ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「ゆらぎ」 20200415 20200101

2020-04-15 | Weblog

 

実存の未決性──〝ゆらぎ〟という本質的特性。
ためらい、迷い、とまどい、逡巡、はにかみ、はじらい。
存在を確定する記述命題からはみ出し、あふれ、こぼれ出る〝未決のゆらぎ〟。

みずからの存在のかたちを問題として、
みずからに問い、問いをたずさえ、生きる存在──実存。

つねに因果的な記述とすれちがう実存の本質的形式。
あるいは、生命/非生命をわける決定的な存在特性。

この領域でのみ現象する不連続な変化、生成的いとなみがある。
因-果の線形的記述に従わない現象、創発する〝意味と価値〟。

「すき-きらい」「ほんとう-うそ」「きれい-きたない」

世界を光と影のテクスチャ-として織り上げるそれぞれに固有のまなざし。
実存のまなざしは新たなエロスの光源を探してさまざまな予期を立ち上げる。

「ありうる-ありえない」

相即する新たな存在のフォーメーション──「ありうる」(存在可能)を求めて。

「未決」としての実存──
生きられる現実の構成は、しかし、確定された「既決」を要請する。
実存と実存が交わり、生成し、展開する関係世界、関係のゲーム。

関係のゲームから生成する「既決」の集積体としての社会体。
集合的組織化を可能にする関係記述、関係項の生成──客観・真理・正義・ほんとう。
禁忌、禁則に囲われた価値と意味を確定する関係記述の体系化。
個と個を結び合わせるパターン、その派生的形式、モラル、常識、通念、習慣。
      
「未決」から「既決」へ。
この線形的な集合的原理の進行、展開に、もう一つ加えなければならない。

「既決」から「未決」へ。

展開形の人間的生から、その本質、全域性、生成性が失われないために。
ゆらぎにおいてその本質を展開する、人間的生の未決性に回帰するまなざしを確保する。

Intermission──人間的生の本質を構成する原理として、
つねに、相互に、守られるべき生成的な展開領域がある。

 

 

 

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「if」 20200414  20190919

2020-04-14 | Weblog

 

公理系の教えない「if」にみちびかれるように
「かつて何であり、いま、何であるか」という問い先に
「何でありうるか」という問いが開かれてゆく

公理系の生成──無数のプレーの成功と失敗、果実と負債
歴史的に、発生的に、選択的に形成されたプレーの回答集
あらゆるプレーヤーが参照する
それを前提にプレーを組み立てる定理のクラスがある

クラスの外へ──

みずからの経験が失われないように
こころは公理系の外にくちびるを向ける

「ここ」ではない「どこか」
「いま」ではない「いつか」

疑われざる前提、常識、習慣の海に生まれながら
生きる手がかりの一切をそこで手にしながら

前提を検討にかけないという定理のクラスを離脱するには
「if」という「虚数項」を必要とする

なんのために。

定理に埋まった公理系が教えない生の触発があり
みずからに生成する生の主題に応えるために

外部になく、ただ内なる要請のままに
まなざしをゼロにもどし、鍛え直し
問いを現実に下ろし、みずからの生を素通りしないために

 

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「新しい朝のために──関係のモード」20200413

2020-04-13 | Weblog

 

ある感情はあるとき、一斉に、「関係(世界)の死」を裏書きするように動いていこうとする。
世界の失墜、惨劇、憎悪、悪意、貧しくやせ細った姿を証明したがっているかのように、
それにふさわしいコトバだけを選んでみずからを強化していく。

世界の完全なる砂漠化、喪失と絶望の感情に魅せられたように動く心がある。
そしてそれはしばしば、あるいはつねに、「弱肉強食を説く師」へと変貌する。

コトバたちを、ある必然性において、その逆の方角へ──

新たな「ありうる」をみちびき、ささえるものとなるように。
いま、ここで、つねに見出されていなければならない「よき感情」、
そして「よき感情」が生成する関係のモードがある。

重要なこと──未来を損なわないこと。
世界記述(関係項)の確定を急ぎすぎて未来を先取りしないこと。

相互に魂のフリースペース(intermission)を与えあう関係のモードへ。

確定された関係項「かくあるべし」「かくなすべし」のしばりをほどいて、
新たな「関係の合理」が生成するフリースペースを与えあうように。

 

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「愚かな文明」

2020-04-12 | Weblog

 

――「情報空間の特性」から、文明の審級を知ることができる。

 「愚かな文明」は、ユニラテラルであり、クローズドであり、エクスクリューシブであり、収束的である。
 「高貴な文明」は、インタラクティブであり、オープンであり、インクリューシブであり、展開的である。

――「子どもの教育」から、文明の審級を知ることができる。

 「愚かな文明」は、規律・協調・集団・標準・位階、総じて線形的な価値コードに準じて、
  人権にまさる愛国と忠君、自己犠牲を子どもの心に書き込むことができると妄想する。
 「高貴な文明」は、歴史が成就したすべての悲劇と錯誤と不実の由来を悲しみと共に学び、
  子どもの非線形的で自律的成長に最大の敬意を払い、愚かさの感染を防圧する知恵の果実を蓄える。

――「代表者のクオリティ」から、文明の審級を知ることができる。

 「愚かな文明」には、自由と秩序がゼロサムのゲームだと考えるトンマたちと、
  サムライのつもりで吠えるだけの誰かの番犬でしかないなりすましが溢れる。
 「高貴な文明」には、未規定な現実の遷移に開かれた、終わりなき探求者たる智者の群れがいる。
  自由と調和が一つに結ばれる、未だ顕現せざる包括的ゲシュタルトの探求がその主題を構成する。

――「エージェント(権威者・専門家)との関係特性」から、文明の審級を知ることができる。

 「愚かな文明」は、エージェントに過剰に依存し、学ばないことを学び、生命の簒奪と毀損を放置する。
  単体として作動できないメンバーたちは、絶えず接続先を探してエージェントの宇宙をさ迷い続ける。
 「高貴な文明」には、無数の思考が織りなすギャラクシー上に、新たな星座が奇跡のように出現していく。
  エージェントは出現した星座を最初に指さす人として存在し、メンバーたちはその役割を相互に交換しあう。

――「外交の手法」から、文明の審級を知ることができる。

 「愚かな文明」は、外なるものへの敵対と罵倒にブルータルな血をたぎらせ、寛容なき滅びの美学に自滅していく。
  世界の区分線はコンクリートに固定され、神話化され、「価値/非価値」をめぐる確定記述へ思考を収束させる。
 「高貴な文明」は、すべての魂に寛ぐスペースを誂え、エレガントな〝もてなしの作法〟であらゆるゲストを迎える。
  もてなしの作法は、エコメンタルなコスモスのゆらぎに共振しながら、みずからと世界の区切りを更新していく。

 「愚かな文明」は、実線で太く描かれた漫画の吹出しに似た、特殊な公理系の宇宙を至上化してノイズを排除する。
 「高貴な文明」は、メンバー一人一人の内部に、公理系の外とつながる〝第四次〟のアンサンブルの宇宙を夢見ている。


   

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「新しい朝のために」20200411

2020-04-11 | Weblog

               https://www.youtube.com/watch?v=vPqX5RHDTWI

 

世界の輪郭を確定する記述命題が世界を覆い尽くすまえに。
世界が凍りつき、貧血し、やせ細り、枯れていくまえに。
見出しておくべき新たな世界記述の形式と作法がある。
     
なに・なぜ・どうしたら──未決の主題はつねに生成する。

次なる記述の刷新に向けて準備を整えるように、
刷新の意志を滲ませ、確定を急ぐ記述をしりぞけ、
〝未決の位相〟を保持しながら駆けているものがいる。

わかること、理解のポッケに収めたものでは足りない。
わからないことのわからなさをそのまま保持するように、
保持しなければアクセスできない未踏の地平があるかのように。

その次へ。

わかりえない、知りえない、記述しえない未踏の了解点。
そこにおいてはじめて開かれるまなざしのスコープがある。

だれかに教えられたのではない必然において、
ただ、みずからに内発する確信において、
逆説的に疑えない明証として一つの格律が導かれる。

──新たな記述の場所をつねに空けておくこと

 

 

 

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「Backstage──ドキドキ」 20200410

2020-04-10 | Weblog

 

太郎くんは、花子さんの前に出ると胸がドキドキする。
鼓動が高鳴り、呼吸が早くなり、血圧が上昇し、顔が真っ赤になる。
見るだけでいつも必ず恥ずかしそうにモジモジしはじめる。

からだのなかで、体細胞的な変化が起きている。
引き金を引いたのは、花子さんの存在、それを捉えた太郎くんの視覚と心。
心の問題なのに、生理化学的変化のスイッチが自動的に入る。

次郎くんにとって、花子さんはそうした対象ではない。
ごくあたりまえに話が出来る。ドキドキすることもなく、冗談も普通に言える。
太郎くんの反応は「わけがわからない」。

でも、次郎くんにも似たような経験がないわけではない。
夜道を歩いていて、警官に職務質問された時に太郎くんと同じことが起こった。
それから校舎の裏でタバコを吸っていて先生に見つかったときも心臓がパクパクした。

けれども決定的にちがうことがある。なにか。
太郎くんにとって花子さんはとりかえが利かない存在である。
お巡りさんや先生はそうではない。

 

 

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「Backstage──受動、能動」(参)

2020-04-10 | 参照

 

──K・ヴォネガット著『タイムクエイク』(浅倉訳、1998年早川書房)

最後の審判の日がきたとき、情状酌量を訴えるなら、
その言い訳は――だれにも生んでくれと頼んだおぼえはない。


──芹沢俊介×三好春樹『老人介護とエロス/子育てと通底するもの』(2003年雲母書房)

人間は、その自己受止めができにくいように構造化されています。
なぜならば、私たちは根源的受動性というかたちで生を得るわけです。
あらゆるものが強制的に贈与されています。
つまり、責任がないということ自体が構造化されていますから、
何かが起こったときに責任がないという位置に逃げ込むという癖がついています。

ですから、そういう自分を一歩踏みとどまって、これはことによったら自分の問題かもしれない、
自分の責任かもしれないというふうに自己受止めができるということが、成熟ということですね。
したがって、自己受止めという観点を欠いた責任論というのは成り立たないんじゃないかと考えてきました。


──信田さよ子著『愛しすぎる家族が壊れるとき』(2003年岩波書店)

私が臨床経験を通して学んだのは、
「被害者性を十分に承認されることなく人は加害者としての自覚を持てない」ということだった。
つまり他者からこれまでの人生の苦しみを共感、承認されなければ、
そのひとは一体どのようにひどいことをしたのかについて一切自覚できないのであり、
まして責任意識など芽生えようもないのだ。
被害者性を承認してくれる他者との関係が成立して、初めてそのひとは自らの加害者性に気づき、
加害者に「なる」のだ。
 
加害者の当事者性は犯罪として罪を問い、責任を追及されることで構築されるのではなく、
被害者として援助されることで構築される。パラドックスめいているが、加害者こそケアが必要なのだ。


──芹沢俊介「吉本隆明「存在倫理」をめぐって」/吉本隆明『還りの言葉』(2006年雲母書房)

そしてこどものイノセンスの表出の受けとめという親の課題は無条件に最優先されなければならない。
その目的は「いる」の確定である。(M・バリント『一次愛と精神分析技法』)
 
D・W・ウィニコットは「ビーイング・マザー」(being mother)という。
ひたすら「いる」こと、「いる」ことによって子どもに自分を差し出している存在。

受けとめることの手前に差し出すという姿勢があることを知って、
わたしは自身の養育論を大きく前進させることができたという手応えを得たようにおもった。
いまここにおいて受けとめられること、
その受けとめられ体験が子どもの存在感覚「いる」(「ある」)を作っていく。

この信頼を通して子どもの内部に環境(世界の原型)と他者(他者の原型)を組み込むのだ。
このことは、「いる」こと、存在すること
すなわち「ある」はその本質において倫理的であることを物語っている。

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「Backstage──ハードプログラム、先行性」(参)

2020-04-09 | 参照

 

────G・ベイトソン『精神の生態学』佐藤他訳

食べることの誘因が多岐にわたるということは、
この生命維持に欠かせない行為が、きわめて広い状況で、
またさまざまな圧力の下で、間違いなく生じることを確証するものである。

もしそれが、血糖値の低下だけの直接的コントロールの下におかれていたとしたら、
その一つのコミュニケーション経路に何らかの異変が起これば簡単に死に瀕してしまう。
生命にとって本質的な機能は、単一の変数の支配に任されてはならない。
〈文明=環境〉システムのプランナーは、この鉄則を心すべきだろう。

The multiple causes of eating are likely to ensure the performance of this necessary act 
under a large variety of circumstances and stresses whereas, 
if eating were controlled only by hypoglycaemia,
 any disturbance of the single pathway of control would result in death. 
Essential biological functions are not controlled by lethal variables, 
and planners will do well to note this fact.

以上を換言すれば、
観念のエコロジーには、柔軟性節約の原理に絡んだ進化プロセスがあって、
このプロセスによって、どの観念がハード・プログラムされるのか決定されるということである。
同じプロセスによって、これらハード・プログラムされた観念は、
他の観念の配置構成を決定する核ないしは結節点に収まることになる。

というのも、このハード・プログラムされた観念にどうフィットするかという点に、
他の観念の生存がかかってくるからだ。
それはまた、ハード・プログラムされた観念が少しでも変化すると、
それと結ばれた観念の全体が変化に巻き込まれるということを意味する。

ただし、観念の妥当性がいくら頻繁に確証されるからといって、
その観念が正しいということの証にも、
長期にわたって実際的な役に立つということの証にもならない。
われわれの生の形態に深く沈んだいくつもの前提が端的に誤りであること、
そして近代テクノロジーの力を得たときには、
システムの生存を危うくすることは、今日われわれのまえに明らかになってきているところである。

In other words, in the ecology of ideas there is an evolutionary process,
 related to the economics of flexibility, 
and this process determines which ideas shall become hard programmed.


──河本英夫『臨床するオートポイエーシス』2010年

経験科学者であれば、リンゴの本性を知るためには、
できるだけ多種多様のリンゴを集めてきて、
そこから共通性を引き出す手順によって、リンゴの本性を知ることができる。
この手順が帰納と呼ばれる。
だがさまざまなリンゴを集めてくる段階で、ナシやカキは除外しているのである。
ということは調べてみる以前に、リンゴが何であるかはよく知っていることになる。
この調べてみる以前によく知っている場面で作動しているのが本質直観である。
これは生存を賭けたほどの知である。……
世界内のシバリ(本質直観の形成)は、最初の秩序とも呼ぶべきものであり、
これはみずからと環境との関連の組織化のための手掛かりである。

本質直観は、知覚の手前にあって、類型的なイメージ直観であり、
見て知るとは別の仕方でよく知っている行為的直観である。
人間の場合、この類型的なイメージ直観から知覚が出現する。
これによって次の動作に踏み出すさいの「予期」が可能になってくる。

 

 

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「Backstage──活性化」20200408  20191103

2020-04-08 | Weblog


定常性がゆらぐとき、生命システムは活性化する。
正の触発と負の触発──定常性のゆらぎは二つの方向からの「予期」の訪れとして現象する。

生命的システムはなんらかの修正、刷新、
状況から離脱の要請として「予期」を受信する。

正の触発──享受可能性、生のエロス、快、なんらかのアトラクターとの遭遇。
負の触発──エラー、矛盾、齟齬、対立、不全、不調、なんらかの苦境との遭遇。

生きられる状況(関係状態)はつねにモニターされている。
モニターしつつ存在すること、なんらかの「定常性の破れ」を感知しつつ生きること。

いいかえると、つねに関係状況をモニターしながら、
その破れの規模、波形、強度について意識主体に告げる作動があること。
そしてその告知は、つねに情動的作動として意識主体に告げられる。

情動の生成、その強度が高まるほど、生命的作動は活性化する。
生命的システムがみずからに告げる、正としてあるいは負としてあらわれる関係状況。

生の主題(欲望)の展開を拡張へみちびく状況の出現、
あるいは展開を阻害する状況の出現。
その要因は内的にも外的にも存在する。

なんらかの異変の告知、それを告げる情動生起。
活性化、白熱し、高まる内圧、覚醒度の亢進は、情動的告知の強度と照応している。

       *

「生きる意志」──Backstageの生きる意志は、意識主体に先行して動いている。
モニターされた関係状況の報告は、
つねに意識主体の意識の水面における情動生起として現象する。

この報告メッセージから読み取れることがある。
そこには、そのつどの情動が告げる内容の差異を問わず、
すべてに「生きる意志の基底的作動」という透明なラベルが張り付いている。

 

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「日本は詐欺国家」(参)

2020-04-07 | Weblog

  https://www.youtube.com/watch?v=ui9Q0pVNI3E&feature=youtu.be

 

Genocide is a process.
The Holocaust did not start with the gas chambers,
it started with hate speech.

                                           ──Adam Dieng 
UN Special Adviser on the Prevention of Genocide

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「L'espérance 希望」

2020-04-06 | Weblog

 

       *

「ところで一緒に踊りませんか」という幸いの、
最上級のコトバだけは知っておいたほうがよい。

ただし条件がある。

それが手段として、懐柔として用いられるときは、
笑って立ち去ればいい。

          *

世界の一部を切り取って「これが世界」と記述するのではなく、
記述され確定された命題が指定する場所への着地を拒みながら、
はじまりの場所への帰還をみちびく関係のモードがある。

「これが世界(関係世界)」という命題からズレを指摘しあうのではなく、
新たな記述(創発)のスペースを与えあう関係のモードがある。

        *
       
消えそうな光に気づく。
二度と出会うことができないもののように。
予感は心を熱くする。
ここにとどめる手がかりがみつからない。

ふるえ、おびえ、おそれ、かなしみ。
しかしそれは同時に、光を求める基底の意志を照らしている。

        *

それを見出し、かたちを与える道はつねに開かれている。
肯定する心の結節「然り」が「われ欲す」を構成するなら、
〈世界〉はつねに創発の契機を失うことなく生きられていく。

        *

ある感情はあるとき、一斉に、「関係の死」を裏書きするように動いていこうとする。
〈世界〉の失墜、不幸、悲しみ、苦しさ、貧しくやせ細った姿を証明したがっているかのように、
それにふさわしいコトバだけを選んでみずからを強化していく。
〈世界〉の完全なる砂漠化、喪失の感情に魅せられたように動く心がある。

        *

コトバたちを、ある必然性において、その逆の方角へ──
新たな「ありうる」をみちびき、ささえるものとなるように、
いま、ここで、つねに見出されていなければならない「よき感情」がある。

        *

重要なこと──未来を損なわないこと。
世界記述(関係項)の確定を急ぎすぎて未来を先取りしないこと。
相互に魂のフリースペース(intermission)を与えあうように。

        *

Backstageと共振可能なことばの構成へ──
唯一の手がかり、新たな生成の装置としての「私」を駆使すること。

世界が開示されるBackstageと「私」の開かれた対話の地平。
ただ一つ、世界の生成へ向かう作動を止めてしまわないこと。

「私」の外部に想定された「確定項」を参照するのではない。
二次的に生成し、外部化され、実体化され、確定された、
既知の関係記述から「関係」を問うのではない。

        *

記述のコードを書き換えること──

「客観世界」(共同信憑)の正確な理解、認識の的中率を競うのではなく、
生成の本源、「客観世界」という観念が生まれる原郷、
一切の作動の起点としての「私」の場所から始め、一切をたどり返すこと。

すなわち世界を記述する記述形式の根本的変更へ──

新たな関係記述の起点、世界生成の原郷は「私」以外にはいない。
間主観化され、記述を確定して外部化され客観化された世界から逆算するのではなく、
世界生成の原郷としての「私」の生成的作動、意志をそのまま開き切ること。
      
        *

けれど、それはいまだかたちを結んでいない。
いまだ宙に浮いたまま、未記述のまま向かう意志だけがある。
それでいい。この意志をキープすること。

それは単なる共振可能性ではない。
共振を条件として、単なる共振を超えて新たな関係記述が立ち上がるその先へ。

「そこで会おう」

そう告げることができる関係の位相がある。
客観世界から逆算されて規定される「私」ではなく、
「私」から立ち上がる客観世界、関係記述という現象の本質を視界に収めること。

そのことを条件として、世界、客観世界を生み出すはじまりの地平。
そこにおいて新たな〝関係のエロス〟を見出す視線と意志をキープする。

この「非-リアル」な位相を捉える視線は、人間にだけ許されている。
ただ許されているだけではない。
それは世界刷新の契機、つねによき感情、関係の意味を求める意志にかなう、
新たな「世界のエロス性」の生成、顕現の契機がそこにある。

 

 

 

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「オトナとコドモ」 20200405

2020-04-05 | Weblog

 


コドモは「待てない」
オトナは「待てる」

そのちがいをわけるもの──「時間」という契機の有無。
「時間」において示されるもの、すなわち状態遷移」
存在のありかた、かまえ、関係状況は変化する、変化しうることの認識。
それが「時間」という契機が示し、教えるものにほかならない。
    
      *

生物学的生理学的なちがいではなく、
精神のあり方から分かれる世界経験のちがい。

社会的年令とは相関しない思考、感情のモードがある。
そのちがいを生む決定的な要素──時間という契機。
時間という契機がその思考、感情の動きに組み込まれているか否か。

「嫌いなピーマンもいつか好きになる」
その逆もある。人間は変化する。

この変化は恣意的な操作では導くことはできない。
けれども、時間という契機を投入することで、
「待つ」という態度を生むことになる。

「砂糖が溶けるには一定の時間を必要とする」

変化はすべて〝関係〟という非実体的なパターンの変化として起こる。
抽象化すれば、それは人と世界の関係構造の変化を意味する。

変化(可変性)に対する感度を、その思考と感情のうちにもつこと。
時間とともに変化する可能性についての了解は、
必然的に、「現在」における関係意識、関係態度を変化させることになる。

変化しうることに新たなありうる(存在可能・関係可能)を見出せるか否か。
ネガティブな捉え方も、もちろんある。無常観、ニヒリズム。

人間的生にとっての「希望」の原理は、しかし、
すべてそれをポジとして見出し、生きることのうちにある。
さらに大事なことがある。それは単体としての存在にとっての希望ではなく、
すべて〝関係〟的なものとして現象する。

一方、現実の諸相を事実として、実体として、ある時点における決定的配置として、
それを動かせない完結した姿として捉える思考、感情。’
たとえば現実主義、力の論理(あるいは、決めつけの論理)が立ち上がり、
集合的に生きられる土壌がそこにある。

コドモの論理、コドモの世界。オトナの論理、オトナの世界

───それは必ずしも社会的年令と相関しない。

 

 

 

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「召喚ポイント」 20200404

2020-04-04 | Weblog


「待たせてごめんなさい」
「おつかれさま」
「お久しぶり」

視覚に映らない出来事が現象している
ただ声だけが聴こえている
どこにも記されることのない内なる出来事として

失われた光、消えかかる光、取り返せない、呼び戻したい光
「いま、ここに」
目にすることのできない透明なリンクが時と時をつなぎ合わせる

色もかたちもなく感情が織り上げていく
どこにも航跡をとどめない生の波形を描くように

裏がわにあって姿を現わすことのない涙、怒り、感情の痕跡
語られることのない、メモリに刻まれた召喚ポイント

かなえられぬ思い、かなえたいなにか
帰らない時間、気づけないでいた時間

手を振りながら、振り返り、なんどもループを描いて
いつも時間をたずさえて駆けているもの、うずくまるものがいる

「時間だね」

すべてはけっして明かされることのない
かたちを結ぶことのない
ひそやかに滅びていく光と光を結び合わせる出来事として

月明かりに照らされて歩き、あなたはただ微笑みを返す

 

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「関係のゲーム」 20200403

2020-04-03 | Weblog

 

「情報閉塞。血栓ができて血管が詰まる状態かな?」
「うん」
「なぜ?」
「一種のオブセッション。いいかえると、情報を受け入れる血管が硬くなっている。
その結果、情報選択と情報受容において排他性が高まり、流動性が失われる」
「強迫神経症的在り方かな、つまり感性的な停滞に結びつくわけ?」
「感性的な停滞、麻痺、不感症。ひいては特定環境への執着、外部の遮断、情報梗塞による血圧上昇」
「どんな理由から、そんな状況が生まれるのかな」
「情報受容の偏りは意味論的な歪みに由来する」
「意味論的な歪み?」
「みずからを組織化するアルゴリズムを包括する上位の〝意味〟に偏向やズレがある」
「情報に対するまちがった編集ルールの適用?」
「いいかえると視野狭窄。その基底には総じて世界に対する〝不安〟や〝不信〟がある」
「個人や集団の歪んだ経験がその背後にある?」
「みずからの環境全体に対する不信が拡大した状態ともいえる。
それゆえに好ましい情報のみをハンディに所有したい、
てっとり早く世界を縮約して、都合よく理解のポッケに収納したい欲望が生まれる」
「世界の単純化?」
「そう。例えば特定の世界記述、真理概念、あるいは正義概念の突出とそれに対する執着」
「依存ともいえそう。うつくしいナントカ?」
「一見してカッコいいと捉える向きも存在する。少なからず」
「あほだから?」
「単純なビジョンを使って認知コストを低く抑える。それ以外の多様なビジョンを否定して独善に至る。
独善で直進できればきもちいい。そして、それを見てカッコいいと感じる連中もいる。
それが糾合されて専制的政治が生まれる、ということも起こる」
「単なるわがまま?」
「わがままであることは誰も避けられない」
「わがままが過ぎる?」
「個人的な生の体験にしぼれば、オープンネスが導く〝生の享受可能性〟の拡張という経験の不足がある」
「心を開くことが楽しいという経験が不足しているって?」
「うん。それゆえ、傲岸、不遜、自我肥大、誇大妄想を制御する内的メカニズムが不在」
「な~る」
「別の云い方をすれば、環境世界の複雑さに対する怯え、フォビアとも云える」
「世界の複雑さ?」
「人間の関係のゲームはさまざまなプレーヤーがいて複雑な局面へと展開していく。
複雑さを迎えることが不安な場合と、それが楽しいという心的かまえがある。
この分岐もゲーム世界に対する信頼や親しみの経験の夥多から起こるように思える」

 

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渡辺京二「犬猫のおしえ」(参)

2020-04-02 | 参照

 

よくある災難にすぎないが、はねられて、それでも必死にわが家の前まで
帰りついて死んだという事実が胸にこたえた。

彼にしてみれば、苦痛と惑乱のなかで、ともかくももっとも安全なところ、
なつかしいところ、あえていえば自分を愛してくれる者の居るところへたどりつこうとしたのだ。

猫にしろ人間にしろ、生きることはさびしさの極みであって、
それゆえにこそ愛慕の衝動を断ちがたい。
そういういのちの原型をみせつけられるようでたえがたかった。

そして学問芸術であれ、あるいはこの世のさまざまな勤労であれ、
一切の人間の営みはこのようないのちの切なさをみすえてこそ、
まともでありうるのだと、彼ら人間のきょうだいから教えられるのである。

 

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