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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

小泉町・小泉神社の砂もち

2024年05月20日 07時48分09秒 | 大和郡山市へ
例年、日程は固定されていないものの、砂もちの風習がみられる大和郡山市小泉町・小泉神社の砂もち。

だいたいが、26日辺りでは、と推定している砂もち。

拝殿前の境内。2列になるように砂の山を築く。

ある年は23日だった。

また、ある年は26日。

平成24年に立ち寄った日は、12月27日。

昨日に持ち込まれ、今朝に砂盛り。

整然と並べた砂の山であった


平成26年に訪れた12月26日。

到着したときには、すでに終わっていた砂もち


奉納される方とは、その後も、ご対面していない。

ふと、思いだし、翌日の27日に立ち寄った小泉神社。

許容台数は少ないが、駐車場に車を停めて参拝もする。

到着時間は、午後3時、ちょっと前。

大きく見える砂の山。

トラックに積んでここまで運んだまま。

あくまでこの時点では、砂モチとは言えない状態。

小山の砂盛は明日の28日で、あろう。

確認できる日程は、各地で行われる行事の取材が予定している。

おそらく大晦日の夕方に近い時間帯になろう。



訪問ついでに撮っておいた絵馬札納め。

家内安全、学業成就に健康祈願。

参拝者が思いをしたためた願掛け絵馬がいっぱいある。

そうそう、観ておきたい小泉神社の年中行事。



毎年の2月11日が御田祭

その日までもち寄られた砂もちの砂。

大事な砂は、御田祭の際に用いられる。

田を耕す仕草が行われる。

四方に縄を張り結界を形成する。

その神聖な場で行われる所作。

ちゃいちゃいと声をかけて模倣の農耕牛を手綱でひいて操る。

その際である、氏子や一般参拝者までが、砂もちの砂を握って牛にめがけて投げつける。

砂は、雨である。砂(※雨)を降らす氏子や参拝者は、稲作に大切な水をもたらすワケだ。

それは天から落ちてくる雨。

一度、拝見したことがあるが、みな楽しそうに砂を撒いていたなぁ。

(R3.12.27 SB805SH 撮影)

一般的なしめ縄に移った下三橋町風神社事例から考える地域文化の継承

2024年05月18日 07時27分02秒 | 大和郡山市へ
この日の前日、夜間。

なにかを感じた胸騒ぎ。

大和郡山市内の年中行事はあらかた調べてきた。

特に、留意していた年末年始の習俗。

ひとつは、市内に今でも数カ所で行われていた砂の道撒きや砂もち習俗。

正月の前日。夕刻に近い時間帯に行われる砂撒き、砂もち。

氏神社の本殿から砂を撒き、線を引くように砂を盛る。

その砂の道は、氏子たちの家の玄関まで続く砂の道つくり。

大晦日に仕立てる砂の道は、神さんへの導きしるべ。

あくまでしるべであり、氏子が歩くのはその砂の道の沿って出かける初詣で、あり砂の道は、また氏神さんが、我が家にやってくる、いわゆる年神さんを導く砂の道。

もう一つは、神社の鳥居などにかけるしめ縄である。

お家、それぞれもしめ縄をかけ、年神を迎えるしるしでもある。

そのしめ縄の形態である。

市中に売られているしめ縄のカタチでなく、七・五・三を連続的に詰めてカタチづくる簾のように見えるしめ縄。

地区によっては、名称が異なるそのしめ縄。

見た目のカタチから、私は簾型のしめ縄と仮称してきた。

と、いうのも、その存在を調べた結果、さまざまな呼び名がわかってきた。

民俗語彙から、ひとつ。

その簾型しめ縄を、ドウガイ或いはゾウガイと呼ぶ地域があった。

安永九年(1780)・文政三年(1820)・十一年(1828)古文書に記載されていた名称。

その文字は「どをがゑ」。

今もなお、その名のしめ縄をかけている地区は、大和郡山市内内でなく、南に隣接する天理市荒蒔に鎮座する勝手神社。

年中行事取材の際に拝見した『荒蒔村宮座営帳(※控え)』に記載されていた「どをがゑ」文字


読み名は「どうがい」である。

何十件も読み名を調べてわかったことは、他の地区では古文書にまで及ばず、長老らの記憶にあるしめ縄名称である。

ちなみに参考にしたいドウガイ名称がある春日大社。

記録によると、文久二年(1862)に記された中臣祐興記す『春日大社日記』にドウガイの文字があるようだ。

ドウガイの読み名がある地域に、大和郡山市の白土町、櫟枝町、横田町・柳生地区があり、ゾウガイ読み名は、同じく大和郡山市の白土町に。

地区住民によって異なる読み名。

長老が申していたドウガイ名称が、おそらく人から人へ伝わる際に、「ド」が「ゾ」に訛ったのであろう。

訛りかたは人それぞれに発生するものと考える。

私が聞き取り調査した範囲内であるが、ドウガイ・ゾウガイから派生したと想定される「オウガイ」、「ドウガン」、「ドンガン」、「ドンガ」があった。

また、そういった読み名でなく、「オシメサン」や「オオシメナワ」。

或いは単に「シメナワ」と称する人もおられる。

大和郡山市外の奈良市佐紀町門外釣殿神社の元氏子が話してくれた「ゾウガイ」も気になる簾型しめ縄の名称。

調査に見つかった地域は、田原本町、斑鳩町の他、大和高原にあたる旧都祁村。

現在は奈良市の東部山間の都祁の町の一部の地域(※南之庄小山戸)に見られる簾型しめ縄が継承されてきた。

さて、今日の本題は下三橋町に鎮座する風神社の簾型しめ縄である。



この日に訪れた風神社にかけていたしめ縄が様変わり。

平成31年の1月4日に拝見した簾型しめ縄から一般的に見るしめ縄に移っていた。

コロナ禍における対応なのかわからないが、同様の措置をしている事例は増えつつある。

横田町・柳生垣内しかり、横田町・本村の神社も簾型しめ縄だった

横田町から南。

新庄町・本村もかつては「ムカデ」と呼んでいた簾型しめ縄があった

そこから東、北の馬司町(※まっさか)もあれば、一旦は廃れたものの復活。

そして再び消滅した今国府町の事例
もあるここ数年の動き。

大和郡山に多くみられた簾型しめ縄が、今や壊滅的状況にきている。

その要因は、作付け・栽培していたもち米をつくっていた家が継承されなかったことが大きい。

しめ縄の原材料は稲藁でなく、もち米の藁。

つまり、しなりがあり、縄結いしやすいもち藁の減少による。

また、簾型しめ縄の度合になる竹不足。竹林の伐採も影響しているやに聞く。

こういった状況は、なにも大和郡山に限ったことではない。

また、地域文化を継ぐ者の声もなく中断した、と思われる小林町発志院町も・・・

(R3.12.27 SB805SH 撮影)

指定史跡郡山城跡 日本さくら名所百選 〜 第63回 大和郡山 お城まつり 〜

2024年03月21日 07時43分35秒 | 大和郡山市へ
第63回大和郡山お城まつりの入場門が設置されたら、もうまつり気分だよ

所用に車を走らせたこの日

近鉄電車の踏切待ちに数台

午後4時前の時間帯

踏切待ちに大概の車が停止する

真上に見た「第63回 大和郡山 お城まつり


そう、ここはお城まつり会場に向かう入口

雪洞・行燈なども据えた

ただ、ここ数日間の寒さで桜のつぼみは、閉じこもり

名勝の枝垂れ桜にお城の桜も、そのうち咲くでしょう

待てば海路の日和あり・・・


期間は、3月24日(日)から4月7日(日)まで

お城の会場は終日通行止めの駐車禁止

目玉イベントの時代行列・白狐渡御は3月31日(日)・・・雨天中止

大和郡山市役所を出発する時代行列は、出陣式を経て午後2時

先に出発する白狐渡御は、午後1時半に源九郎稲荷神社から


時代行列・白狐渡御の関係上、正午の12時45分から午後4時過ぎまで行列ルートは完全通行止め

南北に走る幹線道路の藺町線は全面通行止め、不便をおかけしますが迂回協力お願いします

また、城ホールなどの駐車場は入庫もできません

※ 今回の時代行列から、公募により市内の小・中学生が武将に扮して騎乗されるようです

(R6. 3.18 SB805SH 撮影)

2021矢田の里は原風景③~雲の切れ間に燦燦と注ぐ光眩しく~

2024年02月01日 08時00分24秒 | 大和郡山市へ
朝から気持ちいいほどすっきりした青空に、気持ちも高ぶる。

パソコン作業もひと段落してからの出発。

時間は、正午前。

晴れの日に訪れたい、と思っていた矢田の里。

柿の色づきに風情ある薬師堂の情景を見たくて目指した矢田の里の原風景。

その地に、行きつく前に必ずや目に入る燻作業。

あれから田主さんはどうしているのか。

この日は、快晴であったが、東部の山々の上空は雲が広がりつつある。

天候は、今のところ佳しであるが、風の勢いは予想以上にキツイ。

北から吹く風は南へ。

左から右へぶっとぶ強風下に燻炭焼きの煙は右に水平、一直線。

その速度は、身体を立てるのも難しい。

動画で撮れば、右に一本の煙の筋が見えるが、静止画像では、ソレが消えている。

イチガンカメラであれば、シャッター速度を操作すれば煙の航跡が見える。

今日は、持ち合わせていないイチガンカメラ。

ガラホケータイがとらえた燻炭の煙は、正味静止画。

突風状況では、煙もぶっとびだ。

真っ黒に焼けた燻炭も右に飛んでいきよる。

これまでの状態は13日16日の記事を参照くだされ。

さて、目的地はここより数分で着く。

迎えの地蔵さんは三叉路の辻にいらっしゃる。



あれから4日も経てば、寄せる花に変化あり。

おそらくお家で育てたお花であろう。

今日もありがとう、と手を合わせて奥に行く。

4日前とはまったく違う青空に映える景観。



前回では、気がつかなかった景観も、ぐんと近づき視界に入ってきた。

薬師堂も青空に映える、スカッとする日に来れたのが嬉しい。



右手の柿の樹。

青空の下に稔りの色がいっぱい。

柿の実の重さが垂れる場に願う薬師参り。

こちらの薬師さんにも花を立てていた。

ときおり来て下さる村の人。

出逢えなかったが、お気持ちは拝しましたよ。



足元の位置を替えて撮った一枚も素敵な情景。

矢田の里は、ほんに原風景。



さらに引いて撮った一枚。

矢田の山々も・・・

さてと、急な里道を上って行くか。



そうだ、稲刈りを済ませていたんだ。

辺りを見渡しても見つからない。

この地に、ハザカケはしていないようだ。

ぐっと引いて撮った薬師さんへの参拝道。



真昼の時間帯では照りがキツイ。

写真を撮るなら、午前9時ころまでだろうな。

地蔵さんに、薬師さんの導きに感謝する秋の風情。

こんなに素晴らしい景観があるとは・・・

僅かな時間、雲の切れ間に燦燦と注ぐ光に眩しく・・

ちょっとした時間のお出かけに出合った場からさ・よ・な・ら。

行きしなに撮っていた突風下の燻炭焼き。

薬師撮影から戻った時間帯の田主は水を放水していた。

一連の作業を終えた行動であろう。

(R3.10.17 SB805SH 撮影

今回も出かけた奈良蘭友会第49回秋の蘭展

2024年01月24日 08時26分43秒 | 大和郡山市へ
奈良蘭友会からの案内状が届いた。

初期は存じていないが、ここ数年前から、毎度の春、秋に開催される奈良蘭友会の蘭展の案内。

会場いっぱいに広がる可憐な蘭花に、香りも拡がる蘭展。

おまけに格安な販売価格で提供する蘭類の販売もある。

何十年にも亘って、蘭に興味を捧げる気は縮小した。

降ってわいた案内状のおかげで、お安いセッコクなどを手に入れるようになった。

これまで、度々目にする地産地消売りに道の駅がある。

そう、道の駅でも日本の蘭類を売っているが、ふところと一致しないから、購入までは至らない。

指をくわえて、セッコクや風蘭を見るだけになっちまった。

云十年は、見るだけの日本の蘭類。

それが500円程度で売っていた。

何鉢も要らん。

たった一鉢でも心を癒される日本の蘭類。

と、いうワケで、今回も拝見第一、第二に和蘭買い。

春、秋の楽しみがひとつ増えたのだ。

いちばん先に目がいったその洋らん。

赤い花をつけている洋らん。



なに系・・どことなくふうらんのような葉つき。

それらよりも、目逢って仕方ない容器である。

我が家にもあるコペンハーゲン・ストックフォルム・ヘルシンキ・・・。

おんなじやー、と思わず声が出た。

我が家ではペンシル立てに利用しているが、この方、巧いことしてはるな、と感心た次第。

紫の斑点に目がびっくりしたように見える洋らん。



代表的なフォルムの洋ラン。

香りがとても素敵なカトレヤ。



ほぅ、これも木つけの洋らん。



ピンク色の花のカタチが数珠つなぎ。

見ごたえある洋らんにためいきばかり。

まぁ、見るだけでも愉しめるから、私にとってはおいしい時間だ。

ところで、蘭展会場は、大和郡山市の施設。

市の南部地域に暮らす市民の生活に供する馬司町・昭和地区公民館。

洋らんに癒された会場。

受付しているすぐ横にあった展示物。



当時、使われていた鉄製のレールがあった。

そのレールは、廃線になった天理軽便鉄道のレール。

解説に1914年(※大正3年)製、とある。

今では、当時運行していた新法隆寺駅から天理駅までの天理軽便鉄道の路線は、軌跡もなく寂しい限りであるが・・・廃線を探訪される人が稀におられる。

1915年(※大正4年)の運行からはじまり、終焉を迎えた1952年(※昭和27年)まで、地域の人たちの足だった鉄のレールが拝見できる。

ここ昭和地区公民館にいちばん近い駅は額田部駅。

現在の近鉄戦の平端駅に相当する。

鉄レールだけでなく、当時描かれた絵とセピア色の写真に解説文も添えている。

スケッチ画作者は辻本忠夫氏、画に添える写真・撮影は、氏の家族さんであろう辻本奨大氏。



実は、辻本忠夫氏が遺したスケッチ画展があった。

展示会場は、ここより西にある安堵町歴史民俗資料館


できるなら、後世に伝える歴史・文化スケッチ画集を発刊してほしかったのだが・・

話題は、蘭展に戻そう。

さてさて、本日のお買い物は・・・。

出展のランは、高額。

私のサイフに見合った頒布のランは、どれどれ・・・

散々、迷って購入にいたったランは、和蘭の「銀竜」。



昔、昔にあったけど消滅した代わりに買った800円売りの銀竜。

花がつかない葉もののラン。

もうひとつは、500円売り原種のセラトスティリス レティスクアマ ルブラ



栽培しやすい洋ランとして知られるケラトスティリス属の常緑多年草。

花は朱赤色の星形が特徴のようだ。

※ セラトスティリス レティスクアマ ルブラは、一年ももたずに枯れた。
   我が家の環境下に馴染まなかったようだ。

(R3.10.16 SB805SH 撮影)

2021矢田の里は原風景②

2024年01月20日 08時19分43秒 | 大和郡山市へ
今日、16日も矢田山の田園地を車に乗って散歩する。

3日前の13日に見た燻炭焼き。

田主さんの姿は見られない。

そのワケは・・・

見てのとおり。

燻炭焼きの山すべてが真っ黒。

全体に焼けができたんだ。

なかなか見ない状態に、この景観も撮っておいた。

この日は、方角を替えて北に向かう。

回り道になるが、矢田坐久志玉彦神社傍の里道を走行する。

道なりに巡り合えた稲刈り後の田。



なんとススキを立ててあった。

その先に見えた燻炭焼き。

相当な量をつくっていた燻炭。

さらに走った道なりの道。

距離はそんなにない。

短い距離に大きな建物。

そこは北矢田地域のスポーツ会館。



その裏側に見つかる女王・卑弥呼の里。

未だ立証はされていないが、観光協会が認めたある学者の私見・学説を取り込み、決めた卑弥呼の里。

発掘調査は、されたもの卑弥呼の里を示す明らかな事実根拠もない、あくまで想定、伝承地の里に訪れる人も・・

そこで出会った2基のススキ。



数年前に訪れた自然観察会にも出会えた稲藁干し。

三本の足を組んで立てたススキ。

矢田の里の風景にそっと寄り添い、佇んでいた。

ここ卑弥呼の里に出合った男性。

風景写真を撮りにきた、という。

先日は、なんと新潟県の糸魚川まで足を運んだそうだ。

この日は、県立民俗博物館の駐車場に停めて、ここまで歩いてきた、という。

私と、同じく里山の景観を求めて撮影。

えーとこだ、と思った景観地。

車では気がつかない散策道に見つかる。

撮る被写体は、時季をみてコスモス畑や、走る近鉄電車も・・

この地では、向こうに見える竹林。

林立する竹林の並びがいい、とさっきまで撮っていたようだ。

実は、風景写真を撮るのは手段であり、目的はリハビリ。

還暦間近に、病に伏した。

退院した今は、毎日がリハビリ運動に1万歩目標にしている、と話してくれた。

実は、私もだ。

平成27年に心臓・弁を壊して、大手術した。

リハビリ運動に丸一年かけたが、元の身体・状態に戻ることはなかった。

目標は、決めることなく歩ける範囲にとどめた。

その男性、根を詰めたら身体が動かんようになるから無理はしない。

勤めは近鉄タクシーの運転手だった。

お客さんを乗せて、ここ矢田の丘まで来ることもあったが、歩くのは初めて。

速度は、自然の景観を見つけるスピード。

病のおかげで、こうして自然を感じるようになった。

話によれば、住まいは奈良市七条・三松寺付近のようだ。

割合に近い、ご近所さんだったんだ。

男性と別れて、再び歩だした矢田の里。

遠目に見つけたあの場所にもあったススキ。



ハウス手前のススキ。

ここら辺りは、みな同じカタチのようだ。

あれは、と思って畝に降りたそこに見たことがある花が見つかった。



秋の草木。

フジバカマの花は、ご存じの方も多い「秋の七草」に数えられる中のひとつ。

名前は知っているが、花そのものは見たことがないという人も多い。

アウトドアで見つけたときのうれしさ。

そんなことから記憶に遺る花になっていく。

七草に数えられるフジバカマに特徴がある。

花のカタチとかでなく、海を渡る蝶が関係しているのだ。

自然観察会に、このフジバカマが見つかったら、間違いなく解説される蝶の旅。

その蝶こそ、アサギマダラ


そこに飛んでくれば、大ヒット。

出逢いにカメラマンは、感動するであろう。

私が、ここでずっと待つわけにはいかない。

一応、この畑にフジバカマが咲いていた状態は記録しておく。

さて、と。

腰を上げて帰り道。

垣内の集会所を迂回して車に戻ろう。

そう、時間も遅くなってきたから、お家に帰ろう。

と、ここまで登ってきたら・・・・

これは何だ。

まさか、お晦日に撒く神さんが通る砂の道か

ずっと続いている砂の道には違わないが、はて、これは何だ。

よくよく見た砂の道・・・ではなかった。

目を凝らしてみたソレはもみ殻だった。



題して、「もみ殻落としの道」。

この季節にあるあるでもない光景に出会えた。

(R3.10.16 SB805SH 撮影)

2021矢田の里は原風景①

2024年01月19日 07時41分45秒 | 大和郡山市へ
今年も、この時季になれば矢田山山麓下の田園地に出かける機会が生まれる。

今年度も開催される大和郡山市の芸術祭がある。

展示会場は、三の丸会館。

ときおり出かけては、ペダル漕ぎの器具に跨り、リハビリ兼ねた運動をしているトレーニングルームも利用できなくなる大和郡山市芸術祭。

写真、日本画、書、工芸など多彩な芸術が観覧できる。

会場は多目的利用ができる体育館。

その部屋を利用している三の丸クラブは、すべて利用できないが、代わりに利用できる施設。

今や世界的に知られるようになった全国金魚すくい選手権大会が催される会場でもある。

その会場はその名も「金魚スクエア」。

三の丸会館から移ってくる短期間利用の「金魚スクエア」に、家人の送り迎えがはじまった。

昨年に続く、この時季の矢田の里探訪。

今回もまた、季節を愉しんでいきたい。

本日、13日の行先は裏矢田寺方面。

正面からの参拝であれば車は途中まで。

降りて階段を登る気力がない。

身体的都合により、車で向かった裏矢田寺の駐車場。

自然観察会でもお世話になった駐車場。

そこから見下ろす田園の地が美しい。

今日もそのつもりに矢田行きの登坂を・・・

指標にしているお地蔵さん。

三叉路でもなく四叉路でもない、右折れカーブの地点。

普段見なかった献供の花。

どなたが、献花されたのか、存じないが手を合わせたくなり、車を一時停車した。

上に登る道は畑道。農家さんが軽トラで侵入する私道。

左に顔を向けた方角は南。



ぬぁんと土壁の小屋すぐそばに柿の実成り。

細い道は村の里道。

轍に単車が往来しているのでは、と思った。



向こうに見える勾配の強い坂道が見える。

少し歩んで見上げた柿の木。

重さ感じる枝ぶりの実成り。

ここの場から、見れば一目瞭然。

下る坂道に、登り道が向こうにある田園地に繋がる。

坂をほんの少し下って、見返した実成りの柿。

アンダーから撮ってみたが、空がやや曇り。

その状況であれば、晴天の後日に、また来るよ。

引き返し、戻りの道。



実成りの柿の左に薬師堂がある。

名もなき?お薬師さんを安置している「薬師如来」堂。

ここへ参られたら唱えてほしい薬師様へのご真言「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」

早い話が、「痛いの 痛いの 早く飛んでけ」だ。

辻の地蔵さんの導きに稔りの柿に、お薬師さんにもお詣りができた。

そうそう、本来、見たい景色を忘れていた。

行先は、駐車場。



そこから見下ろす田園カーブ。

このラインが大好きな景観。

四季巡りに来てみたいと思っているんだが、つい日々の暮らしに埋もれてしまう。

里道の向こう側にある稲作地。

手前は刈り取った状態だからわかるが、その向こうは雑草に覆われている。

田主を失った畑地は、もう戻ることはないだろう。

近場のお出かけ車乗り散歩はここまで。

戻った道に見た稲作地。



柿の実成りは見られるものの稲刈りは、まだまだのようだ

色濃くなってきた柿の実成り。



甘柿のように見えるが・・さて、さて。

さらに下った、そこに見た燻炭焼きの姿。

誘われるようにハンドルを回す。



今、はじめたばかりだ、という燻炭焼き。

煙の香りを嗅ぐのは、後日。

田主さんの撮影許可を得てシャッターをきった。

一旦は、ここを離れて自宅に戻り、クラブの終わる時間に再び戻ってくる。

(R3.10.13 SB805SH 撮影)

筒井町・北垣内東の地蔵祭り

2023年12月10日 08時12分17秒 | 大和郡山市へ
知人のNカメラマンが、FBに伝えていた「・・大和郡山市のある地区の一角。三叉路真ん中のお地蔵さま・・」

実に狭い三叉路の道に、愛車の通行に無理がある。

そう、気がつかずに通り抜けようとしたが、通行禁止だった。

その三叉路の地蔵尊に地蔵祭りをしている、とわかった。

翌日の2月1日に控えていた取材先は、大和郡山市筒井町菅田比売(すがたひめ)神社境内で行われる地区の大とんど

ご挨拶に伺った日は平成27年の1月31日。

大和郡山市にある二ノ正月とんど撮影に遁走していた。

菅田比売(すがたひめ)神社境内の大とんども二ノ正月とんどに入る伝統行事。

大和郡山に多くある二ノ正月とんどの取材日に出逢えたのが三叉路に立地している地蔵尊だった。

不思議な場所にぽつん、とあった地蔵尊に手を合わせていた女性を見た。

思わず、その姿に手持ちしていたカメラのシャッター。

急いで駆けつけて、名刺を渡し、お礼を伝えた。

なんでも、今日は辻地蔵の清掃。

月当番に掃除していたそうだ。

そこで尋ねた地蔵盆。

ここの地区では、毎年の9月1日にしている、と。

いつかは訪問したい辻の地蔵さん。

その年の7月、突然に発症した心臓の大手術。

退院したもののリハビリ運動の毎日。

今も欠かせないリハビリ運動に、あれこれしているうちにコロナ禍に突入した。

発生から、2年の経過。

未だ収まらないコロナ禍であるが、こういうときだからこそ、地蔵さんの祭りは、もしかしたらされているかもしれない。



そう、思って早めに家を出て、着いた三叉路に建つ辻の地蔵さん。

午後4時半の地蔵さんには、どなたもおられない。



ただ、提灯を掲げているから、そのうち・・

10分ほど待っていたら何人かが来られて、一輪車に載せてきた供物を置いていく。



ここは、筒井町の北垣内。

組単位で廻りしている地蔵さんの当番。

そのときの当番していたMさんらが動く。

本来なら子供もやってくれる数珠繰り。

地藏堂の前にゴザなどを敷いて行う数珠繰り。

また、法要を終えてからは、専念寺本堂にてビンゴ・じゃんけんゲーム。

帰りにお菓子をもらう子どもたちの楽しみ。

昨年に続いて、コロナ禍の地蔵祭りは法要のみの実施を決めた。

月当番も掃除をしているが、ここすぐ近くに住まいされているM家にD家の高齢婦人が、なんと、近くだからと云って毎日に掃除をしている、という。

また、この辻の地蔵さん5体は、土中から出現した、という。

えっ、と驚くが、市内の地蔵さん。

地蔵盆取材によく聞く地蔵さんの出現。

土砂崩れの山から、或いは洪水の際に、川の上流から流れついたとか・・

土中から出てきた、というのは土地の開発に道路拡幅などの工事から出没したのかもしれない。

また、出現したそれぞれの地蔵さんを、まとめて建てた地蔵堂に収めるケースも多い。

地藏堂を建てた年代はわからないが、傷んだ屋根の補修は昭和61年8月吉日とあったから、その当時は、8月23日、24日に地蔵盆を営んでおられた、と推定したが、違った。

9月1日なら、八朔行事では、と思ったがそれも違っており、以前は7月23日にしていた、という証言にすっきりした。

地蔵さんの涎掛けは、毎年に新しく掛けかける。

今は赤だが、次は白色に替えるようだ。

午後5時半ころに法要していただく浄土宗専念寺のご住職。

実は、かつて専念寺住職は尼僧であったが、亡くなられたそうだ。

後任に就いたご住職は、近い親戚筋にあたる方。



地蔵祭りの準備が整ったので、お呼びにあがる。

毎月の1日に、夕方5時から本堂で朔日詣りをしている浄土宗寺院称名山専念寺



地藏堂から南に歩いてすぐ近く。

当番の女性が案内してくれた境内にある石仏は地蔵菩薩立像。



なんでも、室町後期の作風。

高さは128cm。

像高が66cm。

肉厚彫りの地蔵立像に笠石をもつ




支度を整えたご住職を、地蔵堂まで案内に就いた当番さん。

そして、はじまった法要に、地蔵菩薩真言を唱えられる。

毎月の朔日詣りもしている今日の当番の女性とMさん。

その日は、朝5時に出かけて参るようだ。



コロナ禍にマスクを着用し、手を合わせていた。

地蔵堂を建てた地に生育した大きな樹木はモチノキ。

毎年に赤い実をつけるようだ。



十数分の法要時に、この通りを往来する人たち。

車に単車、大型バイク、自転車で往来する人多いが未だに衝突事故など見たことがない、という。

たしかにそれほど多い交通量に散歩する人もおれば、白い杖をついて行き来する人たちの姿も見られた生活道路。



かつては賽銭代わりに白いおにぎり飯と赤飯(赤ごはんかも・・)を供えていた人の姿もあったそうだ。

元々は賽銭という考え方がなく、昔の人は米の方が大事と考えて、ご飯を供えていたのであろう。

法要を終えて解散。



今日は、雨が降らんでよかった、といいながら、あと片付けにも忙しい当番役に、念のため聞き取りした砂の道の習俗。

と、いうのも筒井町に住んでいる何人かの人から、教えてもらった砂の道は、してたで・・・

ずいぶん前のことであるが、この日の当番者だけがしていたという。

砂はどこから運んだかわからないが、家の前の道から、家の庭、玄関前まで撒いた砂の道は、氏神さんの菅田比売(すがたひめ)の神さんが通る道でしょ、と話してくれた。

(H27. 1.31 EOS7D 撮影)
( R3. 9. 1 SB805SH/EOS7D 撮影)

郡山城跡入口付近・コロナ禍の地蔵盆

2023年10月27日 08時24分12秒 | 大和郡山市へ
ほぼ毎日出かける市の施設。

車を走らせる往路は、毎度同じコース。

奈良県大和郡山市・郡山城跡を通り抜ける石畳道。

大きな石垣をぐぐっと廻ったそこは近鉄電車が通過する踏切。

線路を渡れば、その右手にある大きな地蔵堂。

内部には、天正四年(1576)の記銘が見られる双頭石仏地蔵尊を安置している。

横断歩道に人待ちなし、南北を走る車も往来無しを確認して右折れしよう、としたそのとき。



左手にある地蔵祠。

地蔵盆に吊るす提灯が一つ、二つ、三つ・・・。

水平に架けた竿に提灯は9張。

箱もの御供もあれば茄子、人参、ピーマン・・。

昨年も同一日に拝見していた地蔵盆。



コロナ禍にお供えだけをしていたが、提灯も御供も昨年より数が増えちょるがな。

(R3. 8.23 SB805SH撮影)
(R2. 8.23 SB805SH撮影)

スカッとな、大空の下に・・四方を展望する郡山城跡

2023年10月07日 08時26分05秒 | 大和郡山市へ
スカッとジャパンじゃなく、すっきりスカッとな、青空にぽっかり浮かぶ白い雲。

自宅を出た午後5時半。

西は、山焼きの地の春日山から、天理の龍王山。

歴史上有名な語りの山から、その向こうは東吉野。

南を向けば、吉野の山々に天川まで見通せるくらい。

東南の方角を見たら、十津川まではいかなくとも、旧西吉野の山々に金剛山、葛城山が・・・

そして、矢田山、生駒山も・・

くっきり、はっきり。

稜線どころか、山麓に植生する木々の状況まではっきり見える。

双眼鏡で見たわけでなく、肉眼で見えた緑なす山々。

一年に、一度、二度、三度くらいでしょうか。

おそらく10号台風の影響であろう、と思われる。



時間があれば、城下町の大和郡山を。

綺麗に整備された城跡の展望台から見る、四方を山々に囲まれる奈良の位置がわかる。



大和の山々から、いつ攻めて来るやもしれない戦国時代に築造した郡山城。

展望台の昔は、敵の動静を知る場であった。



夜は、夜に午後8時ころから30分間。

あっちこちから聞こえてきた花火の音に誘われた地域住民。

高台を走る大和中央道の歩道に30人ほどが・・。

子どもたちとともに、みなはパジャマ姿の恰好で、見上げる大玉打ち上げの情景を愉しんでいた。

遮る建物すくない、富雄川の方が、よく見えるだろうと移動したが、着いたとたんに終わった。

(R3. 8. 7 SB805SH撮影)