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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

万六のカンセンギョ(寒施行)の聞取り

2017年11月07日 08時34分08秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
奈良市北椿尾の寒施行(かんせんぎょ)を拝見して車を走らせる。

目的地は宇陀市大宇陀の旧松山街道の町である。

旧松山街道の大字は南から万六(まんろく)、拾生(ひろう)、出新(いでしん)、上新(かみしん)、中新、上町、上中、上本、上茶と呼ぶ上町通り。

その街道から一歩、西へ行けばもう一つの街道がある。

南から下出口、下中、下本、下茶、西山大字の下町通り。

城下町として発展してきた街道に商人の町屋が建ち並ぶ。

薬屋、油屋、醤油屋、宇陀紙屋、造り酒屋、料理旅館に吉野葛本舗で名高い森野旧薬園や宮内庁御用達の老舗になる黒川本家など、商家の町はうだつ(卯建)に虫籠(むしこ)窓や格子窓家も多い。

当地で寒施行をされていると知って取材させてもらった平成24年1月22日

この日に巡拝をされた地区は上新。

稲荷耕でもなく、町屋のご主人たちで構成する町内会。

松山地区の伝統的民俗文化を継承する会であった。

ここ上新では寒施行とは呼ばずに「センギョ」と呼んでいた。

施行に行く際に声を掛けあう詞章がある。

「センギョヤ センギョヤ オイナリサンノセンギョヤ」の掛け声である。

上新の「お稲荷さんの施行」は①長隆(ちょうりゅう)寺墓地外れの雑木下→②稲荷社→③神楽岡神社境内の奥→④森野葛本舗・旧薬園裏山の碑の前→⑤長山(ながやま)頂上の稲荷社→⑥朝日大神佐多神社の稲荷社2社(上新は地車大明神に供えない)→⑦大願寺裏本堂および社→⑧ならやまの武家屋敷跡稲荷大明神→⑨阿紀神社旧社地→⑩下り路の社の10か所が行程だった。

巡拝に供える御供は赤飯にぎりに揚げ、煮干しであった。

その日の取材に聞いていた上新地区以外の地区の「センギョ」。

一つは拾生(ひろう)地区。

もう一つは万六(まんろく)に出新(いでしん)である。

大寒の期間にしていると聞いているが、おそらくは集まりやすい以降の土曜か日曜辺り。

間に合うかもしれないと考えて旧松山街道を目指した。

到着した時間帯は午後4時半を過ぎていた。

辺りは薄暗くなりつつあった。

はじめに訪れたのは上新もそこには参るが万六並びに出新も参るようだと話していた万六自治会が管理する佐多神社(鳥居扁額に朝日大神)に立ち寄った。

記憶が飛んでしまっているのか、社殿、境内の位置関係がわからなくなってしまった。

たしか、平成24年1月22日の行事日には上新の町内会の人たちはここでもお供えをしていたと思うのだが、位置関係がまったく思い出せない。

ここではなかったのだろうか、と疑問符が頭の中でいっぱい浮遊していた。



ただ、「地車大明神」の石碑は記憶にあるし、向かいの本社殿の参拝場にある長椅子も記憶にあるから、ここであるには違いない。

参道を降りて街道に出た時間帯は午後5時過ぎ。

街灯に照らされる街道を少し歩く。

そこにあったお店屋さんは和菓子屋さん。



店内奥で製造された和菓子を店頭販売しているから昔からある老舗であろう。

ご存じであれば、助かると思って入店する。

奥から出ておられた婦人に聞けば、一週間後の1月28日にする予定になっているという。

ここ万六では大寒の期間中にしているよだ。

間に合ったのが嬉しい。

和菓子職人でもあるご主人のNさんともご挨拶させていただいた。

ここ万六のカンセンギョ(稲荷寒施行)は7カ所を巡拝する。

先ほど拝見してきた佐多神社に大願寺にならやま(奈良山か、それともナガヤマか)など。

昔は子どもも付いていって巡拝していた。

その当時は午後7時に出発していたが、子どもが少なくなって今では大人だけの巡拝。

時間も早めて午後2時には出発するようにしているという。

アズキゴハンを三角型のおにぎりにする。

デアイに皆が万六の自治会館に寄って作るという万六自治会の催しである。

なお、隣町の拾生(ひろう)ではかつてドンゴロスにアズキゴハンを入れて巡拝していたという。

(H29. 1.21 EOS40D撮影)

野依の亥の子

2017年07月18日 09時02分35秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
この年は11月1日が「亥」の日。

11月に「亥」の日が2回あれば初めの「亥」の日。

3回ある場合は2回目の「亥」の日に亥の子行事をすると聞いていた宇陀市大宇陀の野依。

万が一、初回の「亥」の日にするのかもと思って訪れた。

結果的にいえばこの年の「亥」の日は3回あるから2回目の「亥」の日だった。

時間帯は夜と云っていたので夕方の日暮れ前に神社で待機していた。

刻々と時間が経過するがどなたも来られない。

次の「亥」の日は13日である。

粘りたくはないから帰宅しようと思った矢先に車の窓をドンドンと叩く男性がいた。

窓を開ければ今日ではないという。

たしか回覧文書にそう書いてあったという。

それよりも「こんなところにヘッドライトも点けずおったら不審者と間違われる」とアドバイスされた。

しばらくしてその文書をもってきた。

前月の18日に回された文書は「亥の子について」だ。

芋の餅をお供えして万病を除く。

子孫繁栄を祝うとあれる亥の子の行事を13日の日曜にするので多数お参りくださいますようにと書いてあった。

文書はもう一件の連絡事項がある。

その夜は亥の子行事の前に地区懇談会もある。

内容は書いていないが宇陀市身体障がい者福祉協会長の講話があるようだ。

野依の亥の子行事に子どもは登場しない。

県内事例の亥の子に子どもが集落を巡って槌を打つように土を叩きつけるイノコの藁棒打ちがある。

明日香村の下平田や大淀町の上比曽、高取町の森、佐田がそうであるが、亥の日にイノコモチを氏神さんに供えるとか、作ったイノコモチを家で食べたりする風習の方が多くみられる。

これまで取材先でよばれたイノコのクルミモチは懐かしい郷土料理。

美味しさいっぱいが口内に広がる旨さである。

祭りの在り方は区々であるが、行事の日は「亥」のつく日は村行事であっても民家の習俗であっても同じである。

あらためて再訪した野依の亥の日。

亥の日に作って氏神さんに捧げる芋の餅御供を拝見したくて訪れた。

今夜は地区懇談会が開催される。

その会合が始まる前に着いておいた。

内容は宇陀市生涯学習課の教材である身体障害者を支援するビデオ学習会だった。

映し出すスクリーンの後方は旧仏母寺に安置する観音立像。

ローソクを灯したところにあるお供えは亥の子の芋の餅。

小頭家の両隣の家も支援して作った芋の餅はチンゲン菜やカブラ菜とともに供えていた。

予めに聞いていた芋の餅の作り方。

神事が始まる数時間前に作っておく。

粳米とサイの目に刻んだサトイモを炊いて芋を潰す。

それを小豆で作ったコシ餡でくるむと話していた。



講話が終わって配られたバッジがある。

白色とオレンジ色のハートが重なるようなデザインのバッジに[SUPPORTER]の英文字がある。

このバッジは鳥取県が発祥の、私は障がい者をサポートしますという意思表示を表現している。

白い色は障がい者。

温かいオレンジ色の私がサポートしますというデザイン。

例えば階段の上り下りで苦労されている人を支援するようなものでもいいのである。

かたぐるしくとらえるのではなく、手を添えるだけでもいいのである。

心臓を手術した関係で務めていた接骨鍼灸院の仕事ができなくなった。

仕事は患者さんの送迎である。

大多数が80歳前後の高齢者。

車に乗り込むときに支援する足踏み台を用意する。

それだけでも充分な行為である。

身体を支えるには介護士の免許がいるが、それぐらいであればドライバーでもできる。

90歳になるおふくろは自力で歩けるが、心もとない。

私が運転する軽バンに乗ってもらうときも足踏み台を添えてあげる。

そういうものでもサポートである。

それに近い話しをしてはった宇陀市の職員にありがとうである。

帰宅した後日。

普段着ではないが、おしゃれする日に着る一張羅の上着にピン止めした。

それからというものは「あいサポーター」バッジを見つけた知人たちに説明を繰り返すようになったことを付記しておく。

講話が終われば村の人らが動き出す。

場は移動して白山神社の社殿前。

いつもの神事ごとである。

お供えをしてローソクに火を灯す。



導師が一人前に出て般若心経を唱える。

鉦打ちもなく坦々と唱える導師に合わせて村の人らも唱える般若心経は五巻。

いつもそうしているという。



ローソクの灯りが消えると辺りは真っ暗だ。

月夜であれば・・と思ったら今夜は満月の数日手前。

履物を脱いだところは月明かりが照らしていた。

神事を終えれば下って、旧仏母寺でもある参籠所の場で直会。



お菓子をつまみに下げたお神酒をいただく。

かつては直会に芋の餅を食べていたという。

小頭家が作る50個の芋の餅を食べていた。

お重に詰めていたというからお重の個数も結構な量である。



今では本社殿や仏さんだけになったお供えであるが、野依では秋に行われる頭家渡し以降の行事は大改革をする方向で検討している。

特に手間のかかる直会関係の食事や御供は大幅に削減するそうだ。

翌日の14日によばれた御供下げの芋の餅。

帰宅してすぐさま冷蔵庫に入れていた。

芋の餅はどのように作られたのかは小頭がお話してくださったからだいたいのところはわかっている。

わかってはいても、たっぷりのコシ餡でくるんでいるから中身は見えない。

割ってみないと中身は見えない。

そう思って切り分ける。

包丁で切れば断面は平面になる。

ご飯粒に細かくしたというサトイモの形が見えるだろうか。

粒々を見るなら手で割ったらいいだろう。

いや、それでは真心こめて作った芋の餅に失礼してしまう。

ならば、と箸で割ってみることに決定した。



作り方を話してくださった状況から、また、外面から俵型に握っていることから柔らかいボタモチのような感じだと思っていた。

そうであれば箸で難なく割れるはず。

ところが箸を挿しても突っ込んでも堅いのである。

力を入れて作ったおにぎりは堅め。

そうして出来上がったのではと思うぐらいに堅い。

二本の箸を巧みに動かしてなんとか割った芋の餅。

断面にご飯の粒々が現われた。

細かく刻んで粳米とともに一般的な炊き方で、ご飯を炊くように炊飯器で作った餅は、つまりのところはおはぎである。

写真ではわかり難いが薄めの黄色がサトイモである。

丁寧にしぼりだした小豆の汁とともに炊いた殻剥き小豆は漉し餡にした。

手間がかかっている漉し餡をくるんだ芋の餅はがっつり歯ごたえがある。

小粒が歯にあたる食感がなんともいえない。

漉し餡は甘さを控えた上品な味。

商売屋さんでも売っていけるような出来の小豆の漉し餡。

食感が面白い芋の餅はこれが最後。

来年の亥の子行事には出ないようになるらしい。

(H28.11.13 EOS40D撮影)
(H28.11.14 EOS40D撮影)

巡りあえない栗野の田休みのお垢離取り

2016年12月18日 07時12分17秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
津風呂川に架かる宮前橋を渡ればそこが神社。

田休みのお垢離取りが行われる可能性もあると判断してやってきた宇陀市大宇陀栗野に鎮座する岩神社。

前週の5月29日の日曜日も訪れた。

NさんやHさんに聞いていた5月末の日曜日も侮れないと勝手な判断で訪れたが、この日でもなかった。

宮前橋に下りる道は街道からだ。

そこに建つ作業場に男性二人がおられた。

件の田休みのお垢離取りを尋ねたら、「昔は多かったが、今は関心も薄れてなくなった」という。

「郵便局のお婆さんは農家なのでやっていたはずや」とも云う。

「だいたいが6月初めの日曜日。午前中にしていて、賽銭箱に葉っぱがあれば何人かがしていると思う」と話してくれた。

その話しを聞いて三度やってきた岩神社。

着いた時間は夕方近い午後4時。

どなたもおられない。

そうであっても痕跡はあるのか、ないのか、賽銭箱や鳥居の下などを探してみる。

見当たらないということは・・。

憶測になるが、宮前橋を渡った鳥居下までの処に軽トラ風のタイヤ痕があった。

隣にあるゲートボール場はゲームができる状態ではなかったから、おそらくお垢離取りに来たものと考える。

写真家Kさんも同様に探してみたがどこにも見当たらない痕跡。

見つかったのは大きな青葉のホオの葉。



神さんに手を合わせてもらい受けたホオの葉の一枚はお持ち帰り。

家でアツアツのご飯を置いて昆布などを添えた。

県内事例にあるホオの葉メシの出来上がり。

手軽で簡単にできる郷土料理は農作の合間に食べるケンズイ。

田休みともいえるケンズイ時間に食べる。

何枚もあればいただくが、そういうわけにはいかない恵みの新葉に感謝する。

(H28. 6. 5 EOS40D撮影)

栗野の行事はいつ

2016年12月03日 09時39分47秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
毎年の5月中旬の田休みの日に村の人めいめいが33枚の葉をつけた照葉樹などの枝をもって参るお垢離取りを行っていると境内掲示板に書いてあった。

場は宇陀市大宇陀の栗野に鎮座する岩神社である。

その件は榛原石田に住むUさんからも聞いていた。

Uさんの依頼もあって写真家のKさんからもそう聞いていた。

一度は場所も見ておこうと思って出かけた。

中旬というのはおそらく日曜日であろうと思って日定めした15日。

時間帯はまったく不明であるがとにかく行ってみようと思って車を走らせる。

神社に着いたがどなたもおられない。

神社前の民家に人影が見えたので訪ねてみる。

当主と思われるご主人に教えてもらったお垢離取りはかつてお爺さんやお婆さんがしていたと云う。

当主はそれを引き継ぐことはなかったが5月の末、若しくは6月初めの日曜日に5人ほどの高齢者がしているようだと話す。

その日を決定するのは総代のようだ。

村のすべての田植えが終われば行っているお垢離取り。

日程が決まれば各戸にFAXで通知される。

お垢離取りの場は宮さん(岩神社)の裏の北を流れる小川。

その川に摘んできた木の葉をチャボチャボ浸ける。

そうして神社に参る。

千切った葉は鳥居の下に一枚ずつ置いた。

これを33回繰り返していた。

33回もその行為をするには体力が要る。

纏めて葉っぱを水に浸けて参る回数を減らしたようだと云う。

枝ごと纏めて33回も参ったことにする考えは桜井市修理枝のお垢離取りでも同じ。

ただし、栗野は葉っぱであるが、修理枝は小石。

参る回数を数える道具に違いが見られる。

そうした状況は栗野に限らず労力を減らして参拝とする考え方で、栗野も纏めて枝ごと置く2回、3回ぐらいの参拝である。

Hさんの話しを聞いて清流に流れる小川の位置を確かめていた。

どなたも来られない岩神社で佇んでいたら杖をついた婦人がこちらに向かっていた。

岸の向こう側は何軒かの民家がある。

そのうちの2軒がコイノボリを立てていた。

風がないから泳ぐこともないコイノボリを見ていたら杖をついて歩く婦人が見えたのだ。

なんとも微笑ましい村の景観に見惚れていた。

婦人の姿に魅力を感じて何枚かのシャッターを押した。



婦人はどこへ行くのだろうか。

一瞬に目を離したすきにどこへ行ったのか・・・見失った。

が、それは違った鳥居下の道は一段下になる。

そこに隠れて見えなくなっただけだった。

婦人は自宅より歩いて田んぼ道を抜けて神社の前を流れる津風呂川の土手道に沿ってやってきた。

道行く婦人に声をかけた。

立ち止って話してくださる老婦人は84歳のNさん。

杖はついて歩いているがお元気な声で話される。

朝一番を避けて毎日を散歩している。

健康を維持するにはこれぐらい歩かないと、という。

Nさんが子供のころは実家でもしていたというお垢離取り。

実家はどこなのか聞きそびれたが、栗野では家の田植えが終わったときにお参りをすると話す。

その日は半日が休み。

山へ登る日でもあった。

前述した2、3回で終える簡略的な方式でお参りする人も居ると話してくれたのがNさんだった。

垢離取りする小川も案内してくれたが設営した金網で入ることはできない。

ただ、Nさんが云うには脇の道、急な山道を歩いていけば隣村の田原に出るらしい。

昔は近道に利用していたと云う。

ここでお別れして遠目で見ていたコイノボリを立てていたお家を訪ねてみる。

ぐっと近づいた民家は石垣の上。



カドに立てていたコイノボリの支柱はヒノキ材だ。

話しを伺ったB婦人の話しによれば7年前に孫の長男が生まれた。

そのときはヒノキの葉付きの支柱だった。

2年目になった年は葉を落としてカザグルマに付け替えた。

材のヒノキは向かいの山から伐採した。

向かいの山はB家が山主。

何年も前から目星をつけておいた支柱である。

屋内から大きくなった男の子の声が聞こえる三世代が住むコイノボリの在り方であった。

このコイノボリはいつまで立てておくのか聞きそびれたが、この月の29日に再訪したときは立てていた2本のコイノボリはなかった。

6月節句までではなく、5月中旬ぐらいまでのような気がする。

ちなみに参拝した岩神社の裾地に山野草が咲いていた。

姿、形でわかったホウチャクソウ。

可憐に垂れたその姿が愛おしい。

(H28. 5.15 EOS40D撮影)

平尾の天然ウド

2016年11月23日 09時25分04秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
野依を訪れたこともあって隣村の平尾を通り過ぎるわけにはいかない。

平成26年、「第4回 私がとらえた大和の民俗―食―」の写真展に平尾の在住のⅠ家が保有する唐箕を紹介させてもらった。

唐箕は脇役。

主役はモンペ姿の奥さんである。

笑顔が素敵な奥さんを撮らせてもらった一枚の写真。

その姿を載せた図録は奈良県立民俗博物館で販売している。

昨年はわが身の心臓病もあって訪れることはできなかった。

久しくお会いしていなかったⅠ家を訪ねたらお二人揃っておられた。

「あのときのお礼もできなくて・・・」と云われるが、こちらこそ、である。

今は家の目の前にある山野草がいっぱいある。

「いまから引いてやるからまっとき・・」と云われて自然に生えているウドを引いてくれた。

袋いっぱいに詰めてくれたウドの葉っぱ部分は天ぷら。

家で作った料理はかーさんがした。

これが美味いのってなんのって。

茎の部分は皮を剥いで水にさらす。

水から揚げるとすぐさま口にしないと真っ黒けになる。

それになる前に食べる茎は辛子酢味噌がイチバン美味しいかと思う。

I家の自然の畑には三つ葉がいっぱいある。

目立つ大きな葉っぱもある三つ葉。

もちろん標準サイズの葉もある。

それがどうであれ「三つ葉の葉が出たら巻き寿司を作らなと思うのです」と云う婦人。

その話しを聞いていた写真家Kはきょとんとしていた。

どうやら三つ葉に巻き寿司は馴染みがないそうだ。

私なんぞは巻き寿司に三つ葉が入っていないのは巻き寿司ではないと未だに思っているぐらいだ。

スーパーなどで売っている巻き寿司を見たことがあるかい。

三つ葉が入ってないんだよね。

ところでここにはもう一つの自然がある。

ハタケワサビである。

白い花の咲く時期をとうに過ぎていた。

これだけはやられないという。

やはり・・・である。

(H28. 5. 8 SB932SH撮影)

野依の甘茶接待灌仏会

2016年11月22日 07時44分45秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
甘茶の原料は宇陀市大宇陀上中、通称松山街道にある和漢生薬研究所の平五薬局で買った極上の国産甘茶。

買ったのは昨年。

袋から取り出してアマチャに使ったのは1/4程度だったそうだ。

この日も総量の1/4を取り出した甘茶でアマチャを煮だした。

村人が参拝にくるのは午後であるが、アマチャを作っていたのは午前10時。

甘茶の葉を袋から取り出して水に浸ける。

しばらくそうして11時に沸騰させて煮つめる。

そうしたらすぐにでも茶葉をあげる。

15分ぐらいグツグツ煮れば色が出る。

水量1リットルに対して茶葉は3グラムぐらいの量。

苦みのある甘さになった。

そう話してくれた野依(のより)の大頭と小頭は昨年の10月1日に行われた頭家座で決まった。

男の神さんに女の神さんは籤で決まる。

お伊勢さんに参って授かったお札の端っこ。

これをケンサキと呼ぶ。

三方に載せた氏子名を記した丸めの紙片に近づけると不思議とあがってくる。

そのアタリは次の年の大頭と小頭を勤める人。

つまりはこの日の灌仏会に務めている大頭と小頭はもひとつ前の年に決まった人だ。

天上天下唯我独尊の姿で立つ釈迦誕生仏を花御堂に納める。

屋根にはその日に摘んだ花で飾る。

レンゲはほんの僅かだった。

仕方なくといえばアレであるが、家の周りに咲いているツツジやツルニチニチソウを選んだ。

赤や紫に白色では足らないと思って野に咲くキンポウゲで黄色の花も盛った。

本来ならレンゲやスミレに菜の花などで飾るがその年の咲き具合でそうするらしい。

この月の5日は奈良県の無形民俗文化財に指定されている「節句オンダ」行事があった。

村の豊作を願う予祝行事に所作をするのはオジイとも呼ばれる田主役が大頭。

ケンズイのときに登場するオバア役は小頭。

これを野依では男の神さん、女の神さんと呼んでいる。

この日は打って変わって作法も動きもない灌仏会。



参拝者は村の人。

稀には聞きつけた客人も訪ねる。

桶に溜めているアマチャを柄杓で掬って頭から釈迦さんにかけてやる。

手を合わせる。

それが作法の灌仏会は花まつりの呼び名もある。

他村ではその名で呼ぶこともなく単にアマチャと呼ぶ処もある。



手を合わせたらアマチャの接待。

湯飲み茶わんに入れてもらって口にする。

口に含んだアマチャの甘味を感じるのは舌ではなく喉。

じんわりと甘さが喉の奥で感じる自然な甘さだった。

いつも先生と呼ばれている昭和5年生まれのTさんは座敷に上がって仏さんに向かって般若心経。



それだけではなくご本尊である十一面観世音立像に向かって観音経最後に唱える。

宇陀西国三十三ケ所 第二十九番 大和国宇陀郡 大念仏衆 野依仏母寺 十一面観世音の御詠歌は「はなくさの よりて たをりて みほとけの ははと てらへと いざや たむけん」。

額に入れた色紙にそう書いてある。

ちなみにこの日も開帳された観音さん。

野依には1月、5月、9月にお勤めをしている観音講の営みに開帳される。

アマチャをかけたお釈迦さんは二代目。

身長が伸びたらしく、以前の誕生仏像よりも1.5倍以上の高さになった。

背が伸びれば花御堂の庇(ひさし)に柄杓があたる。

そろりそろり天井に接触しないようにアマチャをかけたお釈迦さん。

一方の手で天、もう一方で地を指すお姿である。

お釈迦さんが誕生したときに、七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」といった姿に手を合す。

何人かが参拝にやってきては作法する。

花御堂の前に座ってひとときを過ごしていた。

ちなみに野依の白山神社は平成21年にゾーク(造営事業)があったそうだ。

曳綱に生鯛を吊るしていたかどうかは判らないが、頭屋家で搗いた大量のモチ御供は「宝船」と呼ぶ船型の運搬車に積んで村内を巡行し神社に向かったそうだ。

ここにも曳綱に生鯛や宝船があったことを付記しておく。

(H28. 5. 8 EOS40D撮影)

大宇陀五津の天神社

2016年10月21日 09時48分13秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
前月に訪れた榛原笠間のSさんは隣村の榛原雨師のゾーク(造営)を教えてくださった。

おかげさまで取材することができた。

そのお礼もあって再訪した。

雨師のゾークに今まで見たこともなかった鯛2尾を曳綱に吊るすことを知った。

斎主の墨坂神社宮司の話しによればここら辺りではそういう在り方が一般的でよく見るというのだ。

もしかとして笠間のゾークもそうだったのか、である。

答えはあった。

鯛2尾はオスとメスの2尾。

見た目は判らんと笑って答える。

雨師丹生神社のゾークで見られた間に吊るす数珠銭も同じようなものだった。

また、笠間では大掛かりで豪華な飾り付けをした宝船があったという。

前々回のゾークのときに地区を周回した宝船は帆かけ船のような仕掛け船で御供も載せたフロート船だったようだ。

前回のゾークは平成25年10月27日。

ちなみに雨師は4月3日であったが、ここより数キロメートルしか離れていない地区に大宇陀の五津(いつ)がある。

ここでも20年の一度の祭典であるゾークは3月27日にしていたと云う。

終わってはいるが場所でも確かめておきたいと出かけてみた。

五津のバス停留所付近の辻より狭い道を登ったどんつきに鎮座していた神社は天神社。

こころが鳥居前に建つ灯籠には天満宮の社名である。

調べてみれば鎮座地は天神山。

まさに天満さん。



階段を登って参拝する。

社殿下に建つ牛の像は2体。



真新しい紅白の紐で顔を覆っている。



牛に嵌める鼻尾のようだ。

ちなみにSさんが云った他所のゾーク。

榛原角柄高龗神社のゾーク(斎主墨坂神社宮司)は平成27年11月8日に終わっていた。

「宇陀市メディアネット」が収録した動画で紹介しているが、曳綱の儀式や宝船などは報じていなかった。

また、吉野町三茶屋より北方にある大宇陀栗野の岩神社においても鯛吊りや宝船があったように語る。

調べてみれば平成23年11月に20年に一度のゾークを斎行されたようだ。

これもまた「宇陀市メディアネット」が収録した動画で紹介している。

映像に登場する宝船は見事だ。

小型船を利用した造りは紅白の幕に大きな御幣を中央に、御供を数杯の桶に積んで曳行されていた。

後続には稚児行列が続くが、太鼓は見られない。

当地も同じように中央に数珠銭、2尾の鯛が曳綱に吊っていた。

当神社行事に吉野川に出向くオナンジ参りや33枚の葉で数える参拝のお垢離取りがある。

その件は前週に伺った榛原石田在住のU先生から聞いた。

また、少し離れる地域に桜井市の吉隠(よなばり)でもゾークをしているらしい。

直近だというから4月10日の日曜のようだ。

当地は三社あるが、どの社殿なのか現地を訪ねなければならない。

ちなみに隣村の安田の談山神社のゾークは2年後になるらしい。

他所でもまだまだあるらしい。

(H28. 4.15 SB932SH撮影)

かつて牛頭天王社と呼ばれた大宇陀本郷の八阪神社

2016年07月24日 11時30分22秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
平成22年のことだ。

9月12日は十二薬師。

同月15日は薬師さんの数珠繰りをしていると写友人が聞いていた大宇陀本郷。

枝垂れ桜で名高い本郷の地は幾度か訪れた宿泊地がある。

椿寿荘である。

家族揃って泊まった椿寿荘の食事はとても美味しかった。

高齢のおふくろは柔らかくしてあるから食べやすいと云っていた。

食事の場はカラオケ会場にもなる。

食事を済ませて他に泊り客がいないことを良いことにカラオケ三昧したことがある。

あれから20年以上も経った椿寿荘は今もあるらしいが、その場を通り過ぎて山の方に向かう。

たしかここら辺りから山の方に登っていった記憶があるが道はすっかり忘れて不安が漂う。

集落手前に石で造った祭壇がある。

何かを祀っているのだろうと思って停車した。

右側に立つ石漂がある。

彫られた文字は「おご乃明神」。

付近に人影が見られず話は聞けていない。

その場より数メートル右も三叉路。

異なる石漂があった。

刻印に「嘉永酉年」がある。

おそらく嘉永二年(1849)に建てたと思われる石漂は「右・・云々」とある。

判読は難しい。

ひとっ子一人いない、その場を下って人影を探す。

右手にあった民家に数人の男性が居られた。

地元に住む人なら道辺寺垣内への行先道を教えてくれるであろうと思われた。

たしかにその通り。

ここら辺りは四垣内。

道辺寺垣内は山の上の方にある集落。

ここは西にあたるらしい。

山近くに建つ寺は薬師寺。

四垣内の代表者ぐらいしか登らないという寺だ。

その辺かどうか判らないが山の神の行事があれば・・・と云えば、それを知っているのはYさんぐらいだけだという。

そのYさんは入院療養中の身であるらしい。

どうやら5年前に具合が悪くなったようだと話す。

道辺寺垣内のすべてではないが山の仕事を主にしているという。

山の仕事人でないと存知さいない山の神行事。

村の行事や風習を知る人はYさんしかいない。

5年前にYさんが話していた山の神行事。

場所は不明だが、竹筒と藁ジャコのカケゴ掛けをしていると話していた。

療養中の身であるYさんが居らっしゃることを知っただけでもうれしく思った。

山へ向かう道を教えてもらって駆け上がる。

急カーブに急坂道。

おそるおそる駆け上がる。

なんとなくここは来たことがあるようだと思った村の景観。

ふっと不安になった。

怖くなったのだ。

Uターンして戻った処に住居表示があったが、Yさんの名前はない。

もっと上のようだが、この日は諦めて道を下った。



するとカーナビゲーションに寺名が表示された薬師寺とは違う名の寺だ。

そこに向かおうと思ってハンドルをきった。

ふっと現れた大きな石塔。

刻印に「太神宮」がある。

一方の辺にもあった刻印は「三太郷村中」だ。

ここら辺りは三太郷の呼び名があるらしい。

その地に鎮座する神社は八阪神社。

神社下に生えるクマザサらしき太い葉の笹がある。



その場に林立するかのように立てている割り竹がある。

何を意味するかの、不思議な光景だ。

鳥居脇に「天保二年辛卯(1831)三月吉日」の刻印文字がある常夜燈が建つ。

すぐ傍には月・日をあしらい、「庚申」の文字がある庚申さんがある。



格子戸から覗いてみた。

急な階段を登る。

2段構えの階段だ。

本殿に上がる階段下にも石灯籠が建っていた。

それには「牛頭天王社」の文字がある。

おそらくは江戸時代まではそう呼ばれていたのであろう。



もう一つの灯籠に「下本郷村」や「文化十二年乙亥(1815)六月」の刻印が見られる。

すべてが江戸末期の年号であった。

もう少しゆっくり調査したいと思ったが雨が降り始めた。

仕方なく先を急いだ。

(H27.11. 7 EOS40D撮影)

平尾水分神社の祈祷祭

2016年05月14日 08時38分34秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
6月に行われた「田休み」に続いて訪れた大宇陀平尾の水分神社。

この日は夜8時より「祈願祭」が行われる。

場は「田休み」と同じく社務所内である。

1月18日のオンダ祭で大当・小当を務めた二人はこの日の行事も始まる前に雨戸を開けた社務所を清掃していた。

この日の午前中は暴風雨。

境内は風に煽られた葉っぱが散らかっていた。

6月の行事のときは社殿に巣くっていたミツバチで難儀した。

専門家にお願いして除去したことによって、この日は襲われることもなく安心して清掃ができたと話す。



平成23年に建て替えられた社務所に板書を掲げている。

墨書されている板書は平尾水分神社の「年中行事」である。

達筆な書の判読は難しいが、所々の一部が読める。

正月、二月、三月、四月、五月、六月、七月、八月、九月、十月、十一月、十二月はもちろん読める。

そのほとんどに御膳の文字がある。

お神酒、徳利、飯、通しなどがあることから大当・小当が務める座の膳の内容であろう。



一月十八日御田植のほか祈祷、御渡、御湯の文字もあった板書は文久三癸亥(1863)年正月に書かれたようだ。

田休み同様、この日も平尾檀家寺の日蓮宗妙福寺住職が読経を唱える。

社務所の扉を開けて水分神社に向かって座る氏子たち。



社務所に吊るした鈴緒を振り鳴らして始めた住職。

バイと呼ぶバチ道具で打つ木柾(もくしょう)は枕型の木製仏具。

これを打ちながら「観音経」を唱える。

田休みのときは「寿量品(じゅりょうぼん)。

そのときよりも一段と早い打ち方だ。

「寿量品」はゆったり。

「観音経」は早めに打つ。

木柾の音色よりも声高く強めに唱えるという。

田植え後の稲は根を張り、力強く育ってほしいと願う。



実りを妨げる虫も祈祷する。

日照りにならんよう雨乞いも兼ねているという祈願祭は水分神社の神さんに水を与えてくださいと唱えたという。

ちなみに八月末の八朔行事では「神力品(じんりきほん)」を唱えるそうだ。

(H27. 7. 1 EOS40D撮影)

平尾の田休み植付奉告祭

2016年04月28日 07時38分57秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
この日の朝は「デアイ」と呼ぶ地区の草刈り日。

大宇陀平尾の住民はそれぞれ分担して宇陀川堤防を綺麗にしていた。

この日の午後は水分神社に参集する。

慶長四年(1599)に建てられた覆屋根。

桧皮葺、棟飾が見られる三棟の現社殿に貞享四年(1687)の棟札があるそうだが、覆屋根より古い時代に建てられたと考えられている。

80歳を超えた元区長がいうには、これまでゾーク(造営)はしたことがないという。

1月18日のオンダ祭で大当・小当を務めた二人はこの日の村行事に先だって境内を清掃していた。

それからミツバチに刺されないように恐る恐る神饌を供える。



中央社殿は水分大明神、左は白山大明神、右は天照皇大神であるが、そこには二つの御供がある。



明治四十年に合祀された八幡大菩薩にも供えていたのだ。

近年建て替えられた社務所に掛軸があった。



それには月読宮、春日大明神、天満宮、山神守、十二社権現、八王子権現など平尾の神々もある。

明治32年(1899)11月に文政十二年(1829)生まれの氏子筆による軸である。

平尾水分神社の田休み行事は村の田のすべてが終わったころを見計らって行われている。

この日の行事に神職は登場しない。

村にある妙福寺の住職によって行われるのだ。

妙福寺は日蓮宗派。

村人は檀家でもある。

社務所の扉を開ける。

神社に向かって一同が座る。



祈祷というかお念仏というか、拍子木を打ちながら唱える。

扉を開けておればミツバチが飛び込んできた。

刺されては困るから手で払ったり、座を移動する人もいる。

女王蜂を駆除したので2、3日もすればいなくなると退治した榛原笠間の男性が云っていたことを思いだした。



「なむようほうれんげきょー・・・」と法華経を唱えて神社の玉緒の鈴を振って終えた。

「田休み」は田植えを無事に終えたと神さんに報告する行事であるが、住職によって行われるのは珍しい。

妙福寺は神宮寺であった可能性がある。

いつの時代から、そうしてきたのか、村人には伝わっていない。

(H27. 6.14 EOS40D撮影)