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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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コロナ感染対策に締めていた大和郡山観光VGC観光案内所を再び開放

2023年07月19日 07時03分05秒 | 大和郡山市へ
先月の5月23日にも訪れていた大和郡山観光VGC観光案内所

常時、開放しているのではなく、大和郡山観光VGC(ボランテイアガイドクラブ)が、滞在される火・木曜に日曜日と祝日。滞在時間は、午前10時から午後3時まで

所在地は、旧城下町の一角。

大和郡山市今井町。

南北を貫く藺町線(※いのまちせん)・中央に立地している。歴史的に使命を果たした由緒ある「箱本十三町(※はこもとじゅうさんちょう)」。

箱本」は、江戸時代の郡山藩・郡山町中に設けた町人の自治組織。

地子(※土地に対する税金)免除の特権を与えられた本町・今井町・奈良町(ならまち)・藺町(いのまち)・柳町(やなぎまち)・堺町(さかいまち)・茶町(ちゃまち)・豆腐町(とうふまち)・魚塩町(うおまち/しおまち)・材木町((ざいもくちょう)・雑穀町(ざこくまち)・綿町(わたまち)・紺屋町(こんやまち)の箱本十三町。城下町の中心部。

本町、魚塩町からはじまった城下町形成。

全国津々浦々にある城下町も同じような町名で形成されている。

のちに箱本組織が地区拡大したため、最初の組織を内町十三町と呼び、新たに追加組織された地区組織を外町と称した。

ちなみに、車町蛭子神社の十日えびす行事を取材した際に、拝見した重要古文書

天正拾九年(1591)十一月十五日のお定書『車町家持定之事』に、極めて重要なキーワードを見つけた。

車町は、後に免除となった外町のひとつ。

その件、「天正15年11月30日に倒れ、天正19年1月22日死去後に中納言こと秀保が城主になる時代に、地租を免除した」とあった。

いわゆる箱本制度である、箱本十三町・地子免除の一端を示す重要な古文書である。

『車町家(※本家家持16軒)約定之事』については「大和郡山城ばーずあい ―図説 城郭と城下町― 城下町百話【町 寺社地】上」が詳しいので、参照されたい。

その名称を冠に付与した「箱本十三町案内所」。

HPに大和郡山市内、特に城下町を中心に巡る観光マップを装備している。

来訪される場合は、目的に見合ったマップ資料を選び、足を運んでいただきたいが、予めダウンロードし、目的地のルートを頭に描いておけば、より効果的だが、旧城下町内は、一方通行が多く、不慣れな方は迷うこと度々。

12年前まで勤めていた市営の施設、市民交流館に電話が鳴った。

「ここがどこだかわからない。どこをどういけば・・・いいのでしょうか」など、問い合わせ電話がしょっちゅうかかった。

一方通行を逆進していた車内から求める電話。

当時のカーナビの精度もあるが、難儀される方のほとんどが、カーナビの指図を無視して走行していたようだ。

現在は、スマホ情報を活用されるのが、いちばんであろう。

マップを参考に、予めポイントを決め、駐車場の位置も確認しておくことも大事だろう。

なお、もっと、もっと詳しく知りたい方は、「大和郡山ばーずあい」が最も詳しい。

情報の多さ、さまざまな角度、視点から提供してくださった「大和郡山ばーずあい」に感謝するしかない。

観光案内所が開放されたなら、隣接する付属施設の「語り部の館」も入室できるのでは、と思って出かけた。

訪れた観光案内所。入室し、ご挨拶したらお久しぶり。

なんと、平成25年12月に取材した元藩医家の神農さん行事の家族さんだった。

第5期大和郡山観光VGCの一員であるKさん。

雑穀町にお住まいするお家行事。

年中行事は数々あり、いずれも丁寧にされている。その一部も取材させていただいた。

年末・大晦日は三宝飾り

正月の元日に行われるサンニンサン。

「サンニンサン」と呼んでいるお家の神さんに正月迎えの三膳御供。

8月のお盆は、先祖迎え

懐かしい話題に盛り上がり。

今日の来訪目的は、「語り部の館」に展示している鍛冶町発掘調査報告である。

語り部の会が、管理する報告資料を展示している。

本日は、代表不在であったが、応対してくれた8期性の男性が、開錠。



入館させてもらった。

2階の会場いっぱいに拡げた展示物品は、鍛冶町発掘調査に出土した土管などを解説したパネルだ。

都市計画道路建設に伴う発掘調査。

その場は、城下町を取り囲んでいる外堀の内側辺りの東南角地。

郡山城と城下町を取り囲んでいた外堀跡付近の発掘調査で、外堀の内側に築かれていた近世の土塁(御土居(おどい))や、素焼きの土管をつないだ排水施設が見つかったと発表した。

排水施設は現在も機能しており、市は「当時の土木技術や土管の製作技術の優秀さを示している」と評価している。

都市計画道路の建設に伴う発掘調査。

現場は外堀の東端部分にあたり、調査面積は計約240平方メートル。

土塁は幅約15メートル~約18メートル、高さは約2.5メートルあり、出土品などから17世紀前半に築造され、18世紀前半に大がかりな修復が行われた可能性が高いという。



土管をつないだ排水管は2カ所で確認され、土塁の中を直角に貫くように通した暗渠(あんきょ)。

土管は常滑焼(愛知県)とみられ、江戸後期~幕末に製造されたもの。

2カ所とも造り替えた形跡があり、使われなくなった古い方の排水管が残っていた。

土管1本の長さは約49~64ンチ、直径は約14~19センチ。

一部は漏水防止のため、土管の継ぎ目部分を漆喰で固めてあった。

排水管は、城下町の家々の生活排水などを外堀に流すためのものだが、現在も雨水が流れていることが分かっている。

市都市計画課文化財保存活用係は「排水施設が、およそ160年から200年もの間、現役で機能しているのは驚き。土塁の状態も良く、郡山藩がちゃんと維持管理をしていたのだろう」としている。

旧郡山城下の東端(※同市北鍛冶町)で、江戸時代後期から幕末ごろ(約200~160年前)に土塁の下に敷設された地下排水施設の土管が見つかったと発表した。

愛知県の常滑焼とみられ、今でも排水機能を果たしている現役の土管だった。

市は「当時の土木技術や土管製作技術の優秀さを示す貴重な資料」と評価し、現地説明会も開いたそうだ。

道路整備に伴う発掘調査で確認された外堀に水を流す地下水路(※暗きょ)があると想定し、調査を進めた。



大和郡山市都市計画課文化財保存活用係が郡山城御土居から発掘調査した江戸後期・幕末のころに製作した2本(赤焼きと真焼き)の「常滑焼土管」現物を展示していた。

その他、資料として「地籍図で見る大正時代の鍛冶町」、「戦後の鍛冶町の変遷」、「絵図で見る江戸時代の鍛冶町」、「郡山城御土居の発掘調査」、「春日若宮神社と鍛冶商人(春日若宮神社の遷座/鍛冶町と春日若宮神社のつながり)」、「鍛冶町について(鍛冶町の位置/鍛冶町に住んだ人/近代以降の鍛冶町)」、「鍛冶町大門の構造」を一枚、一枚を拝見。

















自ずとわかってくる城下町における鍛冶町の役割が見えてくる。

なお、発掘調査は、鍛冶町にある年中行事には触れていない。

数年間に亘って調査した、鍛冶町と関係が深い外堀外、東側の地になる野垣内町に鎮座する春日若宮神社の年中行事。

両町に氏子総代が就き、行事を執行する両町の鎮守社である。

一部ではあるが、年中行事は、私が取材した伝統的行事をここにリンクしておく。

その一つに、大和郡山市内に今も継承している大晦日の夕刻までに行われる砂の道習俗がある。

県内においても、数少なくなった貴重な習俗である。

その砂の道習俗を担っているのは、北、中、南の鍛冶町自治会の人たち。

そう、野垣内町に住まいする人たちでなく、鍛冶町に住む鍛冶町自治会の人たちである。

その砂撒きをする前日の晦日は、しめ縄かけ

中央に、伊勢海老を掲げるのも珍しい。

また、かつては多くの鍛冶仕事をしていた鍛冶師が住まう町。

近年にはたった1軒になった、という鍛冶町。

県内事例では珍しく、鍛冶師の祭り行事にフイゴ(※鞴)の祭りがあったようだ。

今は、完全に廃れてしまったが、私が取材した平成21年12月8日のフイゴの日。

鞴の文字も消えていたが、崇める「正一位八要姫稲荷大明神」の幟を立てる

鍛冶師の儀礼は消え、幟旗だけを立てるようにしたのだろう。

参考までに挙げておくが、12月8日は、鍛冶師のまつり

仕事休み、感謝する日でもある。

今も現役の野鍛冶師が行うフイゴの祭りを参照していただきたい。

尤も、城下町での暮らしに必要な刃ものは、包丁、鋏などの生活用具に江戸時代のころからは、戦乱のない時代の武士が携行する刀。

農の営みは、城下町の外。

引き合いは多かった、と思われるのだ。

ちなみに、春日若宮神社の行事取材は、平成19年10月12日に行われた秋祭からはじまった。

さて、発掘調査である。



中には大量に出土した生活用具。

実用的に使われていた絵付け茶碗にプリント茶碗。



子供の遊ぶ道具のおはじきにサイコロとか陶製のままごと道具もある。

他に、目的がわかる稲荷社に用いられたと推定できる狐形土製品。



金属製の蓋とか、さまざまな文様のタイル。



多数のガラス製品にゴム栓付き目薬容器。





白磁の祝い杯は春日若宮神社の正遷宮記念に配布されたもの。

地区名の野垣内・三鍛冶(※北・中・南鍛冶)の記銘があった。

この記念杯は、他の資料から大正十三年(1924)とわかっている。

また、資料に鍛冶町に暮らす職人、商人らの諸職。

※鍛冶屋・鉄屋・金物屋・綿屋・壺屋・油屋・米屋・豆腐屋・畳屋などもあった。



実際、郡山城下町の諸職人は63種にもなるそうだ。

会場から階段を下りたところにも展示物を並べていたが、これらはどうやら、直接関係するものではなかった。

滞在した時間帯は、午後12時半から1時過ぎ。

短時間であったが有意義な資料を拝見。

室内は明るくなく、暗いがため、私のガラホ携帯画像では、ここまで・・・

ご容赦願いたい。

(R3. 6.20 SB805SH撮影)

大和郡山観光VGC観光案内所に珍しい植物“金魚葉椿”

2023年06月17日 07時40分13秒 | 大和郡山市へ
FBに紹介していた大和郡山観光VGC観光案内所。

先月の4月1日から展示が始まった「近世・近代の鍛冶町 ~御土居を背に住んだ人々~」企画展。

始まってから、ずいぶん日にちが経過した。

拝見したい、したい、と思いつつも足が向かわない。

えいやっ、と気持ちをかえて車を走らせた。

施設建物に掲示していた件の企画展。

扉の締まった施設に、駐車場も閉めていた。

そうか、そういうことか。



よく見たそこに貼ってあった「コロナ感染拡大防止のため、案内所を休所します」、とあった。

奈良県緊急対処措置に符丁し、5月末まで営業停止措置である。

企画展ポスターには最終期日の記載はないが、コロナ対策の休所については、「5月末日迄」とある。

6月になれば、企画展は再開されるのだろうか。

仕方ない、といえばそれまでだが、ここに来たなら、もう一つ紹介していた珍しい植物“金魚葉椿”を観ておこう。



椿の木であるが、葉っぱの形がまるで金魚のような姿。

型紙に抜いたような形の金魚姿の椿の葉。



ネットによれば「錦魚葉椿/金魚葉椿(きんぎょば つばき)は、変わり葉椿の代表種」、「江戸時代、突然変異によって生まれたヤブツバキの園芸品種」、「葉の先端が金魚の尾鰭のように、三つに分かれたユニークな形の品種」、「花は、中輪。桃紅色の一重」、「苗木が小さいうちは、金魚葉の出現率は低いが、木が大きるにつれ出現率は高くなる」、とあった。

(R3. 5.23 SB805SH撮影)

雨あがりの藤棚・・大和郡山市・城跡公園内

2023年05月03日 07時45分58秒 | 大和郡山市へ
昨夜から降り出した雨。

起きてからも降っているし・・・さて、どこへ。

午前中は、洋ラン展

鮮やかな色合いに、展示会場に香るカトレヤに圧倒されていた。

午後は、パソコン作業。

終わりのない旅に、終わりのない執筆作業。

息抜きしたひと時は、市施設のトレーニングルーム行き。

夕方になるころに出かけて運動するペダル漕ぎは、心臓リハビリ。

会場に入る手前に停まった信号待ちに見た藤棚。

えっ、こんなに見事な藤の花が咲いていたとは・・。

運動中に雨あがり。

光が、一瞬に差し込んできた時間帯は午後5時50分。

タイムトレーニングに終わった時間は6時過ぎ。

日も落ちてしまった。



暗くなるのはあっという間。



急いで向かった藤棚の所在地は大和郡山市・城跡公園内



この日は、ずっと腰掛けられない木造ベンチ。



落下した藤の花が・・・落ちた。

あーした、てんきになぁれ。

(R3. 4.17 SB805SH撮影)

久しぶりに出会う会場は奈良蘭友会第49回春の洋ラン展

2023年04月29日 07時40分54秒 | 大和郡山市へ
昨年の秋。

初めて訪れた洋ラン展

展示会場は大和郡山市馬司町にある昭和地区公民館。

甘い香りがいっぱい広がる癒しの会場。

大多数を占める洋ランはカトレヤ。

圧倒されるほどに多い。

充満する香り。

しかも愛らしく咲いていたカトレヤに目が落ち着かなかった。

さまざまなカトレヤにはまることなく、私の目に入った和の蘭。

尤も好きなセッコクが、格安で販売していた。

入手したセッコク2種は、花を咲かせない葉もののセッコク。

緑が潤いを呼ぶセッコクは、中庭に寄せた。

そんなこともあった洋ラン展に初入り。

芳名させてもらったから、次の春の洋ラン展は、私宛に案内状が届いた。



本日の受付には芳名しないしなくとも受け付けてもらうには、届いた案内はがきを手渡すだけだ。

なるほどな、やり方であった。

前回に寄せてもらって、今回は届けてくださった案内状に今日も・・と代表にお礼を伝えたら喜んでいた。

この日の展示会場で、久しぶりに出会いがあった。

もう十年以上になるかも、と思われるくらいの久しぶり。

元大和郡山観光VGCのTさんにFさん。

お住まいがこちら方面だったとは・・・

元気にしてた?、と云われたので、ついしゃべってしまった健康状態。

平成27年7月31日の処置してもらった心臓の大手術さえ知らなかった、という。

久しぶりなのに、出会ってすぐににぎやか会話になるのは、昔も今もかわりない元気なお二人。

長年に亘って活動してきた大和郡山観光VGC。

会員も若手に移っていく状況に、年齢を考えた二人は7年前に退会した、という。

そういえば、思いだした。

VGCの活動でなく、講演会会場に出会ったことがあったな。

平成28年1月31日に行われた第4回水木十五堂賞授賞式会場は大盛況。

旧きから知るVGCのみなさんたちが来ていた。

会場埋め尽くす人、人、人の状況では立ち話する場も時間もなく、散り散りバラバラ解散していた。

実は、お二人をこの会場で見かけたことがある。

前回訪れた秋の洋ラン展であるが・・

見終わったお二人が会場を離れていく姿を見ていたんだよ、と伝えたら、声かけてくれたらよかったのに、と云われたが、遠目に見たその姿はマスク。

どことなく似ているなぁ、と思っていたんだよなぁ。

久しぶりやから、このカトレヤが欲しい、と訴えたFさん。

「いやいや、買い取り、持ち帰りでなく、画像よ」。

LINEスタンプに使いたく撮っていたFさん。

ついでじゃないけど、私のスマホで、私を撮って、と・・・

今度は、そっちかい。

いいよ、いいよとシャッター押し。

背景に邪魔なもんが写りこまないように立ち位置移動。

そこで押したシャッター。

画像を確認したFさんにOKサインをもらった。



そのことはともかく、お二人がお知り合いの女性が、会場に育成した洋ランを出展しているという。



二人の花の友達であるその女性、Hさんが解説される洋ラン展。

何年か前に、県立民俗博物館・駐車場に車を停め、友人らとともに歩いた子供の森(※奈良県立矢田山遊びの森)行き。

そこへ行くまでの坂道がキツかった、という。

そう、あそこの坂道は心臓破りの坂道。

私も自然観察会とか、別に出かけた家族連れだって歩いた坂道。

バンタイプの普通自動車でも、馬力かけないと登れない急坂。

対抗車と遭遇したら、エライことになる坂道。

それを越えた公園内に樹勢するメタセコイヤに感動した、と話していた。

あーそれなら気根が目立つメセコイヤによく似た「ラクウショウ」であろう。

そんな話題もあった洋ラン展。



見たこともない風雅な洋ランがたくさん展示している。

前回よりも香りがやや薄れているのは、出展された洋ランの違いである。



香りもいいが、花の付き方、様態の多様性。

また、飾りつけの工夫などを見て廻る。



あれこれ気になった洋ランを見て佳し、撮って佳し。

あるときは買って佳しの奈良蘭友会第49回春の洋ラン展。



毎回が、いろんな洋ランを展示に、出かける楽しみがある。

白色の蕾をつけたシランも販売されていたが、これは買わない。

我が家の前庭には、紫色のシランがいっぱい。

はびこるくらいに拡がったシランの敷地に植えたもらいものの口紅シランがあった。

これも白色シランのひとつ。

3年ほど愉しませてくれた口紅シランは、いつしか消えた。

紫色のシラン軍勢の勢いに負けてしまったようだ。



あれこれ見て廻って、これだと思って買った一般売り。

そこあったオレンジ色のセッコクが600円。

売り切れたらあかんから倉庫に隠しておいた、というお客さんもいる。

もう一つのセッコクは、すごく欲しいが、希望する価格帯よりも高額なら購買せず。

でもなぁ、これだけは、もう一度のチャレンジに世話してあげたい、と思って決断した1000円札の”デンドロビウム キングアウム シルコッキー”。



中庭に吊るした。

(R3. 4.17 SB805SH撮影)

2021ご近所に咲くさくら③郡山城跡の千本桜(・・の一部)

2023年04月14日 08時04分36秒 | 大和郡山市へ
いやもう、満開・・どころか、ふっと吹く風に、どれほどの花びらが落下していたことか・・。

治療している間に駆け巡る郡山城跡の千本桜。

まずは、西の濠周りに咲いている桜を見る。

黄砂に泣かされた前日と、比較にならんくらいの青空。

白い雲一筋もない空をバックに咲いた、咲いた・・・。



西の濠の石垣にどなたも気がつかない。

ぽかぽか陽気昂る写真映え狙い。



カーブラインが好きで、いつもここに立ち止まってしまう。

大勢でなく、少人数のグループや家族さん。

愉しそうに話している。

昼めしの時間帯に巡る景観。



母親とともに過ごす親子連れは、多いようだ。

稀に見るスーツ姿の新社会人もまた、近くのコンビニで買ってきた弁当持ち込み。

席は、どこもかしこも空いている。

椅子は少ないけど・・。

周回してきた西の濠は、桜の時季以外でも、いつも子どもたちや学生さんの姿を見る公園。

すぐ近くにトイレもあれば駄菓子屋さんもある憩いの公園だ。



そこから東に向かうとかつて本丸があった天守台に近づく。

鳥居をくぐって向こうに歩いても私の足では遠い。

途中にある登坂もたぶんに無理と判断した。

そこに行くよりも、先月の3月12日に行われた渡り初め儀式があった復活極楽橋が見える。



満開の桜の隙間から見える極楽橋。

今や、郡山城跡に来られた人たちは、必ず見てくださる人気の極楽橋になった。

今日の極楽橋は一段と美しい。

ここで時間切れ。

帰路に戻っていく桜咲く道。

最後に見た不思議。

釣り竿を、お濠に投げ入れるような恰好する男性。



よく見りゃ、竿の先にカメラがあるやん。

いったい、何を撮ろうとしているんだろうか。

さっぱりわからぬ・・・

(R3. 4. 1 SB805SH撮影)

2021ご近所に咲くさくら②富雄川桜堤公園~県立大和民俗公園

2023年04月08日 07時45分02秒 | 大和郡山市へ
全国的に黄砂で覆われた、青空のないこの日。

降り注いだ黄砂をとらえるニュース情報の映像は、いつも車のボンネット。

白い車ならわかりにくいから、黒のボンネット

記者が、指に付着した黄砂を見せて、このようなっている・・・と。

そんな不自然な自然であっても健気に咲く桜。

ご近所に流れる富雄川。

その川堤に、桜並木が・・。

距離数は短いが、桜咲く時期になれば、アウトドアを楽しむ人たちがやってくる。

さすがに、黄砂の日には誰もいない。



少し走った奈良県立大和民俗公園。



園内に見る桜もいいが、外側から見るのもえーもんだ。



公園から道路隔てた1本道。

歩道に落下した桜花。



花の道を歩く気持ちは、遠慮の詞。

その先に・・・少人数グループの集団。



テーブルを広げて、桜満開の下に宴もたけなわ・・に、ふと思う疑問符!?。

(R3. 3.30 SB805SH撮影)

2021ご近所に咲く桜①県立民俗博物館駐車場~郡山城跡外堀外域

2023年04月05日 08時22分11秒 | 大和郡山市へ
今日は、ほんに、えー天気。

さくら、咲く咲く行楽地に行けば、道路は渋滞でなかなか着かん。

着くには、着いたが、駐車場は満杯に時間待ち。

ぐるぐる周る空きスペースに、運よく遭遇することもある。



2月1日の早朝に、粥占神事が行われる石木町登弥神社の桜は、八分咲きでしょうか。

満開よりも、隙間があるのも佳し、良し、よし・・。

夕刻に出かける所用地。



そこに着くまでの信号待ちに見た朧月夜。

夜中に降るであろうか。

(R3. 3.27 SB805SH撮影)

150年ぶりに復活した郡山城跡・極楽橋を渡り初め

2023年03月08日 07時14分59秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市城内町の郡山城跡で再建整備工事が進められていた極楽橋が完成。

3月12日(金)、完成式典を済ませた午後3時より一般公開、雨天の渡り初めにおよそ50人が、記念写真を撮るなどして150年前の様相を思い起こしていた。

極楽橋は本丸の周りを囲む内堀に掛かっていた橋で、本丸登城の正式な橋であった。

明治6年の廃城令により撤去されたとみられ、およそ150年ぶりの復活である



極楽橋は本丸と柳沢文庫のある毘沙門曲輪(びしゃもんくるわ)を結ぶ橋。

建造時期は不明であるが、現存最古の国立公文書館所蔵の正保城絵図「和州郡山城絵図」によれば、本丸(天守曲輪)と二の丸(毘沙門曲輪)の間には橋が描かれ、本丸側には櫓が描かれていることから、正保年間(1644~1648)にはすでに存在していたことが伺え、江戸時代前期から明治時代の初めまでは橋があったとみられる。

極楽橋という名称は、柳澤吉里公が名付けたと考えられ、享保九年(1724) に、吉里が甲府から郡山へ転封する以前、極楽橋や白沢門は、「玄関前橋」・「玄関前門」と称していた。

その後、柳澤家が城主時代に作成された郡山城図では、極楽橋・白沢門と記載されているそうだ。

郡山城史跡・柳沢文庫保存会は、平成28年4月に旧郡山藩ゆかりの篤志家から極楽橋再建を目的とする3億円の寄付を受け、専門家でつくる郡山城極楽橋再建・白沢門櫓台(やぐらだい)整備委員会を設置。再建に向け、本丸側にある白沢門櫓台石垣の修復工事や発掘調査などを実施し、令和2年3月から再建工事を進めてきた

橋の構造は詳細が不明なため、江戸時代の史料や発掘調査の成果を踏まえ、長さ22.12メートル、幅は5.4メートルの反り橋



内堀を跨ぐ半円形の太鼓橋形式とする伝統工法で再建された

高欄や床材には奈良県産の檜を使用。

橋脚の芯には鉄骨を用い、通行できる強度と耐震性を確保した。

総工費は約3億1500万円。

うち3億円は、市内在住の女性が寄付されたもの。

再建のほとんどに充てられた。女性の夫は、柳澤家家臣の家系。

亡くなられた夫は、保存会の評議員を務めていた関係もあり、遺志を告ぎ、寄付に至ったそうだ。

なお、市民団体の「明日のお城と城下町を考える会」の協力もあって、建築に至ったことも忘れてはならない。



雨降るなかの極楽橋を渡り初め。

雨が影響したのか並んだ人はおよそ30人。

午後3時ジャストに始まった渡り初め。

思い思いに記念写真を撮る人たち。

地元に生まれ育った地域の人たちも初めて体験する渡り初め。

一時のことだからと、雨に濡れても写真に収めていた。



白沢門櫓台。

櫓も復活するには、また高額の寄付を募ることになるだろう。その櫓台の両側に転用石が・・。

これまでまったく気がつかなかった転用石。

仏足なのか、石仏なのか・・。



映像を見てくれた橿考研のYさんが、教えてくれた。

この石造物は「蓮弁」だった。

一部しか露出していないのに、それがすべてかのように全容が見えているYさんに感謝しかない。

角柱と思われるほぞ穴も初見に思わすシャッターをきる。



なお、翌日以降の一般公開については、通行に時間制限を設けるようだ。

なお、柳澤文庫では、今年度の常設展「郡山城図にみる郡山城の変遷」に、極楽橋に関する資料やパネルも展示している。

展示は、令和3年5月9日(日)まで。

月曜、ならびに第4火曜(祝日の場合は開館)、年末年始休館。入館料は一般300円。



この日限りの駐車場に戻ったその場に早咲き桜が咲いていた。

濃い色の桜から河津桜のような気がするのだが・・・。

(R3. 3.12 SB805SH撮影)

柳・郡山八幡神社・小正月の大とんど祭

2022年12月13日 07時32分10秒 | 大和郡山市へ
例年、15日は午前8時から午後4時までが大とんど祭。

火点けは朝の8時だが、古い御札やお守り、正月飾りなど、お焚きあげに収める人たちは、以降も断続的に来られる。

午後4時に閉めるまではずっと神職が就かれて行われるお焚きあげ。

意外と知られていない大和郡山・城下町内に行われている大とんど祭である。

(R3. 1. 9 SB805SH撮影)

野垣内町・春日若宮社の砂の道

2022年12月01日 07時48分01秒 | 大和郡山市へ
垣内町・春日若宮社の砂の道を拝見した日は、平成20年12月31日

ちょっと前までは、隣町の観音寺町にいた。

当時、大和郡山観光ボランテイアガイドクラブの副会長をされていた故Hさんが、教えてくれた観音寺町に野垣内町の砂の道つくり。

午後3時半ころから撒きはじめた、という観音寺町のトヤ。

神社周り。神社に近い民家にかかるところまでしていた砂の道つくり。

終ろうとした時間は午後4時。

この時間がギリギリだった。

道路隔てた南側になる野垣内町。

予め神社の所在地を確認していたからすぐわかる。

とはいっても、町内一般道に車が停められる空間があるだろうか。

停める場が、見つからなければ空き地探し。

時間が喰うばかりになる恐れもある。

たぶんここにしか停められないだろう、と想定していた場が空いていた。

駐車し、慌てて飛び出したそこが野垣内町・春日若宮社。

鳥居前の一般道がある。

そこに見た白い線。

アスファルトの道に描かれた白い線が神さんを迎える砂の道。

到着した時間は午後4時10分。

観音寺町からすぐ近く。

目と鼻の先なのに出発から到着まで10分も要した。

初めて見る野垣内の砂の道。

その道はすでに崩れていた。

アスファルト道は、町内の道。

歩く人もあれば、自転車乗りも。

自動車も通る町内の道に、自転車や車のタイヤ痕があった。

その砂の道を撒くために置いていた砂盛りは、鳥居横にあった。

いちいち動いては砂盛りの砂を箕に入れる。

そして、一直線の砂の道に仕上げていく。

ここ野垣内町も、トヤさんがする作業。

その姿を確認できた年は、一年後の平成21年12月31日

観音寺町のトヤさんが作業する時間とほぼ同じだったから前年より1時間。

もっと早い時間帯の午後2時半に到着したが、未だ来られていなかった。

先に撮っていたのが、県内でも珍しい伊勢海老を飾ったしめ縄かけ。

見惚れて撮っているうちにやってきた一年任期のトヤさん。

宮守の役にも就くトヤ。

砂撒きは、そのトヤさん都合によって異なることを知った。

その日の都合で作業する時間を決めるらしい。

観音寺町から野垣内町へ移動し、今年の砂の道を拝見する。

両町ともコロナ禍であっても神さんが通るとされる砂の道つくりは欠かせない。

初詣に来られる氏子たち。

密にならない程度の初詣に分散詣で。

おそらくそうされたと思われる。

この日は正月三日。

訪問した時間帯は、午後4時15分。

暮れる時間は早い。

遅き参拝者が来られる前に記録しておきたい砂の道。

以前に見たまま、そのままの状態では、と思えるほど調えた一直線に仕立てた砂の道。

真ん中辺りに左繋ぎの砂を撒いている。

奥の方には左右に砂撒きが見られる。



数歩進んだ鳥居前。

中心にここもまた一直線に伸びた砂の道。

神さんの導きでもある砂の道に沿って、社殿参拝に向かう。

一方、奥に見えた三叉路を示す砂の道がある。

北側は民家との間に撒いた砂の道。



この先、ずっと繋げているわけでなく、途中まで。

かつて、アスファルト舗装されていなかった地道のころは、観音寺町の砂の道同様に、各民家に繋いでいた。

手前に撒いた砂の道は短い。

できる限り短く撒いた砂の道。

自転車、歩きに滑らいないよう限定的に捲いている。

正面に戻って、正月三日の初詣。



割り拝殿前に設えた門松。

砂盛りしたところに立てた松・竹・梅を据えた門松。

拝殿角に掲げた提灯。

なんと「献酒」の文字がある。

正月詣りに掲げられた「献酒」提灯。

県内各地、数々の神社を巡ってきたが、「献酒」提灯を見たのは初めてだ。

献酒の行為は、参拝者の気持ちが込められている。

特に正月とか祭りの場合は、特に多くなる。

正月参拝に、ずらーっと並べた神社も多いが、提灯に「献酒」の文字が墨書されている事例は、見たことがなかっただけに、当地の氏子の気持ちに感動する。

割り拝殿に入ろうとした、そのときに気づいた伊勢海老の姿。

どうみても茹でではなく、生の伊勢海老。



長い髭がある伊勢海老。

平成20年21年に拝見した伊勢海老は茹でた海老。

朱色に染まった茹での伊勢海老。

毎年そうだと思っていたが、実は違っていたのだ。

どちらが正しいのか、一年当番のトヤさんに尋ねるしかないが・・・

しめ縄に括りつけた生伊勢海老。

実は、県内で初めてみた生の伊勢海老は、大和郡山市内の田中町である。

甲斐神社の正月しめ縄にあった。

長い髭をもつ伊勢海老は、長寿を願う形。

正月三日間も掲げて無事な姿を拝見。

カラス、ネコなどの鳥獣の餌にならなくて良かったよな。

しめ縄の左は、ウラジロを敷き、ニコニコ仲睦まじくの串柿にダイダイ。

右にぶら下げているのは、おそらく固炭であろう。

割り拝殿を進んで左右2社にも参拝する。



左の社殿は住吉神社に多賀神社。

右手は伏見稲荷神社に八要姫稲荷。



両社殿にも砂の道を繋げている。

そうこうしていると、家族連れの参拝者が初詣に来られた。

男性は、野垣内の神社氏子。

役に就いたこともある十一人衆経験者。

子どものころは、境内が遊び場だった、という男性。



3人の娘さんも揃ったところで初詣されたそうだ。

宮守の役に就くのは、北鍛冶町、中鍛冶町、南鍛冶町の自治会。

年番の役に就く十一人衆たち。

トヤとともに執行される年中行事に境内の清掃も奉仕する。

参拝された家族連れを見届けて拝見した正月御供。

以前も見たような気がするが、今年の記録に撮っておいた。



これもまたネコやカラスにもっていかれそうになるからラップをかけていた。

開けるわけにはいかず、内部表面に露溜まり。

赤い人参に里芋だろう。

どことなくわかる餅から、雑煮の御供と判断した。

(R3. 1. 3 SB805SH撮影)