ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「生成としての〝普遍項〟」  20190903

2019-09-03 | Weblog

          https://www.youtube.com/watch?v=G9H2VrgM2Vw

 

「本体」としての真・善・美──その純金の理念の光に目がくらみ、視覚は閉ざされ、見えなくなるものがある。 「絶対善・絶対正義・絶対客観」の絶対的自明性から思考をはじめると、関係世界における経験は必ず行きちがうことになる。 だれがソレにソコに近いか遠いか、すべては「信仰」の問題となるほかない。

「よい人」(正義・善・真)という自意識に、他者のまなざしを収れんさせることはできない。 千とおり、万とおりの他者のまなざしがあり、千とおり万とおりに生きられる生がある。 共生、共存をねがうなら、この自意識はどこかで解体しなければならない。

千とおり、万とおり、億とおりのまなざしが共生、共存する空間が可能であるためには、 ただひとつの視覚に映るランドスケープ=〈世界〉を〝真〟とすることはできない。

共同的営みを意志するかぎりにおいて、必然的に要請される、集合的な合意と了解の位相。 それぞれの異同、自由を生かすことを可能にする共通の合意項(ルール)の生成。

いまだ現われざる「普遍」といういわば関係項──集合的生成としての合意項。

億とおりの視覚がそのまま生きることが可能になる第三の視覚──普遍項の生成。 億とおりの見え方の多重記述から導かれ、世界に加えられる新たな〝奥ゆき〟の可能性。

 

 

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