マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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入之波・節句に揚げる軍神幟旗

2016年11月07日 11時27分03秒 | 川上村へ
この日は朝から熱い。

奈良市での最高気温は29.7度。

北部もそうだが県内南部も高かったほぼ夏日。

吉野川では海パン姿の男性たちがいた。

ニュースで伝える公園の水場は小さな子供も同じように水着ではしゃぐ姿を報じていた。

写真家のNさんが教えてくださった幟旗。

その地は懐かしくもある川上村。

豪雨による崖崩れ以来、足が遠のいている。

期待していた稲渕の苗代作りは翌日持越し。

ここまで来ればもう少し。

足を伸ばすことも大事だが道を思いだす絶好の機会を探索にあてた。

当主がおられるかどうかは別として実態があるのかどうか。

これを確かめたくて車を走らせる。

行先は入之波(しおのは)だ。

入之波へ出かけるのは何年ぶりになるのだろうか。

記憶から蘇る秋の景観。

初夏のころに度々でかけた北股川に本沢川が流れる大迫ダム。

その辺りの川は濃い青色。

秋の色が水面に染まっていた。

そこから奥に行けば三之公川。

平成15年11月27日に訪れた入之波は晩秋の彩だった。

それ以前の入之波といえばアマゴを求める釣りの川。

釣果はそれほどでもなく、渓流に居られることに幸せを感じていた。

そのころの年齢は30歳前後、だったと思う。

30歳になったときは現住居の大和郡山市に引っ越していた。

それまでの暮らした家は大阪市の市営住宅。

年に何度かを出かけた奥吉野の渓流。

なぜか川上村にある渓流がとても気にいっていた。

釣り行きはいつも一人だった。

北股川、本沢川、三之公川以外に伯母谷川、中奥川、上多古川、下多古川があった。

そんな随分と昔のことを思いだしながら169号線を南下する。

大滝ダムから寺尾、対岸の白屋、人知、井戸、武木、下多古、上多古、柏木を通過してやっとことで大迫ダム。

入之波はそこから湖岸沿いの道を走らなければならない。

距離にすればたいしたことはないが、なぜか遠くに感じる。

13年間の月日がそうさせるのかも知れない。

短いトンネルを越えれば集落が見える。

右手に折れればたしか民宿があったように思える。

ゆっくり走らせる車。

走るというよりも歩くような速度だ。

そこに現われた大きな幟。

Nさんが教えてくださった幟旗は二人の軍神を描いている。

到着した時間帯は午後5時50分。

日暮れ近い時間帯は西日。

もうすぐ山影に遮られようかという時間帯は逆光。

雰囲気だけでも、と思って撮った。

撮ってから呼び鈴を押す。

奥から女性の声が聞こえる。

出てこられた女性に幟旗を尋ねるも、それはたぶんに無理がある。

外国の人だった。

女性に奥に居られた男性に声をかけた。

男性は当家の主。

孫が生まれたときに探した蔵にあった軍神の幟旗に感動して揚げたという。

軍神は二人。

上に描かれているお顔は陸軍大臣の大山巌元帥(1842・天保十三年~1916・大正5年)。幟旗には「大山君」とある。

その下に描かれているのは海軍大臣の東郷平八郎元帥(1847・弘化四年~1934・昭和9年)。

「東郷君」の文字がある。

当主のSさんが云うには明治42年生まれの祖父が誕生したときに旗屋で作ってもらったらしい。

大山巌元帥が凱旋帰国した年は明治38年。

一方、東郷平八郎元帥は明治38年から42年にかけて海軍軍令部長。

大正2年に元帥となった。

陸軍、海軍の軍神を描いた幟旗はおそらく日清(1895・明治28年終結)日露(1905・明治38年終結)の戦勝記念に製作されられたのであろうか。

お爺さんの誕生祝いに揚げた年は明治42年。

日露・戦勝に湧きかえった4年後のことである。

当主の親父さん、昭和18年生まれの当主が生まれたときに立てた幟の支柱。

ずっと残してあった支柱に揚げたのは軍神幟ではなくコイノボリだった。

当主の息子が誕生した時もコイノボリだったという。

ところがだ。

孫が生まれた平成25年。

探した蔵から幟旗が出てきたのである。

コイノボリを立てていた支柱に揚げた軍神二人の幟。

その後の平成25年、26年、27年。

孫の誕生は立て続け。

その都度、孫の名前を旗に追記した。

今では4人の孫の名が連なる幟旗。

もう一人、追加になるかもしれないと云う。

幟旗には家紋がある。

作ってもらったときに染めた家紋は「まるにけんはなびし(丸に剣花菱)」。

戦に勝つようにという願いを込めた家紋であれば、話しは合うが・・・。

この幟旗は5月1日に立てる。

ずっと立てたままで、旧暦節句の6月5日まで。朝はだいたいが9時に幟を揚げる。

下ろすのは夕方の午後5時ぐらいの毎日であるが、雨が降ったときや強風の場合は下ろすと云う。

ちなみに当主は何代も続く木材の生産者。

植えてから百年経ってやっと利用できる木材作り。

孫の時代になってようやく材の木材が“財”になるということだ。

当主の三男坊が代継ぎをしてくれた。

今は隠居の身でもあるが、頼まれた吉野林材振興協議会の仕事は重い腰を上げて引き受けたと云う。

川上村といえば御朝拝式がある。

筋目衆の在り方は将来も永続できるよう村行事として継承することになった平成19年2月5日の550年祭。

そのときは私も取材させてもらって発刊した著書にも収録させていただいた。

当主はその事業の副会長でもある重鎮だ。

来年の平成29年が560年祭。

あれからもう10年も経っていた。

ちなみに材関係者であることから山ノ神を祭る行事の有無を尋ねた。

それは二つの系統がある。

一つは村全体で山ノ神に参る行事がある。

例年は1月7日。

県内事例で一番多い日である。

それとは別に家の山ノ神をマツリがある。

6月7日と11月7日の固定日。

お神酒や塩なでの神饌を供えるらしい家の行事。

都合がつけば伺いたい行事である。

(H28. 5. 2 EOS40D撮影)


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