マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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高取元配置薬家の神農図と行商道具

2017年07月20日 09時50分39秒 | 民俗あれこれ(売る編)
御所市宮前町神農社の薬祖神祭行事の取材に同行してくださったN家に伺う。

私が取材したなかに神農さんの掛図を家の床の間に掲げて祭る行事がある。

一軒は元藩医の家

もう一軒は往診していたお医者さんの家

いずれも大和郡山市内である。

神農さんは医療関係のお家で継承されてきた事実を知ったわけであるが、薬祖神祭行事の取材に同行してくださったN家は元配置薬家。

正月などの目出度い日とか他の日にも掲げてお供えをしていたと云っていた。

先代の父親は配置売薬業。

奈良県外各地の顧客先へ出向いて売薬をしていたという。

床の間に掲げていた時代はNさんが子どものころ。

売薬に地方に出た父親が家に戻ってくるのは盆と正月ぐらいしかなかったそうだ。

神農さんの掛図を見た記憶にあるのはその盆と正月。

そのときにしか掛図は掲げなかったのであろう。

床の間の記憶にあるのは神農さんの掛図の前にあった鏡餅ということはお正月らしい雰囲気であったことがよくわかる。

正月が明けて売薬仕事に向かう際に掛軸を掲げて商売繁盛を願った。

仕事道具を床の間に据えて旅の安全を願ったのであろう。

Nさんはそう云う。



私が神農さんの掛図を拝見したいと希望したものだから父親が商売に使っていた柳行李を座敷に出してくれていた。

今でも使えそうな柳行李は五段組み。

もう一つ、木製の蓋付きの箱もあるから正確にいえば6段組みといえばいいのだろうか。



それぞれをばらして並べてくれた。

行李の四つは内張りがある。

何を書いた書類なのか、文字がたくさんある。

一般的にコリヤナギ(カワヤナギ例もあるらしい)や竹が原材料の柳行李

職人さんが編んで作った製品は隙間がある。

虫食い被害も受けやすいヤナギ。

防虫に和紙でくるんで柿渋塗り。

内部に貼って強度をあげる意味もあったのではないだろうか。

行商に柳行李が使われたのは、軽さである。

収納する商品の大きさを考えてのことだと思われる内部の区切り板も組立型である。

運んでいるときに行李の中でゴソゴソしないように工夫されている。

手前にある木製箱に皮製の帯ベルトを納めていた。

このベルトは販売する薬に顧客台帳などを収納した柳行李を締めた。

倒れても崩れないようにしっかり締めた商売道具は大風呂敷(一反風呂敷)に被せて包んだ。



両端になる部分を引っ張って紐のようにする。

それを背中にもっていって両手を広げて背中に回す。

腰を上げて首辺りで結ぶ。

そういう具合に調えて父親は玄関を出ていったのであろうと再現してくださった。



再現時は商売の品々は入っていないので軽いが、詰まってあれば相当な重さになったであろう。

こうして担いだ大風呂敷に白抜き文字がある。



「鯉膽丸(りたんがん)本舗 株式會社きぬや薬舗」が製造する薬などを顧客に届けていたのであろう。

きぬや薬舗は風邪薬のメトン錠や頭痛・歯痛などに効果を発揮する医薬品ソラジンも販売している御所市今住にある薬製造会社である。

大風呂敷とともに錠剤入れに使っていたと思われるビニール袋も残していた。

この風呂敷でわかるように父親は同社の専属配置薬業、いわば売り子(行商人)であった。

N家を取材した半年後の平成29年6月7日である。

NHK奈良放送局が夕方の情報番組である「ならナビ」で30数秒間若しくは2分間に纏めたアーカイブ映像を流すようになった。

開局80周年を迎えたNHKが過去にとらえた映像は今となっては貴重な映像である。

4、50年前の奈良のさまざまな文化的記録映像が映し出される。

突然に始まったアーカイブ映像。

映し出した映像は昭和41年に記録された「高取町の薬の行商」である。

今からほぼ50年前の映像に登場していた人たちは男性ばかり。

畳部屋には何人もの人たちが薬箱の行李詰めをしている。

箱はN家で拝見した柳行李だけではなく、ほとんどが皮製の行李だった。

アーカイブ映像はモノクロだから色合いは不明だが、なんとなく黒色のようにも思える。

半年後の平成29年6月21日に訪れた大淀町の大字大岩。

そこで拝見した配置薬業の家。

今もある柳行李を拝見した。

その家は風呂敷もあるが、行李を肩にかけて運ぶ道具であった。

まさにアーカイブ映像で見たそのまんま。

皮は合成皮革であったことがわかった。

アーカイブも大字大岩で拝見した行李は5段組み。

同じように仕切り板があり、そこに薬箱を詰めていた。

詰め込みが終われば行商の出発。

単車後ろの荷台に積んで出かける人もおれば歩いていく人も。

歩いて出かけた背たろう姿は再現してくれたNさんと同じであった。

この「高取町の薬の行商」映像は録画したが、NHK放送局のネットで拝見できればなお嬉しいと思っていたら、Nさんがわざわざ探しだしてくれたのでリンクしておく。

大阪市内の住之江区が私の生家。

今は公団のような5階建ての市営住宅。

それ以前はほったて小屋のような安物木造家だった。

戦時中に罹災した人たちのために建造された市営住宅である。

今でも頭の中に残る配置薬箱の映像がある。

赤色に近い茶、それとも黒色だったか覚えていない。

小さな取っ手がある引き出し形式の薬箱だった。

中でも鮮明に覚えている絆創膏の名前。

キズリバーテープである。

製造販売していた会社は共立薬品工業㈱である。

他にも真っ赤な色合いの小袋にあった風邪薬もあった。

大阪の改元の風神さんでもなかったような気がする。

我が家の薬箱は現存しておれば・・・。

そう思っていた。

気にかけてはいるが、電話を架けるほどでもない。

実家に行く機会があれば、そのときにでも、と思いつつ、おふくろと会う機会は度々あるのだが、ついつい失念してしまう。

結局、訪れた日は平成29年の6月16日。

大字大岩と前後するように機会が突然とやってくる。

おふくろに薬箱の存在を確かめた。

そういえば木造住宅から5階建て団地に移ったときはあったという。

あった記憶を手掛かりに押し入れや棚を探してみる。

どこを見ても見つからない。

大阪市営大和川住宅の団地移転した時代は昭和50年代初頭。

入居した時期は昭和52年だったか。

おふくろが住む実家は木造一階から団地の4階に移った。

そのころも来ていた配置薬の男性。

大阪市の西成区から来ていたことを覚えているという。

半年にいっぺんは配置薬の置き換えにきていたが、いつのころか来なくなった。

理由は記憶にない。

仕事を辞めたのか、亡くなられたのか。

こちらから断ったのかまったく覚えていない。

おふくろも覚えていた薬箱の色はやはり赤色だった。

箱に取っ手があったことも記憶が一致するも箱がない。

始末したと思われる薬箱は記憶の中にしか存在しない。

私の知人に名高い写真家がいる。

その奥さんは秋田県が出身。

生まれ育った生家に奈良の配置薬があったという。

住所が奈良県高取町だった記憶があるという。

電車に乗ってとことこ行ったのかどうかわからないが、何日間もかけて顧客に配置薬を届けていたのだろう。

ちなみに富山県配置薬が始まった年代は元禄三年(1690)。

江戸城中で前田正甫が反魂丹によって三春城主の腹痛を治したことが発端である。

その場に居合わせた諸国大名が反魂丹を売り広めることに懇望したことが拍車をかけ、中国・九州地方から全国に行商圏が拡大したのである。

奈良県の配置薬は推定40年後の1730年

その年代の史料はないようだが、奈良県が整理した「薬の歴史と配置薬の沿革(薬の年表)によればそう書いてある。

その年表には年代は不明だが、同時期に滋賀県、佐賀県も配置業が始まったように記載していた。

尤も県の「薬業通史2章3大和売薬の成立展開売薬業の展開と配置売薬」によればはっきりしているのは文化十年(1813)、高取市尾村の奉公人東谷善七郎が御所今住村の中嶋太兵衛(創業元禄二年の丸太中嶋製薬㈱)から家伝の目薬を東国に売り広める際に書き留めた史料に「西国三十三カ所」がある。

ここでいう東国は「東三拾三ケ国」とあるから東国の坂東三十三番観音。

東西の観音巡礼地に配置していたとすれば旅のお伴の配置薬。

そうであるか、ないかは事実関係を示す証拠がないからなんともいえないが・・・。

残していた道具はもう一つある。



煙草パイプのように見える矢立である。

鞘の部分に刀のように納めているのは筆。

その矢立に墨壺も付いている。

訪れた地域で販売記録をとった帳面に文字を書く。

その道具が矢立。

行った先々で墨壺に水を入れて筆を浸す。

そうして文字を帳面に書いていた携帯型の筆記用具である。

現代ならタブレット端末で記録している時代。

ルート販売をしてきた配置薬行商人が必須としてきた道具は柳行李ともども今や入手困難な商品である。

父親は身体都合を理由にきぬや薬舗専属の配置薬業を辞められた。

道具は残ったが、一番大切な得意先台帳(得意帳)は辞めるときの売り物になる。

売り子(行商人)を継いだある人に台帳そのものを以って売り払ったからどこの地域の誰に売っていたかはN家には伝わっていない。

どこの会社であっても顧客、取引先は重要な秘匿なデータ。

私も31年間務めた会社の重要なデータ情報は何人たりとも漏らしてはならないと退職の際に心の中に仕舞っている。

顧客情報ではないが、私の記憶のなかにある情報も、である。

それはともかく、N家もまた半年後の平成29年6月21日に再訪した。

その日に訪れた大淀町の大字大岩での取材を終えた帰り道に立ち寄った。

そのときに拝見した父親の「配置従業者身分証明書」。

昭和61年1月1日に発行された写真付きの証明書は奈良県知事が「上記の者は、医薬品の配置販売に従事する者であることを証明する」とあった。

有効期限は昭和61年12月31日までとあるから一年間における従事証明書である。

今から31年前に使われていた証明書もまた貴重な証言者である。

この証明書は「配置販売における区域」が明示されている。

区域は岐阜県に鹿児島県。

顧客がお住まいの両県であるが、Nさんが云うには主たる販売地県は鹿児島県だったそうだ。

元々は鹿児島県だけであったが、いつしか岐阜県も担当することになったようだ。

許可書に近い預かり証もある。

奈良県家庭薬配置商業協同組合が発行する「医薬品販売業許可証預り証」である。

拝見した預かり証は昭和60年1月1日から昭和62年12月31日までが有効期間。

販売区域は鹿児島県であった。

「医薬品販売業許可証」は「更新」の印があり、「上記の通り許可になりました 許可証は組合にてお預かりいたします」も書かれていたから、別途に「医薬品販売業許可証」があったろう。

つまり、身分証明書は奈良県より、「医薬品販売業許可証」は奈良県家庭薬配置商業協同組合が発行・許可していたのである。

また、「医薬品販売業許可証」は奈良県家庭薬配置商業協同組合が発行する関係で従事組合員は同組合の定款によって出資者となる為本証券も交付されなければならないようで、昭和38年5月1日登記付けで「奈良県家庭薬配置商業協同組合出資証券」書が交付されていた。

なお、販売に取り扱う品目も明示されており、主に専属のきぬや薬舗が製造する薬が14品目。

他に祐徳薬品工業㈱、㈱大石膏盛る堂、㈱雪の元本店、㈱大塚製薬工場、東洋フアルマ㈱、和泉薬品工業㈱の製品も取り扱っていた。

徐々に品目が増えていったことがわかる史料である。

ちなみにNさんはご近所で売薬をされていた家を訪ねたそうだ。

我が家にあるのならその家にも可能性があるのでは、と思って家人に尋ねてみれば神農さんの掛図はなかった。

何軒かの売薬家に尋ねてみたが一軒もなかったというからN家の神農さんは貴重なものである。

他家の売薬業では見られなかった神農さんの掛図。

父親が薬を仕入れていた薬の製造業社では今でも家の床の間に飾っていると知って、近所の現売薬家の方に案内されて2社を訪ねた。

その結果は、2社共に掛図はあるが、掲げることはなく函に仕舞ったままであった。

ただ、祭り方は、N家と同じように神饌もなく床の間に掲げるだけだったそうだ。

そういう点では大和郡山市の元往診家と同じである。

貴重な品物に纏わる行商の一部分を聞いていた時間帯はお昼どき。

予めである。

お店で買っておいたお寿司があるから一緒に食べてくださいとテーブルに運ばれた。



巻き寿司にいなり寿司がとにかく美味しい。

N家のもてなしに感謝しながらいただいたお寿司にご馳走さまでした。

なお、大和の売薬については奈良県の薬業史・通史が詳しい。

是非、参照していただきたい。

(H28.11.16 EOS40D撮影)


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