しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

源義経 (高館)

2021年06月29日 | 銅像の人
場所・岩手県西磐井郡平泉町平泉 「高館」


三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。
秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。
先高館に登れば、北上川、南部より流るる大河也。
衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。
泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、えぞを防ぐと見えたり。
さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の草むらとなる。
国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、
笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍りぬ。


「奥の細道」 





「義経記」  世界文化社 井口樹生 1976年発行 

衣河合戦の事

弁慶

弁慶の鎧に矢の立つことこの数を知らず。
その矢を折り曲げ折り曲げしたらから、まるで蓑をさかさまに着たようであった。
黒羽・白羽・染羽、色とりどりの矢どもが風に吹かれて見えた。
「弁慶ばかりはいかに狂っても死なないのは不思議なことだ。
我らの手にあまるから、平泉の大明神よ、弁慶を蹴殺したまえ」
と呪っていうのも笑止であった。


判官

義経幼少より愛蔵の刀をもって、左の乳の下より切先を立て、背中にまで通れとばかり突き立てて、疵の口を三方へ掻き切り、腸をえぐり出し、
刀の血のりを衣の袖で拭い浄める。脇息にもたれておいでになる。


北の方(義経の妻)

義経今は兼房を召す。
兼房は腰の刀を抜き放ち、北の方の左肩を押え、右の脇の下から左へ、つっと刀を刺し通すと、
北の方苦しい息の下で念仏を唱えられ、すぐにはかなくおなりになった。


若君(5歳、義経の子)

兼房の首に抱きつきなさって、
「死出の山とかへ、早く参ろう。兼房急いで連れて参れ」
と責めなさるからして、兼房涙にむせんで泣いていたが、敵はしきりに近づく。
これではならじと、若君めがけて二の刀をば刺し貫けば、
「わあっ」
とばかり声あげて、息が止まりなさった。


「早く邸に火をかけよ」
というひと言ばかりを最後のことばとして、ついに判官はこときれ給うた。








「芭蕉物語」 麻生磯次  新潮社 昭和50年発行


平泉

5月13日(陽暦6月29日)、
一関の宿を出た芭蕉と曾良は平泉へ向かった。
今日は朝から上天気である。

二人はまず義経の旧跡高館(たかだち)の丘にのぼった。
裏手は絶壁になっており下をみおろすと、北上川が川岸につきささるようにしぶきをあげていた。
奥州第一の大河である。

高館の丘は暗い樹木や雑草に埋もれて、往時の面影をとどめるものは何一つ残されていなかった。
ただ丘の頂にささやかな一宇の堂が建っていて、義経堂と呼ばれていた。

芭蕉がこういう奥地までやって来たのは、高館に義経の最後をしのび、光堂によって中尊寺文化に思いを馳せたいためであったが、
またこの平泉地方が、日頃敬愛する西行のゆかりの土地であるとうこともあった。

悠久な自然に比べると人間のしわざはまことにはかないものである。
芭蕉はこういう感慨を込めて、

夏草や 兵どもが 夢の跡  芭蕉





曾良は兼房の奮戦の有様を想像していた。
高館最後の日に、泣く泣く義経の妻子を刀にかけ、館に火を放ち、長崎次郎を死出の道連れにして猛火に飛び込み、
壮烈な最後をとげた。63歳の老齢であった。


卯の花に 兼房みゆる 白毛かな  曾良











撮影日・2019年6月30日

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 松尾芭蕉(伊賀上野) | トップ | 芭蕉 (中尊寺) »

コメントを投稿

銅像の人」カテゴリの最新記事