同時に個体はそのようであるままでまた、
同種や異種の他者たちの作用し誘惑する力の磁場にさらされている。
聖テレジアの恍惚は、個体の経験することのできる至高の経験が、
どんなにその原初のかたちから遠いものでも、
個体という存在自体が裂開してしまうモメントを孕むという逆説を表象している。
けれど、この自己裂開的な構造こそは、個体を自由にする力である。
わたしたちの欲望の中心に性の欲望があるということは、
個としてのわたしたちの欲望の中心部分が、
あらかじめ個をこえたものの力によって先取りされてしまっているということだ。
もちろんわたしたちは性の欲望を、遺伝子の再生産につながらないような仕方で、
さまざまなヴァリエーションで享受する。
それを個の類に対する反逆の勝利といってもいいが、
それでもその個の歓びは、類が(生成子=遺伝子が)あらかじめ
個の身体の中心に装填しておいた感覚の能力に依存している。
性とは、個という存在の核の部分にはじめから
仕掛けられている自己解体の爆薬である。
(真木悠介『自我の起原』1993年岩波書店)
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世俗の一切の禁止命令の外へ
「おいで」
わずかな抵抗も不服従も、一瞬のためらいも許さない
存在を拉致する磁力の顕現、絶対的指令
存在の核芯に鳴り響く声、われ欲す
歓喜、恍惚、苦悶、情動、快の極相があらわになる地平へ