マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

横田町にかつてあった植え終い

2018年07月11日 09時23分37秒 | 大和郡山市へ
田植えを終えた農家の方の田植え終いの在り方が聞けるかもと思って大和郡山市の横田町に出かけた。

数年前になるが、大和郡山市で観光ボランテイアガイドを務めるIさんからの情報である。

ガイドの下見に訪れていた横田町の畦道に見たことのないようなモノがあったという。

その写真を見せてくれたがあんばいわからなかった。

場所は西名阪高速道下の側道だったという。

その話しをしてくださったのは平成26年の4月10日。

田植えにしては早すぎるからたぶんに苗代に立てたお札若しくは松苗であるかもしれない。

ただ、私のメモに残されていた情報は平成25年の6月10日であった。

そのメモの内容は「10日過ぎ辺りに田植えをすべて終えてナエサン二把を広げてオニギリを載せる」だった。

苗代ではなく、田植え仕舞いにおける豊作願いの習俗。

苗さんを供える習俗はさなぶりである。

思い当たるその地を探してみたが見つからなかった。

あれから4年も経った。

Iさんの記憶を頼るしかないと思って電話した。

かつてあった横田の寿司屋の筋辺りを東に歩いて行ったところだという。

そうであれば横田町の北方にある圃場である。

そのお供えについて近くにおられた婦人に尋ねたら、そう答えてくれたという。

Iさんが伝えるその婦人の口調で思い出した。

たぶんに間違いなく平成21年5月6日に苗代の水口まつりを取材させてもらったOさんの奥さんだ。

奥さんは骨折で2年前から療養する身になったと聞いている。

それなら旦那さんに、と思って出かけたこの日は田んぼの水溜めをしていた。

一部の田んぼは畦に苗箱を並べていた。

もうすぐ田植えを始めようとする時期にきていた。

田んぼにおられた二人の男性に聞けば、この日は池水の引き込み。

それぞれの農家さんは田植えが忙しいということだった。

そこよりさらに東へ行けばOさんの苗代田がある。

小屋にいたOさんに声をかけた。

久しぶりにお会いするOさんに尋ねたさなぶりのこと。

Oさんは85歳。

そんなことしていなかったという。

えっ、である。

見たことも聞いたこともない、というから、またもやえっ、である。

そんなはずではないと思って、Iさんに再確認の電話をする。

場所、人物像も同じであるが、実際は田んぼではなかった。

Oさんの奥さんが話していたのは、田植えをすべて終わったあとのこと。

田植えに残した2把の苗さんを自宅に持ち帰った家の竃に供えたということだった。

それならわかるし、それがさなぶりの習俗。

竃の蓋に供えたという事実もわかった。

奥さんは今も療養中の身。

やや歩けるようになったものの歩行支援の要る介護の身。

入院中の身だから聞いておくとOさんが云ってくれたが・・・。

Oさんが記憶にないのは、こうしたさなぶりの在り方すべてを仕切っていたのは奥さんである。

そのことをまったく今の今まで知らなかったというのも事実であろう。

介護の身となれば退院はできたとしても畑作業は無理だろう。

しかもOさん曰く、今は竃もないIHキッチン。

敢えなく断念したO家のさなぶりであるが、かつての状況はリアルに思い浮かべることができる。

停めていた車に戻ろうと農道を歩いていたら農小屋から話し声が聞こえる。

もしかとしてご存じであるかも、と思って声をかけた二人の婦人。

83歳のKさんと75歳のYさんのお二人。

実は3姉妹で、もう一人の姉とともに暮らしていた実家。

その家にはO家と同様に竃があった。

小さいときにしていたが、今はもう・・・という。

横田町は、かつて5カ所にあった農小屋で見せる“立山“があった。

立山の造りものは青年団がしていた。

東にある天理市の櫟本の方が数は多かったと述懐される。

また、横田に伊勢講があった。

毎月集まる敬神講や庚申講に行者講もあった。

庚申講は複数の講組があったが、講はみな解散した。

伊勢講や庚申講の掛図は返したという。

講の寄り合いはいずれもご馳走しやなあかんから朝から忙しかった。

解散する最後はパック詰め料理にしたそうだ。

講はみなやめたが、法螺貝に掛図もあった行者講の道具は講元が保管しているという。

そういえば横田町に鎮座する神社である。

ずいぶん前のことだが、八幡神社に簾型の注連縄があった。

撮っておこうと思ったときは、とき既に遅しでやめてしまった。

そのことを聞いたのは平成25年の11月12日

西興寺で行われる十夜であるが、営みは拝見できなかったが、知人のSさんにお願いして十夜の供養袋を取材したときである。

注連縄は一般的な作りに、そして門松もしなくなった村行事の変容を思い出して、隣村の櫟枝町に移動する。

(H29. 6.10 SB932SH撮影)