mugifumi日誌

海外旅行の体験のほか園芸、料理などの生活雑感を思いつくままに綴っています。

出国手続き・・・荷物検査からチェックインまで

2010年08月31日 | 旅行記

 これまでに何回か(二十数回)海外旅行にいっていますが、いつもの癖で時間の余裕がないためか、あわただしく(何が何だかわからないうちに!)出国手続きを進めています。

 そこで、どんな手順で成田空港を飛び立って、そして、帰ってくるのかを考えてみました。

 何故、帰りのことを考えるのか、と思うでしょうね。

 海外旅行の面倒なところは、この出入国手続きが少なくとも4回もあることなのです。

 4回の内訳は、成田で2回、旅行先の空港で2回ということです。

 何が面倒かといいますと、出国の例で申し上げれば、荷物検査(スーツケース)にチェックイン、両替、セキュリティチェック、税関申告、出国審査などがあり、これらに要する時間が余裕を見て1時間30分となってます。

 そして、約30分前に自分が搭乗する飛行機の搭乗口に集合することになっていますので、合計すると2時間前に空港に行く必要があるというわけです。

 外国に遊びに行くのだからそんなことで文句を言うな!と言われそうですが、文句を言っているのではなく、これが結構、戸惑うことが多いのです。

 個人旅行ではなくツアーの例で話を申し上げますが、旅行会社にツアーの申し込みをして旅行が催行されますと、出発日の1週間前くらいに旅行会社から日程表が送られてきます。

 その中に、出発当日は「成田空港第1ターミナルビルの4階Kカウンターの阪急交通社の受付カウンターに10時55分」までに集合するようになどと書いてあります。

 指示通り、時間までに指定のカウンターまでに行きパスポートなどを提示しますと、添乗員さんが待っていて出国手続きなどを説明します。

 そして、まず、指示されるのが「荷物検査」と「チェックイン」で、5月に旅したクロアチアなどの旅ではこの手続きを同時にやっていました。

 これは何をするかといいますと、これから乗る飛行機の会社(航空会社)の出発カウンターに行って、スーツケースのエックス線検査と重量測定(エコノミィクラスは20㎏まで)を行いスーツケースの預り証を貰うのです。

 それには、パスポートと航空券(あの濃い緑色のものではなく、薄い紙になりました・・・旅行会社のカウンターで受領)を提示するのですが、同時に搭乗券(自分の名前や飛行機の座席番号などが書いてあるもので電車の乗車券みたいなもの)の取得手続きも進めます。

 ところが、クロアチアの旅では、搭乗券は阪急交通さんが手続を済ませており、スーツケースのみの手続きとなりました。

 このように旅行会社によっては(同じ会社でもコースによっては)、ツアーメンバーが行なう荷物検査やチェックイン手続きが異なり、小生などは「随分と取り扱いが違うな!」と感じることがしばしばあります。

 この手続きの違いの原因は、基本的には、お金ですね。でも、「ヨーロッパ旅行のすすめ」ではありませんが、「おこっちゃだめですよ、だからやすいんです。」ね。

 旅行代金が高い会社ですか?荷物検査からチェックインまでの手続きを全部、会社がやってくれます。

 まぁ、それはそれとして、ここで注意すべきことですか?

 それは何といっても、重量制限と座席の指定(窓際か通路側か)ですね。まず、重量制限の話ですが、会社によっては、というかアメリカだけは重量制限が20㎏ではないようですが、日本やヨーロッパの航空会社は、どこも20kgのようです。

 クロアチアなどの旅は、オーストリア航空(ウィーンまで)で20㎏でしたが、受付が日本人の若い女性で「にっこり」と微笑んで、小生の重量オーバーかもしれないスーツケースを預かってくれました。

 以前は、かなり大目に見てくれていたようですが、最近は厳格になった会社が多くなったという話を聞きました。飲み物など重い土産物が増える帰国便は要注意ですね。

 なお、ビジネスクラスは30キログラムだそうです。また、重量オーバーになるとどうするかですが、基本的には20キロになるようにカウンターでスーツケースから重いものを出すか、高い料金を払うということになります。

 クロアチアなどの旅では、帰国便でツアー仲間がスーツケースを開けていましたから、言葉が通じないこともあり、手続きが厳格になってやりにくくなってきました。

 小生の場合も、かなり危なかったのですが、「にこっ」と満願の笑顔でいましたら通してくれました。

 さて、次に座席の指定の話ですが、ヨーロッパ旅行の場合には3人で行くのならいいのですが、2人の場合には「通路側」を確保することをおすすめします。

 外が眺められるので、窓際が良いなどと思ってはいけません。そんなメリットは、一時的なもので、12時間から13時間もトイレに行きたいと思うたびに、通路側に座って寝ている知らない人に頭を下げることになるからです。

 問題は、どこでその希望を伝えるかですが、まず、旅行の申し込み時に旅行会社に強く、何度も申し入れておくことが大切です。

 そして、自分でチェックインの手続きを行なう場合には、航空会社のカウンターで希望を言うことです。相手が外国人の場合には、英語で言う必要があります。

 何というか?Aisle(Passage) side, please.でしょうか?

 ところで、このほかの出国手続は、次の機会にお話したいと思います。 


南イタリア紀行:タオルミーナ

2010年08月30日 | 旅行記

 mugifumi夫婦の海外旅行(http://www.geocities.jp/sinainaruike)の更新作業が進んでいません。

 その原因は、行く前に勉強をしていないので、訪問した場所がどこで、どのような建物、自然景観なのかがわからなくなってしまうからです。

 皆さんご存知のように、mugifumi夫婦の海外旅行は、写真集と旅行記に分けて掲載しています。

 何が違うのかといえば、写真集は、地名と簡単なコメント(例・・・アドリア海の真珠にふさわしい!)は乗せていますが、あくまで写真を見ていただくものですが、旅行記は、自宅から成田空港までのドタバタなども含めて、旅行の感想(添乗員さんのこと、何を見て感動したか、面白い事件は?食事やホテルの様子など)を日付ごとに整理して書いたもので、読み物風になっています。

 したがって、写真集は、旅行から帰ってすぐに写真を整理すれば、それほど時間をかけずにHPに掲載できるはずなのですが、「ずぼら」な性格のためか、はたまた歳のためなのか最近、そういう作業が段々、億劫になってきました。

 自分で言うのもなんですが、そうなると旅行記のほうはいつ出来るのか見当もつきません。

 さて、そんなHPの更新状況ですが、2~3日前から阪急交通さんにお世話になった「とっておき南イタリア・シチリア島の旅8」の写真集の続きのところ、シチリア島のタオルミーナを作り始めました。

 ところが、写真を見ていて困ってしまいました。

 「みな同じような光景でどの写真がタオルミーナなのかわからない!?」

 写真に日付(ドジですね!日本時間ですよ!)が入っていますので、その心配はないのですが、「ここはタオルミーナの何という通りだろう?」とか「ここに写っている広場と教会の名前は?」といった具合に場所が特定できないのです。

 仕方がありませんので、イタリアのガイドブックやネットでタオルミーナを検索して場所を特定しようと努力していますが、どうなりますことやら。

 ところで、小生は、タオルミーナという言葉を聞きますと「ギリシャ劇場」を思い出します。

 ギリシャ劇場は、紀元前3世紀の野外劇場だそうですが、あのような立派なのものが紀元前に造られたという話は驚き以外の何物でもありません。

 劇場の直径は、最大109メートル、すり鉢状の観客席と舞台があり、円柱や崩れた壁を見ていますと古代ギリシャに思いを馳せてしまいそうです。

 今でも夏にはここでバレーや演劇、コンサートなどが開かれているそうです。

 と言いましても、屋根がありませんので雨が降ったときはどうするのでしょうね?

 さて、ここの景色で強く印象に残る場所があります。

 それは、劇場の観客席に登って高台から見る景色です。

 劇場の高台からは、青い海、エトナ山、街並みなどが渾然一体となった美しい景観が見えます。

 さて、最後にHPの話ですが、現在策定中のタオルミーナの写真(NO11)は、劇場の入口までしか掲載していません。

 今後、劇場の本体写真と高台からの絶景、そして、映画「グランブルー」の舞台となったタオルミーナ港の写真などをNO12としてお届けしたいと思いますので、期待しないでお待ちください。

 

 


子供の政治が国を滅ぼす(続きの続き)

2010年08月28日 | 国際・政治

 昨日は英米流「腐敗」との付き合い方についてお伝えしました。

 今日は小泉「劇場政治」の大罪についてお伝えします。

 最初の書き出しが刺激的です。

 「近年の日本の政治状況を振り返ると、「子供が動かす幼稚な国家」という言葉がどうしても浮かんでくる。特に、政治のリーダーたちが価値観や思想において完全に「メルトダウン」しているのではないか、という危惧を覚えるのだ。

 そもそも小沢氏が多額の政治資金を集めるなかで、その手法に旧田中派的な利権政治の要素が色濃く残っていることは、これまでにも幾度となく指摘されてきた。しかし。所属政党たる民主党は何の手も打ってこなかったし、、小沢氏もそれを改めようとはしていない。与党たる自民党も、自らの中に同様の利権構造を抱えているためか、そうした小沢氏の問題を真剣に追及しようとはしてこなかった。メディアもまた同様である。つまり、検察の強制捜査や秘書の逮捕に至る以前に作動すべきチェックシステムがまったく働いていなかったのである。」

 この文章をどう感じるかですが、政治家が自浄作用を発揮しない理由は、「政治資金を集めるにはある程度のことは致し方ない」、などという暗黙の了解や理解が与野党を問わず政治家同士にあるような気がしますし、マスコミも「しかたがないか?」というような感じで受け止めているのだと思います。

 小生なども国会議員ではありませんが、普段は相容れない政党の政治家同士がある種の仲間意識みたいなものをもっているのではないかと感じたことが何度かあります。

 そうした政治家の自浄作用がない現状を先生は「子供が動かす幼稚な国家」と言ったのだと思いますが、では「大人が動かす国家」とはどういうものかということになります。

 それを先生は、次のように述べています。

 「成熟した民主主義体制とは、さまざまな矛盾や混乱などを抱えつつも、その矛盾や腐敗がまだ大きくならないうちに発見し、着実に対処を行なうべきものだろう。」

 「ところが日本では、いきなり事件が発覚し、マスコミのカメラの放列の前ですべてが進行する。そして、メディアに煽られた感情的な世論の後押しに応えるかたちでないと、事態は進まなくなってしまっている。これこそまさに「究極の劇場化」である。」と述べています。

 先生は、小沢氏の捜索に当たる検察のことを「「劇場の主役」として「いま俺が舞台に上がるんだ」という稚気に似た風情すらにじみ出ていた。」といい、「また涙交じりの声で「代表続投」を表明した小沢氏も、やはり周囲のこしらえたシナリオに沿って劇中の登場人物になろうとしているかのようだった。」と述べています。

 そして「この日本政治の「劇場化」を現在の究極形態まで押し進めた元凶は、言わずとしれた小泉純一郎元総理であった。」と批判しています。

 「小泉政治の功罪として、郵政民営化などの構造改革の是非が議論んの対象となるが、私は、小泉氏によって切り拓かれた究極の劇場政治が国民の精神構造に及ぼした破壊的な影響、そしてその結果としてのマスコミと国民の危ういほどの幼児化を促進したことの方が、はるかに罪は重いのではないかと考えている。そのあとに残されたものが、政党政治に対する国民の根本的な幻滅だったからだ。」と断定しています。

 小泉氏に対しては、小生などは、歯切れの良い言葉で「ガンガン」ものを言って、自分がやりたい郵政民営化や労働の自由化などを実現した人だと思っていました。

 さて、最後に先生はいくつかの具体例を挙げて日本の危機を訴えています。

 『日本にとって非常に危険なのは、国内における政治の「メルトダウン」が、リーマンショックに象徴される掛け値なしの「世界史の激動期」と重なり合っていることだ。

 これは日本にとっては60年ぶりのきわめて厳しい事態といえる。もはや同盟国アメリカでさえ、日本の立場に配慮してくれる余裕はなくなっている。それを端的にあらわす事件が相次いで起きている。

 二月二十八日、中国を訪問していたアメリカ国防総省のセドニー次官補代理が、尖閣諸島の帰属やその地位に関してアメリカは日本を支持しない、中立を守ると発言したのである。それに対して、麻生首相自ら「アメリカの見解に変更がないことを確認した」と予算委員会で答弁したのである。

 これは驚愕に値する”事件”であった。日本政府が「日米関係は、安全保障の基本的な取り決めについてその都度、確認をしないといけないような状況にある」と世界に広言してしまったのと同じである。たとえ対米確認をしていても、最低限、水面下に留めておくのが国際社会の常識というものだ。

 一方の小沢氏も2月末、「今のこの時代、第7艦隊以外に在日米軍はいらない」と口走っている。

 こうした事態を目の当たりにするにつけ、「子供が動かす国」という言葉が、また私の脳裏をよぎる。

 世界危機のなかでいま、アメリカと中国は国運をかけた「大人のゲーム」に激しく火花を散らせている。アメリカは経済危機から脱するためには、中国に米国債を買ってもらうしかないが、アメリカの覇権には口出しはさせない。

 一方、中国は「ドル基軸」体制の後を見越し、米中協調を謳いながら空母建造でアジアの海の覇権に手をかけつつある。北朝鮮のミサイルどころではないのである。

 こうしたかってない苛烈な内外の状況下で、日本だけがとめどもなく劣化する「子供の論理」で動いていることがいかに危険なことか。

 いま日本にとっての急務は、「大人の民主主義国」として備えているべき精神的な「安全装置」をいかに回復させるか、という点に尽きる。制度の整備だけではなく、政治指導者、マスコミ、ひいては国民人一人が精神、価値観の面で深く成熟することなしには、昭和初期の悲劇が、形を変えて、この国を襲うことになるのは必定と思えるのである。』

 と結んでいますが、皆さんはどのように思われたでしょうか?

 小生も、劇場型人間なのか怒りっぽく単純な発想で物事を見ることが多いようです。とても精神、価値観の面で成熟しているとは言いがたいと反省しています。


子供の政治が国を滅ぼす(続き)

2010年08月27日 | 国際・政治

  昨日、中西先生の考え方を文芸春秋で読んで、先生の考え方を皆さんに紹介しようと思ったのですが、理科不足のためうまく表現できなかったものですから、途中で紹介をやめてしまいました。

 先生は、帝人事件を例にとって政治に清潔を求める国民の要求こそが、結果として「検察ファッショ」を後押しし、軍部の台頭を容認して、政党政治を壊滅させてしまったと指摘しています。

 それでは、政治に清潔を求めてはいけないのでしょうか?

 先生は、「ここで、民主主義政治の最大の難問にたどりつく。」といっています。

 それは「政党政治の維持と、政治腐敗の摘発は、ときに相反する。そのとき、清潔と民主主義のどちらを取るか。そして誰がいかにしてバランスをとり、その判断を下すのかという問題である。」そうです。

 ということは、政党政治という民主主義の維持のためには、政治の腐敗には目をつぶりなさい、といっているのでしょうか?

 でも、必ずしもそのように断言はしていないようです。

 「政治に完全な清潔を求め、徹底的に無菌状態に近づけていくことは不可能だし、危険ですらある。しかし、安易に政治の腐敗を容認してしまえば、やはり国民の信頼を失い、政治の信頼は根底から喪われる。一体、その線引きはどこで、どのようにして行なえばよいのか。これこそ「統治者の悩み」と言わねばならない。」と言っているからです。

 そして、「この問題は先進民主主義国が長年にわたって苦しめられた問題でもある。」と指摘して先進国の解決先を紹介しています。

 まず、アメリカですが、「アメリカで顕著なのは、重大な政治スキャンダルが発覚したとき、これを「国家安全保障に関する問題」として位置づける、という手法を用いることだ。」といっています。

 どいうことかといいますと、「これ以上腐敗を追及することは、国家の安全をも脅かすことにつながるため、党利党略を離れ、国家的な立場としてスキャンダルに蓋をする、という解決策をとることが少なくない。」そうです。

 いやはや、驚きですね!「国家としてスキャンダルに蓋をする!」つまり、国家が幕引きをするといっているのです。これで、国民が納得するのでしょうか?

 でも、現にそういうことが行なわれているそうです。

 「ウォーターゲート事件への関与を認めたニクソン大統領は、事件の責任をとって辞任したが、後任のフォード大統領は不徹底な事件調査の後、ニクソンに対する特別恩赦を行なっている。1986年には、レーガン政権時代のイラン・コントラ事件が発覚したが、これも真相は解明されないまま終わっている。」のだそうです。

 ウォーターゲート事件の真相を徹底的に解明すると「国家の安全をも脅かす」という判断があったということのようですが、その判断が正しいのかどうかは問われないということでしょうか?

 アメリカ国民は民主主義の欠点を熟知していて、こういう判断を容認するアメリカ国民こそが「大人の民主主義を知っている」ということでしょうか?

 日本人には、このような時の政治権力者である大統領の判断に任せる、というような「政治への信頼」ができないのかもしれませんね。

 次にイギリスですが、「イギリスでは、国家的に重大な意味を持つ疑獄やスキャンダルでは、政治家を検挙はするが、裁判を長引かせてうやむやにしてしまう、という”テーブル・マナー”が使うことがある。」といってます。

 いやはや、これが「テーブル・マナーだ!」という言うのですから驚きですね。有名な例としては、後に首相となるロイド・ジョージやウィンストン・チャーチルも連座したマルコーニ事件(無線通信メーカーからの賄賂)というのがあったそうです。

 この裁判を長引かせるという作戦は、「イギリス独特の階級社会によるところも大きく、司法界にも政界にも、それぞれの立場を超えて、エリート的な「国家の統治意識」から同じ回路でものを考える人々がいて、彼らの下した判断は、裁判を不自然に長引かせ、情勢の変化を待つことだった。」というのですから、これも驚きの作戦ですね。

 このように外国の例を引き合いにだして、先生は次のように問題提起しています。

 「民主主義」と「腐敗の根絶」が二者択一となるような究極の選択があるということは、日本人がまだ一度も考えたこともないレベルの命題である。いずれにしても肝要なのは、政治が腐敗し問題が生じた際に法と正義を踏まえつつ「どう収束させるか」という大きな知恵、国家としての懐の深さであろう。しかし、それは一体、誰が担うべき役割なのか。

 また、それに必要なのは、第一に、国家の側にある程度の混乱、ある程度の腐敗を民主主義の代価として容認するプラグマティズム(実用主義)の気風であろう。第二に、政治指導者や検察、司法のトップに、「国家的な見地」から判断を下すという広い視野と責任意識が求められる。第三に、問題を早期に発見し、芽のうちに摘んでおく仕組みも不可欠だ。

 これらを備えてはじめて、成熟した民主主義国家といえるかもしれない。

 このように論旨が展開しますと、次は「現在の日本にこうした条件は整っているいるのだろうか。」ということになります。

 そこで、先生は現在の日本の検察の現状と指揮権の問題を述べています。

 特に、小生などもマスコミに洗脳されているためか、法務大臣の指揮権は発動してはならないものだと理解しています。

 その原因は昭和29年の造船疑獄で犬養法務大臣が佐藤栄作氏などの政治家を救うため発動したからですが、本来は、政治家たる法務大臣が検察という官を民主主義的にチェックするためのシステムだったのです。(人民の人民による人民のための検察になっているのか、ということでしょうか?)

 この段落(英米流「腐敗」との付き合い方)で小生が「なるほど、そういう考え方もあるのか!」と感心したのは、次の文章です。

 「検察は事件の捜査、告発に際して、政治的な配慮は一切すべきではない」というのも、実は危険な誤謬である。もちろん、第一線の検察官はあくまでも犯罪の嫌疑があれば、事案の究明に専念すべきだろう。しかし、統治の責任を負う立場であれば、検察、裁判所、あるいは警察でも、その中枢を担う人間に、純粋な法理を超えた、国家全体を見据えた判断が要求されるのは、三権分立化の成熟した民主主義の鉄則といっていい。」

 そして、小沢氏秘書の政治資金規正法違反事件に言及しているのですが、これではまるで検察バッシングですね。

 でも、そうではないのです。検察の判断にも問題があるが、政治家にも大きな問題があるといっています。結果として、国民の検察不信、政治不信がつのるばかりになって、国家として大変不幸なことだといっているのです。

 そして、「近年の日本の政治状況を振り返ると「子供が動かす幼稚な国家」という」言葉がどうしても浮かんでくる。」といっているのです。

 この原因を誰が作ったのかを「小泉劇場」の大罪として、次に進んでいますが、疲れましたので、今日はこの辺で失礼します。

  


子供の政治が国を滅ぼす

2010年08月26日 | 国際・政治

 小沢一郎氏が民主党の代表選挙に出馬するというニュースが報じられています。

 小生は、政治に関してはいろんな考え方がありますので、このブログでの論評を避けてきました。

 今度の民主党の代表選挙も「なにも言わない!」と決めていました。

 ところが、本棚に置いてあった2009年5月号の文芸春秋を見て気になる記事がありました。

 どうして、そんな古い本を見る気になったのか?といいますと、それは、小生が最近、文芸春秋のクイズに凝っているからで、その記事もクイズが見たかったから、たまたま読んだということになります。

 その政治に関する記事は「子供の政治が国を滅ぼす・・・検察の暴走が招いた歴史の悲劇を繰り返すな」という京都大学教授の中西輝政先生の記事です。

 去年の5月号でしたから小沢一郎民主党代表の秘書が逮捕、起訴された事件があり、先生の記事は、この是非ではなく、あり様を問題にしています。

 そして、昭和の初期に発生した政治スキャンダルを例にとって、最後には「民政党と政友会の双方で政治スキャンダルが暴かれ、議会やメディアで非難合戦を行なうにつれて、国民の間では「所詮、どの政党も同じだ」「政治家はすべて汚い」「結局、どっちもどっちだ」という言葉が交わされるようになった。」としています。

 そして、その危険性を次のように述べています。

 「この「どっちもどっち」という言葉ほど、政党政治にとって恐ろしい言葉はない。なぜなら、議会政治の・・・政党の信頼がとめどなく低下し続ける構図になれば、必ず埒外の勢力が政治に介入してくることになる。

 とくにそれは、経済や対外情勢が激動期を迎える時代になると、殆ど必然とさえいってよい。昭和初期において、この空白を最大限に利用したのが陸軍を中心とす軍部であったことは言うまでもない。

 翻って、今の日本の状況はどうだろうか。今回の西松建設の政治献金問題でも、・・・自民党側にも献金を受けた議員が出てきて、・・・多くの国民が「どっちもどっちだ」と口にし始め、総選挙の関心が一挙に萎えてしまった。

 それが、単なる政治家に対する庶民的な諦念、もしくは冷めた認識にとどまるならばいい。しかし、今の日本の政治状況は、戦前の日本にどこか似たあやうさが感じられる。そのとき、「どっちもどっちだ」という言葉は、議会政治そのものを死に追いやる危険性があることを、私たち国民は認識してしておく必要がある。」

 と談じています。マスコミに踊らされて「どっちもどっちだ」と諦めてはいけない、というのはわかるのですが、「子供の政治が国を滅ぼす」という先生の本論がわからないと思います。

 もちろん、先生の主張には、この続きがあるのです。

 その内容は「戦前の日本が道を誤り、敗戦まで突き進んでしまった、その蹉跌の最大の要因はどこにあったのか、そして今回も、最も重要な「歴史の教訓」とすべきものはなにか。」という文章で始まります。

 昭和9年におきた帝人事件に関する司法の暴走を書いているのですが、なぜ暴走が起こったのか、そしてそれが結果として軍部の台頭を容認して、政党政治を壊滅させてしまったといっています。

 帝人事件は、「国営銀行である台湾銀行に保有されていた帝国人造絹糸の株を、財界人のグループである「番町会」が値上がり前に買い受けたいという運動をはじめ、政治家や大蔵官僚に賄賂を贈った、というものだった」そうです。

 この事件は政党政治を否定していた平沼騏一郎が事件の陰で暗躍したもので、検察によるデッチ上げだったのですが、重要なのは、この事件が起きた昭和9年という年は、内政的にも、外交、経済の面でも、日本が着実な「建て直し」を進めていた時期であったということ、だそうです。

 きっと、政党政治による建て直しが進むと、彼らの活躍の舞台であるファシズム政治が出来なくなってしまう、ということでしょうか?

 しかし、問題は、なぜこういうことが出来たのかということのようです。

 「戦前の検察が平沼らトップの陰謀に単純に操られて、財界、政界の腐敗摘発に突き進んでいったのではない、ということだ。そこには”清潔”を求める国民の声があり、それに応じようとする第一線の検察官たちの真摯この上ない使命感があったのである。」と述べています。

 そして、「ここから現代の我々が学ぶべき教訓は、二つある。」といってます。

 「ひとつは、検察いう権力が、いかに第一線の検察官が純然たる法と正義の立場に徹したとしても、結果としては政治と独立した存在ではあり得ない、ということだ。そして、もうひとつは、政治に清潔を求める国民の要求こそが、結果として「検察ファッショ」を後押しし、軍部の台頭を容認して、政党政治を壊滅してしまったことである。」

 ということだそうですが、小生などは、この学ぶべき教訓をどう生かすべきなのかわからないというのが正直な感想です。

 さて、本論の「子供の政治が国を滅ぼす」ですが、先生の論旨は「英米流「腐敗」との付き合い方」「小泉「劇場政治」の大罪」と続きまして、最後に「いま日本にとっての急務は「大人の民主主義国家」として備えているべき精神的な「安全装置」をいかに回復させるか、という点に尽きる、と述べています。

 そして、それがないと昭和初期の悲劇が形を変えてこの国を襲うことになる、と警告を発しています。

 この二つの内容が本論の「子供の政治が国を滅ぼす」の内容になっていると思うのですが、時間がなくなってきましたので、次の機会にレポートしたいと思います。