マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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峰寺六所神社の宵宮当家

2012年12月21日 09時48分01秒 | 山添村へ
山添村峰寺に鎮座する六所神社。

承久の乱は承久三年(1221)、その頃に神社仏閣を破却し御殿を打ち壊しご神体を取り出したと伝えられる六所神社である。

往古の時代には社殿もなく臨御の大石をご神体としていた。

氏子相集まり社殿を創建するにあたり、建てる位置を選定した。

その折りに一夜にして転倒された御神石。

これを御神託であると感銘し、謹んで仰ぎみ御石の上に神殿を築造したと伝わっている。

大山祇命を主神として輝之速日命、熊野忍踏命、熊野忍隅命、天忍穂耳命、天穂日彦、天津彦根彦の六柱の神々を祀る。

大正4年に記された『東山村神社調書(写し)』文中の社記によれば暦応三年(1340)九月二十七日に造営ス云々とあることから、そのときに社殿を創建したのではないだろうか。

延寶六年(1678)九月八日、神祇官領卜家(卜部兼連)より奉わった宣旨によれば「大和国添上郡の松尾、的野、峯寺等之邑の六所を大明神号者と宣授」とある。

文禄戌ノ年(1592~)では六所権現と呼ばれていた神社に大明神号を奉授した。

古来より本村の峰寺、及び的野、松尾の郷社として今なお祭祀を共にしてきたというのだ。

六所神社には杵築神社、宗像神社、水神社の境内三社がある。

由来によれば山神や河川嶋中に鎮座していた三社を政府法令によって明治維新の際に遷したようだ。

「当社を権現と申し奉て、恒例の祭祀にも魚物を不供 氏子等も魚味を忌憚るかし 往古は奏神楽して神慮を清浄め 賜べしも中此より文に流れ俗にす・・・」と文中にある「奉神楽」。

古来より祭祀されてきたという今なお峰寺、的野、松尾の各村によって行われてきた奏神楽。

三村が揃って祭祀するのではなく一村が年ごとに交替して神楽を奉納してきた。

昨年は松尾が担った。

今年は峰寺で翌年は的野が祭祀する。

その順に変わりなく勤めてきた三村。

3年に一度が回りになる郷村の祭祀は特別な祭儀。

年中行事は一社相伝の舞楽、神楽歌及び祈祷法とされ渡り衆と呼ばれる8人の豊田楽人が役目にあたる。

神社調書によれば一社相伝の旧例祭儀式は古来旧九月二十七日だった。

翌日の二十八日は「帰り夜宮(後宴かも)」と称して御幣元となる当家で営まれる。

男子出生せし家と定まっている御幣元の当家である。

豊田楽人と呼ばれる神楽の舞人は当該村の穢れなき年長者があたる。

旧九月一日に当家の家に参集し七五三の注連を飾って渡りの準備をする。

同月二十三日では当家祝いとして楽人並びに氏子たちを招待して饗応。

同月二十六日には再び当家へ参集して儀式の準備を調えた。

翌二十七日が神前で行われる祭儀であった。

今日の祭祀日は10月14日に行われている当家の饗応。

宵宮の日だ。

午前中に調えた渡り衆の小道具。

メロウダケと呼ばれる青竹を細工して横笛を作る。

上は2穴で下が1穴と決まっているそうだ。

竹を細工するのは他にもある。

ヒワヒワと呼ばれる弓である。

これはアマツコ竹で作られる。

これらは毎年作られるが、グワシャグワシャと呼ばれるササラの編木、太鼓、鼓は三村の共同道具である。



これらの道具を用いて演じられる豊田楽舞いをホーデンガク(奉殿楽の文字を充てている)と呼んでいる。

8人の渡り衆が奏でるホーデンガクはそれぞれの役が決まっている。

一老、二老はヒワヒワ。

三老、四老がグワシャグワシャ。

五老、七老は笛。

六老が太鼓で八老は鼓だ。

ほとんどが鳴り物だがヒワヒワは音をださない。

神さんに向かって舞いを演じるのはヒワヒワの二老、グワシャグワシャの四老、鼓の八老たち。

他の人たちは鳴り物を作法する。

本来なら当家の家は注連縄を張るのだが、事情でこの年は見られなかった。

それはともかく午前中の作り物は順調に進んで翌日に作る予定だった日の丸御幣も出来あがった。

ゆっくりと寛ぐ渡り衆。

当家がもてなす料理をよばれる。

当家における饗応の膳は決まっている。

14日の昼の膳は揚げだし胡麻豆腐、ホウレンソウのおひたし。

権茸寿と称する酢立釜、茗荷寿と称する丸十密煮、射込みトマト、長芋紫穂、銀杏、射込南京、もずく、枝豆とジュンサイ(蓴菜)の汁椀、香物、果物である。

一方、当家のマツリを支援するのは家族や親せき筋。

膳の料理を口にすることはない家庭の味。

この日はマツリであるゆえご馳走も出される。



その内の一品がセキハンだ。

昼食によばれるセキハンには汁椀もある。

トーフやカマボコ、ミツバを添えたすまし汁。



煮豆の黒豆と共に真心込められた当家のご厚意を受けてよばれた。

当家接待の昼饗応を終えれば豊田楽人たちは衣装に着替える。

渡り衆が見につけた装束は「六所宮祭用装束箱」に納められている。

昨年は松尾であった装束箱である。

マツリを終えれば一旦は六所神社に戻されて宮総代が保管される。

マツリが近づけば宮総代が運んで当家に持ちこまれる。

その箱の裏面には「干時文政元年(1818)六月吉祥出来 宮年寄・・・云々」とあった。

当時の宮年寄は松尾村が中尾平八、松田喜三郎。

的野村は下荘助で峯寺村は池尻貞四良とある。

世話人に峰寺の幸場平四郎、的野の大矢政之の名がある。

松尾村、的野村、峯寺村各村の庄屋の名も見られる。

その箱には装束だけでなく、烏帽子、グワシャグワシャ、太鼓、鼓、扇や渡り衆を迎える提灯も納めている。

大切な衣装や道具は古くから三か村で使われてきたのである。

当家の座敷に対面座りになって練習をする8人の渡り衆。

3、40年前には当家の家で寝泊まりしていた。

朝早く起きて練習をしていたという。

その際にはお風呂に入って身を清めたそうだ。

それゆえ当家の家はお風呂を新しくするという禊の潔斎は8人が順番に入浴したそうだ。

年長者の二人が持つのはヒワヒワと呼ばれる「弓」。

グワシャグワシャと笛吹きも二人で、太鼓と鼓は年少者があたる。

始めに登場したのはヒワヒワの二老。

中央に出て正座する。

ピィ、ピィ、ピィー、ホーホヘと吹く笛の音色に合わしてドンドンドンと打つ太鼓と鼓。

指導書によれば太鼓はトンー、トン、トン。

鼓はポンーー、ポン、ポンである。

ヒワヒワを右の脇に挟んで右回りの時計回り。

右手に持った扇を左右に振る。

その間の楽奏はピィ、ピィ、ピィとトン、トン、トン、にポン、ポン、ポンと連打する鳴り物。

円の中心部を扇で煽ぐようして回る。

扇の煽ぎ方は風を起こすような所作である。

これを「アフリ」と呼ぶ。

漢字で充てればおそらく「煽り」であろう。

三周して元の位置に戻る。

三周目の際には太鼓を強く打って舞人に知らせるという。

再び正座して、ピィピィピィーホーホヘ、トンートントン、ポンーーポンポンの三音に合わせてヒワヒワを弓なりに曲げる。

ひょいひょいという感じである。

2回目の所作は左回りの反時計回りだ。

正座をしてヒワヒワを手前に置いて一礼する。

そして扇を持って1回目と同じように所作をする。

一礼をするのは神さんに向かって奉納するという拝礼の作法なのである。

次に登場するのはグワシャグワシャを持つササラ役。

ヒワヒワと同じ所作をするが、立てるのが難しいグワシャグワシャは倒れないようにすることが肝心だという。

いずれも笛吹き、太鼓、鼓の奏者が音を奏でて囃す。



最後に鼓役が登場する。

鼓を立てて同様の所作をする。

長老が指導するきめ細かな動作。

本番さながら出発前の稽古を終えた渡り衆は玄関先に移動した。



お渡りの際にも豊田楽の作法をするから道中を模して隊列は一列に並んだ。

お渡りのあり方も練習しておく峰寺の渡り衆であった。



念には念をと2度目の練習もこなして万全な体制を調えた。

(H24.10.14 EOS40D撮影)

桐山の渡り5人衆

2012年12月20日 06時44分39秒 | 山添村へ
東山中で行われている秋祭りの田楽奉納。

その一つに挙げられる山添村の桐山。

氏神さんを祀る戸隠神社で奉納される。

奉納の田楽を演じるのは1名の当家と4人の渡り衆だ。

太鼓、笛、ガシャガシャ(ササラ編木)を持って山の神や弁財天社を遥拝しながら神社へ出かける。

それを始めるまでは当家の家での会食。

前々年まではそうであったが、昨年からは神社下の公民館に集まることにされた。

竹で設えた注連縄を張っている。

その下には藁束を敷いて3本の御幣が置いてあった。



末社もいれた戸隠神社の三社に奉納される。

出発前に行われる「フクノタネ(福の種)」の祝いごと。

「オドリコミ(踊込)」とも呼ばれる作法に撒かれる洗米と小豆もある。

神社奉納を終えて「あきの国 いつくしま べざい天王 いざやたからをおがむよう」の詞章を謡いながら公民館に上がりこむ。

座敷に上がれば渡り衆は輪になって笹竹を振りながら三周する。

「福の神ござった 何の種をまきましょう 福の種をまきましょう 宝をまきましょう」と謡いながら洗米や小豆を座敷に撒くのである。

出発時間までは公民館で会食。



膳に盛った料理をいただく渡り衆。

当家を上座に5人が座る。

接待役が酒を注いで宴も盛り上がる。

座敷には渡り衆が見につける衣装が置かれていた。

長年に亘って着こなした衣装は虫喰いなど汚れていた。

平成27年には本殿の造営が行われる。

それに合わせて5人の渡り衆の衣装も新調したいがたいそうな金額になる。

費用の工面をどうするか、難しい課題が山積みだと話していた昨年7月のハゲッショ(半夏生:ハンゲショウが訛った)の寄合であった。

それから1年半。

念願が叶って新調された衣装を広げる。



ソウ(素襖)と呼ばれている衣装は紺一色。

依願していた県文化財課でなく「宝くじ協会」からの全額補助。

村が動いてくれ補助金願いがたまたまとおったという。

それを示すワッペンが貼り付けられている衣装のソウ。

この日のお渡り前に村の担当者が実行の証拠に撮っておく。

隣村の北野においても同じ宝くじ協会の支援で新調された平成22年。

同じように記録をしていたことを思い出す。

また、隣村の峰寺では鼓を新調されている。

ありがたい援助に村の行事が救われるのである。

ちなみに桐山ではモチ搗きに用いられる木製の杵も臼も新調された。

前日はそれでモチを搗いたと話す渡り衆。

いずれも侍烏帽子(つば黒烏帽子)を被って伝統芸能を披露する。

戸隠神社で披露されるのは「ウタヨミ」だ。

一番に「やっとん とん とん おうまへなる おうまへなる おうまへなる つるはつる かめはかめ つるこそふれてまいあそび つるの子のやしやまごは そらとうまでも ところは栄えたもうべき きみが代は かねてこそ 久しかるべき 住吉の松やにゅうどう」だ。

二番が「せいようの 春のあしたには かどに小松を 立て並べ おさむる 宮のしるしには 民のかまどに 立煙 まつからまつのようごう おうごうのまつ 君が代よはかねてこそ 久しかるべき 住吉の松や入道」。

三番は「あかつきおきて 空見れば こがね交りの雨ふりて その雨やみて 空はれて 皆人長者になりにけり 君が代よかねてこそ 久かるべき住吉の 松や入道」である。

その際に用いられる小道具がある。



烏帽子の下にあるのはガシャガシャと呼ばれているササラの編木。

太鼓も古い。

いずれはこれらも新調する時期がくるだろう。

ちなみに竹の横笛の穴は6穴。

峰寺とは異なる形式である。

渡り衆を勤めるのは20戸であったが、平成7年からは19戸になった。

当家の回りは18年ほどでひと回りになる。

渡り衆は4、5年に一回が回ってくるという。

(H24.10.14 EOS40D撮影)

針テラスのぶっかけうどん

2012年12月19日 06時46分22秒 | 食事が主な周辺をお散歩
今年で何回目になるのだろうか。

午前、午後の中間時間は昼どき。

西名阪国道にある針テラスは丁度良い場所にある。

早めに着いたので客は多くない。

今回はシンプルにぶっかけうどん。

天ぷらを揚げた残りカス。

それが天かす。

油が良いのか色合いが濃い。

サクサクの加減が美味いのだ。

ネギとたっぷりの花かつおをぶっかけたうどんは温うどん。

汁はそれほど多くない。

ショウガを入れればさっぱり味。

心地よいハーモーニーと云えばいい過ぎか。

喉ごしつるつるのつるまる饂飩のぶっかけは280円で味わえる。

(H24.10.14 SB932SH撮影)

岩屋八柱神社御石洗い

2012年12月18日 09時01分42秒 | 山添村へ
八柱神社の境内に集まった岩屋の村人たちはおよそ60人も越える。

区長、宮総代の報告やお願いを伝えられて始まった御石(ごいし)洗い。

秋祭りの一週間前は村総出で行っている作業である。

作業は分担する。

大きく分けて神社本殿回りの清掃と燈籠下にある御石洗い。

本殿のみならず参籠所の屋根には積もった葉っぱや泥がある。

送風機で起こした風で飛ばして下に降ろす。

本殿、社務所は水洗いして奇麗にする。

本殿後方回りの境内森も箒で掃いて美しくする。

御石洗いの作業の中核はその名の通りの御石洗い。

数々ある燈籠下や手水舎、ムクロジのご神木回りにある玉石を拾い上げてはモッコに入れる。

石が溜まればせっせと担いだオーコで鳥居下に運ばれる。

そこにはホースが用意された。

溢れる水は井戸の水。



かつては道を下った笠間川に担いでいった。

3度の往復は力仕事。

いつしかホースから勢いよく流れる井戸水に替った。

集める、運ぶを繰り返す作業。

御石が除かれた場も奇麗に清掃する。

ホースで洗った御石は奇麗な水光り。

再びモッコに乗せて運ぶ。

元の場に戻ったかどうかは別にして揃えられた燈籠下の御石は美しい。

さて、御石は本殿前にもたくさんある。

燈籠下の石よりは少しこぶりの石。

これもモッコに乗せてオーコで担ぐ。

石垣に橋を渡した一本板。

腰をひょいひょいと動かしながら運んでいく。

モッコがゆっさゆっさと揺れるのは初心者。

ベテランは慣れている。

経験が腰つきに現れるモッコ運びである。

1時間後には小休止。

30分ほどはお茶を飲んで一服する。

御石洗いの作業は再活動だ。

その間もされていた不動滝の清掃。

清廉な滝下に流れた葉っぱがいっぱい。

堰き止められていたので容易かったと話す。

光が差し込んだ不動の滝には石仏の不動尊と薬師如来が祀られている。

ほとばしる落下の滝に虹がでた。



必ずここで拝んでから神社に参るという不動の滝は美しい。

かつては7日であった御石洗いの神社行事。

今では第一日曜日になった。

この日も氏神さんに神饌を供える八柱神社。

かつては八王子神社と呼ばれていたそうだ。



高御産日神、神産日神、玉積産日神、生産日神、足産日神、大宮賣神、御食日神、事代主神の八柱神を祀る神社は毎月初めに「さへ」とも呼ぶ月次祭をされている。

御石洗いを終えた翌週は氏神祭が行われる。

前日は宵宮だ。

いずれも当屋、堂下(どうげ)が参拝する神事である。

格式ある座杯の儀式(17歳男子の座入り儀式)であるゆえ一般人は立ち入ることができないと宮総代が話したのは宵宮の朝だった。

11月の月次祭は座杯をされた17歳男子のお礼の儀式がある。

それも一環の儀式であることから一般人は立ち入りは禁じられている。

(H24.10.14 EOS40D撮影)

かつやのソースとんかつ

2012年12月17日 07時44分32秒 | 食事が主な周辺をお散歩
祭りが終わってしばらくは直会。

酒も入って永く滞在する直会の時間。

終われば掲げた家の提灯を手にして帰っていった。

それを見届けて小林町を立ち去った。

昼食時間が過ぎて13時。

お腹にいれなけりゃ次の行程がままならない。

ここから歩いてでも行ける「かつや」に場を移した。

お店は満員。

行列待ちのお客さんは出入り口に溢れている。

平日ならそこまでいかない時間帯。

祭日ならではの様相なのか。

席に案内されて頼んだのは食べたかったソースとんかつ丼。

梅の丼は490円だ。

しばらくしてアツアツの丼が来た。

キャベツがとんかつの下に埋もれている。

ソース味の丼はサクサクのカツと共にキャベツも口に。

美味いと唸った丼にがっつく。

(H24.10. 8 EOS40D撮影)

小林町杵築神社のマツリ

2012年12月16日 09時07分20秒 | 大和郡山市へ
白い顔の能面は買ってきたという人もいる。

30年も前から勤めている八条町の宮司の話によれば古い翁の面の他に能面もあったという。

小林町の隣町の今国府町に住む人が見つけた天からの贈り物は翁の面。

天から降ってきたとされる耕地は小林町の田園。

翁面が降ったとされる面塚と呼ばれる地は小高い墳丘のようだ。

翁の面を見つけた今国府町。

面塚の所在地は小林町。

両町に関係する翁の面は天保三年(1832)に両村それぞれに鎮座する杵築神社の宮座で共有することになったと伝えられている。

古い面相は目、鼻、口に特徴があり福々しいお顔の翁の面。

春日神社の若宮おん祭や興福寺薪能で翁猿楽を演じてきた長命家<ちょうめいけ>伝来の翁面だそうだ。

長命茂兵衛旧蔵文書が三点。

寛政元年(1789)七月「差入申一札之事」、寛政元年七月「覚」、天保四年(1833)八月「義定証文之事」があり、面とともに平成7年3月に奈良県の文化財に指定されている。

今国府のお渡りは昨日だった。

かつては10月10日だったが現在は体育の日の前日。

それを終えれば翁の面は小林町に戻ってくる。

届けられたとも、受け取りにいったとも云うが目撃した人がいないから真相は不明だ。

それはともかく翁の面は白い面相の能面とともに並べている。

お渡りが始まる前は会所にある。

箱から取り出して上に置いた。

今国府町では翁の面を着装してお渡りをしているが、小林町では面を着けることなく箱の上に乗せて抱えながら歩く。

左座の人が持つのが翁の面で右座は能面だ。

納めてあった箱はさほど古くない。

時代的には近年と思われる作風である。

マツリを終えた後日に左座の一老が話した能面の件。

右座の長老が左座の持つ翁の面に対して右座も恰好をつけて所有したいと願って買ったのが能面だったという。

昭和の時代に村で買ったと伝わっているようだ。

さて、小林町のマツリが始まった。

杵築神社へ向かうお渡りである。

かつてはゴクツキから始まる10月14日、15日、16日の三日間だった。

その間に翁の面を手渡していたと一老は話す。

いつしか時が流れてマツリの日が変わった。

昭和41年に施行された体育の日である。

それに伴って8日、9日、10日になった。

今国府町のお渡りを取材した平成17年は10月9日だった。

そのときに聞いた話では翁の面は両町で毎年交互に使いあっていたと聞いた覚えがある。

平成12年にハッピーマンデーが施行されて体育の日は月曜日に移った。

今年はといえば今国府が昨日。

小林はこの日。

一日違いである。

今国府のマツリを終えた翁の面は小林に渡された。



それが小林の公民館で拝見した翁の面である。

マツリが行われた年代によって翁の面のあり方が違っていたのである。

それはともかくお渡りが始まった小林のマツリ。



先頭を担う人はサカキの葉を水につけながら左右に撒きながら歩く。

「祓いたまえ、清めたまえ」と声を上げながら歩む。

椎木町のお渡りと同じように神さんが通る道を祓い清めていると思われるツユハライの作法。

次に大御幣を抱えて歩く人。

神主が随行する。

神さんのサカキを持つ左座、右座のトーヤ(当屋)が続く。

その次が面を持つ人だ。

左座は翁の面で右座が能面である。

その次はヤナギの木と根付き稲を持つ人。

お神酒を持つ人に続いて白装束のソウ(素襖)を身につけた一、二の三老。

そして氏子たちが続く行列だ。

公民館からそれほど遠くない杵築神社。

数分で到着する。

お渡りを勤める人は神さんのサカキを持つトーヤ(当屋)は決まっているが、ツユハライ、御幣持ち、面抱えなどの人たちに決まりはない。

誰でも構わないとHさんは話す。

一の鳥居を潜る前に立ち止ったお渡りの行列。

ここで一旦止まって左座、右座の列は入れ替わるのであったが、この年は入れ替わることはなかった。

本来は右座、左座の列なのであるが、出発する段階から左座、右座の行列になっていたわけだ。

拝殿に入る直前の様子を捉えた。



手前が左座で翁の面を抱えながら歩くHさん。

向こう側が能面を抱える右座の人だ。

納めていた箱に乗せてお渡りをしてきた。

箱の外観をみれば一目瞭然。

翁のほうは古く、能面は新しい。

時代年月は明らかに異なる。

拝殿の前には布団太鼓がある。

小林町では大太鼓と呼ばれている太鼓台だ。



かつてはこの場で翁面を被った男性が舞っていたという。

烏帽子を被った翁は祭典を終えてから蓆の上で舞っていた。

衣装は自前だったそうだ。

一老の話によれば城下町郡山の矢田筋に住んでいた雑貨屋の主人だったそうだ。

子供の頃に舞っていたのを見ていた一老。

主人が亡くなる直前まで舞っていたというからおよそ70年以上も前。

昭和20年辺り。

戦前、戦中、或いは戦後間もない頃であろうか。

当時は翁舞が行われていたという記憶である。

その件は小林町で生まれ育った尼講の一人も記憶していた。

当時の翁面は白い髭が長くて掴めるほどの長さだったそうだ。

子供らはそれを見て怖がっていた。

幼稚園、或いは保育園児だった頃の思い出は「怖かっても見たかった」そうだ。



神事を終えれば氏子たちが両拝殿の中央に並ぶ。

左座、右座に分かれて列を組む。

先頭に立つのは現当屋。

御幣を三回左右に振る。

そして揃って唱和。

「ホーイ」と声を上げながら上方に手を大きく揚げる。

まるでバンザイをしているように見える。



「ホーイ」はトリオイと呼ぶ作法。

実った稲に集まってくるスズメを追いやる作法だと話す宮司。

次に右座の当屋も作法をする。

そうして役目を終える。

次に登場したのが新当屋。

同じように御幣を振れば、揃って「ホーイ」を発声。

左座の新当屋もその作法をする。

次の当屋に受け渡された儀式である。

その作法を拝見して思い出したのが馬司町杵築神社の秋祭りである。

お渡り道中の際に一老が発声する「オォーーー」の掛け声に合わして後続の人たちが揃って「オォー」と発声する。

これを「トリオイの唄」だと云っていた。

鳥を追うように発声するから「トリオイの唄」だと云うのである。

小林町の「トリオイ」を見て感じた馬司町の「オォーーー」。

もしかとすればだが、「ホォーイ」の「ホ」を発音されることなく「オー」だけになったのではないだろうか。

さらに思い出したのが奈良豆比古神社のスモウの作法の際に発声される力士の「ホォーオイッ」である。

翁舞で名高い神社の祭りは宵宮。

翌日の例祭の夜に行われているスモウである。

ここで聞いた話では、稲穂が実って「ホォーオイッ」と掛け声をする。

つまり、穂が多いということである。

これら三つの事例は掛け声が違っているように思えるが同じであったかも知れない。

実りの稲は穂が多い。

豊作を祝った唄ではないだろうか。

小林町の伝聞「トリオイ」、馬司町の「トリオイの唄」。

奈良豆比古神社のスモウの掛け声。

鳥を追うトリオイの発声はホーイ・・・ホーオイ・・・穂追い・・・オーィ。

小林町の「ホーイ」と同様にすべてがトリオイではなかろうか・・・と思ったのである。

(H24.10. 8 EOS40D撮影)

椎木町杵築神社氏神祭の神送り

2012年12月15日 10時19分12秒 | 大和郡山市へ
かつては10日が氏神祭だった椎木町の杵築神社。

神さんを仮宮で祀っていた当屋の家。

前日に分霊遷しましされた仮宮と呼ばれるお旅所で過ごされた。

この日の朝は再び神社に戻る還幸祭が執り行われる。

神送りとも呼ばれる祭祀である。

十人衆はソウ(素襖)と呼ばれる白い装束を身につけて烏帽子を被る。

十人衆は当屋の家に集まる。

次の当屋を勤める二人や東西地区の自治会長は礼服だ。

門屋に注連縄を張った当屋の家。

玄関先に設えた仮宮に並んだ。

神主が捧げる神送りの祝詞奏上。

仮宮で過ごされたヤカタの神さんを取り出す。

それを受け取る一老。

この日も三老が一老の代役を勤めた。

一老に引き続いて玉串を奉奠される人たちは二、三老の十人衆、礼服姿の若十人、アニトーヤ(オヤ当屋とも呼ばれる)、オトウトトーヤ(オト当屋とも呼ぶ)、次のトーヤ(受け当屋の兄・弟)、東西地区の自治会長、当屋子供のイナホ持ち、親族らが続いた。

こうして当屋家での神送り神事を終えればお渡りに移る。



お渡り行列の先頭を勤めるのはツユハライ。

十人衆のなかの一番若い人が勤める。

サカキの葉を水に浸けてお渡りをしながら左右に撒く。

神さんが通る道を祓い清めているのだ。

次は御神体の分霊神さんを納めたヤカタを抱く一老、二老、三老が続く。

礼服姿のアニトーヤとオトウトトーヤは大御幣を持つ。

その次はハツオとも呼ばれるイナホ持ちだ。

幣を取り付けた葉付きの笹を持つ。

笹に結い付けた穂付きの稲株二つも一緒に持つイナホさんは当屋の孫子供である。

そして受けトーヤ、神主、自治会長が後続につく。

鳥居を潜って本殿に入る際には神主は幣を振って御神体を迎える。



そうして始まった氏神祭。

本殿と拝殿の間の長床に座る一老、二老、三老。

神饌を献じるのは当屋と自治会長だ。

決められた席に着けば神主の祝詞奏上。

仮宮式を終えてたいらけくかしこみ申す。

引き続いて行われたのが「当渡し」の儀式。

現当屋から受け当屋に引き継がれる儀式である。

両者は立ちあがって向き合う。

神主の指示に従って大御幣を持つ二人の当屋は受け当屋に手渡された。



厳かに当渡しの儀式を終えた。

かつては手渡す際に御幣をぐるぐると三回廻していたそうだ。

御幣はシデが大切だと話す神主。

棒付きであっても構わないが受けた当屋は床の間に飾っておけば良いと伝えられた。

こうして神事を終えたあとは神饌を下げて長床で直会が行われる。

平成3年の10月に発刊された村の歴史を纏めた『椎木の歴史と民俗』によれば、かつては氏神祭に子供相撲があったそうだ。

祭りの間に繰り広げられた子供の相撲であった。

また、ダイガク型の12個の提灯台もあったそうだ。

東西地区それぞれの2台の三角三段の提灯台は法被ハチマキ姿の子供たちが曳いていたようだ。

(H24.10. 8 EOS40D撮影)

小林町杵築神社の宵宮

2012年12月14日 09時46分18秒 | 大和郡山市へ
大和中央道をも巡行してきた布団太鼓。

小林町では大太鼓と呼んでいる。

櫓には立派な彫り物が施されている。

ウサギ、トラなどの動物もあれば中国を思わせるような神仙彫りもある。

太鼓は平成元年に貼り替えているものの胴体は古い。

納めてあった太鼓蔵。

傍らに置いてあるのはたくさんの提灯をぶら下げるものがある。

それを支える台もある。

それは小太鼓と呼んでいるが現在はお蔵入りだ。

大太鼓はこの日の昼間に集落を巡っていた。

集落を抜けて北へ向かう。

そして大和中央道の車道を練ってきた。

当然ながら警察の通行許可は得ている。

今国府の信号からは西へ向けて行く。

そのときの様相は知ることはないが、運転手は驚いたことだろう。

そうして戻ってきた大太鼓は担いでゆっさゆっさと練ったという。

落ち着いた大太鼓に群がる子供たち。

シーソーのようにして遊んでいた。

祭りが終われば神社の造宮に取り掛かる。

来年の7月には神楽殿も造られるそうだが、大太鼓を納める蔵まで手がつけられない。

その蔵の天井に掲げてあった棟札。

「上棟式 太鼓倉新築 昭和四拾四年五月七日 自治委員長○○○○ 自治員に○○○○、○○○○、○○○○・・・中若世話人・・工事請負人・・」とある。

「昭和六年拾月十四日 片桐村大字小林 左一老○○○○ 二老○○○○ 右一老○○○○ 二老○○○○ 氏子中」の文字が見られる幕を張った杵築神社。

この夜は小林町に鎮座する杵築神社の宵宮だ。

前日は公民館でゴクツキをした。

そこには左座と右座が一体となった仮宮があった。

かつては左座、右座の当屋家ごとで祀っていた仮宮であったが、平成17年に公民館(土地改良区事務所)が完成してからはそこで祭祀されるようになった。

今夜の宵宮祭祀は高張提灯を掲げた杵築神社となる。

左座、右座のそれぞれが座する拝殿には各家が持ち込まれた提灯も掲げている。

本殿下の長床にはローソクが灯された。

八条町の菅田神社の宮司を迎えて宵宮の神事が行われる。

両座中が本殿前に並んでの神事だ。

氏子参拝者は境内に居る。

お供えの順は決まっている。

洗い米、お神酒、餅、魚、玉子、海藻、野菜、果物、塩、水だ。

神饌を献じた神事。

それを終えれば両座に分かれて座る。

そこで用意した「ジュウニカグラ」。

前日のゴクツキで作ったモチである。

細長い杉のヘギ板は短冊のような形。

それに小さなモチをくっつけている。

一枚に6個のモチが並ぶ。

それは12枚で「ジュウニカグラ」と呼ぶ。

その「ジュウニカグラ」のモチは左座、右座にそれぞれ6枚。



お盆に乗せてぐい飲み猪口を置く。

それも6個ずつである。

始めに右座の一老が猪口にお神酒を注いだ。

もう一つのお盆に一枚のジュウニカグラと猪口酒を一つ乗せた。

座中の一人がそれを左座に持っていく。

受け取った左座は同じように一枚のジュウニカグラと猪口酒を一つ乗せたお盆を右座に持っていく。



こうして6回ずつ返杯の作法をする「ジュウニカグラ」の交換。

お互いがお互いのモチと酒を差し出すのである。



両座にいきわたれば座の儀式。

両座それぞれに酒を飲む。

宮司は左座に座って両座は揃って手を打つ。



まるで手打ちの儀式であろうかのような乾杯の儀式である。

その儀式を見届けた三郷の坂本巫女は御湯の斎場に立つ。

湯釜を据えた場は石造りの釜床。

火をくべることなく沸かした湯を入れて神事が始まった。

かしこみ申すと神さんに告げて、塩、お神酒などで御湯を清め、ゆっくりと御幣でかき回す。

御幣と鈴を手にして右や左に舞う。

笹を手にして湯に浸けて前向きにシャバシャバする。



天より降りたもうと、東の伊勢神宮の天照皇大明神、南の談山神社の多武峰大権現、西の住吉大社の住吉大明神、北は春日若宮大明神の四柱の神々の名を告げて呼び起こす。

再びシャバシャバして同じく四方に向かい、それぞれの大明神に「この屋敷に送りそうろう」とお戻りになられることを告げる。

本殿下の長床に移って鈴舞いをされたあとは拝殿の座中へ。

その間における座中は御湯の神事を見ることなく酒を酌み交わしていた。

その座に登った巫女は「交通安全、家内安全、水難盗難、身体健勝、祓いたまえ、清めたまえ」と御湯の笹と鈴を振って祓う。

左座、右座の座中、一人ずつ順に祓い清められて御湯の神事を終えた。

待っていた氏子たちは行列をなしていた。

家族揃っての宵宮参拝は巫女による鈴祓い。

シャンシャンと音がする。

右座の座中が酒を酌み交わす拝殿は剣に持ち替えて神楽を舞う。

再び鈴を持って右に左に舞う神楽。

「祓いたまえ清めたまえ 交通安全、家内安全、水難盗難、身体健勝、祓いたまえ、清めたまえ」と頭上から剣と鈴で祓い清める。



行列ができた祓い受けの家族。

次の家族へと絶え間ない。

途切れることなく次から次へと休むことなく行われた村のご祈祷であった。

(H24.10. 7 EOS40D撮影)

唐古神明社の昔宵宮

2012年12月13日 06時43分47秒 | 田原本町へ
田原本町の唐古・鍵は初瀬川(大和川)と寺川に挟まれた地域。

平安時代の延久二年(1070)には興福寺領の荘園で田中荘と呼ばれていたそうだ。

唐古南交差点に鎮座する八阪神社。

かつては交差点信号の東側まで広がる領域であったと村の人はいう。

その八阪神社で御湯立神事が行われる。

一時期は法貴寺池坐朝霧黄幡比賣神社(通称池坐神社)の宮司家の母親が行っていたという御湯立の儀式である。

およそ60年ぐらい前のことだと話す宮司家の婦人。

そのころからも里の女児を巫女に仕立ててはどうかとお願いをしていたが、諸事情で都合がつかなかった時代が続いた。

いつしか時が流れてきた近年のこと。

池坐神社の郷村にあたる村々では小学生の女の子が里の巫女として勤めるようになってきた。

時代を経て機運が盛り上がり当村でも受けるようになったと話す。

そうして数年経った。

里の巫女を受ける家はさらに増えていった。

6、7年前からは参加意識が高まった。

現況を鑑みた唐古も池坐神社の指導の下で里の巫女を育成するようになって3年目。

唐古に住む小学生の女の子が巫女役を勤めるようになった。

5月ころから宮司婦人が作法を指導してきたと自治会長が話していたのは先月のことである。

唐古の天王講の営みを掲載している『田原本町の年中行事』。

文中に、10月1日は唐古の神明(しんめい)社で昔宵宮をしているという記事だ。

先に八阪神社へ参ってから神明社で湯立てをすると書かれている。

湯立てをする巫女は郷社の池坐神社が鎮座する法貴寺の里の巫女が行うとある。

その巫女が前述した池座神社宮司家の母親だったのかは判らない。

八阪神社を崇めている天王講は20軒。

3月には天皇さんと呼んでいる八阪神社に供え物をしてから当屋家に集まる。

その家の床の間に「天照皇太神宮」の掛軸を掲げて膳につくとある。

後日に聞いた話では料理屋に替ったそうだが、講中の一人が話す天王講の文書に興味がわく。

それには神像が並んでいる画像もあるらしい。

神事の場に集まった法被姿の自治会役員たち。

境内に穴を掘って湯釜を立てる。

脚は三本だ。

湯釜は古いものと見られた。

薄らと刻印があるが判別できない。

光りが当たる具云いで読めなかった文字は神明社に移されたときに見えた。

一部であるが「・・・春日大明神牛頭天王御湯釜・・・天保九歳戌九月吉日 御鑄物師原榮大・・・」とある。

天保九年は西暦で1838年。

およそ170年前の代物である。

そのころから、或いはそれ以前であったと思える湯釜の年代。

二社が記されている神社名。

春日大明神は現在の神明社、牛頭天王は明治12年に八阪神社名に替ったようだ。

湯を沸かすのは杉の枯れ葉。

雑木も入れて火を点ける。

時間を短縮して家で沸かした湯を注ぐ。

待つことしばし。

宮司婦人とともに登場した里の巫女は小学5年生。

翌年も行うそうだ。

幣を受け取り神事が始まった。

巫女が立つ斎場は扇のように広げた藁束を敷く。

履物を脱いで立つ巫女。

幣を振ったあとは静かに湯釜に投じる。

それをかき混ぜるような感じの作法でゆっくりと釜の縁辺りを回す。

次に笹束を受け取る。

鈴を右手に持ってシャンシャン。

頭を下げて左に回る。

一周してまたもや頭を下げる。

その方向にあるのが八阪神社の社殿。

小さな祠のような社である。

今度は右回りにシャンシャンと鳴らしながら一周回り。

頭を下げて左回りした神楽の舞い。

それを経て始まった御湯の儀。

笹束を湯釜に置いて洗い米、塩、御酒を注いで清める。

それから笹を湯に浸ける。

西の社殿、南、東、北の方角に向かって、その都度の三度の礼。

そして湯に浸けた笹を前方社殿側に向けて飛ばす。

何度か繰り返して後方にも笹を振り上げた。

数えてみれば前方が5回で後方は10回であった。

後方の10回は前半、後半の5回の作法が異なる。



前半は横水平に近い作法で後半は真上から後方である。

次に行った作法は鈴を鳴らして舞う神楽。

左、右、右回りに舞った。

履物を履いて参拝者の前に移動する巫女。

大きく鈴を振った祓いの作法をありがたく受ける。



神楽の舞い、鈴祓いの作法は9月に拝見した八田のむかしよみやと同じだった。

同一の指導であるゆえそうなのである。

こうして八阪神社での御湯立神事を終えれば、役員ともども神明社に向かう。

それほど遠くない距離に鎮座する神明社。

湯釜に刻印されていた春日大明神は境内社の一つと思われる。

ここでも境内に穴を掘って湯釜を立てる。

同じように扇のように広げた藁束。

そこは里の巫女が湯立て神事が行われる斎場である。

参拝者は先ほどの八阪神社での湯立てよりも多くなった。

湯立ての前には本殿で巫女による鈴神楽が舞われる。

近くまで寄ってきて参拝者に祓う儀式であろう。



それから始まる湯立ての儀式は生憎の事情で現場を去らなければならない。

八阪神社での湯立てと同じように作法されたことと推測される。

後日に自治会役員方にお聞きした話によれば「神明社の昔宵宮(むかしよみや)」は10月1日だった。

秋祭りはその後に行われていた宵宮と本祭り。

行事は一本化されて第一日曜日に移ったとういう。

この日は子供御輿の巡行もあるが、本来的には神明社の昔宵宮(むかしよみや)であろう。

『田原本町の年中行事』によればマツリといえば宵宮が重んぜられ、夜中に神さんが降臨することから始まると信じられ、その夜はお籠りをしていたとある。

現在では本祭りに対する前夜を宵宮と称してマツリが行われているが、その宵の祭典だけは村のマツリとしている地域も少なくない。

郷中の各村では村の単独のマツリとして昔宵宮(むかしよみやの呼ぶ)とかコマツリと呼ぶ地域もある。

そのときに郷社にあたる神社から里の巫女を出向けて御湯立ての神事や神楽を舞っている。

その件から思料するにこの日に行われた唐古の御湯行事は神明社の昔宵宮(むかしよみや)そのものであると考えられる。

(H24.10. 7 EOS40D撮影)

伊豆七条町マツリのトーヤ

2012年12月12日 06時43分29秒 | 大和郡山市へ
マツリの一週間前に池之内町の宮司に御幣を作ってもらった伊豆七条町のトーヤ(頭屋)家。

かつてはマツリの前日にゴクツキをしていた。

千本杵で搗いていたようだとMトーヤ(頭屋)は話す。

その数は伊豆七条町の戸数。

相当な量だったそうだ。

いつしか千本搗きをしなくなり機械の餅搗き。

その後は餅屋から購入することになった。

当時のゴクツキは町内を四つに分けた組が手伝いとして搗いていた。

手伝いはトーヤ家で慰労し接待していた。

膳料理は仕出し屋に頼んでいた。

お店をどこにするかはトーヤ次第。

徐々に派手さが目立つようになった。

これでは負担が大きくなる一方になって村で協議。

現在は料理値段も上限を決めたパック詰め料理にしたそうだ。

トーヤ家の門屋に掲げた幕は家紋付き。

50年に一度回ってくるトーヤはマツリに相応しい幕を張らねばと云われて取り付けたと話す。

その幕は蔵に眠っていた。

探し出すのに往生したという。

マツリに御供される神饌はトーヤ家の座敷に並べられた。

それぞれの神さんに供えられる御供には神社名が記されている。



始めにお渡りされる子守神社には末社がある。

勝手神社、大神神社、春日神社の三社だ。

子守神社に供えたあとは南に鎮座する牛頭神社。

境内には八王子神社も祀っている。

それぞれの神さんに供える御供。

米は一升で塩は1kgも買った。

剣先スルメ、巻き昆布も買った。

野菜はダイコン、サツマイモ、ニンジン、ドロイモ3個に果物はカキだ。

餅は二段で1個が180gと決められている。

ずらりと並べられた御供は実に壮観である。



マツリを終えれば餅を捧げる。

宮司は三つで巫女さん、一老さん、頭屋に手渡されるそうだ。

その一老さんは黒紋付き姿。

大正8年生まれの93歳にもなった高齢者だが元気が良い。

かつては三八連隊に所属していたという一老さんは今でもバイクで走り回っているそうだ。

かれこれ4、50年前には伊勢の大神楽がやってきた伊豆七条町。

暑い盛りと云うから夏祭りであろう。

ゴザを敷いて観覧していた。

傘を回す曲芸もあったと話す頭屋。

紙芝居もあったそうだ。

10円のこずかいを貰って水飴を買いにいったとM氏が話す。

(H24.10. 7 EOS40D撮影)