しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

龍馬と慎太郎

2021年06月26日 | 銅像の人
場所・京都府京都市東山区円山町 円山公園
製造・1962年(昭和37年)


この銅像は、龍馬と中岡慎太郎の雰囲気がよくでている。強い意志で新時代を見つめているようだ。



円山公園の坂本龍馬と中岡慎太郎像(写真は戦後再建された2代目の像)


亀山社中は危機に陥っていた。
「船を一隻も持たない」海運会社になってしまっていた。
薩摩藩の仲介で、
オランダ商人から汽船を買った大洲藩が、その操船のための人員提供を社中に求めてきた。
これを機に、龍馬は「いろは丸」と名付けた。

後藤象二郎と連携した龍馬は、亀山社中を土佐藩の下部組織に組み入れることに合意し、
これを海援隊と名付けた。
土佐藩所属の軍隊となった。
盟友の中岡慎太郎は陸援隊長になった。


「英傑の日本史」 井沢元彦  角川学芸出版 平成22年発行





中岡慎太郎


龍馬より3歳年下になる。
土佐国安芸郡郡の大庄屋の子に生まれ、長じて武市半平太の弟子となり、土佐勤皇党に加盟する。
しかし、8月18日の政変で攘夷派への弾圧が始まると、さっさと土佐藩を脱藩した。
彼は長州の久坂玄瑞と親しく、その縁で長州に亡命したのである。
この長州三田尻の血で、都落ちしていた七卿の代表三条実美に抜擢され、その衛士つまり直臣になった。

翌年の禁門の変には、久坂玄瑞に同行し浪士仲間のまとめ役(これがのちに陸援隊につながる)として戦い負傷したが
無事生還した。
各藩の士と交流し、薩長を連合させ幕府と戦うべきという気運が盛り上がってきた。

「英傑の日本史」 井沢元彦 角川学芸出版 平成22年発行









33年の短い生涯

慶応3年(1867)11月15日、
龍馬は当時河原町通りの近江屋を宿舎にしていた。
近江屋は土佐藩邸のすぐそばだ。
龍馬は中岡慎太郎と話し込んでいた。
そこへ刺客がやってきた。
刺客は「こなくそ」と叫んで中岡を斬り倒した。
龍馬は床の間の刀に手を伸ばそうとして後ろを向いたところ、さらに頭から背中にかけて斬られた。
それでも刀をつかみ鞘のまま防戦したが、今度は腰を斬られて動けなくなった。
ピストルもあったのだが不意をつかれて使うひまがなかった。
龍馬はその場で絶命し、中岡は二日後に没した。

天はこの若者に「薩長同盟」「大政奉還」という大仕事を実行させるために地上へ下し、
用が済んだらすぐに召したということだろう。

それが坂本龍馬という英雄の最も大事な特徴である。

「英傑の日本史」 井沢元彦  角川学芸出版 平成22年発行







撮影日・2006年11月23日

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