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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

2022お城まつり 夜桜凍てる 寒のもどり

2024年11月29日 07時42分50秒 | 大和郡山市へ
日が暮れるころ。



続々訪れる夜桜を恋し人たち。

雪洞に火が灯るにつれ、足元が早くなる。



高なる気持ちに、寒のもどりも風は吹かず・・・

それにしても今夜も、寒いわ。

(R4. 4. 2 SB805SH 撮影)

大和郡山 2022お城まつりの雪洞に火が灯る

2024年10月21日 07時38分06秒 | 大和郡山市へ
19日、朝に出かけた病院。

当月の1日、緊急入院した。

コロナ禍に面会謝絶の日々往来。

リハビリを経て退院通知に入室した病棟。

手続きを済ませた次の行先は、週2回のデイサービスにお世話になった施設に御礼。

その施設に戻りたいが、戻れない。

療養していた、わが家に戻ることなく、急遽決まった施設に、当日入居。

夕刻、再び病院へ。

介護保険証の確認のための事後手続きを終えてくだってきた踏切。

遮断機が下りた待ち状態に、2022お城まつりの雪洞に灯った試験点灯。

午後5時前の暮れ時間に灯ったようだ。

踏切手前に見つけた雪洞に寄進者の名があった。

お世話になった病院にデイサービス施設。



ありがとう、と深く頭を下げて踏切を渡った。

現在、県立民俗博物館、付帯施設の県立大和民俗公園内・古民家旧萩原家にて「私がとらえた大和の民俗」写真展が開催されている。

私のテーマは” コロナ禍、そのときのT家・・”。

3枚組のうち一枚のサブテーマは、“看る”。

写真展に公開した我が家の“看る”は、今も継続中だ。

大和郡山 2022 第61回お城まつり」は、本日3月24日が初日。

お城の桜がぽつぽつ咲きだした。

天候佳ければ、一気に満開。

うららかな桜日和に、気持ちも、顔も、なにもかもが晴れ晴れの四月を迎えそうだ・・・

(R4. 3.19 SB805SH 撮影)

小林町・道具は替わっても、目的は変わりない新福寺のおこないのランジョウ叩き

2024年10月03日 07時54分20秒 | 大和郡山市へ
帰路に立ち寄った御所の名所。

私なりの名所であるが、どこか懐かしさを覚える田園風景。

今日の天候は、コントラストが激しい空間になったが、稲作の季節が待ち遠しい御所・池之内に買い物した玉手


時間は、まだまだ余裕がある。

そうだ。今日は3月3日のひな祭り。

ただ今、県立民俗博物館・古民家活用の写真展開催中。

明日、明後日に予定があるから、その日に顔出ししたい。

実は、3月3日に寺行事のおこない(※修正会)をしている地区がある。

県内、盆地平坦地に、おおかた320年以上も続けてきたおこない。

連綿と続く、歴史、文化が深い地。

もし、よろしければと、写真家のKさんを誘った。

行先は、大和郡山市の小林町。

おこない(※修正会)を行う場は、真言宗豊山派寺院の南照山新福寺

旧くは、元禄九年(1696)に本堂の落慶法要が営まれた、と考えられている。

と、いうのも、庫材を駆使した形跡、また現存する仏像の古さから推定し、再建された新福寺。

また、昭和43年(1968)に、本堂の屋根瓦を葺き替えなど改修した際に発見された棟札から、本堂の建之時期が判明
したそうだ。

そして、平成28年(2016)、320年ぶりに行われた本堂の建替え、落慶法要に記念式典を挙行された。

実は、毎年の3月3日におこないをされているから、一度伺ったらどうか、と背中を押してくださったのは上田清市長だった。

当時の私は、市民であり、市の臨時職員であった。

勤務先は、市の施設の大和郡山市市民交流館

平成15年(2003)7月にオープンした大和郡山市市民交流館。

採用面接に出かけてから、一週間後だったか・・・

当時、面接してくださったY人事課長から電話があった。

「今も、空いてますか・・」の問いに、「もちろん」、といったかどうか、覚えてないが、やっと就職先が決まって大喜びしていた。

「市政案内・観光案内などの情報を提供する“インフォメーション”、貸会議室の2つの機能を持つ公共施設」の大和郡山市市民交流館に、7年半も勤続していた臨時職員。

ある日のこと。たまたま市長がぶらり、と来られて、小林町に”おこない”がある、と教えてくださった。

新福寺本堂で行われるその”おこない”取材は、平成22年を皮切りに2年後の平成24年も伺った

本堂は、前述したように元禄九年(1696)に創建。

屋根の葺き替えなどで再建した年は昭和43年。

本堂内部は、昔の様相そのまま、風情を遺した風格があった。

内陣周りに座った座中が、左座に一老、二老、三老。

右座も同様に一老、二老、三老がそろっていた。

そう、併設する杵築神社の座中である。

2度目の小林町入りは平成22年の11月。

大阪・平野の大念仏から如来さんがやってくる


町民は、融通念仏宗徒であるが、新福寺は真言宗豊山派。

大和ご回在にお家を一軒、一軒巡って、最後にお寺となるのだが、ここ小林町では公民館をあてがっていた

さて、小林町・新福寺のおこないである。

平成27年が最後のお勤めにおこない。

新福寺本堂・観音堂は新しく生まれ変わる新築化。

これまでの再建ではなく、320年の時代を経て新しき本堂に建て替える。

だから、旧き新福寺の最後の営み。

おこないにランジョーの叩き納めの年。

歴史を刻む記念日は、平成27年の3月3日


平成27年の4月のころ、320年もがんばっていた新福寺本堂・観音堂は、解体工事に入っていた

しかし、解体中の本堂では3月3日のおこないは、どこでされるのか。

予め聞いていた場は、新築された藍染会館に移し、畳部屋で行うことになった。

これを機会に、おこないの道具は、一挙に代わった。

内陣の縁をたたくフジの木は真竹に代わった。

祈祷を済ませたごーさんの護符は、ヤナギの枝。

割れない程度に、二つに割いたヤナギの枝に護符を差し込む。

ただ、ヤナギの枝は長いので、バキバキと三つに折る。

そのヤナギの枝の束が崩れないように、フジの木の皮を使用する。

フジの木の皮は柔らかく、剥がしやすい。

子どもでも剥がしやすいフジの木の皮をヤナギの束にくるくる巻いて括っていたが、これらすべてまとめて真竹に代わった。

新築中の新福寺本堂・観音堂は、工事中。

落慶するまでは、一時的に利用した平成27年4月29日に落成式をされた壇信徒会館「藍染会館」だった。

仮の場を借りて、はじめて青竹で打つランジョウ所作を拝見したのは、翌年の平成28年3月3日

仮の場の藍染会館の部屋は畳座敷。

長い板を据える考えもあったそうだが、半切した青竹内部に空間があるから、打つ音は、とてもなく甲高く反響するから、と採用に至った。

ご住職が、唱えるご真言。

そのとき、突然に発声された「ランジョー」に合わせて・・・青竹をもって竹を打ち叩く。

けたたましく、カタ、カタ、カタ、カタ、カタ・・・・・が、室内空間が全域にわたって響き渡る青竹ランジョウの音色感。

ランジョウの目的は、激しく打ち、激しい音を発生させることによって、悪霊を村から追い出す作法。

フジの枝に内陣の縁は木材。

旧き新福寺の本堂内陣は、300年以上も叩きつけたことによって、深い黒色が、打ちすれて白くなっていた記憶が蘇る。

その年、平成10月10月29日に落慶法要された南照山新福寺本堂は、その後も3月3日におこないをしている、と聞いている。

その証が見つかった。

所用で市内南部に向かって走っていた大和中央道。

国道25号線と交わる今国府町信号から数キロメートル手前にも信号がある。

西に折れたらJR大和路線・大和小泉駅。

左折れなら北西町に入る。

その信号は小林町西1。

その北側、数百メートルの地に、毎年、苗床をつくり、苗箱を広げている小林の男性。

苗代田に水を入れる水口に、例年立てていたおこないの印し。

そう、これまでは前述したとおり、折ったヤナギの枝に挟んだ護符。

おこない法会に祈祷したごーさん札(※牛玉宝印の書)。

三角折りの護符は珍しいから、すぐわかる。

令和2年5月19日のこの日に見つけた護符。

ランジョー所作に用いた青竹に挟んでいた


所用だけに撮影機器は、携帯電話しかない。

その機器であっても、これも記録。

実は、この苗代田に苗床を調え、躑躅のイロバナとともにヤナギの枝に挟んだ護符を立ててから、ロールに巻いた新聞紙を丁寧に広げていた

実弟とともに苗代つくりの作業をしていた状況を撮らせていただいた平成22年の5月4日。

そのときの写真を、後日にさしあげたら、すごく喜んでくださった座中の一人。

当時、74歳だったKさん。

ここ、最近は苗代もされていない。

あれから12年も経っている。

ここを走るたびに、次第に雑草化に移っているのが、気がかりだ。

走馬灯のように蘇ってきた「新福寺のおこないの縁たたきランジョウ」と「苗代に立てる護符」。

大淀町・大岩から御所市・池之内に玉手から駆け付けた。

前置きが長くなってしまった。

午後3時40分。

表敬訪問にようやく着いたここは、大和郡山市・小林町。

おこないは、午後4時よりはじめられる。

まずは、参拝。



手を合わせきっちり拝んでいた男性がおられた。

後姿でわかった男性。

たしか伊豆七条町に住む男性だ。

お名前は覚えてないが、伊豆七条町(※地元ではいずひっちょう、と呼ぶ)の大晦日行事。

「ふくまるこっこ」を、今もされているのか、尋ねた男性だ。

下見に来ていた平成19年の12月23日だった


畑におられた男性は、以前勤務していた大和郡山市市民交流館時代に出逢った方。

たしか会議に来られていた人だった。

子どものころに体験していた伊豆七条町の福丸迎えだけに、その対象となるお家を案内してくださった。

奈良県内に福丸迎えの行事のほとんどが山添村である。

奈良市東部や天理市の山間地にも継承されているが、平坦盆地では、ここ伊豆七条町しかみられない。

史料によれば、ごく近いところの天理・森本町も行われていたが、途絶えたようだ。

ご縁があった男性が、なぜにここ小林町・新福寺に参拝を・・・

おこない行事が、終わってから聞いてみた。

ここ、小林町にはご縁があるのですか、と聞けば、なんと・・・

男性が住んでいる伊豆七条町に勝福寺がある。

おばあちゃん講とも呼ばれている尼講が、毎月に営まれるお念仏。

毎月の1日に参ることから朔日参りとも
・・

施餓鬼もされていた勝福寺

現在は、天理市・南六条町の西福寺僧侶であるが、かつては小林町・新福寺の僧侶であった。

その僧侶とは、新福寺の現住職を務める佐々木章の先代の父親。

先代の住所は、伊豆七条町・勝福寺だった。

その後に、先代の父親は小林町の新福寺に。

そして、代替わりに就いた佐々木章住職。

そのような関係に、伊豆七条町の男性はことあるごとに、新福寺にやってきて参拝している、という。

表敬訪問に、出会ったご縁。

参拝していた私たち3人は、今からはじまりますから、どうぞ本堂にあがってください、と・・・

その場には、存じている人たちが多い。

ひさしぶりやね、といわれる方たち。

直近であれば、令和3年の1月1日。

正月に行われる天理の行事取材にハンドルを握っていたとき。

電話が鳴った。住民のSさんからの電話は、修復していた神輿が氏神社の杵築神社に戻ってきた。

小林町の元日の朝。

村の人たちが寄り合う元日参拝に神輿のお披露目


是非、と伝えられて、急行。

天理までの道中にあった小林町。

短時間ではあるが、有意義だった神輿のお披露目を見届けて、再出発したその日以来、足は遠のいていた。

さて、小林町・新福寺のおこないである。

本尊前にそろえた青竹。



先を割いた竹に挟んだ護符。

墨書された「牛頭天王 寶印 新福寺」。

一般的には、ごーさんこと、牛玉寶印を押印した護符を正面に据え、その前に護符を挟んだ青竹が8本か。

かつては、もっと多くあったような気がする。

おこないの作法において祈祷される。

ご住職の立ち位置。



内陣との境目に厚めの赤いシートを敷き詰め。

半切した長い一本の青竹に、ランジョーの発声と同時に打つ青竹も用意された。

以前は、内陣を囲むように、それぞれが座ってフジの枝木で叩いていたが、大幅に削減したようだ。

と、いうのも、昨年より土地改良区が主宰としたおこない行事に移した、という。

少子化の時代に、将来を見据えて主宰を土地改良区に移したのである。

午後4時15分ころからはじめたおこない。



まずは、ご真言である。

正面立ち位置ではなく、右手の脇に座って唱えるご真言。

次はご真言に続いて拍子木打つ、般若心経。

そして座を前にすすめたランジョー叩きは3人。

右に男性一人と左に二人の女性は、手に青竹をもつ。

ご住職が座る位置は明るいが、ランジョー叩きの場は、消灯していた。

暗くなったランジョー叩きの場。

雰囲気は、より近くなったような気がする。

ご真言に、あるとき、突如発した「ランジョー」。



カタ、カタ、カタ、カタ、カタ・・・・甲高い音色が本堂内に広がり、響いた。

激しく叩きつける音は魔除け。

村から悪霊を追い払う意味もあるが、世界平和・村民安全、五穀豊穣をも願う所作である。

そのことを願った表白を唱える住職は、何度も何度も「ランジョー」を発せられる。

おリンを鳴らせば打ち止める。

表白の次は神名帳を詠みあげる。

「・・・春日大明神、大和、広瀬、龍田、大神、・・・ダイミョウジュン、ダイミョウジュン・・・・ランジョー」。

カーンと鉦を打てば、けたたましくカタ、カタ、カタ、カタ、カタ・・・・・

悪霊はこれでもか、これでもかと追い払う。

十数回、いやそれよりもっと多く数えきれないほどの「ランジョー」を発せられる。

住民が平和に暮らし、繁栄、五穀豊穣を願うためにある、というランジョーであった。



祈りが終われば、身体堅固。

諸願成就、三界万霊、功徳などの念仏を唱えて最後に身体堅固。

古くから伝わる本尊、観音さまの牛玉寶印を参列者の頭に押す真似事をする。



「オンソワカ」、手を合わせて身体堅固のご加持をありがたく受ける。

本日のおこないの縁たたきランジョウに、参列合わせて撮影もさせていただき、御礼申し上げお堂を出た。

合わせて、参拝した杵築神社。

かつて、牛頭天王社とされていた神社に参拝。

そこにちょこんとあったコレは何?



初のテレビアニメに映し出されたまんが日本昔ばなし・・・に流れた音源を思い出した。

「・・ぼうやー よい子だ ねんねしな いーまも かわりなく はーはーの めーぐみの こもりうたー とおいー  むかしの もーのーがたり~いぃ・・」

今日のおこないに、子どもたちの顔は見なかった。

その代わりか、どうか知らないが・・・ ぼうやー よい子だ ねんねしなー

※ ※ ネットで探した正体は、結局見つからず、「獅子(猪)の背にまたがる童」の人形かな・・・

(R4. 3. 3 SB805SH 撮影)

おもひでの春の花 大淀町大岩・はるをさきどる白梅から、大和郡山の県立大和民俗公園へ

2024年09月26日 07時42分19秒 | 大和郡山市へ
今年の梅の開花は遅かったように思える。

待ち焦がれた春を彩る梅の花が美しい、と感じるようになったのは、3月初旬。

平坦でなく、里山の地。

今年も写真展開催のお世話になった大淀町・大岩

展示会場のきまぐれやからほんの近くに咲いていた白梅。

桜が咲くまでに感じていたい春の訪れ・・・・

大岩に白梅に春を感じた翌日は、今回で最後になった「私がとらえた大和の民俗」写真展

春はまだまだ。

梅は蕾の状態だった展示初日の2月23日。

いつになれば、訪問者を迎えてくれる梅の花。

遠い日になるだろう、と思っていた。

見ごろはもう少し先になるだろう。



私が、指標にしている梅の花は、県立大和民俗公園入口にある。

白梅に紅梅。

満開前の6割~7割くらいに開いたときが、見ごろ。



茅葺屋根の旧吉川家の前に咲く白梅も指標。

2カ所が見ごろに・・・・

橿原市中町に所在した自作農の典型的な農家で、庄屋を務めたといわれていた旧吉川家住居前。

茅葺家屋を背景に、外から眺める白梅が美しい。

それから25日後の県立大和民俗公園に桜の花が見ごろになった。

ちなみに、2年前の旧吉川家に寄り添う白梅。



天候の状態にもよるが、空一面が真っ青に、植垣根も綺麗だった平成2年3月7日の様相。

世界中が、コロナ禍に突入、感染症が、まん延に埋もれていくはじまりだった。

こうして見比べていると、コロナ禍とはまったく関係なく、自然の営みに左右される白梅の状態がよくわかる。

(R4. 3. 3、 4、 5 SB805SH 撮影)
(R2. 3. 7 SB805SH 撮影)

近年、盛んになってきた大和なひな祭りも早や11回目を迎える

2024年08月25日 07時42分16秒 | 大和郡山市へ
2月のはじめ。

イベントニュースが取り上げる日本全国、お雛まつりが盛大に行われ、賑やかさも華いちばん。

数週間後には、県立民俗博物館も盛り上がる。

お雛さんの段飾りに雛御殿。

今では、大和民俗公園内の施設にも飾られる。

いつも無料で入館できる古民家に飾られる立派な雛御殿が目玉。

県立民俗博物館・本館(※入館料要)奥にもずらりと並べた人気の雛御殿づくし。

来訪されるお客さん。

例年、来させてもらってます、と嬉しい声に、毎度の設営に汗も喜んでくれる。

一方、大和郡山市内・城下町は「大和なひな祭り」が開催される。

テレビなどでも取り上げてくれる話題が、「大和なひな祭り」。

和菓子屋さんも、神社も報せる今年で早や第11回になった「大和なひな祭り」にいらっしゃい。

(R4. 2.15 SB805SH 撮影)

東京拉麵ペペロンンチーノがスーパーサンデイにあった

2024年08月23日 07時42分17秒 | 大和郡山市へ
何年か前、テレビに登場した東京拉麵ペペロンンチーノ

番組は大阪テレビが製作するおとな旅。

たしか神戸の駄菓子屋さんだった、と思う。

お店の棚にあったインスタントカップ入りペペロンンチーノ。

これ、美味しいんだよね、と伝える出演者の声に、えっ


5、60年前の駄菓子屋さんなら体験しているが、今どきの駄菓子屋さんに入ることはない。

番組を見て、一度は食べたい、とずっと思い続けてきたが・・・見つかるワケがない。

大手スーパーはもちろん、中小スーパーでさえ見ないミニカップタイプのペペロンンチーノ。

駄菓子屋さん専門に卸しているなら、そこに行くしかないが、私の民俗取材に駄菓子屋が周辺に見つからない。

ところが・・・・。

えっ、ここにあるやん。

売り場は、スーパーサンデイ大和郡山店。

たった1箱しかないミニカップタイプのペペロンンチーノは、速攻の動き。

直ちに買い物籠に入れて支払った。

帰宅してぐぐったネット情報。

巷で評判な東京拉麵ペペロンンチーノは、楽天市場など、ネット通販で売っていた

(R4. 2.14 SB805SH 撮影)

大和 松尾寺・二月初午・初午観音出現大祭に授かる厄除け鳥御供

2024年08月22日 07時47分28秒 | 大和郡山市へ
お寺さんから毎年に届く年賀状に、いつも正月行事の日程が書いてある。

1月から2月かけての正月行事に、二月初午の日に行われる初午観音出現大祭がある。

その日は「天平時代の古記録“松尾山縁起”により、養老二年(西暦718)の厄除観音御出現を祝う、全ての厄除を願う参詣者で賑わう」と、「大和 松尾寺」の年中行事に伝えている。

前日の24時からはじまる厄除祈祷厳修に、午前11時・午後2時から行われる柴燈大護摩奉修がある。

その賀状に書いてあった特別なこと。

“厄除け鳥御供”の記しに目が点になった。

“厄除け鳥御供”とはなんだろうか。

一度は拝見してみたい、と思った“厄除け鳥御供”。

ネットをぐぐってわかった限定の御朱印がある。

あるブロガーさんがアップしていた御朱印の映像に美しさを感じた。

「福(ふく)来る」の文字がある御朱印に、描かれた鳥は鳳凰の姿。

「大和 松尾寺」の授与品の頁にも載っていた

「大和 松尾寺」といえば、住まいする奈良・大和郡山市にある。

江戸時代からわが国最古の厄除け道場として民間の信仰を集める松尾寺。

かつて、私も厄除けに祈祷してもらったことがある。

ずいぶん昔のことだ。

突然に発症した肝膿瘍に、危険な状態に陥っていた。

風邪の疑いに入院した大阪の医院。

一週間に、一度は医院に来られる医師に症状を伝えた看護師長。

実は、義理の姉だった看護師長。

義理の弟の症状に、勤務する医院の診断では、治る見込みがないと判断されての行動。

状態を診た週一来られる外来医師。

CTエコーの状態を診て、直ちに救急車の手配をされた。

的確な診断に、急遽走った病院替え。

救急車で運ばれた大病院は、大阪・高槻。

直ちに処置したが・・・。

ぼやーっとする光景・・・・・親族一同がベッド横に並んで、なにかをしゃべっている。

あーこれが、見納めか・・・・・・・生死を彷徨った末の処置は、カテーテル・・・・

長い療養期間、精一杯のリハビリに、再び仕事に就いたが・・

生きながらえた私に、厄払いを、と家族の声に背中を押されて後厄祈祷をしてもらった「大和 松尾寺」。

回復してからの私は、考え、生き方に変化があった。

命をもらった私になにか、人のためにせい、と声が聞こえたかどうかわからないが、・・・その後にはじめた、今住む町、2番目故郷の奈良・大和への恩返し。

地域に貢献したい、その思いが今の取材活動に繋がった。

松尾寺は、真言宗醍醐派の別格本山の寺院。

山号は松尾山、または補陀洛山(ふだらくさん)。

2月、3月の初午の日の縁日には、多くの参詣者でにぎわう。

麓の山田町から車で登ってくる。



駐車場整備をしている警備員。

今年も少ない、というコロナ禍の縁日。

数年前までは、駐車場に行きつくまでの山行き車道は、駐車待ちの車で大行列になったけどなぁ、とつぶやく警備員。

それより何年か前の大晦日。

麓まで車が並んでいた状態が記憶にある。

昭和32年、入江泰吉がとらえた大和路・松尾寺参詣の道がある。

大行列に厄除け詣りをする人たちの写真が残されている。

どこから撮ったのかわからない写真。

クレーン車にでも乗って撮ったのでは、と思える一望できる参詣道




北惣門を潜り、石段を踏みしめて登る参詣者もまばら。



手水に手を清めてから登るが、一気にとはいかず、途中の石段に2度も一息つく。



手を合わせ、厄除けを願う参詣者たちが、灯した蝋燭にお線香。



奥へ、奥へと行きついたそこはこの日のためにふるまい善哉を用意していた。



ありがたい厄除け善哉に白玉だんごが三つも浮かんでいる。

つるっと口の中に滑り込み。



これが旨いんだなぁ。

つい、思いだす正月初めの行事。

大和郡山市内に鎮座する塩町戎。

笹もってこい。精いっぱい声を張り上げて参拝客に、「福」を授ける卑弥呼さんたち。

神社向かいに設営したテント内に、長椅子が・・・。

飛ぶように振舞われる塩町戎さんのぜんざい。

関係者がつくった白玉だんごを添えて・・・。

今はコロナ禍のせいで、実施できない振舞いぜんざい。

お願いだから、終息したら、黄色い声で「よーおまいりー」と迎えてほしいものだ

松尾寺のふるまい善哉は、お寺さんを支援する人たちが準備する。

昔はもっと大勢の人たちがいたから、杵で餅を搗いていたそうだ。

今は、ごく数人しかいないので、手間のかかる作業は、簡単にしたらしい。

白玉だんごもその一つ。

市販品を買ってきてぜんざいにしていると話す。

ありがたいふるまいぜんざいの温かいこと。

この日も寒いが、暖かく心を込めてつくってくださった厄除けぜんざいが美味しい。

さて、初午の日に求めていた“厄除け鳥御供”である。

御供の受付は阿弥陀堂左側になる。

案内盾に「日本最古の厄除寺 創建1300年に始まる(鳳凰)記念の朱印」。



すぐ傍に、「一枚三百円 記念の朱印」見本も立てている御朱印受付窓口に申し出た“厄除け鳥御供”。

要望に応じ、すぐさま筆をとるご朱印担当の職員さん。

予め版木で刷っていた鳳凰の姿は三色仕立て。

この三色は、伝統行事の「まつのおさんまいり」の赤たすきに、黄色たすき。

厄除け袈裟の青色。

厄除け祈願のこの日、厄除観音さまの御宝前に象徴の三色を彩った御朱印に、参拝日の令和四年二月十日を記してくれた。

一枚に心をこめて書してくださったありがたい御朱印を拝授した。

憧れだった御朱印。

賀状に参拝、とあり、今日ようやく詣でました、と伝えたら、貴方にはもう一枚、



特別に差し上げよう
と、予めパウチしていた日付けなしの鳳凰姿の朱印をプラスしてくださった。



今、まさにはじまろうとしていた護摩焚き。

初午日の柴燈護摩焚き。



この日、最初の柴燈護摩焚きに参拝者が群がっている。

二番目に行われる護摩焚きは、午後2時より。

そのときの人手を見届けることなく下山準備。

行者堂の前に焚かれていた煙立つ線香を撮っていた。

袈裟を首から下げた厄除け祈願者は、厄除けの赤たすきを祈祷中襟にかけ、護摩焚きの煙とともに、階段を駆け上がっていった。

松尾山神社の厄除け参拝。

神楽奉納に祈祷してもらう
のだろう。



もうもうと立ち昇る護摩焚きの煙を見届けながら、出店が並ぶ階段下に降りた。



厄除けかんざしに、回転焼き。

カステラを売る店もあれば北海道の郷土料理ともいえる鶏ザンギを売る店も・・。



揚げ油の香ばしい匂いに釣られて足が勝手に動く。

5本揚げ300円。

家族のお土産を、と思って注文した。



ザンギの名前は知ってはいるが、これまで一度も食べたことがない。

初午詣りに、えー機会だと思って注文した。

注文受けてから揚げてくれる情熱の鶏ザンギ。



揚げたて熱々の鶏ザンギ。

こんなに細いとは思ってもみなかった。

(R4. 2.10 SB805SH 撮影)

令和4年の記憶力大会は中止の決断

2024年07月17日 07時56分24秒 | 大和郡山市へ
昨年に続き、今年も記憶力大会(奈良県大和郡山市主催事業)は中止・になりました。

毎日に見ていた記憶力大会のポスター。

いつ変化するのだろうか。

それとも実行に至るのか?

コロナ渦中の決断は悩ましい。

今夕に見たポスター。

昨年と同様の「中止となりました」を、ぺったんこ貼っていた。

大会に応募、参加が決まっていたみなさま方、申しわけございませんと、代弁しておきます。

(R4. 1.25 SB805SH 撮影)

霜が降りた冷たい朝に

2024年06月22日 07時51分41秒 | 大和郡山市へ
玄関出ると、そこは私どもが住まいする自治会のゴミ置き場。

朝6時半になれば、ここに収納できる我が班の人たち専用のゴミ置き場。

決して、ゴミ捨て場ではない。

かつては網ネットで防いでいた野鳥アラシ。

野鳥、といえばカラスしかおらん。

ゴミ置き場に置いた住民の動きを見て、居なくなれば急降下。

網ネットに嘴を突っ込んで、詰めたゴミ袋から、日用の食事ガラを啄む。

啄むだけではなく、袋ごとくわえてどこかに羽ばたいていきよる。

見張りを立てるワケにはいかないから、試行錯誤し、自治会で決めた、その名も「カラスこいこい」を、班として購入した。

あざといネーミングであるが、効果抜群。

切り替えてからは、一度もやられることなく、5年も過ぎた。

起床したときは、そうでもなかったゴミ置き場の向こう側にある丘。

市のゴミ収集車がそろそろやってくる時間帯。

正月6日の午前9時過ぎの丘は、真っ白。

いや、違った。

全面が真っ白なワケでもなく、皺が縒ったソコだけが白色。

かつて丘は雑草が伸び放題。

市が推奨する町を綺麗には、春と秋。

例年は6月と11月の第一日曜日に充てられる市のクリーンキャンペーン。

自治会がお願いした市に敷設してもらったこの丘のすべてをゴムシートで覆ってもらった。

おかげさんで、雑草刈りはほとんどなく、草が繁っていた時代は、土砂の地。

大雨が降る度に、砂が流れ、水路に溜まり、汚泥に。

その汚泥を取り除く作業をしていたが、ゴムシートを敷設してからは、これもまたほとんど消えた。

そんなワケですっきりしたゴミ置き場が綺麗になった。



だから、今朝の霜降りは、予想もしていなかった文様が決まった。

この日の霜降り景観が、素敵な波文様になったのでケータイに収めた。

(R4. 1. 6 SB805SH 撮影)

小泉神社の奉納砂モチに九頭神神社の九頭神座祭の奉籾付き稲束

2024年06月05日 07時49分17秒 | 大和郡山市へ
4日前の27日にも訪れていた地元の神社

なにかと伺いたくなる大和郡山市小泉町に鎮座する小泉神社。

その日に見た砂の山。

本社殿の拝殿前に置いていた砂の山。

その後に、砂モチはされているだろう。

今日は、大晦日。

なんぼなんでも、そのままの状態ではないはず。

そう思ってやってきた小泉神社。

今日は、午後の時間帯に行事取材。

主たる目的地は、京都南部。

木津川市加茂町銭司・民家の砂撒きをはじめ、相楽郡精華町菱田・春日神社の年越し大祓砂撒きを継承していた精華町祝園の民家の行事を見届け、やってきた小泉神社。

地元に戻った時間は午後4時半。

夕陽が沈むまでに確認したかった小泉神社の砂モチ。

砂の山を崩して、ひと山ずつ盛った砂モチ。

一対ずつ、縦位置に並べ、据えた砂モチ。

そう、この位置は、初詣に来られる人たちが、並んでいただくようにしたものであるが、現在もコロナ渦中。

感染症対策に設置した真ん中の仕切り。

たぶんに右側一方通行。

参拝を済ませたら戻りの左側も一方通行。

平成26年12月26日に拝見した状態と、少し違いがある。

ひと山の数よりも、少々落としたように思う。

前年の平成25年の12月26日もそれぐらいの数だった。

そういえば、前方、右側にあるひと山になにかを立てている。

近づいてわかったその札に「奉納 (有)イマキタ」と、ある。

初詣客に見ていただけるように立てた奉納者。

拝殿にはずらりと並ぶ献酒。それにも奉納者の名が記される。

それと、同様。

氏子の人たち、めいめいが記す奉納者の名。

実は、砂盛りに奉納された札を立てていた様相は、平成24年の12月27日も拝見していた



そのときの札は「かじ安商店 福井安重」で、あった。

毎年、交替されているか、それとも平成24年の奉納者から継いだのか・・

謎解きを解決するには、毎年のこの時期に訪れない限りわからないだろう。

この年の奉納砂モチを見届けて、車を停めた神社の駐車場に戻った。

あれは何?。



驚き、見つけた籾付き稲束。

社殿の後方にある樹木に括りつけていた。

社殿からピンときた籾付き稲束は・・・

社殿は、小泉神社境内社の九頭神神社(くずがみじんじゃ)である。

小泉町・市場垣内の氏神社。

親しみを込めて「くずがみさん」と呼ぶ水の神さん。

昔、昔のこと。

「くずがみさん」を手に「雨たんもれ たんもれ」と、田んぼの周囲をまわり、雨乞い祈願をしていた、と伝わる。

平成20年の10月8日に行われた行事を拝見していた市場垣内の座中が斎行される九頭神座祭。

御供当家の屋敷に集まった御供当家と御酒当家はそれぞれ2人ずつ。

一年間の祭りごとに仕える両当家4人。

これよりはじまる境内社・九頭神神社に向かってお渡り。

後方に、唐櫃担ぎ、人足が続くお渡りの先頭は、柄が異なる直垂姿に引立烏帽子を被る長老の一老が就く。

その一老が、抱えていたのが籾付き稲束


そうか、今ごろになって、はじめて気づいた籾付き稲束。



奉納された籾付き稲束は、祭典前に据えていたんだ。

当家の幣は、社殿に掲げるが、籾付き稲束は樹木に・・・

このような作法は、奈良県内の行事取材範囲内であるが数件の事例がみられた。

(R3.12.31 SB805SH/EOS7D 撮影)