今年8月の念仏はアラタナが5軒ある。
子供、大人それぞれの講はそれぞれの講の家のアラタナに回る。
子供の念仏講は4軒、大人は1軒である。
オトナネンブツはお寺とセセンボにアラタナを回る。
それも7日だけだがコドモネンブツは7日から14日まで毎日。
しかも集落の辻ごとに太鼓と鉦を叩く。
アラタナではタナダイを貰う。
今では現金になったが昔はお菓子だったようだ。
とはいってもアラタナでタナダイを貰うのは一日だけだ。
あとの日はお菓子だ。
アラタナがなければ講中の24軒からお金を集めてそれを分ける。
年長者は倍ほど貰ったそうだ。
お寺山門、本堂前、仲カンベエ元屋敷口の集落中央の辻、北のフダバ(高札場)の辻、旧仲家の墓前の辻(テラノウチ、コバカ)から本堂前は毎日。
14日は大周り。千束、ツチンド(辻堂橋地蔵祠;池の取水口)、南池の北西、池の西(元祠)、セセンボ、フダバ、寺本堂前となる。
年長者の一人があたる太鼓打ち。
二番目の歳の子は太鼓持ちと決まっていた。
当時子供だったNY氏やNK氏の話に寄れば人数が多かったので太鼓打ちは交替していたという。
西大寺中興の祖とされる興正菩薩の生誕地である白土町。
室町時代以前は箕田と呼ばれていた。
その真言西大寺と関係を示す宝篋印塔が浄福寺境内にある。
覆屋の四方は卒塔婆の札に囲まれた珍しい様式は西大寺と同様だそうで、当時庄屋だった仲カンベエが寄進したものだそうだ。
現在は面影がないが分家が現存している。
子供念仏講の一人であるK氏は行者講でもある。
K家の庭には大峰山に向かって献灯していた石造2基がある。
記憶によれば大峰山へ登って山上参りをしていたのは一回だけだと話す。
途切れる前は泊まりがけで行ったようだ。
講には4反の田んぼがあったが、農地改革で手放さざるを得なかった。
当時は実った収穫米の収益で講の費用を賄っていた。
行者講のお勤めは年に一度。
当番の家で営まれる。
ローソク差しや巻物を回している。
昔はタケノコ料理がつきものだったのでタケノコが出る時分だったようだが現在は田植え終いの6月の末辺りの夜に8軒が集まっている。
掛け軸を掲げてホラ貝を吹く。
お酒を1本あけるまで終わらないという。
両氏は数年前まで簾型の注連縄を自作して玄関に飾っていた。
右が頭で左が尻尾。
上方にピョンとあがっていた。
それはドウガイと呼んでいた。
年末に作って正月三日まで飾る。
四日には取り込んで燃やしていた。
早々と農作業をせーよということらしい。
とんどで燃やしていたのであろう。
当時はお餅を焼いたり習字を燃やしたりしていた。
注連飾りも燃やした。
昔しは乾物が付いていた大きな注連縄を燃やした。
今は長い竹を持っていくと嫌われるので短くした竹にしている。
垣内でなくグループ毎にしていた。
オサ(長)が納める田んぼの関係の集いであったかもしれないと話す。
かつて白土村はそれぞれの地区から集まった集合体。
そのグループは元々の集合体であったかもしれない。
南側に道路ができるまでは北側が入口だった。
その証しを示すのがフダバの名。
発志院から千束へ抜ける道でもある。
(H23. 3.21 EOS40D撮影)
子供、大人それぞれの講はそれぞれの講の家のアラタナに回る。
子供の念仏講は4軒、大人は1軒である。
オトナネンブツはお寺とセセンボにアラタナを回る。
それも7日だけだがコドモネンブツは7日から14日まで毎日。
しかも集落の辻ごとに太鼓と鉦を叩く。
アラタナではタナダイを貰う。
今では現金になったが昔はお菓子だったようだ。
とはいってもアラタナでタナダイを貰うのは一日だけだ。
あとの日はお菓子だ。
アラタナがなければ講中の24軒からお金を集めてそれを分ける。
年長者は倍ほど貰ったそうだ。
お寺山門、本堂前、仲カンベエ元屋敷口の集落中央の辻、北のフダバ(高札場)の辻、旧仲家の墓前の辻(テラノウチ、コバカ)から本堂前は毎日。
14日は大周り。千束、ツチンド(辻堂橋地蔵祠;池の取水口)、南池の北西、池の西(元祠)、セセンボ、フダバ、寺本堂前となる。
年長者の一人があたる太鼓打ち。
二番目の歳の子は太鼓持ちと決まっていた。
当時子供だったNY氏やNK氏の話に寄れば人数が多かったので太鼓打ちは交替していたという。
西大寺中興の祖とされる興正菩薩の生誕地である白土町。
室町時代以前は箕田と呼ばれていた。
その真言西大寺と関係を示す宝篋印塔が浄福寺境内にある。
覆屋の四方は卒塔婆の札に囲まれた珍しい様式は西大寺と同様だそうで、当時庄屋だった仲カンベエが寄進したものだそうだ。
現在は面影がないが分家が現存している。
子供念仏講の一人であるK氏は行者講でもある。
K家の庭には大峰山に向かって献灯していた石造2基がある。
記憶によれば大峰山へ登って山上参りをしていたのは一回だけだと話す。
途切れる前は泊まりがけで行ったようだ。
講には4反の田んぼがあったが、農地改革で手放さざるを得なかった。
当時は実った収穫米の収益で講の費用を賄っていた。
行者講のお勤めは年に一度。
当番の家で営まれる。
ローソク差しや巻物を回している。
昔はタケノコ料理がつきものだったのでタケノコが出る時分だったようだが現在は田植え終いの6月の末辺りの夜に8軒が集まっている。
掛け軸を掲げてホラ貝を吹く。
お酒を1本あけるまで終わらないという。
両氏は数年前まで簾型の注連縄を自作して玄関に飾っていた。
右が頭で左が尻尾。
上方にピョンとあがっていた。
それはドウガイと呼んでいた。
年末に作って正月三日まで飾る。
四日には取り込んで燃やしていた。
早々と農作業をせーよということらしい。
とんどで燃やしていたのであろう。
当時はお餅を焼いたり習字を燃やしたりしていた。
注連飾りも燃やした。
昔しは乾物が付いていた大きな注連縄を燃やした。
今は長い竹を持っていくと嫌われるので短くした竹にしている。
垣内でなくグループ毎にしていた。
オサ(長)が納める田んぼの関係の集いであったかもしれないと話す。
かつて白土村はそれぞれの地区から集まった集合体。
そのグループは元々の集合体であったかもしれない。
南側に道路ができるまでは北側が入口だった。
その証しを示すのがフダバの名。
発志院から千束へ抜ける道でもある。
(H23. 3.21 EOS40D撮影)