ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「〝人権〟生成の第三領域──インターミッション 」(twitter)20190511

2019-05-11 | Weblog

 

うつくしい理念的結晶としての「9条-護憲」。われわれはこの宝の持ち腐れの現実を生きている。この宝にはみずからの取説も、持ち腐れの現実を刷新する方法も記載されていない。あの「うつくしいナントカ」と同じ抽象レベルにとどまっている。

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「正しいのはどっち」という二項的問いに絡めとられると、第三項を含んだ巨大な思考領域が消失する。

右か左か。正義か悪か。加害者か被害者か。イケてるかイケてないか。「人権」という概念が生まれる位相はそれとは別のところにある。

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世界に「こっち/あっち」を分ける透明な切れ込みを入れる。「こっち」側にはミソもクソも一緒くたにした「よい人」たち、「あっち」側にはミソもクソも一緒くたにした「わるい人」たち。ずっとこれでやってきたけど「そろそろ飽きない?ダサすぎません? 」

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善い人はますます善く、悪い人はますます悪い。善と悪をバインドして、最後には、せん滅を望むのですか、平和の民さんたち、と〝9条の心〟は呟きました。

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お仲間内でよい人よい子であることが価値的マックスであるとき、お仲間外はどうでもよいアホ、クズ、ゴミの集まりにみえる。そんなことが起こる。ゴミの存在を前提にした関係構造はどんなに拡大しても、世界の全域(普遍)に到達できない。その居心地よさにのぼせて普遍的価値を名乗らないでね。

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のぼせるだけならいいけど、普遍を名乗るのはNGね。それで破滅したクニがあり、とりかえしのつかない惨劇に世界を導いた根本的理由もそこにあった。

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「普遍的価値」を語りながら、部族的心情しかもてない国の倒錯性。サヨ、ウヨ、リベ、エトセトラの部族社会、部族の言語。 自然、子ども、弱者、9条、人権──部族存続のツールに転用されるもの(用材化)。脱部族化してはじめて本当に出会えるもの。 

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「平和」へのナビゲーションは、希望や倫理や理想理念の競合ではなく、一般意志として構築された「法」を必要とする。この共同構築作業において問うべきではない項目、「法」(ゲーム設定)が貢献し可能にすることになる個人の生き方、人格、趣味、生き方、思想信条のちがい。

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いい人だということはわかっている。けれど、「法」にしか可能ではないナビゲーションの位相、関係的な原理があることを知っておくべきだ思う。

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私闘も公闘も不可避的に起こる生活世界の中で、常時、人権概念を携えその具現として生きることはできない。オフサイドラインは常に破られる。ただ「法」のみが常時それを具現し人と人との関係に適切なナビゲーションを与える力をもつ。「法」の不在を埋める倫理も存在しない。 

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単なる希望の表明、希望の連帯は「反」自体を拠点化する。人格、個性、無学を攻撃することで変化は生まれない。むしろ火を注ぎ強化する。人格、趣味、価値観、思想信条を排した「法」(ルール)の思考にたどりつけない。

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権力=悪、反権力=善の古典的図式を捨てなければ、いつまでも対立の概念(造反有理)しか出力できず、暴力原理の抑止、再配分と一般福祉、外交(国防)といった役割付託のメニューと意志が消える。政治(権力)の正当性の根拠から本質的な批判を構成できず、普遍化(世界化)の道にも乗り出せない。 

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身内を殺されて黙っている人間はいない。しかしそれが全面展開すると地獄が生まれる。唯一、「法」によるナビゲーションだけがそれを抑止する可能性をもっている。

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そこにたどりつけないということは、結局、関係意識の全般が「身内とそれ以外」という構造に収まることを意味する。

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そこにたどりつくには、感情と行動の直列状態を一時解除しなければならない。 そのことを学ぶには、音楽が教える「転調のエロス」がヒントになるかもしれない。つなぎ目に差し込まれる無音、演奏一時解除(インターミッション)。

 

 

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