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「ところで一緒に踊りませんか」という幸いの、
最上級のコトバだけは知っておいたほうがよい。
ただし条件がある。
それが手段として、懐柔として用いられるときは、
笑って立ち去ればいい。
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世界の一部を切り取って「これが世界」と記述するのではなく、
記述され確定された命題が指定する場所への着地を拒みながら、
はじまりの場所への帰還をみちびく関係のモードがある。
「これが世界(関係世界)」という命題からズレを指摘しあうのではなく、
新たな記述(創発)のスペースを与えあう関係のモードがある。
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消えそうな光に気づく。
二度と出会うことができないもののように。
予感は心を熱くする。
ここにとどめる手がかりがみつからない。
ふるえ、おびえ、おそれ、かなしみ。
しかしそれは同時に、光を求める基底の意志を照らしている。
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それを見出し、かたちを与える道はつねに開かれている。
肯定する心の結節「然り」が「われ欲す」を構成するなら、
〈世界〉はつねに創発の契機を失うことなく生きられていく。
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ある感情はあるとき、一斉に、「関係の死」を裏書きするように動いていこうとする。
〈世界〉の失墜、不幸、悲しみ、苦しさ、貧しくやせ細った姿を証明したがっているかのように、
それにふさわしいコトバだけを選んでみずからを強化していく。
〈世界〉の完全なる砂漠化、喪失の感情に魅せられたように動く心がある。
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コトバたちを、ある必然性において、その逆の方角へ──
新たな「ありうる」をみちびき、ささえるものとなるように、
いま、ここで、つねに見出されていなければならない「よき感情」がある。
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重要なこと──未来を損なわないこと。
世界記述(関係項)の確定を急ぎすぎて未来を先取りしないこと。
相互に魂のフリースペース(intermission)を与えあうように。
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Backstageと共振可能なことばの構成へ──
唯一の手がかり、新たな生成の装置としての「私」を駆使すること。
世界が開示されるBackstageと「私」の開かれた対話の地平。
ただ一つ、世界の生成へ向かう作動を止めてしまわないこと。
「私」の外部に想定された「確定項」を参照するのではない。
二次的に生成し、外部化され、実体化され、確定された、
既知の関係記述から「関係」を問うのではない。
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記述のコードを書き換えること──
「客観世界」(共同信憑)の正確な理解、認識の的中率を競うのではなく、
生成の本源、「客観世界」という観念が生まれる原郷、
一切の作動の起点としての「私」の場所から始め、一切をたどり返すこと。
すなわち世界を記述する記述形式の根本的変更へ──
新たな関係記述の起点、世界生成の原郷は「私」以外にはいない。
間主観化され、記述を確定して外部化され客観化された世界から逆算するのではなく、
世界生成の原郷としての「私」の生成的作動、意志をそのまま開き切ること。
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けれど、それはいまだかたちを結んでいない。
いまだ宙に浮いたまま、未記述のまま向かう意志だけがある。
それでいい。この意志をキープすること。
それは単なる共振可能性ではない。
共振を条件として、単なる共振を超えて新たな関係記述が立ち上がるその先へ。
「そこで会おう」
そう告げることができる関係の位相がある。
客観世界から逆算されて規定される「私」ではなく、
「私」から立ち上がる客観世界、関係記述という現象の本質を視界に収めること。
そのことを条件として、世界、客観世界を生み出すはじまりの地平。
そこにおいて新たな〝関係のエロス〟を見出す視線と意志をキープする。
この「非-リアル」な位相を捉える視線は、人間にだけ許されている。
ただ許されているだけではない。
それは世界刷新の契機、つねによき感情、関係の意味を求める意志にかなう、
新たな「世界のエロス性」の生成、顕現の契機がそこにある。