平均の49%で、ブルガリア(47%)に次いで低い数字となっています。

 でも、出稼ぎは「肯定的側面があることも見落とすべきではない」そうで、その仕送り(送金)が貧しい農村の生活改善に役立っているといいます。

 反面、出稼ぎ急増は民主化後深刻な問題となった人口減少を加速させていて、1990年に約2300万人だった人口は2011年(国調)には1904万人になっているといいます。

 EUの一員になり、他の加盟国で自由に働く権利を得た07年から移民が激増したと言いますが、子供たちの自殺・非行の多発と経済活動などが低下する人口減少という大きなマイナスをどうのように解決したら良いのでしょうか?

 ところで、ブルガリアも同じような問題を抱えているのでしょうか?両国が大好きになった人間として心配しています。

 でも、小生にはこのブログやホームページを通じて両国の素晴らしさを伝えて、旅行者が増えること以外に出来ることはなさそうです。

 今日の巻頭写真は、ルーマニアの世界遺産・ピエルタンの要塞教会です。


子供の政治が国を滅ぼす(続きの続き)

2010年08月28日 | 国際・政治

 昨日は英米流「腐敗」との付き合い方についてお伝えしました。

 今日は小泉「劇場政治」の大罪についてお伝えします。

 最初の書き出しが刺激的です。

 「近年の日本の政治状況を振り返ると、「子供が動かす幼稚な国家」という言葉がどうしても浮かんでくる。特に、政治のリーダーたちが価値観や思想において完全に「メルトダウン」しているのではないか、という危惧を覚えるのだ。

 そもそも小沢氏が多額の政治資金を集めるなかで、その手法に旧田中派的な利権政治の要素が色濃く残っていることは、これまでにも幾度となく指摘されてきた。しかし。所属政党たる民主党は何の手も打ってこなかったし、、小沢氏もそれを改めようとはしていない。与党たる自民党も、自らの中に同様の利権構造を抱えているためか、そうした小沢氏の問題を真剣に追及しようとはしてこなかった。メディアもまた同様である。つまり、検察の強制捜査や秘書の逮捕に至る以前に作動すべきチェックシステムがまったく働いていなかったのである。」

 この文章をどう感じるかですが、政治家が自浄作用を発揮しない理由は、「政治資金を集めるにはある程度のことは致し方ない」、などという暗黙の了解や理解が与野党を問わず政治家同士にあるような気がしますし、マスコミも「しかたがないか?」というような感じで受け止めているのだと思います。

 小生なども国会議員ではありませんが、普段は相容れない政党の政治家同士がある種の仲間意識みたいなものをもっているのではないかと感じたことが何度かあります。

 そうした政治家の自浄作用がない現状を先生は「子供が動かす幼稚な国家」と言ったのだと思いますが、では「大人が動かす国家」とはどういうものかということになります。

 それを先生は、次のように述べています。

 「成熟した民主主義体制とは、さまざまな矛盾や混乱などを抱えつつも、その矛盾や腐敗がまだ大きくならないうちに発見し、着実に対処を行なうべきものだろう。」

 「ところが日本では、いきなり事件が発覚し、マスコミのカメラの放列の前ですべてが進行する。そして、メディアに煽られた感情的な世論の後押しに応えるかたちでないと、事態は進まなくなってしまっている。これこそまさに「究極の劇場化」である。」と述べています。

 先生は、小沢氏の捜索に当たる検察のことを「「劇場の主役」として「いま俺が舞台に上がるんだ」という稚気に似た風情すらにじみ出ていた。」といい、「また涙交じりの声で「代表続投」を表明した小沢氏も、やはり周囲のこしらえたシナリオに沿って劇中の登場人物になろうとしているかのようだった。」と述べています。

 そして「この日本政治の「劇場化」を現在の究極形態まで押し進めた元凶は、言わずとしれた小泉純一郎元総理であった。」と批判しています。

 「小泉政治の功罪として、郵政民営化などの構造改革の是非が議論んの対象となるが、私は、小泉氏によって切り拓かれた究極の劇場政治が国民の精神構造に及ぼした破壊的な影響、そしてその結果としてのマスコミと国民の危ういほどの幼児化を促進したことの方が、はるかに罪は重いのではないかと考えている。そのあとに残されたものが、政党政治に対する国民の根本的な幻滅だったからだ。」と断定しています。

 小泉氏に対しては、小生などは、歯切れの良い言葉で「ガンガン」ものを言って、自分がやりたい郵政民営化や労働の自由化などを実現した人だと思っていました。

 さて、最後に先生はいくつかの具体例を挙げて日本の危機を訴えています。

 『日本にとって非常に危険なのは、国内における政治の「メルトダウン」が、リーマンショックに象徴される掛け値なしの「世界史の激動期」と重なり合っていることだ。

 これは日本にとっては60年ぶりのきわめて厳しい事態といえる。もはや同盟国アメリカでさえ、日本の立場に配慮してくれる余裕はなくなっている。それを端的にあらわす事件が相次いで起きている。

 二月二十八日、中国を訪問していたアメリカ国防総省のセドニー次官補代理が、尖閣諸島の帰属やその地位に関してアメリカは日本を支持しない、中立を守ると発言したのである。それに対して、麻生首相自ら「アメリカの見解に変更がないことを確認した」と予算委員会で答弁したのである。

 これは驚愕に値する”事件”であった。日本政府が「日米関係は、安全保障の基本的な取り決めについてその都度、確認をしないといけないような状況にある」と世界に広言してしまったのと同じである。たとえ対米確認をしていても、最低限、水面下に留めておくのが国際社会の常識というものだ。

 一方の小沢氏も2月末、「今のこの時代、第7艦隊以外に在日米軍はいらない」と口走っている。

 こうした事態を目の当たりにするにつけ、「子供が動かす国」という言葉が、また私の脳裏をよぎる。

 世界危機のなかでいま、アメリカと中国は国運をかけた「大人のゲーム」に激しく火花を散らせている。アメリカは経済危機から脱するためには、中国に米国債を買ってもらうしかないが、アメリカの覇権には口出しはさせない。

 一方、中国は「ドル基軸」体制の後を見越し、米中協調を謳いながら空母建造でアジアの海の覇権に手をかけつつある。北朝鮮のミサイルどころではないのである。

 こうしたかってない苛烈な内外の状況下で、日本だけがとめどもなく劣化する「子供の論理」で動いていることがいかに危険なことか。

 いま日本にとっての急務は、「大人の民主主義国」として備えているべき精神的な「安全装置」をいかに回復させるか、という点に尽きる。制度の整備だけではなく、政治指導者、マスコミ、ひいては国民人一人が精神、価値観の面で深く成熟することなしには、昭和初期の悲劇が、形を変えて、この国を襲うことになるのは必定と思えるのである。』

 と結んでいますが、皆さんはどのように思われたでしょうか?

 小生も、劇場型人間なのか怒りっぽく単純な発想で物事を見ることが多いようです。とても精神、価値観の面で成熟しているとは言いがたいと反省しています。


子供の政治が国を滅ぼす(続き)

2010年08月27日 | 国際・政治

  昨日、中西先生の考え方を文芸春秋で読んで、先生の考え方を皆さんに紹介しようと思ったのですが、理科不足のためうまく表現できなかったものですから、途中で紹介をやめてしまいました。

 先生は、帝人事件を例にとって政治に清潔を求める国民の要求こそが、結果として「検察ファッショ」を後押しし、軍部の台頭を容認して、政党政治を壊滅させてしまったと指摘しています。

 それでは、政治に清潔を求めてはいけないのでしょうか?

 先生は、「ここで、民主主義政治の最大の難問にたどりつく。」といっています。

 それは「政党政治の維持と、政治腐敗の摘発は、ときに相反する。そのとき、清潔と民主主義のどちらを取るか。そして誰がいかにしてバランスをとり、その判断を下すのかという問題である。」そうです。

 ということは、政党政治という民主主義の維持のためには、政治の腐敗には目をつぶりなさい、といっているのでしょうか?

 でも、必ずしもそのように断言はしていないようです。

 「政治に完全な清潔を求め、徹底的に無菌状態に近づけていくことは不可能だし、危険ですらある。しかし、安易に政治の腐敗を容認してしまえば、やはり国民の信頼を失い、政治の信頼は根底から喪われる。一体、その線引きはどこで、どのようにして行なえばよいのか。これこそ「統治者の悩み」と言わねばならない。」と言っているからです。

 そして、「この問題は先進民主主義国が長年にわたって苦しめられた問題でもある。」と指摘して先進国の解決先を紹介しています。

 まず、アメリカですが、「アメリカで顕著なのは、重大な政治スキャンダルが発覚したとき、これを「国家安全保障に関する問題」として位置づける、という手法を用いることだ。」といっています。

 どいうことかといいますと、「これ以上腐敗を追及することは、国家の安全をも脅かすことにつながるため、党利党略を離れ、国家的な立場としてスキャンダルに蓋をする、という解決策をとることが少なくない。」そうです。

 いやはや、驚きですね!「国家としてスキャンダルに蓋をする!」つまり、国家が幕引きをするといっているのです。これで、国民が納得するのでしょうか?

 でも、現にそういうことが行なわれているそうです。

 「ウォーターゲート事件への関与を認めたニクソン大統領は、事件の責任をとって辞任したが、後任のフォード大統領は不徹底な事件調査の後、ニクソンに対する特別恩赦を行なっている。1986年には、レーガン政権時代のイラン・コントラ事件が発覚したが、これも真相は解明されないまま終わっている。」のだそうです。

 ウォーターゲート事件の真相を徹底的に解明すると「国家の安全をも脅かす」という判断があったということのようですが、その判断が正しいのかどうかは問われないということでしょうか?

 アメリカ国民は民主主義の欠点を熟知していて、こういう判断を容認するアメリカ国民こそが「大人の民主主義を知っている」ということでしょうか?

 日本人には、このような時の政治権力者である大統領の判断に任せる、というような「政治への信頼」ができないのかもしれませんね。

 次にイギリスですが、「イギリスでは、国家的に重大な意味を持つ疑獄やスキャンダルでは、政治家を検挙はするが、裁判を長引かせてうやむやにしてしまう、という”テーブル・マナー”が使うことがある。」といってます。

 いやはや、これが「テーブル・マナーだ!」という言うのですから驚きですね。有名な例としては、後に首相となるロイド・ジョージやウィンストン・チャーチルも連座したマルコーニ事件(無線通信メーカーからの賄賂)というのがあったそうです。

 この裁判を長引かせるという作戦は、「イギリス独特の階級社会によるところも大きく、司法界にも政界にも、それぞれの立場を超えて、エリート的な「国家の統治意識」から同じ回路でものを考える人々がいて、彼らの下した判断は、裁判を不自然に長引かせ、情勢の変化を待つことだった。」というのですから、これも驚きの作戦ですね。

 このように外国の例を引き合いにだして、先生は次のように問題提起しています。

 「民主主義」と「腐敗の根絶」が二者択一となるような究極の選択があるということは、日本人がまだ一度も考えたこともないレベルの命題である。いずれにしても肝要なのは、政治が腐敗し問題が生じた際に法と正義を踏まえつつ「どう収束させるか」という大きな知恵、国家としての懐の深さであろう。しかし、それは一体、誰が担うべき役割なのか。

 また、それに必要なのは、第一に、国家の側にある程度の混乱、ある程度の腐敗を民主主義の代価として容認するプラグマティズム(実用主義)の気風であろう。第二に、政治指導者や検察、司法のトップに、「国家的な見地」から判断を下すという広い視野と責任意識が求められる。第三に、問題を早期に発見し、芽のうちに摘んでおく仕組みも不可欠だ。

 これらを備えてはじめて、成熟した民主主義国家といえるかもしれない。

 このように論旨が展開しますと、次は「現在の日本にこうした条件は整っているいるのだろうか。」ということになります。

 そこで、先生は現在の日本の検察の現状と指揮権の問題を述べています。

 特に、小生などもマスコミに洗脳されているためか、法務大臣の指揮権は発動してはならないものだと理解しています。

 その原因は昭和29年の造船疑獄で犬養法務大臣が佐藤栄作氏などの政治家を救うため発動したからですが、本来は、政治家たる法務大臣が検察という官を民主主義的にチェックするためのシステムだったのです。(人民の人民による人民のための検察になっているのか、ということでしょうか?)

 この段落(英米流「腐敗」との付き合い方)で小生が「なるほど、そういう考え方もあるのか!」と感心したのは、次の文章です。

 「検察は事件の捜査、告発に際して、政治的な配慮は一切すべきではない」というのも、実は危険な誤謬である。もちろん、第一線の検察官はあくまでも犯罪の嫌疑があれば、事案の究明に専念すべきだろう。しかし、統治の責任を負う立場であれば、検察、裁判所、あるいは警察でも、その中枢を担う人間に、純粋な法理を超えた、国家全体を見据えた判断が要求されるのは、三権分立化の成熟した民主主義の鉄則といっていい。」

 そして、小沢氏秘書の政治資金規正法違反事件に言及しているのですが、これではまるで検察バッシングですね。

 でも、そうではないのです。検察の判断にも問題があるが、政治家にも大きな問題があるといっています。結果として、国民の検察不信、政治不信がつのるばかりになって、国家として大変不幸なことだといっているのです。

 そして、「近年の日本の政治状況を振り返ると「子供が動かす幼稚な国家」という」言葉がどうしても浮かんでくる。」といっているのです。

 この原因を誰が作ったのかを「小泉劇場」の大罪として、次に進んでいますが、疲れましたので、今日はこの辺で失礼します。

  


子供の政治が国を滅ぼす

2010年08月26日 | 国際・政治

 小沢一郎氏が民主党の代表選挙に出馬するというニュースが報じられています。

 小生は、政治に関してはいろんな考え方がありますので、このブログでの論評を避けてきました。

 今度の民主党の代表選挙も「なにも言わない!」と決めていました。

 ところが、本棚に置いてあった2009年5月号の文芸春秋を見て気になる記事がありました。

 どうして、そんな古い本を見る気になったのか?といいますと、それは、小生が最近、文芸春秋のクイズに凝っているからで、その記事もクイズが見たかったから、たまたま読んだということになります。

 その政治に関する記事は「子供の政治が国を滅ぼす・・・検察の暴走が招いた歴史の悲劇を繰り返すな」という京都大学教授の中西輝政先生の記事です。

 去年の5月号でしたから小沢一郎民主党代表の秘書が逮捕、起訴された事件があり、先生の記事は、この是非ではなく、あり様を問題にしています。

 そして、昭和の初期に発生した政治スキャンダルを例にとって、最後には「民政党と政友会の双方で政治スキャンダルが暴かれ、議会やメディアで非難合戦を行なうにつれて、国民の間では「所詮、どの政党も同じだ」「政治家はすべて汚い」「結局、どっちもどっちだ」という言葉が交わされるようになった。」としています。

 そして、その危険性を次のように述べています。

 「この「どっちもどっち」という言葉ほど、政党政治にとって恐ろしい言葉はない。なぜなら、議会政治の・・・政党の信頼がとめどなく低下し続ける構図になれば、必ず埒外の勢力が政治に介入してくることになる。

 とくにそれは、経済や対外情勢が激動期を迎える時代になると、殆ど必然とさえいってよい。昭和初期において、この空白を最大限に利用したのが陸軍を中心とす軍部であったことは言うまでもない。

 翻って、今の日本の状況はどうだろうか。今回の西松建設の政治献金問題でも、・・・自民党側にも献金を受けた議員が出てきて、・・・多くの国民が「どっちもどっちだ」と口にし始め、総選挙の関心が一挙に萎えてしまった。

 それが、単なる政治家に対する庶民的な諦念、もしくは冷めた認識にとどまるならばいい。しかし、今の日本の政治状況は、戦前の日本にどこか似たあやうさが感じられる。そのとき、「どっちもどっちだ」という言葉は、議会政治そのものを死に追いやる危険性があることを、私たち国民は認識してしておく必要がある。」

 と談じています。マスコミに踊らされて「どっちもどっちだ」と諦めてはいけない、というのはわかるのですが、「子供の政治が国を滅ぼす」という先生の本論がわからないと思います。

 もちろん、先生の主張には、この続きがあるのです。

 その内容は「戦前の日本が道を誤り、敗戦まで突き進んでしまった、その蹉跌の最大の要因はどこにあったのか、そして今回も、最も重要な「歴史の教訓」とすべきものはなにか。」という文章で始まります。

 昭和9年におきた帝人事件に関する司法の暴走を書いているのですが、なぜ暴走が起こったのか、そしてそれが結果として軍部の台頭を容認して、政党政治を壊滅させてしまったといっています。

 帝人事件は、「国営銀行である台湾銀行に保有されていた帝国人造絹糸の株を、財界人のグループである「番町会」が値上がり前に買い受けたいという運動をはじめ、政治家や大蔵官僚に賄賂を贈った、というものだった」そうです。

 この事件は政党政治を否定していた平沼騏一郎が事件の陰で暗躍したもので、検察によるデッチ上げだったのですが、重要なのは、この事件が起きた昭和9年という年は、内政的にも、外交、経済の面でも、日本が着実な「建て直し」を進めていた時期であったということ、だそうです。

 きっと、政党政治による建て直しが進むと、彼らの活躍の舞台であるファシズム政治が出来なくなってしまう、ということでしょうか?

 しかし、問題は、なぜこういうことが出来たのかということのようです。

 「戦前の検察が平沼らトップの陰謀に単純に操られて、財界、政界の腐敗摘発に突き進んでいったのではない、ということだ。そこには”清潔”を求める国民の声があり、それに応じようとする第一線の検察官たちの真摯この上ない使命感があったのである。」と述べています。

 そして、「ここから現代の我々が学ぶべき教訓は、二つある。」といってます。

 「ひとつは、検察いう権力が、いかに第一線の検察官が純然たる法と正義の立場に徹したとしても、結果としては政治と独立した存在ではあり得ない、ということだ。そして、もうひとつは、政治に清潔を求める国民の要求こそが、結果として「検察ファッショ」を後押しし、軍部の台頭を容認して、政党政治を壊滅してしまったことである。」

 ということだそうですが、小生などは、この学ぶべき教訓をどう生かすべきなのかわからないというのが正直な感想です。

 さて、本論の「子供の政治が国を滅ぼす」ですが、先生の論旨は「英米流「腐敗」との付き合い方」「小泉「劇場政治」の大罪」と続きまして、最後に「いま日本にとっての急務は「大人の民主主義国家」として備えているべき精神的な「安全装置」をいかに回復させるか、という点に尽きる、と述べています。

 そして、それがないと昭和初期の悲劇が形を変えてこの国を襲うことになる、と警告を発しています。

 この二つの内容が本論の「子供の政治が国を滅ぼす」の内容になっていると思うのですが、時間がなくなってきましたので、次の機会にレポートしたいと思います。

 

 


キューバの国営食堂

2010年03月11日 | 国際・政治

 キューバといいますと、冷戦時代のキューバ危機を思い出しますが、世の中様変わりしてきたものです。

 海外旅行を趣味とする人間として、小生は新聞の国際面を見ていますが、今日の朝日新聞にキューバのことが大きく報道されていました。

 その内容は、キューバ社会主義の象徴的存在であった「国営食堂」が財政難を理由に廃止されるというものです。

 キューバと言えば、カストロという名前が浮かびますが、そのフィデル・カストロ氏は、限られた資源を国民が分け合う平等主義を理想に掲げ、教育医療は無料化し、食料配給制度も作ったそうです。

 こうした国民全体が等しい待遇を受けるこれらの制度は、社会主義キューバの要だそうです。

 その象徴である国民食堂をやめる理由は、先ほど申し上げた財政的なことですが、基本的な問題は、平等主義の弊害である労働者のモラルと生産性の低下があるようです。

 働く人が、働かない人の分を支える社会というのは、人間愛としては理解できるし、そういう社会を作ることが理想だというのも分かるのですが、待遇が同じだというのでは「まじめに働くのがバカらしくなって」しまうのではないでしょうか。

 社会主義は、実現できれば素晴らしいことだと思いますが、欲望や価値観が違う多種多様な考え方の人間がいるという現実を忘れた経済政策のような気がします。

 それはともかく、新聞では、そうした厳しい経済情勢にあるキューバの舵取りを任された弟のラウル・カストロさんは、08年7月の国会演説で「平等主義は怠け者が働き者を食い物にすること」と述べて、成果主義に大きく舵を切ったそうです。

 今後、キューバがどういう方向に進んでいくのか分かりませんが、成果主義を取り入れていくということは、その手法は市場経済主義に結びついていますので、中国のような社会主義市場経済に近づいていくのではないでしょうか。

 もっとも、小生には社会主義市場経済がどういうものか分かりません。でも、その変化のお陰でキューバが気楽にいける国になれば良いですね。時代は、ドンドンはやく進んでいます。なにしろ、あのヨーロッパの火薬庫といわれた旧ユーゴスラビアの国々に行くことができるのです。そして、東西冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊して20年だそうですが、これから世界に、あるいは日本に、どのような大きな変化が起こるのでしょうか?

 さて、次のニュースは「フィリピン」の話です。

 特派員の囲み記事のようなものでしたが、大変、面白いと思いました。

 内容は、フィリピンでは、結婚の披露宴の最後に花嫁のウエディングドレスに紙幣をつけたり、20ペソ札(約40円)を花束のようにつなぎ、新郎の首にかける人もいるそうです。

 新郎新婦が幸せに暮らせるよう願う習慣だそうですが、皆さんはどのように感じますか?

 今日は新聞の国際面の記事からお伝えしました。