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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

平尾水分神社オンダ祭

2011年03月05日 08時46分01秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
幾度となく訪れる宇陀市平尾に鎮座する水分神社オンダ祭。

この年は極度に冷え込む。

雪が舞うことも度々あった。

僅かだが残雪が境内に見られた。

三社大明神の御前で神事が行われる。

石階段には桶に入れられたオヒネリがある。

これは後ほどに伝統行事が奉納される種まきに使われる生米が入っているのだ。

「まこよまこよ 福の種をまこよ」と台詞とともに神さんに向かって撒かれる。

閃光が走ったその瞬間に浮かぶ福の種。



三社大明神を讃えて目出たい言葉を連ねる祝い詞の「鍬初め」を高らかに詠みあげる大当。

初めての体験であったが見事な演技をこなす。

長老たちがいうには「歌舞伎役者みたいでもうちょっとなぁ」と・・・。

一般客からしてみればそれはそれは堂々たる演技であって、むしろ古来の風情を感じた。

大当とともに一年交代の神主となった小当の二人。

設えた舞台で田植えの所作を演じる。

台詞は繰り返しなのでわりあいと頭に入りやすいと話す大当。

大当、小当は宇陀川を境に西と東で毎年入れ替わる。

その方法は隣村の野依と同じである。

同じように衣装を着た子供たちは5人。

初乙女(ショトメ)と呼ばれる早乙女を演じる役目だ。

とは言ってもほとんど所作はなく黙々と座っている。

その表情はまるで神の子のようである。

それは参籠所から舞台で登場するときにわかる。

戻っていくときもそうだが一人ずつ長老に背負われた初乙女。

足が地面についてはならないのだ。

神の子たちが動作するのは「若い初乙女を しともみ もんだれば」と謡う苗取りなどで舞台を周回するときだけだ。

大当と小当とともに並んで一周したのちはくるりと翻し逆向きに一周する。



昨年にデビューした4歳児の女の子も同じように周回する。

デビューしたときは幼子だった。

それから一年経ってみれば堂々と出演しているというIさんの目がゆるむ。

5人の初乙女の上は中学生辺りまで。

男の子だけで神事を継承してきたがそういうわけにはいかなくなったと話す。



子供がいっとき少なくなった時代があったそうだ。

「大人の男性も加わったがどうもいかん。やはり子供でないと恰好がつかん」と語った。

(H23. 1.18 EOS40D撮影)

強風の火ともし

2010年12月12日 08時11分49秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
夜が明ける前から吹きすさぶ風が雨戸を叩く。

この日は一日中強風が吹き荒れた。

落葉は舞いあがり吹きだまりに風が誘う。

そんな日でも野依の白山神社では当番の人が本社や灯籠などにローソクの火を点していく。

雨が降る日はやむを得ず中断されるが風の日を含めて毎晩点される。

立ち去ったあと少しは火がついていた灯りはふぅっと消えた。

(H22.11. 9 EOS40D撮影)

野依白山神社頭家座

2010年11月01日 07時33分58秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
神前で一年先の控頭家を決める1日(ついたち)の頭家座が行われる宇陀市野依(のより)の白山神社。

5月のオンダ祭で勤める大頭(だいとう)と小頭(しょうとう)を決める籤引きだ。

引くというよりも籤を上げる神事である。

大頭はオジイとも呼ばれる田主役、オバア役が小頭だ。

これを野依では男の神さんと女の神さんだと呼んでいる。

籤は氏子の名前を記した紙片でそれは丸められている。

伊勢神宮から授かってきたお札のケンサキを使ってそれを引き上げる。

三方に被せた半紙の上に籤。

ケンサキの角をそっと静かに落としていく。

すると不思議なことに一つがくっついていく。

二つあがるときもあるようだ。

そのときはもう一度し直すという。

次年度の大頭と小頭は既に昨年の頭家座で決まっている。

今回、引かれるのはその一年先を勤める大頭と小頭。

そういう意味から控頭家と呼ばれている。

社務所に集まってきた氏子たち。

宇陀川を境に西と東の垣内に分かれている宮(みや)、学校(がっこう)、川井阪(かわいざか)、かもいけさん、向出(むかいで)、水車(すいしゃ)など7垣内の人たちだ。

氏子総代を入れて30数人が集まった。

もちろん現頭家も含まれる。

現頭家は本社や末社、社務所の本尊など七カ所に神饌を供えておく。

座敷にあがった人たちにはお茶の接待。

籤に入る入らんは自主的に申告される。

服忌で辞退する人も居れば、早く終わりたい人も居る。

それぞれの家庭の事情で抜ける人も居る。

さまざまな事情を考慮されて籤に入れる人を承認された。

会計報告などを済ませると本殿に登っていった。

大頭と小頭は西と東で毎年入れ替わる。

今年は東だと言って大頭を決める籤が引かれた。

名前を呼び出された人はそれを「よろしくお願いします」と承諾された。

次は西の小頭に移った。

ケンサキのヒゲが少ないのかなかなかあがってこない。

引き者は何度も繰り返す。

そのとき一つの籤があがってきた。

2年前の様相を語るオバア役の小頭。

「これこそ神意だ」と身体が震えたそうだ。

決まった小頭の名前を呼び出すが返答がない。

実は神社に参拝できない服忌中だったのだ。



やむなく携帯電話をかけて神占いの結果を伝えた。

それは受話器の向こうで承諾された。

文明利器がなかった時代は伝令が走ったという。

頭家座は直会に移った。

社務所では机が並べられ席が設けられた。



目の前の料理は2品。

一つはカツオのナマブシ。

魚屋から仕入れてきたカツオ。

4等分に分けられたカツオは蒸しカツオ。

それを手頃な大きさに切って皿に盛る。

そこへ擂ったショウガに醤油をかけて食べる。

もう1皿はできあがりの煮染め。

カマボコ、ゴボウ天に昆布巻きだ。

以前は頭家が料理をこしらえていた。

たいそうになったことから質素に簡略化された。

当時の献立はコーヤドーフ、シイタケ、コイモ、ダイコンの煮染め。

味噌仕立ての味だったそうだ。

輪切りにしたスダチを添えた。

ニヌキのタマゴもあったという。

ご飯の「オシヌキ」もあった。

3升炊いたご飯は一割ほどモチ米を加えて塩をパラパラ。

お弁当やというて朝から作っていた。

「オシヌキ」は細長い木の型枠だった。

ご飯を適量入れて上から蓋を押していく。

底から抜くと「オシヌキ」がでてくる。

中央には梅干しをひとつ乗せる。

それをカンナで削ったヒノキの皮で包んだ。

香りが強かったそうだ。

これらは頭家の家でこしらえていたと話す婦人方。

両頭家の婦人と隣りの家の人たちだ。

隣りだけでは人手が足らずに親戚も加わったそうだ。

平成8年に大改正された頭家座などがある野依の儀式。

手間がかかるのは頭家を勤めてはじめて判ると語った大頭役。



直会では現頭家が挨拶をする。

一年間の奉公のお礼を述べた。

が、酒杯に回る頭家は座が終わるまでは接待をしなくてはならない。

現頭家の挨拶に続いて新頭家もこれから一年間お勤めされると挨拶された。

10日先にはオトウ渡しの儀式が控えている。

(H22.10. 1 EOS40D撮影)

本郷薬師さんの数珠繰り

2010年10月22日 07時35分29秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
宇陀市の本郷といえば、特に名高い又兵衛桜を誇る景勝地だ。

その桜の地から奥の山を登りつめた山麓に山寺とおぼしき薬師寺が建つ。

稲刈りが始まっている段々畑を抜けて登る山道は急勾配だ。

集落を過ぎれば杉木立に囲まれた地帯に入り込む。

道はさらに急勾配になった。

この山道は集落の墓地へ行くための地区の道路であることから、道路維持の観点から通過するには使用料が伴う。

その墓地の真上は開けた土地。

狭い境内には似つかないほどの大きな堂宇。それが薬師寺であった。

標高は630mにもなるという薬師山だ。

周囲にある山で一番高い山は経ヶ塚山で標高880m。まだ低いほうだという。

早朝から集まってきた地区の人たち。

道返寺(どうへんじ)垣内の7人だ。

本堂に着くとまずは鉦打ちだ。呼び出しの鉦は2回打つ。

祭壇にお米や塩、季節の野菜を供えた。

お花は種から栽培したケト(ケイトウ)やシオンなど。

秋の彩りを添えて飾られた本尊の石仏薬師如来が微笑む。

脇侍は日光、月光。ともに石仏である。さらに十二神将が並んで立つ。



一方、もう一人の長老は墓石に付近にあったシキビの枝葉を墓前に飾った。

なんでも後藤又兵衛の墓であると伝えられている墓だ。

墓石には延享2年(1745年)8月と刻まれていた。

その名は薬師寺の中興であろう。開基水貝五代俊(友)氏とある。

とすればだ。関ヶ原で戦い、慶長19年(1614年)大坂冬の陣で敗れた後藤又兵衛の時代ではなくその後になる。

それも130年も経過した後になる。

伝説の墓は他にあるのだろうか。

本堂の前には燈籠がある。

そこには宝暦5年(1755年)が刻まれている。墓石建立の10年後だ。

薬師さんの数珠繰りの営みは導師を勤める長老のお念仏で行われる。

線香をくゆらして灯明に火が点けられた。

導師の周りに座った村の人たち。



「始めましょう」の合図に導師はお念仏(しんどんがん)を唱えだした。

地区の安穏や五穀豊穣を祈るお念仏だ。

融通念仏、なむまみだぶー、なむあみだぶつと身体堅固、無病息災を願う。

次は般若心経だ。

木魚を叩いて唱える念仏は堂内の空間を響かせる。



そして始まった数珠繰り。

導師の座る席は中央。その周りを円座になって座る。

鉦が叩かれお念仏が唱えられた。

数珠を繰る回りは左回転。なんまいだーと数珠を繰る。

大珠が目の前に現れると頭を下げる。

数珠繰りは12回転される。

数取りはマッチ棒だ。

一年が健康でおられるよう併せて五穀豊穣を願った。

それが終われば数珠を束ねて身体の患部をなでてもらう。

「私はここを頼むで」といって肩や腰、足などを数珠でさすってもらった。

直会といえば供えたカップラーメンをよばれる。

先日の12日に行われた十二薬師さんも同じだったそうだ。

(H22. 9.15 EOS40D撮影)

野依のお札

2010年06月22日 08時50分47秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
野依の苗代に挿したお札がみられる。

これは正月の日に社務所に参集したトーヤが刷ったもの。

梵字のような文字だが何を書かれているのか判らないそうだ。

トーヤは白山神社の年越しの夜から年越し参りや初詣に来る参拝者を迎える。

一晩泊まり込んでの勤めだ。

参拝者が来なくなった午後はお札刷りの作業時間。

ゆっくりした時間だという。

これをもらいに来る村人に授ける。

オンダ祭が始まる前は田んぼに入ってはならんという言い伝えがあるというから、今朝に挿したのだろう。

数日前の5月2日はレンゾの日で田植え前の農休みの日。

親戚中が集まったそうだ。

(H22. 5. 5 EOS40D撮影)

野依白山神社節句のオンダ

2010年06月21日 08時45分15秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
野依の地区は85、6軒。

宇陀川を境に西と東の垣内に分かれている。

宮(みや)、学校(がっこう)、川井阪(かわいざか)、かもいけさん、向出(むかいで)、水車(すいしゃ)など7垣内の組長や氏子総代に男と女の神さんを祀るトーヤらが白山神社の社務所に集まってきた。

二人のトーヤは社務所の屋根にショウブとヨモギを乗せていく。

御田植祭行事の始まりだ。

本殿や弁天さんなど末社の屋根にも置かれる。



そこには神饌や節句を象徴するチマキが供えられる。

チマキの本数は本殿が10本。

末社は5本と決まっている。

かって野依の御田植祭は旧暦の5月5日だった。

この日は神さまの田植え日だった。

新暦では6月の節句の頃。

各地では野依と同様にショウブやヨモギを供える菖蒲祭や端午の節句行事が行われている。

野依では一旦田植えを休まなくてはならない、不便だといって、大正時代の初めに田植え前の予祝(よしゅく)行事として新暦の5月5日になったことから「節句のオンダ」とも呼ばれている。

苗に見立てた新芽のウツギやショウブ、ヨモギもトーヤが採取してきた。

今年のヨモギは背丈が短い。

天候不順で育っていないようだ。

御田植祭は神事であるが神職は存在しない。

集まってきた人たちがそれぞれの神役を担って行われるのだ。

神役はオジイとも呼ばれる田主の大頭(だいとう)、オバア役の小頭(しょうとう)、荒鍬(あらくわ)、萬鍬(まんぐわ)、小鍬(ごくわ)、苗籠持ち、植女(しょとめ)、けんずい配り、囃子方(唄い手、大太鼓、小太鼓)ですべて男性だ。

それぞれの役割が振り当てられ、三人の植女はご婦人の手によって化粧が施される。

座敷の机に座ってお酒が配膳される。

神事は始めに神酒をいただく。



この所作は「シモケシ」と呼んでいる。

祭りごとを始めるにあたり身を清めるということであって、実にシンプルな神事儀式である。

そのあとは練習が始まった。



始めて扮する植女や大頭、小頭は先輩から指導を受けて舞の作法を覚えていく。

神役一同の呼吸が揃ったら、社務所を降りて素足で境内に登場する。

社務所の前、境内端、中央と太鼓の音頭に合わせて、オンダの所作となる「白山権現とやよの舞」が行われる。

それぞれに畑を耕す所作をする荒鍬、萬鍬、小鍬の所作。腰の引き具合が妙な形をつくる。

赤襷姿の植女は手に持った菅笠をくるりと返しながら舞う。

一連の所作を終えるたびに移動して再び舞を演じられる。

同じ舞を5カ所で行ったあとは階段を登って本殿前で舞う。



能面の大頭は烏帽子を被り直衣(のうし)姿。

腰に杵とゴザをぶら下げている。

手には蛇の目傘で開いたり閉じたりする。

後方の役者はゴザを後ろから引っ張るように持っている。

苗籠持ちは稲苗に見立てたウツギの小枝を一荷ずつ数カ所に植えていく。

それを終えたら本殿から降りて再び境内で演じられる。

数回の舞のあと小頭が社務所から登場する。

大頭と同様に能面を被った小頭。

衣装姿も同じだ。

背負っているのは大きなけんずいの桶。

傍にはけんずい配りが付く。

大頭から神役へ、持った椀に見えない飯を杓文字でついでいく。

そうすると「ワッ」と声をあげる。



お腹が一杯になったという返答の意思表示だ。

一般観客へも同じようにけんずいされて小頭は戻っていく。

神役たちは囃したて、子どもたちは演者の背中を押したり、股間をまさぐったりするユーモラスなオンダ祭だ。



和やかな雰囲気で営まれたオンダ祭は、このあとも数回の所作を繰り返して幕を閉じる。

境内には植えられたウツギが残った。

ちなみにチマキはトーヤが作った。

アシの葉の上に細いカヤの葉を乗せる。

中身の団子はコメ粉を練ったもの。

これを包んで藺草で括る。

シュロの葉茎を利用する人もおられるようだ。

チマキを食べるには料理をしなくてはならない。

鍋に水を入れて凡そ10分ほど茹でる。

柔らかくなったら箸でつつく。

茹で加減は弾力具合で判る。

取り出したチマキは砂糖醤油やきな粉をまぶして食べる。

茹でられたカヤの香りがついたチマキはとても美味しい。

6月の節句の日には自家製のチマキを作られる家もあるという。

(H22. 5. 5 EOS40D撮影)

平尾のオンダ

2010年02月19日 07時30分09秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
甘酒の振る舞い接待がされている平尾水分神社のオンダ祭の夜。

三社大明神の神前で神事が行われる。

その後は社務所で宵の直会。

お酒を注いでいくのはトーヤの役目。

これも神事のひとつだという。

オンダ祭の主役は大当、小当と呼ばれる一年交代の神主と初乙女(ショトメ)と呼ばれる早乙女の子供たち。

男児と決まっていたが、存続することが不可能になり今年から女児(二人)も参加できるようにされた。

この対応は300年ぶりのことだといい、複雑な思いはあるが伝統を続けていくためであって、しばらくは安泰であろうと代表者は仰った。

宵の直会を終えて初乙女が登場する。

大当は三社大明神を讃え、目出たい言葉が連なる祝い詞の「鍬初め」を高らかに詠みあげる。

鍬を振り上げ「掛初」「苗代角打」の儀。



柄を扇子で三回叩いて「吉事はこの当所へ しっとしっとしっと 悪い事は西の海へずう」。

拍子をとって「苗代しめ」。

「まこよまこよ 福の種をまこよ」で、籾種をぱーっと蒔く。

「福の種」の儀だ。

その瞬間、ストロボの嵐が発生した。



台詞、拍子など、オンダの所作は江戸時代頃の古い言葉を伝えている。

種蒔きが終われば農作業も一旦休息で間食(けんずい)の時間になる。

特設会場に黒い翁面の若宮さんが登場した。

患部に充てれば病いが平癒するというまじないのコヨリを求める人の列。

わしは腰や、私は頭やと嬉しそうにもらって帰る。

そのあと再びオンダが始まった。

「芋つむぎ」「春田打」「鳥追い」を謡い、お田植え祭はいよいよ佳境を向かえる。

「若い初乙女を しともみ もんだれば」と謡う苗取りに続いて田主を先頭に初乙女は苗(萱の茎に榊を挟んだもの)と笠を持って舞台を一周。

苗と笠を持ち換えて、「若い初乙女を しともみもんだれば」と謡いながら今度は逆方向に一周しながら「御田植」「追苗取」で幕を閉じる。

(H22. 1.18 Kiss Digtal N撮影)

野依白山神社の行事

2009年11月10日 07時06分01秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
5月に節句オンダが行われている大宇陀野依の白山神社では簡素化しつつ数々の伝統行事が残されている。



<画像は5年前に行われた節句オンダのオバア>

秋祭りの前の一日は十月朔座といって女の神さんと男の神さんを決める籤が引かれる。

たばってきた伊勢のケンサキを使って対象の氏子の名前を記したものを引き上げる。

静電気を帯びたケンサキが籤を引き上げる、いわゆる神籤占いと呼ばれるもの。

その神さんを一年間家で奉る役目を決める日でトーヤ講(トーヤ座ともいう)の儀式だそうだ。

トーヤはダイトウとショウトウの二人を決める。

第二土曜は宵宮。翌日の第二日曜の昼過ぎにはオトウ渡しが行われる。

神さんを肩に担いで西から、受け取るトーヤは東から出発して真ん中あたりで落ち合う。

神さんは右肩で担いだらその体制で持っていく。

肩が痛いからと途中で替えることはできない。

落ち合ったら神さんを引き取って家に戻っていく。

親族は玄関で迎えて、ありがたい神さんがやってきたということで拝礼する。

その儀式はたいそうだからと平成の時代に入ったころに改正され、肩に担ぐことなく本殿で行われている。

また、正月には大晦日からトーヤが初詣に来る人を迎える。

一晩迎えた朝を超した昼過ぎから社務所で半紙に印を押すように刷る。

梵字のようなものでゴーさんという。

かつてお寺があったという。

おそらく廃寺になったことから神社で刷るようになったものと考えられ、それは牛玉宝印の書刷りと思われる。

そのお札は苗代を作るときに挿すそうだ。

(H21.10.17 総代聞き取り)