ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「他者、実存の外部」20240909

2024-09-09 | 参照

 

 

 


つまり「倫理」は、まずあくまでも人間の実存的な存在配慮(自己配慮)に、
またその内的な自己確信ということにその本質的根拠をもっている。
しかし「倫理」の本質の全体性はまたこの実存論的「主観性」の圏域には
完結されず、かならず「間主観的」領域へとすなわちその「外部」へと
展開されざるをえない、という問題である。

この普遍的な「他者」への愛という理念は、すでにイエス・キリストによって
ヨーロッパ史に登場していた。しかしそれは、結局、世界宗教という理念の
場所で行き止まりになるほかなかった。宗教戦争を克服する原理は
宗教の理念自体のうちには内在しないからだ。

現象学の方法では、「倫理」や「善」の本質を捉えようとするなら
個別的な内的実存におけるその本質から出発し、そこからこれを
「間主観的」に展開するという順序をとらなくてはならない。
そして、この方法によって取り出される「倫理」の問題の本質的アポリアは、
「福徳一致」や「万人への愛」といったアポリアではなく、
「信念対立」というアポリアにほかならない。

この「信念対立」の問題は、宗教や世界観、価値観の対立として
もっとも普遍的なかたちで現象してきたし、また近代哲学の
「認識問題」(主客の一致)の本質的動機でもある。

絶対的な「自己の声」と絶対的な「他者の声」という対立は、
それらが一切の外的な超越項から自立して実存的な内部の
「自己の声」にのみ依拠するかぎりにおいて、
「倫理」の本質を各自的な実存の場面からさられに社会的な
普遍性の場面へと連れ出し、この解きがたい矛盾の解決を迫らせる
根本的動機となるのである。

「良心の疚しさ」(*責めあり・罪の意識・負の良心)の問題が
「良心」の問題、つまり自己自身の内的な「ほんとう」の了解に
先行することはありえないのだ。

 

 

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