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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

下永東城・F家の魔除けの宝扇立て

2019年10月16日 09時17分15秒 | 川西町へ
ほとんどの苗代田にイロバナ、松苗護符を立てている川西町下永の田園地帯。

東城地区は8カ所。

西城が7カ所。

圃場に2カ所もあった。

これほど多くの処にしているとは・・思っても見なかった事例である。

調査の最中に出会った男性。

さっきまで草刈りをしていたという男性の家もイロバナに松苗を立てていたという。

その男性は5月19日になれば唐招提寺に出かけていたという。

かつては民衆に向かって投げていた宝扇を手に入れたこともある。

たまたまであるが、ある年は4本も手に入れたという。

長身だったから、手に入れやすかったのかもしれないと話す。

手にする度にズボンのベルトに挿して、また手を挙げたら手に入った。

そんなこともあった唐招提寺の「うちわまき」。

今では抽選に当たるか、当たらないかで決まる。

当たれば持って帰って苗代田に立てると話していた。

年代ははっきりしないが、かつては隣近所の人たちも同じように唐招提寺の「うちわまき」に出かけて宝扇を入手した人がいた。

その人たちもまた入手した宝扇の苗代田に立てていたという。

(H30. 5.12 EOS7D撮影)

下永・3町境界圃場の苗代の水口まつり

2019年10月14日 08時53分36秒 | 川西町へ
東城西城地区の在り方を拝見して、ふと思った。

集落北を流れる大和川の向こう岸。

広がる田園圃場がある。

エリアとしては相当な広さであるが、その圃場は下永が圧倒的な広さを確保しているが、隣村の大和郡山市の宮堂町や天理市の二階堂南姿町の領域もある。

もう一つのエリアに近鉄電車・ファミリー公園前駅の西側に県施設のまほろば健康パーク「スイムピア奈良」がある。

浄化センター公園内の施設であるが、そこもまた領域は下永と大和郡山市・額田部南町に分かれる。

それはともかく圃場に苗代田があった。

1カ所は幾度も見ていた水口まつりの護符。

昨年になってやっとわかった宮堂町のお札であった。

そこ以外の2カ所にあった水口まつり。

領域は下永に間違いない。

周辺ではトラクターが畑土を起こしている。

たぶんに水を張る田んぼにするのだろう。

その一角に見つかった水口まつり。

東城、西城地区と同様にイロバナに松苗を立てていた。

ここよりもう1カ所あったが、バッテリー切れ。



やむなくガラケーで撮っておいた位置情報覚え書き映像である。

(H30. 5.12 EOS7D撮影)
(H30. 5.12 SB932SH撮影)

下永西城の苗代の水口まつり

2019年10月13日 10時44分27秒 | 川西町へ
東城地区の苗代田を拝見して西側になる西城に向かう。

東城から西城へ行くには三つのルートがある。

八幡神社・融通念仏宗派の正念寺前の狭い村道を行くか、一旦は北に出て大和川堤防沿いの道を行くか。

それともぐっと南下して近鉄電車踏切を越えて結崎信号を北に行くか、である。

地図で見れば近鉄電車線路が東・西を分断しているようにも思える。

この日は、近鉄電車踏切を渡る大和川堤防沿いの道を利用した。

踏切を抜けてすぐ南側に集落が見える。

そこが西城の集落である。

その一角に苗代田があったので車を停めて近寄ってみた。

苗代田は白い幌でなく黒い紗を被せていた。



さらに近づけば枯れたイロバナが見つかった。

松苗とともに立てたときは鮮やかな花が開いていたが、今はもう・・見る影もない。

西城に東城と同じようにイロバナを添え松苗を立てているとわかった。

1カ所だけとは思えない。

西城の会所からさらに西へ行く。



そこに並んでいた苗代田のすべてにイロバナと松苗があった。



これは期待できそうだと思って、さらに奥へと車を移動する。



地蔵堂の向こうにあった苗代田は横に5連も並んでいたが、イロバナと松苗は3カ所だった。



おそらく苗代田を共同で利用する3家族のイロバナ、松苗であろう。

(H30. 5.12 EOS7D撮影)

下永東城の苗代の水口まつり

2019年10月12日 09時45分27秒 | 川西町へ
時季的には一週間遅れになったが、現状はどうであるのか、確かめたくて帰路に立ち寄った川西町の下永。

かれこれ10年前、いや、もっと前に来たことのある川西町下永の苗代田。

そのときは何も見つからなかった。

時季的に合わなかったのかもしれない。

とにかく見つけたい苗代田の印し。

白い幌があれば間違いなく苗代作りをしていた証しになる。

下永の村落は新興住宅地に囲まれている。

駅前であればなおさら畑地のない住宅地。

そこを外して田園を探してみる。

都会的側面をもつ車道を走っていたら白い幌があった。

念のためと思って停車する。

近くに寄ってみれば、あった。



小さな点のように見えたそれは枯れた松苗である。

なにやら文字のある紙を巻いている。

まちがいなくそれは護符であった。

1カ所の苗代田が見つかった。

他にもあるだろうと思って旧村集落周辺にある田んぼを探してみる。

一本の筋を入ったそこは田園が広がる地であった。

車を停めたその場に苗代田があった。



その角に立ててあったイロバナは赤色、黄色に白色。

もひとつおまけにピンク色もある。

色とりどりのお花はカーネーションに菊花であろう。

常緑樹の葉もあるが松苗は見えない。

よくよく見つめたら常緑樹の葉に隠れていた。



たまたま通りがかった草刈り機を持つ男性に聞けば、先代の跡を継いだ若い人が苗代田を作っているという。

農業を継ぐ人が少なくなった時代であるが、代継ぎしたこの田主はしっかりしているという。

綺麗なイロバナを立てていた苗代田のことを話してくれた男性も苗代を作っていた。

尤も作ったのはこの日でなくて、もっと前。

5月の連休にしていたという。

その苗代田はどこになるのか。

厚意で教えてくださったその苗代田にもイロバナがある。

枯れた松苗の護符もある。

花はカスミソウに白い花のカーネーション。

実は松苗を立てたときは近くで採取した蕗の葉を広げて、そこに洗い米を落とすという。

落とすのは奥さんの役目。

いつ、どのようにしていたのか、見ていないから詳しいことはわからないという。

その男性が云った特別な扇。

特定の日になれば、その扇をもらいに出かけるという。

ここら辺りではうち以外にも何軒かがしていたが、今はもう・・という。

この年の1月4日は下永の八幡神社に居た。

平成19年10月以来、久しぶりに訪れた下永で何を取材するのか。

それはごーさんの護符である。

当時、務めていた宮座五人衆から聞いていた『年中行事覚書帳』に牛玉護符作りがある。

1月4日に集まった五人衆は近くに生えているカワヤナギの木を採取する。

正月を飾った神社門松を解体して松の葉を取りそろえる。



予め朱肉を塗って版木刷りした護符などを揃えてから作業する苗代に供える松苗作り。

作業の場は八幡神社拝殿である。

中央に「白米寺」を配置。

右に「牛玉」。

左に「寶印」文字のある版木であるが、刷るのは「牛玉」の部分だけである。



護符は本来ならば、すべての文字を対象に刷るが、ここ下永では「牛玉」だけである。

いつの時代にそうするようになったのか。

他の文字とあまりにも違い過ぎる刷り痕でわかるが、時代はわかっていない。



ここは下永の東城。

下永は大きく分けて東地区が東城。

八幡神社を境に西の地区は西城になる。



東城の田園地に多くの苗代田が見つかった。

そこにイロバナがある。



護符で巻いた松苗もある。

そこにあるもう一つの道具は鳥除け。



烏の死骸を模した鳥除けであるが、風が吹いてなければだらーり。

その場にもう一羽の烏もいたがこれも模造の鳥除け。

隣の畑に居た婦人に聞いた。

うちも苗代田をしてきたが、今ではJAの苗を購入するようになったから、ここは畑に転換したと・・。

歳がいったらそうするしかなかったという。

その当時は、ここらと同じようにイロバナも松苗も立てていたが、今はもう・・・

まだまだありそうな気配がするので、東城地区の田園を探してみる。

南側に苗代田が見える。



距離はそれほどでもない場に道を挟んで二つの苗代田があった。



いずれもイロバナに松苗を立てていた。



その田主と思われる人は雑草刈りに手を止めない。

その場はいずれ川水を引いて田んぼにするようだ。

そこから東側に足を伸ばしたが、イロバナのない苗代田が1カ所であった。

(H30. 5.12 EOS7D撮影)

下永の涅槃会

2019年09月12日 10時15分04秒 | 川西町へ
この年の正月初め

久しぶりに訪れた磯城郡川西町の下永。

大和川左岸の東城(ひがしんじょ)八幡神社行事の牛玉作りを拝見した際に教えてくださった仏事行事がある。

宮座五人衆の一老のKさんと二老のNさんの二人が寺行事にお世話をする。

実質は行事が行われる旧白米寺(はくまいじ)収蔵庫(昭和38年建築)の鍵当番であるが・・。

今は旧白米寺収蔵庫になっているが、かつては大和川右岸の下永東方(ひがしんぼう)八幡神社の神宮寺に推定される廃旧白米蜜寺(くめみつじ)があった。

収蔵庫前に建てた由緒書きがある。

「白米蜜寺は、もと初瀬川右岸の東方小字高堂・八幡神社付近にあり、遺物は分散、仏像は収蔵庫に収めている。寄木造りに彫りの浅い平安後期様式の木造阿弥陀如来坐像(平安時代後期/藤原期・国指定重要文化財)、一木造りに円頂、彫眼、彩色(※殆どが剥落)の立像の木造地蔵菩薩像は翻波式衣文があり、平安中期の作風がうかがえる貴重なもの(平安時代中期/弘仁期・国指定重要文化財)。また、木造不動明王立像も寄木造りにした鎌倉前期時代に製作された(県指定文化財)。(※文は若干補完)」。

白米寺は、享保九年(1963)の「御領伽藍」に記載がないことから、そのころすでに廃寺になり、現在の東城(ひがしんじょ)八幡神社横に建つ収蔵庫地(旧阿弥陀堂跡地)に移された。

また、神社参道東側にあった地蔵堂から木造地蔵菩薩像を収蔵庫に移した、とある。

朝早く集まった尼講の人たち。

講員は30人ほどにもなるが実質的に動いているのは20人になると、という。

収蔵庫の扉を開けてもらった尼講の人たち。

早速、清掃作業に入る。

91歳、88歳の講員もおられるが、清掃作業はまだまだ若いとよく言われる同年輩の婦人たちが世話し始めた。

手の届かない座高のある仏像は足元辺りの清掃になる。

乾拭きに水拭き。

場所によって工夫しながら奇麗にしていく。

収蔵庫を開けるのは、7月の地蔵盆に涅槃法会のある本日。

一年に2度の開帳であるが、稀に拝観志納料を納めてまで仏像を拝観したい、と希望を申し出る人にも対応、開帳することもあるようだが・・・。



また、三尊以外の仏像に鎌倉時代作の勢至菩薩立像とか、江戸時代の地蔵菩薩立像、毘沙門天立像、2体の弘法大師像、十一面聖観音菩薩立像などを安置している。

清掃を終えてしばらく待ってから始まった白米寺涅槃法会。

参拝者は清掃をしていた尼講の他、浄土真宗徒(称名寺)、門徒、天理教徒の6人が参列される。

涅槃法会を営まれる僧侶は八幡神社すぐ横にある融通念仏宗派の正念寺

時間ともなれば、副住職とともに参られる。



ローソクに火を灯して線香をくゆらす。

お念仏ははじめに香偈。



そして木魚を打ち続ける般若心経から、なーむあみだぶつ なんまーだ、なんまんだと唱える。

家内安全、身体堅固になむあみだぶつ、なーんまいだ、なんまいだ。

三界万霊、平等利益・・・なーんまいだ。



願以此功徳・・なーんまいだを唱えられたが、焼香は見られなかった。

旧白米寺(はくまいじ)収蔵庫での涅槃法会を終えたら一旦は解散する。

午後は場所を替えて、ご住職の自寺である融通念仏宗正念寺で行われる涅槃会が始まる。



一旦は、下永を離れて再び来訪した午後の法会が涅槃会。

集まってくる婦人たちは尼講のみなさん。



時間ともなれば13人の講中が正念寺本堂にやってくる。



本堂の上り口回廊に置いて供えていた御供。



仏飯に葉物菜に里芋、人参、椎茸、高野豆腐のお供えは境内にある石仏に向けて供えていた。

本堂に掲げていた縦長の大きな涅槃図。



ローソクを灯して始まった涅槃会。

礼拝される住職。

まずは礼拝香偈である。



右についた副住職が大きなキンを打つ。

その間に廻される焼香。

一人、一人が丁寧に手を合わしていた。



「~ゆずーねんぶつ なむあみだ なーむあみだ だっなーむん・・・」。

そして、拍子木を打って法要する先祖回向。

「なーむまいだぶ なんまーだぶ」。

追善法要に「なーむんまいだ なんまいだ~~」と先祖供養に抑揚をつけて詠みあげる塔婆回向。

その間に途中入堂された参拝者は男性も入れて15人。

午後1時から始まった涅槃会は45分間の営み。

続いて行われた住職法話。

平成元年に紫雲山正念寺の住職に就いた川中恒明さんの法話である。

30年前は髪の毛もあって若かった。

みなさんも若かった。

建て替える前の本堂は暗かった。

腰も痛くなる年齢になってみなさんに近づけたなどと言いながら暮らしてきた。

本日は涅槃会。

動物も来る。

信頼があった、悲しみの動物も来る。

すべて縁の積み重ねできている。

この地に嫁いできたのも縁なら、私が当地に寄せてもらうことになったのも縁。

20年前に本堂を建て替えた。

30年前は庫裏の建て替え。

寺には地獄絵図もある。



氏神さんを祭る八幡神社にある狛犬は幕末の名石工と呼ばれる丹波の佐吉が造った。

正念寺の外の仏さんも佐吉作と伝わる。

ご回在は信貴山にも行く。

宗派を選ばないのが融通念仏宗派の特徴。

縁によって滅する。

縁は大切。

欲のでた縁起。

仏教から修験に・・。

地名の名をつけた○○大仏は日本全国に70~80体もある。

唯一、人名のついた大仏もあるらしい。

300年前に生まれた各地の大仏。

岐阜羽島に250年前に造立された佐吉大仏がある。

願主は永田佐吉という(羽島市竹鼻町(竹ヶ鼻村)出身の綿の仲買商人。

慈悲の心を持ち、正直者で親孝行に励んだことから「美濃の聖(ひじり)」と呼ばれて人々から信頼された。

縁も善にも、悪いもない。

良縁も無縁でもない。

自分勝手に判断したこと。

縁を活かすも活かさないのも人次第。

徳は後からついていく「篤」。

「因縁果」。

運命を生み出すのはすべて自分の行い。

善い結果がでるときも、悪い結果がでるときも、自分が蒔いた種まき行為の結果。

縁は一つ。縁を活かすもの。

本人次第の生き方、考え方が大切であると説かれた。



法話を聴講された尼講のみなさん。



正面に掲げた涅槃図にしばらく見入ったあとに解散された。

(H30. 2.15 EOS40D撮影)

下永八幡神社の牛玉さん作り

2019年05月14日 09時33分13秒 | 川西町へ
知人が所有していた史料映像。

平成11年10月吉日改定の川西町下永八幡神社の行事覚書帳である。

1月4日に行われる行事に座五人中が集まって作る苗末に牛玉。

両方とも村各戸に配布する日は1月15日。

午前7時に営む行事は正月を飾った門松などを焼却するとんど焼き。

西城(にしんじょ)、東城(ひがしんじょ)それぞれの地で行われるいわゆるトンド焼きである。

その際に行われる御田祭の苗松祓い、つまりご祈祷である。

役目を担うのは座の長老にあたる一老である。

祈祷を終えた苗松と牛玉を各戸に配る、と書いてあった。

1月4日の座五人中がされる作業は、一つに二股の柳の木の採取である。

その本数は120本。

東方の地区に10束とも書いていた。

午前中に門松を片付けて、午後もまた集まって作業の継続。

牛玉宝印書作りもあれば、苗松の藁括りもある。

二股の柳の木は先を割いて牛玉宝印書を挟めるようにする。

他に御供餅下げもある5日の行事に氏子らは集まることはない。

できるなら朝からの作業に伺いたいと思って訪れた。

到着した時間帯は午前9時半。

八幡神社にはどなたもおられない。

神社向かいにある公民館の扉は開いていない。

境内に自転車があったからどこかへ行かれているようだと判断した。

しばらく待っていたら軽トラなどに分乗された五人中が戻ってこられた。

伺えば近くに自生するカワヤナギの木を採取しに出かけていたという。

下永・八幡神社の年中行事は多々ある。

平成18年12月29日に行われた門松飾り

翌年の平成19年1月14日に行われたヨロイ吊りに同年6月4日の粽作り端午の節句の粽配り

また、平成19年6月3日の西城のキョウに続いて行われた東城のキヨウ行事

さらには、平成19年10月7日に行われた百味御供に同日に行われた当家祭礼も取材したことがある。

それから11年も経った平成30年の1月4日の五人中。

ご無沙汰しているものだからすっかり様変わり。

と、いうのも五人中は一年ずつに繰り上がるいわば村神主。

「五人中入り福」の儀式を経て務める村神主。

五老入りから一年ずつ繰り上がって最後のお勤めが一老である。

11年前に取材させていただいた座中はこの日の場にいない。

経緯を伝え、承諾を得てから苗松に牛玉さん作りを拝見する。

軸付きの奇麗な松葉である。

予め刷っていた牛玉はベンガラ朱の色。



古くから伝わる版木で一枚、一枚を刷っていたという一老のKさんが見せてくださった。

版木の彫りは「牛玉 白米寺 寶印」である。



その形をじっくり拝見させていただいた。

見るからに古そうな形状。

塗りこんだ墨の色も含め、版木の年代を知りたくなる。

もしかと思って裏面も拝見したら、あった。

彫り文字で記す年代は・・・なぜか見られない。



「下長 奉キシン井ケノ坊 矢田門 大工正清 巳酉十二月日」とある。

年代彫りは見られないが、矢田村の「大工正清」である。

間違っていなければ、凄い名工の大工頭、中井正清の名である。

永禄八年(1565)から元和五年(1619)を生きてきた江戸時代初期の大工頭

大和の国の斑鳩法隆寺西大門前の西里。

先祖代々にわたって本拠地とした西里が生まれ。

豊臣家の大工頭を務めた家系。

大阪城や京都方広寺・大仏殿の建造も関わっていた。

政権交代後の徳川家康が信任した正清

手がけた京都二条城、京都御所、江戸城、駿府城、檀上寺、日光東照宮から江戸の町割りまで数多くの築造事業をこなしてきた歴史に残る大和守。

その正清は中井主水正清(なかいもんどまさきよ)であろう。

”巳酉”の干支がある年を手繰っていけば、嘉永二年(1849)、寛政元年(1789)、享保十四年(1729)、寛文九年(1669)、慶長十四年(1609)、天文十八年(1549)が挙がるが、中井正清が生存した範囲にあるのは、慶長十四年(1609)としか考えられない。

推定であるが、版木を寄進した年代は巳酉年の慶長十四年。

慶長十九年から始まった大坂冬の陣に夏の陣よりも5年前。

徳川家2代目の徳川秀忠が江戸幕府2代目に就任してから4年後になる。

『大和郡山城ばーずあい』にある城下町百話が伝える中井主人正清である。

「実相寺(※大和郡山市矢田町通)の創建は、慶長年間の1596年から1615年、徳川家康に命ぜられた大工中井主人正清が正誉上人を開山として建立・開創した寺。山号は無漏山、という浄土宗知恩院の末寺である。畿内近江六ヶ国大工頭にのぼった藤左衛門正清(※1565~1619)は、慶長十一年(1606)、従五位下に叙爵し大和守千石に任官した。また、同寺は中井家先祖本貫(ほんがん)の大和の国における菩提寺でもある」。詳しくは城下町百話「町・寺社地」(下)に書かれた「新編郡山町中記」・三十一番 外矢田町(そとやたまち)」を参照されたい。

中井正清の先祖と子孫が気になる・・」ブログによれば、慶長十四年は、秀頼が大仏再建の工を起こし、正清を大工棟梁に任じた年。

給地を祖父と縁深い大和添下郡城村(※大和郡山市城町)にあった。

他に外川村(※大和郡山市外川町)、小和田村(※奈良市大和田町)。

城村の西方に通称矢田寺(※正式には矢田山金剛山寺)がある。

版木にある「矢田門」は、その矢田寺の“門”とも思えるが、おそらく実相寺が所在る「矢田町通」にあったと推定する“(大)門”ではなかろうか。

また、現在の城町に小字主水山がある。

旧村になる主水山。

もともとは字主水山であった。

ちまたに聞く話では、主水山に殿さんが住んでいたと伝わる。

屋敷があったのかどうか存じないが、その名残で付けられた「字主水山」が本来の住居表示だった。

版木にある“下長”の地である。

古くは中世時代の文書に登場する「下長村」。

その後の1700年代に現在も通じる「下永村」になったと、川西町下永・八幡神社前に掲げる村の歴史にそうあることから、版木にあった「下長」からも推定できるように、ここ下永は慶長年間における“下長”村と判断した。

版木、朱印、ベンガラに皿などを収めた箱(昭和5年10月15日新調)に蓋がある。

返してみたら2人の神社惣代に神社惣代衆五人中の世話人名が墨書されていた。

下永付近を流れる大和川。

護岸工事をしてからは少なくなったという葉付きのカワヤナギ。

探すのも困難であるが、自生するカワヤナギのすべてが途絶えると神社行事も差し支えるようになると危惧される。

採取する葉付きのカワヤナギ。

先の芽やその辺りにある葉を残して採取する。

枝伐りの長さは揃えて伐っているが、かつては「もっと長かったかもしれない。どないかしてはったんかわからないが、長い年月を経ているうちに変化したと思っている」と話す一老のKさん。

カワヤナギの枝と一緒に束ねるのが門松の松葉。

正月三が日を飾った門松の松を解いて作る。

長さを揃えた松葉とカワヤナギを揃える。

本来なら「牛玉 白米寺 寶印」すべてにベンガラを塗って半紙に刷るのであるが、いつのころか「白米寺」の文字だけになった。

撮らせてもらった版木。

その文字部分だけが、他と比べて白っぽくなっている。

塗ったあとは次の年のために奇麗にしておく。



半紙の右1/3に刷った「白米寺」の文字が表になるよう松葉とカワヤナギを巻くように包む。

解けないように用意していた紐で括る。



下永は転居してきた新町も含めると200軒以上にもなる集落。

旧村というか氏子農家の52軒に配る豊作願いの印し。



53本の護符を作るが、1本は次年度のための見本にしている。

参籠所の床に並べたできあがりの牛玉さん護符。



光がそこだけに当たった。

本数が多いだけに手間のかかる牛玉さん作り。

数えやすいように床に並べたら41本。

残りが12本。

もう少し時間がかかるなぁと言いながら作業をしていた。

すべての本数が揃ったら御供台にのせて作業を終える。

扉の向こうは社殿。

神さんに見えるように御供台にのせた。



氏子家に配るのはとんど焼きを終えてからである。

かつては小正月の1月15日にしていたが、現在は成人の日の祝日。

不在の家も含めてポストに投函して配るそうだ。

その手段は6月4日に行われる神社行事の端午の節句。

2本組で一対になる粽配りと同じ。

粽作りは240本。

配るのは一対であるから120軒。

これもまた手間のかかる行事であるが、今も続けているという粽配りは平成19年の6月4日に拝見したことがある。

ちなみに粽作りは大勢の人たちによって作られる。

これもまた拝見させていただいたことがある。

ところで牛玉さん護符にあった白米寺(はくまいじ)である。

この日は八幡神社の行事。白米寺の扉を開けることはない。

1カ月先の2月15日は涅槃会がある。

その日は扉を開けてご本尊などを開帳する。

正念寺の僧侶はもとより集まって手を合わせるのは高齢の婦人たち。

いわゆる尼講のみなさん方であるが、開扉するのは錠前を管理している五人中の一老、二老である。

朝から準備を整えて午前中に終わる涅槃会。

よろしければ拝見したいとお願いしたら、関係者に伝えておくと言ってくれた。

感謝申し上げて場を離れた。

(H30. 1. 4 EOS40D撮影)

糸井神社の湯釜

2016年03月07日 09時11分08秒 | 川西町へ
川西町結崎・糸井神社で御湯作法に使われている古い湯釜を拝見した。

判読できた刻印は「和式下郡・・・御中宮・・二十五人 春日大明神御湯釜 五位堂杉田鋳之 天保十四癸卯歳(1843)十二月」だ。

江戸時代末期の172年前。

三本脚であったが二本はどこへ行ったか判らないと宮司実弟が話す。

欠損した1本の脚。獣面、或は獅子、それとも人の顔のように見える。

湯釜は今年の5月2日に行われた太太神楽祭に使われたという。

神楽は三郷町の坂本巫女が作法されたようだ。

これまで拝見した御湯作法は沸かした湯に笹を浸けて湯飛ばしをしていたが、当地では湯でなく紙片だった。



残り花の紙片が釜の底にあった。

おそらく散らす紙片を湯の花に見立てた「花湯」若しくは「湯花」と呼ばれる御湯の作法であったろう。



湯花神事を終えた笹(クマザサ)は本殿奥の藪に捨ててあった。

(H27. 5. 4 EOS40D撮影)

上吐田春日神社の春祭り

2013年06月26日 06時50分51秒 | 川西町へ
梅の花が咲き誇る上吐田。

青空を美しく染めていた。

かつて中世荘園として栄えた吐田庄は時代を経て上吐田(かみはんだ)村と呼ばれていた。

明治時代の地租改正を契機に東の上吐田、西隣は北吐田、さらに西の南吐田村と合併して現在の川西町吐田になった。

北吐田・南吐田は杵築神社、上吐田が春日神社。

それぞれの氏神さんを崇敬する。

春日神社が鎮座する地の小字は実盛(さねもり)と呼ばれている。

実森の字を充てることもあるようだ。

神社の東側に小さな塚がある。

その場は昔、実盛と呼ぶ刀鍛冶師が住んでいたと伝わる。

神社境内の南側から見れば神社そのものが高台。

さらに高い地に本社が祀られている。

小字実森は神社を含む一帯である。

その西側の小字は宮西、神社南側の小字は堂前である。

春日神社の境内には薬師堂があったと伝わる。

境内にはその堂跡とも思える残欠の石塔や台座が散在している。

現存している燈籠にそれぞれ刻印があった。

「式下郡吐田村 文化元年(1804)甲九月吉日」の燈籠に「天保三年(1832)三月吉日建之」の太神宮石塔だ。

拝殿前の燈籠は「嘉永元年(1848)九月吉日」だ。

いずれも江戸後期の燈籠である。

時代刻印がなかった燈籠には「春日大明神」とある春日神社ではあるが手水鉢はそれらよりも古く「寛政四子年(1792)正月吉日 當村 世話人若連中」とある。

結崎村、下永村、吐田村、梅戸村、唐院村、保田村からなる式下郡は明治22年に町村合併されて川西町になった。

町の中心部は結崎だ。

春日神社の宮司は結崎の糸井神社。

存知している村の神社だけでも結崎の糸井神社、下永の八幡神社、保田の六縣神社、北吐田の杵築神社がある。

いずれも兼務社であって祭礼においてはたいへんお世話になっている宮司である。

糸井神社にある大きな石造りの燈籠には「萬延元年年(1860)申年十二月吉日建之 願大庄屋云々 組丁十五ケ村庄屋中」と刻まれている。周囲を見れば「市場組 市場、中村、辻村、井戸村、吐田村(現川西町」、西唐院村(現川西町」、東唐院村(現川西町」、穴闇村(現河合町)、長楽村(現河合町)、屏風村(現三宅村)、三川村(現三宅村)、伴堂村(現三宅村)、南伴堂村(現三宅村)、今里村(現田原本町)、なにがし」とある。

春日神社の年中行事を執行するのは宮守の人たち。

世話人の宮十人衆と五人衆である。

春日神社の年中行事にはこの日の春祭りを含めて9月の八朔や秋のマツリ、新嘗祭などがあるという。

平成13年5月に竣工した拝殿に登る宮守たちの他、祭りの当家(トーヤ)や自治会役員だ。



祓えの儀の次は献饌。

三社の本社と小宮に供える。

祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌で終えた春祭りは春に先駆けて村の豊作の祈る祈年祭(としごいのまつり)である。

(H25. 3.17 EOS40D撮影)

上吐田の大とんど

2013年05月26日 08時28分01秒 | 川西町へ
川西町上吐田の大とんどは雨天であっても決行される。

前年のとんど組みは雪が降って積もった。

とんど組みする竹の伐採、運搬にひと苦労したと一昨年に勤めたトーヤが話す。

この日は夜半から降った雨は朝になっても止まない。

公民館の公園に設えた大とんどの場は水分を含んで歩くこともままならない。

上吐田の大とんどは2月15日と決まっている。

かつて新暦にしてはどうかと1月15日に行った。

昭和26年頃のことだ。

その年には南の吐田で火事になった。

6軒もの屋敷が焼けたと話す宮十人衆。

そんなことがあったから旧暦の小正月の15日にしているという。

北吐田では1月15日であった。

子供会が執行していたとんどは少子化の波を受けて中断に至った。

もしかとすればだが、北吐田も旧暦であったかも知れない。

このように旧暦正月の小正月に行っていたとされる地は大和郡山市矢田町の中村。

住民の話によればかつては2月15日であった。

正月も過ぎて節分を過ぎればとんどの日も忘れてしまう。

それならと1月15日に日程を替えたという。

とんどの実施日には1月31日、2月1日、2日がある。

大和郡山市内では矢田町小南町丹後庄町が31日。

1日に筒井町、新庄町本村、豊浦町がある。

天理市の嘉幡町でも1日だったと聞いたことがある。

2日には番条町井戸野町、稗田町、美濃庄町、新庄町鉾立がある。

奈良市の池田町でも2日であるようだ。

これらは2月を二ノ正月と云って2月を二度目の正月として考えていたようだ。

奈良県内では1月14日の夕刻から翌朝の15日にとんどをしている地域が圧倒的に多いが、上吐田などのように2月になって行われる地域も判ってきた。

当地以外でも同じような考え方をもって実行されている地域はまだまだあるのではないだろうか。

火を最初に点けるのは施主であるトーヤの役目。

藁束に火を点けて恵方の方角から火を点ける。

今年は南南東だ。

「昔からそうしている」という。

点いた火を貰って藁束に火を点けるのが宮十人衆・五人衆。

とんど周りに火を点ける。



雨が降っても焼けていくとんど。

瞬く間に広がるとんどの火。

そんな様子を見にきた村人たちのほとんどが婦人である。

傘をさす日になったが村の行事をひと目見ようとやってきた。

瞬く間に燃え上がる大きなとんど。



ほぼ1時間で終えた。

見届けた婦人たちは戻っていくが講中は公民館で直会。

とんど組みの日もそうしている。

春はまだ遠からじ。

数時間後には雨がみぞれになって雪へと変わった。

(H25. 2.15 EOS40D撮影)

上吐田のとんど組み

2013年05月25日 08時52分22秒 | 川西町へ
川西町の上吐田でとんどが行われる15日。

前日は宮十人衆や五人衆が集まって公民館の公園でとんど組みをする。

吐田地区の竹林に出かけて伐採してきた竹は数台の車に積み込んで運んだ。

氏神さんの春日神社に飾っていた門松なども焼き納める。

地区住民たちも家で飾った正月の注連縄を持ってくる。

春日神社の行事を執行するのは春日講の人たち。

宮十人衆と五人衆である。

とんども年中行事に含まれていることから講中のトーヤが施主。

マツリも勤めるトーヤである。

春日神社の年中行事には3月の春祭り、9月の八朔や秋のマツリ、新嘗祭などがある。

行事を主に勤めるのが宮十人衆で、五人衆はモチ搗きや注連縄作りをする手伝いの役目だという。

講中は終身制。

宮十人衆の上には寺十人と呼ばれる長老たちがいるそうだ。

亡くなるとか身体の不都合で引退宣言を認められて欠員が生じたときに宮十人衆。

五人衆が繰りあがる。

宮十人衆の最長老は講長、二番手を副講長と呼ぶ。

一般的に一老、二老と呼ばれている宮座があるが、上吐田では春日講と組織であるゆえ講長の呼称である。

とんど組みは5本から7本ぐらいに束ねた青竹を心棒にして土台を作る。

針金で強く縛って緩まないようにする。

それを数人がかりでとんどの場に足を広げる。

さらに固定して倒れないようにする。

内部に神さんに奉った注連縄や門松飾りを入れる。

心棒の周りに枯れた竹を斜めに立て掛ける。

高さは5m以上にもなったとんど組み。

歪んでいるかも知れないと全体を俯瞰して視るカントク。

こっちやあっちに竹挿しを指図する。

竹は上下を逆にして挿し込むように入れていく。

葉付きの笹竹も同じように逆さに入れる。

こうすれば枝が食い込んで落ちない。

工夫を凝らした竹挿しだ。

ほぼ出来上がりに近づけば崩れないように周り全体を針金で縛る。

およそ1時間でとんど組みを終えた講中。

明日は雨になるやもしれないからと藁束を置くことは止めにした。

かつてのとんど場は春日神社境内であった。

協議されて吐田北を流れる大和川の堰堤に移した時期もあった。

ところが西風に煽られて危険な状態になった。

そのようなことがあった上吐田のとんど場は公民館の公園に移した。

ここであれば風があっても大丈夫だと云うが強風が吹き荒れる日となれ順延するそうだ。

ただし、その場合は「赤口」までに執行すると話す。

(H25. 2.14 SB932SH撮影)