マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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南田原町イセキの祭文音頭

2012年11月18日 08時17分23秒 | 奈良市(東部)へ
9月8日に行われていたことから八日薬師のイセキと呼ばれる行事は村人が集まりやすい日曜日に替った奈良市の南田原町。

「イセキ」は「会式」が訛った仏事の行事。

薬師堂の行事として行われている。

本尊前にケト(ケイトウ)などのお花を飾る。

祭壇には特異な形のオソナエが並ぶ。

年番の「にんにょ(年用)」たちの手によるものだ。

造りもののお供えはベイナスに赤トウガラシとマメを挿した人の顔のような形をしている。

両脇には薄く切った5枚のパン。

本来はフ(麩)で飾りつけをするのだが、手に入らず仕方なくパンに切り替えた。

2年前に訪れたときもそうであった。

後方には大きなズイキとダイコンも立てている。

高く盛った仏飯に箸を立てる。

お賽銭を捧げて参る村人たち。

元は南福寺と呼ばれるお寺があった南田原。

明治時代までは南福寺に住職が居たそうだ。

菩提を弔うイセキはお参りを済ませれば集会所に集まって会食していた。

子どもも一緒になった家族ごとに飲食する。



それから1時間半後。

おもむろに始まった盆踊り。

数人が会所の中で列を作って踊っていく。



唄を歌う音頭取りは小学6年生。

3年間も練習してきた音頭取り。

茗荷町に住むOさんが指導してきた。

かつては東山中のそれぞれの村でイセキにつきものの盆踊りをしていた。

南田原をはじめとする田原の里では大野の十輪寺から始まって中之庄、矢田原、日笠、今井堂、長谷、別所などで次々と行われていた。

隣村の盆踊りを見にいったことを覚えている人は少なくない。

いつしか廃れていったイセキの盆踊りは語り草。

村起こしのきっかけに練習してきた祭文音頭はこの日初のお披露目。

後継者の育成の方向性が見えてきた。

田原の里が全域に亘って復活すればと願っての初披露は一曲で終えた。

Oさんの話によれば、長谷のイセキではかつて音頭取りに番傘をさしていたと云う。

音頭取りが3人なら三つの番傘。

足元には生タマゴと酒と湯のみが置かれたそうだ。

何故に生タマゴかと問えば「声が枯れてかすれたら湯のみに割った生タマゴを入れて飲みほした」と云う。

酒を飲むのも喉に良いからと飲んでいたそうだ。

番傘は何故に挿すのか。

この答えは「夜通し歌うから夜露に濡れたらあかん」と云うわけだ。

盆踊りは村人が溢れて二重にもなったそうだ。

続けて話すOさんの思い出。

「吉田踊りではちょんちょんと前に出るときに、前にいてる踊り子の娘さんのマタグラ辺りにちょいと足を出したんや」と奥さんが居る前でも話された。



ところで南田原のイセキはトーシミがつきもの。

会食を終えるまでは火を絶やすことはできない。

灯心の灯りは十三灯。

2年前に拝見した燭台は油でこてこて状態だった。

黒光りしていた燭台に歴史を感じたが、そうではなくなった。



お皿はそのままだが下部は竹製。

申しわけないがつり合わないように思える。

(H24. 9. 9 EOS40D撮影)


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