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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

大宇陀平尾のナワシロジマイ

2016年02月03日 09時06分08秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
昨年の11月にアズキオトシを取材させてもらった宇陀市大宇陀平尾の住民。

4月半ばの休日に苗代を作ると聞いていたので再訪した。

到着した時間帯は苗代作業の進行中だった。

苗代は穴あきシートを敷き詰めている。

育苗機で育てた苗箱を一輪車に積んで運ぶ当主。



受け取った婦人らは苗箱を下して整然と並べていく。

夫婦二人だけで作業するには時間がかかる。

盆地平坦に住んでいる娘夫婦を呼んで手伝ってもらう。



苗箱は何度も何度も運んで並べた。



苗が黄色いのは育苗機での日焼け。

お天とさんにあたって、幾日か時間も経てば落ち着く。

昔の苗代田は籾を直播きしていたという住民。

「スリヌカ」をした「焼きヌカ」を撒いて育苗していたそうだ。

「スリヌカ」とは聞きなれない言葉。

「ウスヒキする」ことを「スリヌカ」と呼んでいたようである。

直播きを終えたら「アブカガミ」を被せた。

育苗した苗は田植えをする。

苗さんを水で洗って田に放り投げるのは父親の仕事。

放り込まれた苗を手にして田に植える作業は母親の仕事。

6本ずつ手にした六条植えだった。

宵のうちから準備していた苗は苗籠に入れて運ぶのも男の仕事だったという。



前日までに準備していたすべての苗箱を並べ終えたらジョウロで水を撒く。

民家は苗代田の一段上。



奥の杉林がえー景観だったので撮っておいた。

苗代作りが終われば家の儀式が始まる。

儀式といっても形だけで手を合わせて拝むことはない。

用意された稲藁の束は三つ。

先を尖がらしたススンボの竹は十数本。



「これって一体なんですのん」と尋ねれば「マクラ」と「カキ」だという。

かつて「マクラ」は麦藁で作っていた。

「カキ」を充てる漢字は「垣」のようだからおのずと形が見えてきそうだ。

「マクラ」は「ミズグチ(水口)」の入口と出口に置く。

両方の役目があることから「ミズグチ(水口)」は、そのときの水が流れる状態から「イリグチ」若しくは「デグチ」の名もある。

「マクラを立てといてや」と母親が云えば、いつも父親が立てていたという。



「ミズグチ(水口)」の入口と出口に「マクラ」を置いて、×印のような恰好で「カキ」を仕立てる。



三つめの「マクラ」は苗代田にいちばん見やすいところに置く。



ちなみに「ミズグチ(水口)」の入口に注がれる谷水は「カイショ」と呼ぶ水の溜め場から水を引く。



「カイショ」は谷から水を引き込む水路の水が一挙に流れない構造の「カエシ」のことだと思った。

奥さんは家の神棚に奉っていた「ナエ」を取り出す。



「ナエ」は1月18日に行われる平尾の御田植祭(オンダ)で初乙女(しょとめ)(植女とも)が持っていたオンダのナエだ。

カヤが2本。

「スベ」と呼ばれる「穂」を付けた数本のカヤ枝もある。

シキビは3枚、5枚、7枚の葉がある3本組。

それには「カミ」と呼ばれる紙片がある。

これを「ゴヘイ」と呼ぶが本来の名は「ハナ」だそうだ。

これらを12本1組にして半紙でくるんで、紙縒(こより)で結ぶ。



庭に咲いているお花を摘み取って苗代田に降りた。

参考までに初乙女が手にしている「ナエ」はこれだ

本当はご主人がされる「ナエ」立て。

この年は奥さんがすることになった。

この日はきついピーカン照りだった。



映像は夏日のような色褪せた写真になってしまった。

苗代田に白いホロを被せて日焼けを防ぐ。



風でめくられんようにしっかり押さえて重たい木で抑える。

「ナエ」は2本。

ひとつは孫さんがつとめた初乙女(しょとめ)ときに授かったもの。



黄花のスイセンや赤・白のチューリップにスノードロップなど庭に咲いていたイロバナで添えた。

夫妻の平日は一般的な仕事人。

休みのときしか苗代作りができない。

240枚のキヌヒカリ・苗箱は3週間に分けて苗代田に並べている。

本来ならすべての苗代作りを終えてから「ナエ」を立てる。

それゆえ、これを「ナワシロジマイ」若しくは「ナワシロマキ」と呼んでいる。

以前は籾種を落として苗箱を作っていたので「ナワシロマキ」と呼んでいた。

今回の取材で判ったことは、苗代作った最後に「マクラ」立てをされ豊作の祈りと考えられるので「ナワシロジマイ」の表現が相応しい。

が、育苗する苗代から苗箱を運んで田植えがある。

そのときになってようやく苗代は役目を終えて解放される。

そういう意味もあるから「ナワシロジマイ」の呼び名になったのだろう。

キリのえーとこで昼食を摂る。

食事の場で提供される話題はいろんな方向に飛び交う多彩な内容だった。

まとまりがつかないよもやま話は脈略もなく思い出しもあってあちこちに飛んだ。

まずは村の神社行事。

3月は積んだヨモギの若葉でヒシモチを作っていた。

5月はチマキを供える。

これらを作って平尾の水分神社に供えるのは大当(大頭とも)の役目。

小当(小頭)が刈った3本括り、2本括りのメガヤを六社に供えた。

「ヨゴミ」はヨモギの訛り言葉。

奈良県内ではよく耳にする「ヨゴミ」である。

そのヨゴミができたならヒシノモチ(ヒシモチ)を作る。

大きな枠に入れてこしらえたヒシノモチは4社に供える。

コミヤ(小宮)さんも含めた4社であるが、コミヤに供えるヒシノモチは他より小さいモチだった。

ヒシノモチはトーヤの分も作った。

カヤが出だしたころに三つずつのヒシノモチを3社それぞれに供える。

今までは七つずつだった。

3社に供えるから21個も揃えたそうだ。

8月31日の夜は八朔のお籠り。

オトヤ(大当)にコトヤ(小当)決めのフリアゲをしている。

夜中に泊まる八朔の籠り。

目が覚めた籠りの場から学校に出かけたそうだ。

今では泊まることもない籠り。

当時は家の布団を持ち込んでいた。

マツリの際してオトヤとコトヤは宇陀川に出かけた。

川にある小石を拾って宮さんに供えた。

小石は一個ずつ。朝早くに起こされて川に出かけた。

小石を拾って急ぎ足で戻った神さんごとの習わしは子供も一緒に籠っていたのである。

小石拾いで思いだされた「オシライシ」。

吉野地方では亡くなった人が先祖帰りをすると云って川に入った。

流れる川にある綺麗な石を拾って参ったら人が生き返ったと話す。

「オシライシ」と呼ぶ石は「白石」だったと話す。

人づてに聞いた奇譚だと思うが、興味ある民俗の分野でもある。

9月第3日曜日は神送り。

その行事を行ってから「ゼンショサン」に登って参る。

登った場は綺麗に清掃する。

そこに参って御供を供えるのはオトヤとコトヤだ。

「ゼンショサン」は同家の管理下にある山に鎮座する。

ホラ貝を吹けば村の人が集まってくる。

区長の引継ぎ事項にあるようだ。

もう一つの神さんごとがある。

「ハツオジサン(八王子かも)」の「ゴンゲンサン(権現であろう)」である。

7軒の垣内が祭りをしているという。

5月は牛に付けたマンガンを引っ張ってマンガ掻き。

6月は田植え。

平尾の田植えが終われば、国中平坦に雇われて田植えをしに行った。

雇われたのは村の女性だった。

国中平坦の住民から牛を貸してくれと云われたが親父は断った。

平坦地は大和郡山や天理に田原本町だった。

頼まれた牛遣いは朝に出発して昼頃に着いた。

榛原には牛を売買する処があった。

「市」にかけるときはちゃんちゃんと歩ける牛がいた。

ちっちゃい牛は親牛も一緒に連れて散歩するような感じで歩かせた。

ホンヤ(本屋)の右を入った処に牛小屋があった。

家族同然に暮らしのなかに溶け込んだ牛小屋にいたのが農耕する飼牛だった。

小学校に行くまでの時代は親の手伝いにマンガ掻きをしていた。

田んぼの田起こしにカラスキも曳かせた。

端っこまで行ってくるりと回すときの「牛は動きまへんねん」とご主人が話す。

ちっちゃいときやった。

そのときは親父に助けを求めて呼んだ。

学校から帰ってきたとき。酒を水で薄めた。

その水で牛の背中を刷毛で掃いて綺麗にした。

酒を水で薄めるのは小学3年生のときに教わった。

昭和14年生まれのご主人。

高校生のころというから今から57年前の昭和33年。

田を耕す牛がいたのはそのころだ。

漬物を桶から出した。

漬物を切って皿に盛った。

テーブルに置くまでの一連を「ハヤス」という。

煮炊きしたコーヤド-フも皿に盛るときを「ハヤス」という。

親から「はやしとくれさ」と云われた子供はお皿をお膳に移していた。

そのような話しを聞きながら夫婦もてなしの料理をいただく。

ご飯はキヌヒカリ。

アキタコマチよりもキヌヒカリが美味しいという。



豆腐とワカメを入れた味噌汁も美味しいが、小皿に盛った大和マナの辛子味噌和えが美味すぎる。

一品はウコン漬けのコウコ。



これらは奥さんの手料理だ。

一方、パックに詰めた料理は手作り弁当屋さんのお弁当。



エビやイカのフライにサツマイモ天ぷら、焼き塩鮭、ニヌキ卵、茹でエビ、シイタケ、ゴボウ、大和マナの辛子味噌和えなどだ。

再び始まった作業はモミオトシ。

平日は仕事をしているのでどうしても休日にせざるを得ない苗代作り。

苗箱の土入れは予めしておいた。

籾は消毒剤に一昼夜浸けておく。

籾の品種は「アキツホ」だ。

培養土と籾を入れる口はそれぞれ二つ。



コンベアに乗せて機械を動かす。

かつては手回しだった機械。

今では電動で動く機械。

型番のSR122KWJからクボタ社製のニューきんぱだった。

この機械、モミオトシと同時に消毒剤を注いでいる。

籾が毀れて培養土で覆う。



出てきた苗箱は育苗機の棚に納めていく。

これを繰り返すこと86枚。

最大108枚を育苗する期間は5日間。



設定温度を30度にしたそうだ。

翌週の休日は3度目の苗代作りをされる240枚の苗箱は3回区分け。

すべてを終えるには3週間もかかる。

この日の作業を終えたのは午後3時。

朝から始めてやっと一息つくおやつの時間。



話題は方言に移った。

大和言葉と思われる方言があれやこれや出る。

「チョナワ」は「ミズナワ」と呼ぶ。

一丁の長さの板を「アユミ」と呼んでいる。

「オゴロ」は「モグラ」だ。

「アワイサ」、「ハンダイ」、「ハンザイコ」・・。

どれもこれも同じ意味。

「アワイサ」は「ヒャワイサ」ともいうちょっとした「間(空間)」を意味する。

例えば家と家の間。雨がかからない程度の間は傘も要らない隙間。

そこを「ヒャワイサ通り」という。

後日テレビで紹介していた三重テレビ放送の「ええじゃないか」。

江戸川乱歩生誕地の名張市でも同じように人一人が通れるような狭い道を「ヒャワイサ」と紹介していた。

平尾住民の「ヒャワイサ」事例でもちょっとした間。

「ヒャワイサにいれといて」とか「花火がヒャワイサに見える」とかの用語に使われるらしい。

お葬式に「テンガイモチ」があった。

「テンガイ」の文字は「天蓋」であろうが、どのような形であったか聞きそびれた。

30年前にこの地でツキノワグマが出没した。

出没した「モチヤマ」へ行く道は通行止めになったが熊を探しに行った。

その件は新聞で紹介された。

「ヨンナイ」でと子供に云っていたらしい。

カキの実を採る棒は「ハサンバリ」と呼ぶ。

ワラビの葉。大きく育ったワラビを「ホトロ」と呼ぶ。

「ホトロ」がある処は翌年もワラビが芽だしをする。

吉野町では枯れた「ホトロ」を水に浸けて炊く。

それに収穫した柿を浸けてシブ(渋)を抜く。

平尾では「カラシヤ」と呼んでいた「カラウス」。

米を搗くことから「コメツク」とも呼んでいた。

これを娘さんが嫁いだ結崎では「コメフム」と呼ぶ。

「フム」は足で踏む。

「ツク」は米を石臼で搗く。

カラウスの状態を見る角度が違えば呼び名も変わるということだ。

「ナガタン」は菜切り包丁。

「ナバ」は「テバ」・・・とか、ツメを立てて傷が入ったことで消えたツルシガキなど尽きない話題提供は他にもいろいろあったが、ここでは文字数が多くなることから省いておく。

(H27. 4.18 EOS40D撮影)

平尾のアズキオトシ

2015年07月09日 08時22分57秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
宇陀市大宇陀平尾の民家に吊るしガキを干していた。

左の品種はツルノコで右の大きいほうがフジカキだ。

フジカキは不作のときは「ウラクル」という。

充てる漢字は「裏がくる」だ。

カラス除けにバルーンを吊るしたのは9歳のお孫さん。

平成23年1月18日に行われた「平尾のオンダ」に初乙女役を演じたお孫さんだった。

そう話す昭和16生まれの婦人は干していた小豆のガラを取り除く作業に入った。

筵に撒いて天日干しをしておいた。

カラカラに乾いた日であれば豆ガラがパチっと弾ける音が聞こえたそうだ。



棒で叩いたら傷がつくと云って手で揉む。



かつては足袋を履いて足踏みでガラを落としたこともある。

揉んでほぐせば小豆の実が飛び出る。



ガラがいっぱいになれば粗目の箕に入れて取り除く。

筵に落ちた小豆を手いっぱい掬ってさらに揉む。



金属性のトーシの上で揉む。

小さくなったクズはふるいにかけたトーシの編みの目を通り抜けて落ちる。



あらかたのアズキオトシをした小豆はもう一つの筵に移す。



今度は網の目がもっと細かい木製のトーシ。



再びアズキオトシの作業を続ける。

ふるいにかけて細かなガラを落とす。



これを何度も繰り返す。

何度も繰り返しても細かいガラは残っている。

実とガラの分離作業は手間がかかる。

倉庫にあった唐箕を使いたいと伝えた婦人。



取材に訪れた私たちが軒下に運んだ唐箕は今でも現役の大正二年製。

岡山県で製作されたようだ。



大麦、裸麦、小麦用に切換えレバーが付いている。

風の強弱も切り替えられる構造になっている。

ガラを落とした小豆を広口の漏斗に投入する。



クランクハンドルをぐるぐる廻せば風が起こる。

と、同時に赤い小豆の実は樋口からコロコロ出てくる。



受ける箕には所有者を示す屋号がある。

吹き飛んだガラは勢いがついて受け箕をすり抜けた。



この日にされたアズキオトシの品種は宇陀大納言小豆。

大豆は7月10日までにタネマキをする。

夏から秋にかけて成長する。

実成はそれからだ。

11月を迎えるころに大豆ができる。

田で干すことはせずに乾いたら収穫する。

朝露に濡れていないものを畑で莢を取っておく。

青い莢はダイダイ色になるから採らずに赤い莢を収穫する。

箕に落とした量は多く、何杯も取って作業を繰り返して軒先で筵を敷いて干していたという。

雨天の日は干さずに天気のいい日が続く5日間だという。

アズキオトシを終えて自宅に招き入れられて、当家で行われてきたさまざまな話しを聞く。

吊るしガキにバルーンを添えていた家屋は近年に建てられた。

同家に始めて訪れたのは平成15年8月13日だった。

毎年1月18日に平尾水分神社で行われる平尾のオンダを撮らせてもらってお礼に写真をさしあげたときのことである。

当時は家屋でなく二階建ての大きな門屋であった。

母屋の奥に家屋がある。

ここは「ベッタシキ」と呼ぶ。

別座敷を訛って「ベッタシキ」である。

「ずる」は「担ぐ」とか「担いでいく」というようだ。

「ずって」は片方を持っていくことだという。

いずれも大和言葉であろう。

昭和43年生まれの子供がいる。

小学二年生のときだったと思い出される杉材で立てたコイノボリの竿。

出里で伐り倒した杉材は丸太であるが葉っぱは残していた。

初めの年はそうするが、2年目の年は葉っぱを伐りとって矢車に取り換える。

息子が小学校終えるまでそうしていた。

ノボリは吹き流しもあればマゴイにヒゴイもあった。

染め色は青色だったコイノボリ。



太い支柱は今でも記念に軒屋根へ吊るしている。

家の前にある田の名は「マエタ」。

九反あったそうだ。

井戸水は毎日の暮らしに汲んでいた。

水を汲んで担いで運ぶ。

そして「シシナゲ」に入れた。

「コエタゴ」は「ノツボ」とも呼んでいた。

「コエ」は「イナウ」と呼んで担いで運んだ。

これらも大和言葉である。

「モチゴメ」は二度蒸しする。

「カイアワセ」という混ぜ方で作る「クリオコワ」。

「コシアン」、「ツブアン」の大福餅。

「セキハン」と云う場合もあるが「オコワ」とも云っている「セキハン」は「モチゴメ」で作る。



そんな話をしてくれた婦人は山菜オコワを小皿に盛ってくれた。

細かく刻んだニンジンやタケノコにシイタケを入れて蒸して作った。

シイタケは下味をつけているのでたまらなく美味しい。

食欲をそそる山菜オコワはおかわりしてしまうほど美味しかった。

山菜オコワで思い出された婦人。

「ムシ」作りと云って宮さんのトーヤを務めたときは「オコワ」やカマスを乗せて供えていたと話す。

「シブガキ」は35度の焼酎で浸ける。

お椀に入れて「ジクはネジネジして外したカキのヘタをちゃぽんと浸けた。

今は封をしたナイロン袋に入れて浸けている。

11月の亥の日にイノコノモチを作っていた。

サトイモのお頭をサイノメに切ってご飯に入れた炊いた。

サトイモは潰してオニギリにした。

砂糖と塩で味付けした小豆の餡は「コシアン」。

生姜汁を浸けて焼いたら香ばしかった。

美味しいので近所に配った。

「大和マナ」の呼び名がある大和の野菜。

葉っぱを塩漬けした漬物を「オクモジ」と呼んでいる。

「オクモジゴハン」も作って食べたが少し臭かったようだ。

1月14日はトンド。

トンドの火を持ち帰って翌朝にアズキガユを炊いて作った。

アズキガユは「オカイサン」とも呼んでいた。

トンドの灰は集めて田んぼに撒いた。

この日だったか思い出せないが、クリかナシの木にナタをあてる格好をした。

そのときに「ナルカナランカ」と声をかける。

おかあさんがそれをやっていておじいさんがナタをあてていた。

息子や娘にも「ナルカナランカ」を言えといってやらせた。

そうしたらおじいさんが「ナリマス ナリマス」と云っていた。

孫にもさせていた時期はとても寒かったことを覚えているという。

大和言葉はもう一つ。

蛇のことをここらでは「ハビ」という。

「ハミ」と呼ぶ地域もあるが平尾では「ハビ」である。

話題はてんこ盛り。



ゆっくりしてやと云われてだされた名品は宇陀の「キミゴロモ」。

まるで玉子焼きのような味が美味しい。

(H26.11. 8 EOS40D撮影)

野依涅槃の団子搗き

2012年04月28日 08時41分39秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
宇陀市大宇陀の野依にはかつて神宮寺があったそうだ。

それは仏母寺(ぶつもじ)と呼ばれていた。

廃仏毀釈のころであるかどうか判らないが現在は白山神社の社務所内。

涅槃の掛け図を掲げて涅槃会を営まれる。

そこに供えられるのが涅槃の団子。

小さな団子をいっぱい詰めた桶を奉る。

当番(小頭)の人と両隣の人たちや総代らが手伝って作ったネハンダンゴ。

ウルチ米が4斗でモチ米は8升。

米を洗って乾かすのに一週間もかかった。

カラウスで製粉したダンゴ粉はお湯を入れて大きなダンゴにする。

それを蒸す。

手でちぎってギョーザのような形にする。

さらに棒状にして伸ばす。

それを小さく包丁で切っていく。

両手で丸めてできあがったネハンのダンゴはシート一面に広げておく。

朝から支度して昼の休憩を挟んで作ったダンゴだ。

桶などを洗って干して一段落した。



ほっとした時間帯である。

並べられたダンゴの数はいったいいくつ。

ざっくり数えて100個が41群。

単純計算の結果では4100個にもおよぶ。

明日に行われる涅槃会を終えて社務所でダンゴ撒き。

手に入れようと、手に手が伸びて騒然とした雰囲気になるそうだ。

一日経てばネハンダンゴは堅くなる。

家で食べるときにはホウラクでゴロゴロしながら焼いていく。

サトウジョウユを浸けて食べる人もあれば、ゼンザイや味噌汁に入れて食べる人も。

また、一旦は蒸してキナコダンゴにする人もあるようだ。

ネハンダンゴは食べることで無病息災や魔除けの御利益があるとされる。

(H24. 3.14 EOS40D撮影)

大宇陀松山上新のセンギョ

2012年03月09日 08時07分56秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
大宇陀の旧松山街道の大字は南から万六(まんろく)、拾生(ひろう)、出新(いでしん)、上新(かみしん)、中新、上町、上中、上本、上茶と呼ぶ上町通り。

その街道から西へ行けばもう一つの街道がある。

南から下出口、下中、下本、下茶、西山大字の下町通りだ。

かつては織田家四代が治めた宇陀松山藩の城下町として栄えた。

現在も江戸時代の面影を残す歴史的な街並みであり、伊勢本街道に通じる交通の要所、宿場町でもあった。

その町並みは重要性から平成18年に「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。

城下町として発展しただけに商人の町屋が建ち並ぶのだ。

薬屋、油屋、醤油屋、宇陀紙屋、造り酒屋、料理旅館に吉野葛本舗で名高い森野旧薬園や宮内庁御用達の老舗黒川本家など商家の町はうだつ(卯建)に虫籠(むしこ)窓や格子窓が目にはいる。

その数、200軒もあるそうだ。

時代を経て商売替えされた家も見られる町屋の商人たちはそれぞれの大字でセンギョをしていたという。

カンセンギョは寒施行と呼ばれる民間信仰の風習で、寒の入りになれば山に住む動物たちに施しをする主に稲荷講の行事である。

が、松山地区では講の存在はない。

商売の神様であるお稲荷さんを祀る商人たち。

何軒かが集まって町の周辺にあるお稲荷さんにセンギョをしているという。

商いをする家では屋内に社を祀る処は少なくないと中新大字のT婦人は話す。

その中新ではおにぎりにしたアズキゴハンにアブラアゲやお頭付きの魚(ジャコ魚)を供えに行っていたという。

大寒に入ってからだ。

2月の立春までに日を決めて参っていたというセンギョは6年ほど前に止めたそうだ。

今でもセンギョをしている大字があるとTさんから教えていただき上新大字にやってきた。

訪ねた家はU道具屋店。

婦人が話すには今日だという。

「あんたはラッキーな人やで、みんなに声かけたるわ」と笑って応える。

そろそろ参る人たちが集まってくるという。

中新、上新に辿りつく直前は出新に立ち寄っていた。

真新しい愛宕神社に提灯が取り付けられている。

祭典があるのだろうと清掃されていた老婦人にセンギョのことを尋ねた。

「カンセンギョならちょうろうじという寺やと思う。檀家さんと思われる人がしてはるようやけど、もう終わったんちゃうか」と答える。

ちょうろうじと聞こえたその寺は長隆寺(ちょうろうじ)であって道具屋店のまん前だったのだ。

急なことだが取材許可を得て商人たちが行っているセンギョに同行することになった。

上新大字で行われていた商人たちのセンギョは一旦廃れたそうだが、声を掛け合って復活しようと同志が集まった。

それは数年前のこと。

松山地区の民俗文化を継承する町内会(親睦会)の催しとして20年ほど前に再出発されたのだ。



これまでは暗くなるのを待って出発していた。

すべての個所にお供えするには2時間もかかる。

終える時間も考慮して今年は出発時間を1時間早められた。

センギョをするお供えは中新で聞いていたアブラゲオニギリ、三角形のアブラゲ、雑魚、お神酒と同じであった。

お供えをする個所は12個所もある。

お供えを持ってお参りをするのは男性たちだけだ。

町内会の婦人たちはお供えをするアブラゲオニギリを作る役目。

120個ものおにぎりを作られたのだ。

それは桶に入れて風呂敷に包む。

肩から担いでいく男性にアブラゲ、雑魚、お神酒など分担してセンギョをしにいく。



はじめに供えた個所は長隆寺の墓地外れの雑木下。

狐が出そうな処にお供えを置いてお神酒を注ぐ。

Uターンして向った先は同寺にある稲荷社。

そこでも同じようにお供えをしていく。



次に向ったのは同寺の北側に鎮座する神楽岡神社だ。

階段を登り鳥居を潜る。

そして境内の奥の壁際の地に置かれたお供え。

この頃は徐々に日が落ちていく。

この季節の夕暮れ時の時間は早い。

松山街道に下りてきて一列になった。

「センギョヤ センギョヤ オイナリサンノセンギョヤ」と掛け声を掛けながら地区を巡り歩く。

森野葛本舗・旧薬園の門を潜って葛作りの作業場を通り抜ける。



自生する葛根を掘り出して寒の水で何度も水洗いして沈下精製する沈殿槽である。

その作業は「吉野晒し」と呼んでいる。

旧薬園は森野家の裏山田にある。

急な坂道を登りつめた処だ。

10代目の森野藤助が享保年間に自宅の裏山に開いた「小石川植物園」と並ぶ日本最古の薬草園は十年ぶりにひょんなことから採訪となったわけだ。

当時は家族で訪れた。

その際にお話をしてくださった婦人。

熱い葛湯をいただいた。

懐かしい景観は今も変わりないが既に陽は落ちて真っ暗である。

その暗闇に浮かび上がる碑の前に供えられたセンギョの施し。

ここからは山道に入る。



急な道を下ったり登ったりする。

先日に降った雨が山道歩きを阻む。

ズック靴では何度も滑りそうになる。

懐中電灯やヘッドライトで足元を照らす光りがなければ道を踏み外す。

親と一緒について来た子供は難なく歩いていく。

我が家の山道は歩き慣れているのだろう。

後方をついていく私の足元を照らしてくれる。

真っ暗な山道を歩くとは予想もしていなかったことに感謝申しあげる次第だ。

そうして着いたのが長山(ながやま)の頂上にある稲荷社だ。

朱塗りの鳥居の向こうに社がある。

お供えをする間にひと休憩するがほんの束の間。

再び山道を歩いていく。

ここからは下りである。

ヌルヌルの山道は滑るばかりだ。

町内会の人たちは長靴を履いているので山道もなんのそら、である。

始めて体験する森野親子は実に逞しい。

山を降りてくれば国道166号線笹峠辺りにでる。

ここからは西に向かって国道を歩く。

「センギョヤ センギョヤ オイナリサンノセンギョヤ」の掛け声は往来する車に消えていく。

再び松山街道に出て出新大字・万六大字からは東の方角にある山に向かう。

石の階段を登りつめた処に稲荷社(佐多神社朝日大神であろう)があった。

既に供えられている三つのお供えが目に入った。

「万六大字か出新大字の人らで、昨日か今日に参ったんとちゃうか」と言う。

それらのお供えに並べて上新大字のセンギョを供えた。



その傍らにある小さな祠にもセンギョをされた。

そこにも先着のお供えがある。

雨にうたれたのであろうか半紙は崩れている。

前日の雨降りでそうなったとすればお供えは雨降りの前だ。

その地は地車大明神の名が刻まれている石にも供えられていたが上新大字は供えない。

社から降りて三度目の街道に戻る。

それを越えて新道を跨ぎる。

大宇陀の道の駅の南側を抜けて西の大願寺裏に向かう。



そこでは何らかの社と傍らにあるお堂の前にも供える。

これで9か所をセンギョしてきたのだ。

「あとはもう少しだ」と言って再び国道166号線に下る。

そこから数百mほど北に向かって歩けば民家の上の山となる。

またもや山道だが距離はそれほどでもない。



登った処にあるのは稲荷大明神。

かつては武家屋敷があったという。

再び国道166号線を跨って万葉公園外れにある社地に向かった。

阿紀神社が一時遷座される旧社地だという。

ここには「パワースポット 高天原」を表示する看板があがっている。

現実に戻ったかのように思える看板に興ざめする現代的な標識は古来の社地を標べする。



そのことと関係はなく上新大字のセンギョは社地に厳かに供えられる。

下り路にあった小さな祠にもセンギョをされて一同は帰路についた。

このようにしてセンギョでお参りした社はすべて高台にある。

その数12か所。

松山地区を見守っているかのように地区外れで佇んでいる。

中新大字で聞いた箇所より多く倍以上もあったのだ。

万歩計が示した歩数は1万歩。

距離にすれば6kmぐらいだと思われるセンギョの道程だった。

こうしてセンギョを終えた一行は万葉公園内にある「あきの茶屋」にあがった。

この夜は慰労会。



会食の一つにきつねうどんが配膳される。

大きなイナリアゲにうどんが光る。

センギョは狐さんの施し。

町内会の人たちもセンギョにあやかって美味しいうどんで身体を温めた。

その松山地区には街道沿いに愛宕神社が数か所に亘って祀られている。

最初に見た出新大字では提灯を掲げていた。

慶恩寺の南側であるから下茶大字であろう。

そこも愛宕神社がある。

テーブルを置いてあったので祭典の準備をしていたと思われる。

南に戻って万六(拾生かも)大字にも愛宕神社がある。

ここでは祭典の様子が見られなかったが、上町通りの北南部に祀られた愛宕さんは防火の神さん。

下町通りにも数か所ある。

商家の町屋だけに火を怖れたうだつ(卯建)があるのも頷けるのである松山地区。

重要伝統的建造物群保存地区に選定された城下町を守ってきた。

大和郡山市伊豆七条町に住むY婦人の話によると、先代のおばあさんは大寒入りになればダイコ・サトイモ・アブラゲを入れた煮しめを炊いていた。

アブラゲを細かく切って入れたゴハンを三角オニギリ、三角のアブラゲを神棚や外のお稲荷さんに供えた。

初午のときはコーヤ・カンピョウ・三つ葉・細かくしたカマボコ入れた巻き寿司を作りおかずもこしらえて稲荷さんに供えた。

5本の白い旗を立てていたが亡くなってから止めたと話す。

こうした民間信仰をも寒施行の一例にあげられるであろう。

(H24. 1.22 EOS40D撮影)

野依の田休み

2011年07月13日 06時38分03秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
農家にとっては田植えどきが忙しい。

家族が揃わないとできない仕事だ。

それを終えてほっとする時期は農休みとか田休みといわれている。

そして無事に終えたことを氏神さんにそれを報告するのが毛掛祭とか植付祭と呼ばれている地区の行事になる。

斑鳩の稲葉に住むYさんはその日を「ときより」と呼んでアンツケモチを作って食べたという。

大和郡山の横田に住むSさんはタコとキュウリの酢和えを食べたことを覚えているという。

「さなぶり」のことであったろう。

大宇陀の野依ではその日を「田休み」と呼んで社務所に集まってくる。

農家を営む人が多いようだ。

参拝といえばまずは社務所に納められている観音さんに手を合わす。

一人のご婦人はブルーベリーを混ぜた手作りの大福餅を供えた。

畑で栽培しているブルーベリー農家である。

小さな実だけにそれ採取するには手間がかかる。

実が採れるのは一時だけに年中売れるものにしたいと考案された大福餅。



それは加工品となるから保険所の許可を得なければならない。

試行錯誤されて作った大福餅を保険所で試食してもらったら大好評だったそうだ。

それは毎月一日の日に近くの道の駅で販売されている。

そうして村の行事が始まった。

集まるころに降りだした雨は本降りになりだした。

それで仕方なく白山神社の本殿に向けてローソクを立てた祭壇を廊下に設えた。

神饌はといえば本殿にある。

頭家が無農薬で栽培したダイコンと小松菜だ。

この一年を守っている頭家は始めて家で作ったという。

タネオトシをして栽培してきた神さんへ捧げる作物。

そのご加護もあるのか健康でいられると話す。

二人の頭家の奥さんは朝から境内を清掃されて枯れ葉をとんどで焼いていた。

「朝から降らなかったことが幸いでした」と話す。

さて、神事といえば般若心経を三巻唱えることだ。



長老が前に座りいつものように全員で唱えられた。

本来なら本殿の前に座るのだがこの日は雨だからそうされた。

「ゲッゲッゲッゲッ…」「クワックワックワッ…」の鳴き声は雨を欲しがる雨蛙(アマガエル)。

雨鳴きが聞こえてくる社に向かって田休みの喜びを祈った。

それを終えれば会食に移る。

風呂敷に包んで持ってきた家の料理は重箱もみられる。

以前はほとんどの家がそうであったが買ってきた弁当もあるがそれぞれの家のごっつぉだ。



ビールや酒も持ち込みの会食は村の講中の集まりでもある。

供えられた大福餅も下げられて配られた。

皮にも混ぜたブルーベリーの酸っぱさが餅の甘さと絡って、それはビール飲みにも好評な味。

1個100円で販売されているというから是非購入したいものだ。

(H23. 6.12 EOS40D撮影)

野依五月観音講

2011年06月27日 07時50分22秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
雨が降って昼間の温度からぐっと下がった大宇陀の夜。

かつて仏母寺(ぶつもじ)があったとされる野依の社務所は村の人たちが集まった。

農作業を営む人も多く田植え作業も忙しかったというから今夜の集まりは正月に比べてやや少ない。

本尊の前の祭壇に神饌を供えて村からの御供も置かれた。

ローソクに火を灯して線香をくゆらせた。

導師は村の長老。

木魚を叩いて早めの調子で般若心経1巻を唱えた。

座布団の席には参列者が座り唱和する。

引き続いて西国三十三番の御詠歌を唱えていく。

今度はゆったりしたリズムで鉦打ちだ。

1番の詠歌、2番の詠歌と途切れることなく唱和が続く。

村の田んぼではカエルも合唱している。

途中の休憩もなく50分でそれを終えた。

観音講といえば一般的にはご婦人の集まりが多い。

野依の観音講はその組織の講中でなく村の行事であるだけに男性、女性がまじった形だ。

その混声した唱えはカエルとともに共鳴するかのようだ。

33番を終えれば宇陀西国三十三ケ所 第二十九番 大和国宇陀郡 大念仏衆 野依仏母寺 十一面観世音の御詠歌の「はなくさの よりて たをりて みほとけの ははと てらへと いざや たむけん」と唱えられた。

この宇陀西国三十三ケ所は大宇陀、榛原、菟田野、室生に分布する霊場として始められたようだがその起こりは判っていない。

ただ、江戸時代後期には活発に巡礼が行われていたようで御詠歌集が作られている。

明治時代以降に廃れたようだが、野依では今夜の観音講の営みで唱和されたように村人たちによって継承されてきたのであろう。

もっとも野依で営まれた社務所は仏母寺であった。

本尊の観音仏像を安置する厨子は1月、5月、9月の観音講と際に扉を開かれる。

その厨子の扉には阿弥陀さん、それとも観音さんかと思われる菩薩像が立ち並んでいる。

左の扉だけを目にしたがそれは五人の像だった。



それは空から降りてくるような図柄であることからお練りの25菩薩聖衆来迎(しゅうじゅらいごう)図と思われる。

上部には大きな太鼓と思えるものが。

一人はデンデン太鼓を持ち一人は笛のようなものを持っている。

楽器を奏でながら死者を迎える来迎の姿ではないだろうか。

下部には僧侶の顔が見えるのは弔い法要であるのか、果たして・・・。

右側の扉は確認できなかったがこちらも五人であったろう。

納められている観音さんは十一面の金色色。

厨子のほうが古く、おそらく後年に入れ替わったものと考えられる。

光り輝く仏像は美しくも眩しい。

人々を救済するために観音さまは33体もの姿に変化したという。

その姿であろうか扉に描かれた浮彫図絵。

若干の剥離がみられるものの色落ちも少なく鮮やかで、思わず見惚れてしまうお姿だ。

その作風は古色の風合いを醸し出す。

調べてみなければいけないがおそらく江戸時代後期以前だと思われるが、これもまた果たして・・・。



この夜は満月だった。

夕方に降った雨はやみ雲間から大きな丸い形が現れた。

水が張られて田植えを済ませた田んぼは天上の満月を映し出した。

(H23. 5.17 EOS40D撮影)

野依白山神社御田植祭

2011年06月16日 06時42分54秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
かつては旧暦の5月5日に行われていた野依白山神社の御田植祭。

田植え時期の真っ最中で、神様の田植えとされる当日は作業をしてはならない、牛を使ってもならないとされていた。

それでは不都合だと大正時代の初めごろに新暦で営まれるようになった。

5月5日の節句だけに「節句オンダ」と呼ばれるようになった。

この日は女性の休息日で、田植え前の予祝行事として始まったとされる。

県内で見られるオンダ祭には牛耕の所作が約半数ある。

その牛もなく奉仕者の男たちが神役となって舞や詞章(唄)とともにオンダの所作を行う形式はたいへん珍しい。

御田植祭は神事であるが神職は存在しない。

集まってきた人たちがそれぞれの神役を担って行われるのだ。

翁の能面をつけた男神の大頭(だいとう)、姥の能面をつけた女神の小頭(しょうとう)はともに烏帽子を被り直衣(のうし)姿。

翁は腰に杵と茣蓙(ゴザ)をぶら下げ、手に蛇の目傘を持つ。

履物は高下駄で田主を勤める。

姥は間水桶(けんずいおけ)を背負って田主のおばあさん役を勤める。

田んぼの土を大きく掘り起こす荒鍬(あらくわ)役、水を張った田んぼの土を均す萬鍬(まんぐわ)役、田植えがし易いように田んぼの隅々を仕上げる小鍬(こくわ)役、早苗に見立てたウツギの苗を田んぼに配る苗うち役、田植えを勤める植女(しょとめ)と呼ばれる早乙女は菅笠を持つ。

囃子方は音頭取りの大太鼓打ち1人と大太鼓持ち2人に小太鼓打ちで間水(けんずい)配りの大勢だ。

三人の植女はご婦人の手によって化粧が施され、座敷に座って机にお酒が配膳される。



神事は始めに神酒をいただく。

この所作は「シモケシ」と呼んでいる。

祭りごとを始めるにあたり身を清めるというシンプルな儀式である。

舞の神事は数か所に亘って繰り返し所作される。

初めに植女の舞を社務所で練習をする。



囃子唄は1番に「今年のホトトギスは何をもってきた 枡と枡かけと俵もってきた」、「ソーヤノ ソーヤノ」と大太鼓、小太鼓の音とともに囃す。

2番は「西の国の雨降り舟は何をもってきた 枡と枡かけと俵もってきた」、「ソーヤノ ソーヤノ」と囃す。

3番に「白山権化の舞も」、「ソーヤノ ソーヤノ」と囃すなか左に舞回る。

4番が「やよの舞も」、「ソーヤノ ソーヤノ」と囃すなか右に舞回る。



次に社務所前で、境内中央の大杉前、境内西の角、境内の鳥居前と続く。

次は場所を本殿の前に移す。



足元を見ればなんびと(人)も素足だ。

神役の人たちはこれまでの所作を裸足で演じていたのだ。

これはすべてを終えるまでそうしている。



野依のさまざまなマツリの際に本殿に上がる。

そのときも裸足になる。

神さんへの敬意を表するといことであろうか。

そこでは植女の舞のあとに大頭が登場する。

「田主どんの申すには 八百世の中 米まで良いようにようござった」と囃子とともに左足から一歩いでて傘を広げる。

一歩引いて傘をすぼめる。



次に荒鍬が登場して「荒鍬はんの申すには 八百世の中 米まで良いようにようござった」と囃子とともに掘り起こす所作をする。

次は萬鍬の登場。

「萬鍬かきさんの申すには 八百世の中 米まで良いようにようござった」と囃子とともに土を均す所作をする。

さらに小鍬も登場して「小鍬さんの申すには 八百世の中 米まで良いようにようござった」と囃子とともに仕上げの所作をする。

そして苗籠を担いだ苗うちが登場し苗に見立てたウツギの小枝を蒔いていく。

再び登場した植女たち。

今度は一人ずつ登場する。

囃子は「植女はんの申すには 八百世の中 米まで良いようにようござった」である。

このように詞章はいずれも演者を主役に米作の豊作を願う祈りが込められている。

一連の所作を終えれば石積階段を下りて、再び境内の鳥居前に場を移した。

そこで登場したのが行事の邪魔をする子供たちだ。

演者一人ずつに群がる子供たちははしゃぎまわる。



境内西の角に転じたときにはお櫃を中に入れた間水桶を背負う小頭が社務所から現れた。

ようやく回ってきた出番だ。

間水役はそこからお櫃としゃもじを取り出して食事をする所作をする。

その際は参拝者も交えて間水が行われる。

「このコメ(米)はハクサンゴンゲのマイ(米)というて、これを食べたら一年中健康にすごせます。みなさんにも配りますのでワッというてください」と伝える。

マイは米であって「白山権化の舞・やよの舞」に通じる洒落詞でもあろうか。

間水役は大頭から神役へ、盛ったお椀に見えないご飯をしゃもじついで口元に差し出す。

そうすると「ワッ」と声をあげる。



一般観客へも同じように配られるけんずいの所作はお腹が一杯になったという返答の意思表示だそうだ。

それを終えたら再び演者の舞が続く。

一度動き出した子供たちは演者の邪魔師。

衣装を掴んだり所作を止めたりする。

そうした所作を終えるのを見届けて小頭は社務所に戻っていった。

その後も白山権化の舞・やよの舞が演じられる。

境内中央の大杉前で、そして、屋根にヨモギとショウブを乗せた社務所前で舞って仕舞の田植えの幕を閉じた。

まことにユーモラスなオンダ祭である。

境内には祭りのあとのウツギが残っていた。



こうして野依の田んぼの苗代は生育していくことであろう。

その傍らにはお札が挿してある。

これは正月の日に社務所で頭家が版木で刷って朱印を押したもので、3月15日の涅槃会で奉られた。

梵字のような文字だが何を書かれているのか判らない。

その日に配られたお札は「降三世(ゴーサン)」と呼んでいる。

充てる漢字は難解だがまぎれもない牛玉宝印のお札であろうが朱印の向きは上下逆であろう。



かつては仏母寺と呼ばれる神宮寺があったそうだ。

間水桶の裏には「飯桶・明治三年・野寄邑仏母寺」と墨書されているのがその証しだ。

現在はお寺が存在しないがオコナイの営みがあったことが伺えるお札は苗代の成長を見守っている。

(H23. 5. 5 EOS40D撮影)

野依の涅槃会

2011年04月24日 08時14分21秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
野依にはかつて神宮寺があったそうだ。

それは仏母寺(ぶつもじ)と呼ばれていた。

廃仏毀釈のころであるかどうか判らないが現在は白山神社の社務所内。

普段の本尊は襖の向こう。

その左の床の間に掛けられた涅槃の掛け図。

床の間には造宮された神社の御幣も飾られている。

年代記の記録は残っていない掛け図にはお釈迦さまの姿が描かれている。

その前に祭壇が組まれた。

社務所は仏間になったのだ。

そこに当番の人が供えたのがアワメシだ。

茶碗いっぱいに盛られたメシには箸を立ててある。

イチゼンメシやマクラメシとも呼ばれているアワメシは涅槃に相応しい。

モチゴメ1合で茶碗いっぱい。

アワは一割ぐらいを混ぜて炊いたそうだ。

その前に並んだ10個の桶。

中には小さな団子がいっぱい入っている。

当番の人と両隣の人たちが手伝って作ったネハンダンゴだ。

4斗5升のお米は蒸して搗いた。

小さな団子にするには時間がかかる。

粉にしたモチゴメを2割ほど混ぜているという。

早朝から作りだして終わったのは夕方近い時間帯。

たいへんな作業でしたと当番の婦人は話す。

そんな準備をしていると村の人たちが続々とやってきた。

神社に向かって参拝したあと座敷に上がる。

座敷は全面にシートを敷かれている。

これはのちほど行われる様相で理解できる。

集まった人たちは総勢で50人を越した。

8割がたはご婦人と子どもたちだ。

村の長老が導師となって掛け図の前に座った。



村の人たちは2組の円座。

一つ目の円座に数珠が置かれる。

ローソクに火を灯して線香をくゆらせる。

そうして始まった涅槃会。

般若心経を唱える間は数珠繰りをする。

大きな珠がくれば頭を下げる。

何十人もの手によって数珠が繰られていく。



心経は3巻。その半分辺りでもう一組の円座に数珠が移動した。

そちらも同じように作法が営まれた。

短時間で終えた涅槃の営み。

供えられたアワメシは当番の人が参拝者一人一人に配られる。

とはいっても受けるのは手だ。

少々の塩味が利いているアワメシは美味い。



そうこうしているうちに男性たちは法被を着た。

オンダ祭のときに着ていた法被だ。

供えられたネハンダンゴを撒く会場はゴクマキに転じて一層賑やかになった。

これらを終えるとお札を授かる。

梵字であるから文字は読めないと役員たちはいうがそれは「降三世(ゴーサン)」と呼んでいる。

正月の日に当番の人が版木で刷ったお札だ。

朱印も押してある。

紛れもない牛玉宝印のお札であろう。

村々で行われてきたオコナイ。

お寺さんが存在しない野依では村の行事となるひと月遅れの涅槃会として行われてきたようだ。

なお、ねはん団子は乾いて堅いので焼いて食べるそうだ。

(H23. 3.15 EOS40D撮影)

野依白山神社節分豆占い

2011年03月22日 07時23分34秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
明日は立春。旧の新年を迎える。

その前日は節分で一年間の天候を占う行事が野依の白山神社で行われている。

社務所にやってきた総代、区長に一年当番の大頭と小頭。

氏子たちもぞろぞろとやってきた。

炊事場を預かるのは両頭の隣り近所。

お茶やお菓子、お酒の接待に追われる。

座敷にどんと置かれたのが鉄製の火鉢。

錆具合が年代を現しているが記銘は見られない。

火起こししたクヌギの炭が燃えている。

ここが占いの神事の場となるのである。

区長の挨拶で全員は本殿の前に座った。

灯明の明かりだけが怪しく揺らぐ。

黒豆や大豆の他野菜など神饌を供えて始まった。

白山神社に神職は存在しない。

集まってきた人たちだけで般若心経が唱えられる。

暗闇のなかに聞こえる氏子の唱和。

心経は3巻唱えられた。

社務所に再び座った氏子たち。

そろそろ始めようかと火鉢に炭が加えられる。



炭の投入、炭火をじっとおこす二人は火鉢から離れられない。

真っ赤に燃えた炭火は高温の色になってきた。

火鉢周りにまんべんなく火がおきた。

そうして三方から選び出された黒豆は12個。

火鉢に橋渡しされた鉄製の皿に乗せられる。

それは火箸を折った一片である。

側はくるりと変形しているから豆は転がらない。

これからが長い時間を要するのだ。



氏子たちは酒を飲み交わして豆が焼けるときを待つ。

なんでも数時間後に豆が焼けて白い灰と黒い灰が出現するらしい。

それの出現具合で天候を占うというのだ。

白い灰は晴れ、黒いのは雨天だ。

判定は総代を区長が行う。

それによって作物のできに影響を与えるというのだから判定は責任重大。

昨年の結果は社務所に公表している。

1月は雪が多い月だった。

それはまさしく当たっている。

例年、6、7割は当たっているという。

黒豆を置く位置は決まっている。

恵方に向けて2月、3月・・・・1月の行列なのである。

節分の月に行うのだから2月から始まって1月までの一年間である。



今年の恵方は南南東。

じわりじわりの炭火が燃える。

しばらくすると豆から水分というか油のような液体が出だした。

三十分ほどすると豆は黒光りになった。

「もっと継ぎ足さんと焼けんで」と長老から指示がでる。

火力を検分しているのだ。



せかしたらあかんが、何度も何度も炭を入れて継ぎ足す。

その火の温もりが室内に充満するが、酸素もついでに不足するから玄関は開放している。

両頭はほっぺが真っ赤か。

身体全身がほてる。

ストーブにあたっていた氏子たちは寒いという。

それもそのはずプロパンガスが切れたのだ。

それはともかく1時間半を経過したころだ。



一列に並んだ黒豆に炎があがった。

一斉に燃え上がったような感じだ。

焼け付く温度に達したのであろうか。

炎がでたらぼちぼちやという。

そのときだ。黒豆は白くなった。

全部ではない。ところどころだ。

その状況を確かめにくる氏子たち。

視線は火鉢の黒豆に集中する。

それからしばらくは焼ける状況を見続ける。

変化が見られなくなったら豆の検分が始まる。

およそ2時間が経っていた。



総代と新区長が覗き込んで判定する。

台紙に書いた丸い形。

そこに鉛筆で仮の線を入れる。

あとで黒い部分に墨をいれるのだ。



こうして節分の豆占いを終えた。

かつては24時から始めていた。

サラリーマンも多いことから翌朝の出勤に支障がでるということで徐々に開始時間を早めた。

当時は朝方までかかったそうだ。

江戸時代から続く豆占いは天候に左右されやすい農業の祈りでもある。

晴れの日も雨の日も重要である。

5月5日はハレの節句オンダの行事日。

それまでに植え付けしなくてはならない。

雨が降り続ければ田植えの日程も崩れる。

晴ればかりなら田んぼの水も心配だ。

農作業を営む人にとっては重要な行事。

不思議とその年の天候結果が現れる。



神前に供えた黒豆は持ち帰って神棚に供える。

「雷が鳴った時には豆を一粒食べると神さんが守ってくれるので安心します」とご婦人はいう。

年越しの豆を喰えば鬼が嫌がる。

その鬼は雷としてとらえられた。

雷は鬼となれば雷に豆。

豆を食えば怖い雷(鬼)は落ちてこないと信じてきた。

雷が落ちないように豆を食う。

いわゆる雷除けのまじないとされてきたのであろう。

このことはなにも野依に限ったことではなく全国的にある魔除けの風習(ことわざ)のようだ。

(H23. 2. 3 EOS40D撮影)