マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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大和郡山市の注連縄調査5

2012年02月15日 06時48分21秒 | 大和郡山市へ
年末に続いて正月明けも大和郡山市内の注連縄を調査する。

前日も数か所に亘って探してみたが見つからなかったがこの日は2か所にそれがあった。

一つは長安寺町の厳島神社。

二つ目に下三橋町の風神社で見つかった。

厳島神社では拝殿に掲げられていた。



年末30日にトーヤの両隣りの家が手伝って作った注連縄だとNさんが話す。

長安寺町にトーヤ制度があるのは北垣内だそうだ。

かつて、町内では大晦日の夕方に佐保川の川砂を採って玄関から道へ撒き繋げていたと話すKさん。

実家が長安寺町だったのでその光景は今でも覚えているという。

Kさんはその砂を清めの砂と呼んでいた。

また、Nさんは、砂撒きは一年間、心を真っすぐにと一本の砂道を敷いていたそうだ。

その長安寺町北垣内は環濠集落で、実家付近の濠を「ドンブリ」と呼んでいたKさんだった。

もう一つが下三橋町の風神社だ。



数年前、秋祭りの準備をしていたMさんに出会ったことがある。

お盆のときにオショウライサン迎えを撮らせていただいた方だ。

体育の日の前日に移された神社の宵宮。

神主を迎えて神事を行う。

本祭には大和太鼓の皆さんが奉納太鼓を演じると言っていた。

が、注連縄のことは聞いてなかった。

時期折々に尋ねなければならないことを知った日だった。

同神社には宮座の十六人衆が存在する。

鳥居と言えば大きな房をもつ注連縄だ。

その人たちが作ったのであろうか簾型の注連縄は社殿前に掲げられている。

こうした簾型の注連縄には呼び名がある地域がある。

丹後庄町や井戸野町がこれを大注連縄と呼んでいた。

白土町では長老がドウガイと呼んでいたことを覚えている。

数年前に観音寺町の宮守を勤めていたHさんもドウガイと呼んでいた。

番条町の造り酒屋の当主はドウガンであった。

本庄町のH氏はドンガ若しくはドンゴと呼ぶそうだ。

呼び名も調査しなければならない注連縄調査は一年後に期待をかける。

こうした注連縄調査の過程で見つかったのが柏木町の素盞嗚神社。

かつては牛頭天王社とされていたようだ。

どのような注連縄であろうかと拝殿前を見れば、その前に砂を一面に敷いている。

長さは短いが幅は広い。

こんな形を見たのは初めてだ。

一瞬、「スナモチ」の風習ではないかと思ったが付近には人影が見られない。



この砂は一体何であろうか。

その後、何度も訪ねて正体が判明した。

村では十数年前まで集落の通路から家の玄関口に砂を撒いていた。

それは一本の砂の道。

神さんが通る道だからと言って佐保川で採った奇麗な砂を撒いていたと話すD女史。

河川作業をしている人から取らないでくれと言われてから止めたという。

神社境内内の僅かになったが柏木町にも砂撒きが現続していたのであった。

(H24. 1. 5 EOS40D撮影)


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