場所・広島県福山市鞆町
10年ほど前、福山市にも龍馬像ができた。
その時、坂本龍馬は日本人に人気があるのだなあと思った。
(後方、対潮楼)
いろは丸の沈没
慶応3年(1867)4月、長崎の地で新たに発足した海援隊ですが、同月23日に、早くも暗雲が立ち込めてきます。
海援隊が大洲藩から借用していた船「いろは丸」が、紀州藩船と衝突して沈没した、「いろは丸」事件です。
長崎を出港したいろは丸は、関門海峡から瀬戸内海に入り、紀州藩船と讃岐の箱ノ岬沖で衝突。
しばらくして船は沈没。
龍馬は事故の責任は紀州藩船側にあるとして、御三家のひとつ、紀州藩を相手に損害賠償交渉を行います。
正式な交渉は長崎の聖福寺で行われました。
交渉には、途中から土佐藩の後藤象二郎が加わるようになり、
最終的には薩摩の五代才助(友厚)の調停で、紀州藩は事故の責任を認めて交渉は妥結。
龍馬は結果的に八万三千両もの巨額を賠償させることに成功します。
この金額は、いろは丸が積んでいた鉄砲類の金額を加えた額なのですが、
近年、鞆の浦沖でいろは丸と見られる船体の引き上げ調査がなされたところ、
積み荷とされていた鉄砲類は発見されなかったそうです。
おそらく、龍馬の「はったり」だったのでしょう。
「龍馬史」 磯田道史 文芸春秋 2010年発行
いろは丸で日本初の海難事故
「いろは丸」と紀州藩「明光丸」の事故は、
日本初の汽船同士の衝突という海難事故であり、その「審判」が行われたことも初の事だった。
まず最寄りの備後国鞆の港で談判が行われたが決着はつかず、長崎に舞台を移して継続して行われた。
土佐藩は当然龍馬の肩を持ち、紀州藩は徳川御三家の権威で押し切ろうとした。
結果は海援隊の大勝利となった。
龍馬はここで紀州藩の深い恨みをかったかもしれない。
龍馬はこうした中でも持論の大政奉還を、土佐藩の藩論として将軍に具申し、それを実現するため奔走していた。
「英傑の日本史」 井沢元彦 角川学芸出版 平成22年発行
(いろは丸展示館)
撮影日・2021年3月26日
10年ほど前、福山市にも龍馬像ができた。
その時、坂本龍馬は日本人に人気があるのだなあと思った。
(後方、対潮楼)
いろは丸の沈没
慶応3年(1867)4月、長崎の地で新たに発足した海援隊ですが、同月23日に、早くも暗雲が立ち込めてきます。
海援隊が大洲藩から借用していた船「いろは丸」が、紀州藩船と衝突して沈没した、「いろは丸」事件です。
長崎を出港したいろは丸は、関門海峡から瀬戸内海に入り、紀州藩船と讃岐の箱ノ岬沖で衝突。
しばらくして船は沈没。
龍馬は事故の責任は紀州藩船側にあるとして、御三家のひとつ、紀州藩を相手に損害賠償交渉を行います。
正式な交渉は長崎の聖福寺で行われました。
交渉には、途中から土佐藩の後藤象二郎が加わるようになり、
最終的には薩摩の五代才助(友厚)の調停で、紀州藩は事故の責任を認めて交渉は妥結。
龍馬は結果的に八万三千両もの巨額を賠償させることに成功します。
この金額は、いろは丸が積んでいた鉄砲類の金額を加えた額なのですが、
近年、鞆の浦沖でいろは丸と見られる船体の引き上げ調査がなされたところ、
積み荷とされていた鉄砲類は発見されなかったそうです。
おそらく、龍馬の「はったり」だったのでしょう。
「龍馬史」 磯田道史 文芸春秋 2010年発行
いろは丸で日本初の海難事故
「いろは丸」と紀州藩「明光丸」の事故は、
日本初の汽船同士の衝突という海難事故であり、その「審判」が行われたことも初の事だった。
まず最寄りの備後国鞆の港で談判が行われたが決着はつかず、長崎に舞台を移して継続して行われた。
土佐藩は当然龍馬の肩を持ち、紀州藩は徳川御三家の権威で押し切ろうとした。
結果は海援隊の大勝利となった。
龍馬はここで紀州藩の深い恨みをかったかもしれない。
龍馬はこうした中でも持論の大政奉還を、土佐藩の藩論として将軍に具申し、それを実現するため奔走していた。
「英傑の日本史」 井沢元彦 角川学芸出版 平成22年発行
(いろは丸展示館)
撮影日・2021年3月26日
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