ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

如来とのメタローグ――Ⅵ

2013-01-11 | Weblog


   ある体が他の体に、ある観念が他の観念に「出会う」とき、
   この両者の構成関係はひとつに組み合わさって、
   さらに大きな力能をもつあらたな全体を構成することもあれば、
   一方が他を分解して、その構成諸部分の結合を破壊してしまうこともありうる。

          ――ジル・ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』鈴木雅大訳


「アンサンブルにハーモニーが出現するとき、とても大切なことがあります」
「なんでしょう」
「コントロールする特権的な主体が、どこにもいないということです」
「指揮者がいるでしょ」
「指揮者もアンサンブルの一部であり、ハーモニーの創り手ではありません」
「そうかな」
「環境を整えるだけです。ハーモニーに向かう集団のまとめ役」
「楽譜もあるけど。楽譜は演奏を制御するプログラムでしょ」
「コードにハーモニーを書き込むことはできません」
「作曲した人はどう?」
「作曲家は最初にハーモニーを直観人ですが、演奏に関わる人ではない」
「誰もコントロールしていないのかな」
「ええ。ただ、ハーモニーが出現するときの条件があります」
「なんでしょう?」
「呼びかけ-受けとめ-応答。この相互的なプロセスの途切れのない連鎖があります」
「演奏者同士の?」
「はい。このプロセスが起動して、演奏者はみずからをチューニングしつづけます」
「なんとなくわかる」
「チューニングは、かつて-いま-これからという音の連なりのなかで行われます」
「でも、そのチューニングは何を参照して行われるのだろう?」
「観念でも物質でもない、未知なるハーモニーが予感されています」
「未知なる?」
「はい。触ることも説明もできない、ただ体験されるだけのものです。
「でも未知なるものは参照できないでしょ?」
「自然に生成するものとしかいえません」
「精神のなかに?」
「ええ。美しい音楽を聴くときも、わたしたちの精神はこれに触れています」
「予感され、体験されるだけねえ」
「しかしこの予感には確信が伴っています」
「確信?」
「はい」
「触れることも、示すことも、考えることもできないのに?」
「思弁的には特定できません。しかし、生命には別の能力があります」
「何?」
「feel、―それが予感をもたらすものです」
「ええ?」
「感じること。生命にとって基底をなす能力です」
「人間にとっては、理性のようなもののほうが重要じゃないの?」
「ちょっと考えればわかります」
「そうかな」
「例えば、理性でピアノを弾く、理性で野菜を刻む、理性で道を歩く」
「でも科学の世界では、理性が必要でしょう」
「錯覚です」
「おっと、言いきりましたね」
「理性は重要なのはもちろんですが、事後のものです」
「後からできた?」
「というより、後からついていくものです」
「感じることに先行できないということ?」
「まさしく」
「でもなあ」
「すべてのいとなみに、feelが起動しています」
「曖昧でつかみどころがないな」
「でも、美しい音楽があることは疑えません」
「もちろん」
「それを受け取るのは理性でしょうか?」
「ちがうか」
「それは確かにあり、確かに体験として刻まれる。けれど何かは説明できない」
「まあね。説明できたらおかしいのかな」
「はい。feel。それは生命のいとなみの基底、母体を告げるものです」
「生きることぜんぶに?」
「ムカデが歩くときもそうです」
「ビミョーかな。まだ不協和音が鳴っているのだけど」
「わかります。無理もありません」
「だから?」
「逆に、feel―感じることが壊れると何が起こるか、そこから考えてみます」



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