未熟なカメラマン さてものひとりごと

ようこそ、おいでくださいました。

朝茶を楽しみました。

2012-07-11 20:51:52 | 茶道

朝、5時半ごろの市民茶室・不老庵

7月8日、日曜日、井原市民茶室・不老庵で、私が所属する茶道上田宗箇流・井原遠鐘クラブの例会があり、会員8名が参加して朝茶が行われました。私はおもてなしをする側の一人として、早朝5時から準備を手伝いました。
蹲踞を清め、水を張ります。待合をきれいに拭き、露地や木々の梢にもたっぷり打ち水をし、蹲踞の替えの水も木桶に準備して用意万端です。今日の床の花は、先生が朝から取ってこられた朝顔一輪。本当は白色がよかったとのことでしたが、なかったので、ということで紫色の朝顔です。
以前、このクラブで初めて夜咄を体験しましたが、この朝茶も初めてです。



朝顔一輪

6時前になると、お客(といってもクラブ会員です)がやってきて、つくばいを使って席入りです。このあとの中立ちのために、すぐに蹲踞を満たしておきます。
茶道の朝茶ですが、7月や8月など、酷暑の夏には、昼間に客を招くことは暑さのつのる折からまず無理なことで、午前5時または6時にお招きして、熱くなる9時頃までに済ませる茶事、すなわち朝茶事で客をもてなすことになります。夏の早朝の「涼気を楽しむ」茶事です。今日では、朝茶は夏に行われる茶事になっていますが、昔は四季を通じて行われていたようです。
手順は、「風炉の正午の茶事」のままで進められます。
お茶は時間を短くするため、濃茶を出した後、そのまま薄茶をたてる「直点(すぐだて)」となることが多いようです。
夏の朝のため、料理も軽いもので、生ものは使用しません。
主人と客のお互いの挨拶のあと、
「配膳」「銚子・盃」「飯器」「汁替え」「相伴」「箸洗」「八寸・銚子」「納盃」「湯桶・香の物」と続いたあと、箸の落とす音を聞いて膳を引きます。
 お菓子を出した後、中立となり、お客は待合で待機します。
後入りは、朝顔に代って軸に掛けかえられます。準備ができると、ここで私の出番、銅鑼で入席の案内をします。最初は、ドンと強めに叩き、余韻を待って小、中、中、そして最後に大きくドンと叩きます。このときちょうど時刻は予定の7時半でした。
客は、再びつくばいを使って席入りします。
濃茶のあと、直点てで薄茶をいただきます。こうして本日の朝茶は終了となりましたが時刻は、これも予定の9時。あっという間の3時間でした。
今日は、裏方に徹しましたが、満足げに退席をするお客を見送ると、やり終えたという充実感で、とてもさわやかな気分でした。一応、相伴という時間も取ってありましたが、実際には食べる時間もなく、終了したあとで、ゆっくり頂戴しました。赤だしのお汁のなんとおいしいこと。そういえば、朝からなにも食べていないのでした。
これで、夜咄、朝茶と体験できたわけですが、本を読むと、「暁の茶事」というのもあるようで、次回はこれを進言しようと思いました。



後入りに掛物 滝 直下三千丈
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高田屋嘉兵衛と大黒屋光太夫

2012-07-10 22:43:25 | 歴史

兵庫県洲本市五色町 高田屋嘉兵衛公園 日露友好の像

先日、淡路島の高田屋嘉兵衛の記念館を訪ねました。しかし、彼の名前こそ知っていましたが、ロシアに関わりを持った人ぐらいの知識しかなく、また、私自身が、大黒屋光太夫とも混同している部分も多くあって、これは顕彰会の人に失礼だなと思い、改めて両者のことについての史実確認と顕彰をしてみたいと思いました。
これが、卒論のテーマだったら、どんなに楽しかったことだろう、と思いながらネットで資料を抽出し、詳しく読み直してみました。その後、調べて行くうち、同じようにロシアに抑留され稀有の体験をした若宮丸の人々のこと、そしてさらに時代は下って、アメリカに渡ったジョン万次郎のことにも連鎖的に興味が湧いてきました。

≪時代の背景について≫
日本
江戸幕府による鎖国が行われており、海外とは、中国、オランダのみ通商が行われていた、松平定信は、ロシアのとの通商を始めてもよいと思っていたが、失脚。結果的にアメリカのペリー来航まで開国がのびてしまった。
ロシア
ロシア皇帝は、日本との通商を始めたく、漂流民を日本語学校の教師にし、きたるべき時に備えて準備をすすめていた。漂流民を日本へ返すという大義名分のもとに日本に来航し、通商を求めるがガードが固く断念。

まず、高田屋嘉兵衛(たかたやかへい)ですが、淡路島の出身で水主から船頭となり、その後、幕府に協力して北方航路を開拓し、その後は函館に活動拠点を移して町の発展や漁場の開拓に大いに尽力しました。嘉兵衛が北方で活躍していたころ、通商交渉のもつれに端を発した双方の誤解から、ロシア船のゴローニン艦長が幕府警備隊に捕らえられる事件がおこりました。副艦長リコルドは、艦長の消息を聞き出そうと偶然近くを通りかかった嘉兵衛の船を捕らえ、カムチャッカへ連行抑留してしまいます。

囚われの嘉兵衛とリコルドは同じ部屋で寝起きし、「一冬中に二人だけの言葉をつくって」交渉、この両者の信頼関係が、遂にゴローニン釈放に至る両国の和解を成し遂げました。彼の尊敬すべきところは、函館の街が焼けてしまったとき、私財をなげうって修復に努め、また第一線から身を引いて故郷に帰ってからも、町の復興に尽力したことです。その前向きの姿勢と行動力を、小説「菜の花の沖」を書いた作家、司馬遼太郎も「いつの時代においても第一線で活躍できる人」と評しています。ただ、それまでの苦労が体をむしばんでいたのでしょうか、59歳という若さで亡くなっています。
ただ、ひとつ残念だったのが、家業を継いだ弟の金兵衛が、密貿易の疑いで財産を没収されてしまったことです。
 ところでゴローニン艦長は、国後島で捕虜となり、松前で2年間、牢獄で抑留生活を送りましたが、その時に観察した日本人論を「日本幽囚記」として発表しています。日本人を見る彼の目は暖かく、日本人はまず平和を愛好する国民であると述べ、その高い教育水準、過度ともいえる礼儀正しさなどについて、賛嘆を惜しんでいません。後にこの本を読んだトルストイやドストエフスキー、ニコライ神父にも日本への関心を喚起したといわれています。
現在、函館市には函館高田屋嘉兵衛資料館が開設され、函館山の麓には高田屋嘉兵衛の銅像が建ち、護るように函館市内を見下ろしています。
(“漂流民・大黒屋光太夫と彼を支えた人たち”につづく)

コメント (3)
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淡路島の旅(6月23日後半)

2012-07-04 22:03:39 | 観光名所

淡路島で見られる玉ねぎ小屋

 「あわじ花さじき」を出て次に向かったのが、「淡路ファームパーク・イングランドの丘」です。高速に乗り直し、洲本ICで下車しました。洲本市の市街地に入ると、さすがに町だけあって信号がいくつもあり、道路も少し渋滞ぎみです。しかし、このような町中に、パンフレットにあった、あの大きな公園がほんとにあるのかと、不思議な気もしましたが、標識にしたがって進むと、少しだけゆるやかな傾斜地に、駐車場があり公園がみえてきました。
 公園の駐車場は5割ほどの入りでした。遠いところはかなり空いていました。入園ゲートは、それほど豪華でもなく、ちょうど岡山でいえば、「ドイツの森」の入園口に似ていると思いました。
駐車場奥のとなりの畑に小屋があり、玉ねぎがびっしり吊り下げられていました。私の地元では、菜園で栽培した少量の玉ネギを風通しのよい軒下に吊るしますが、まるで鶏の厩舎のような光景には、とても驚きました。壁は無くオープンで、しかも道路のすぐ傍なので、まさか盗む人はいないでしょうが、少々盗られてもどうってことはない、というところでしょうか。また、あとで知り得た情報ですが、通常、玉ねぎの栽培期間は4か月だそうですが、淡路島では半年(12月定植、6月収穫)もの日数をかけじっくり栽培するのだそうです。さすがに日本で三番目の産地だけのことはあります。(実は、この後、いたるところでこのような小屋を見かけました。)

さて、この公園は大きく二つのエリアから構成されています。入園ゲートを入ったところにあるのが「グリーンヒルエリア」といいます。モルモットやウサギなどとふれあえるコーナー、ワラビーやペリカンもいます。そしてこのエリアの一番のウリがコアラ館です。実は個人的に、コアラを見るのは初めてでした。オーストラリアから送られたというコアラが5・6匹。いずれも太い木の上でお昼寝の最中でした。なるほど、ぬいぐるみのようです。かわいいですね。

コアラ館を出ると木立と芝生のエリアを抜けて、あったのが本格的なロックガーデン、そして大温室です。これらを見終えて、もう一つのエリア、「イングランドエリア」に向かいましたが、実はこの二つのエリアは、約700mも離れています。蒸気機関車の形をした無料のシャトルバスが、ピストン送迎をしています。「イングランドエリア」はさらに広く、最初に迎えてくれるのが、バラ園です。なんとこの時季に見ごろとなっていました。私も個人的に小さなバラ園を持っていますが、随分参考になります。なかなかこのようにきれいに管理できるものではありません。背後にあるペンキで白く塗られた板壁の、どこからか移築したと思われるレトロな建物と非常にマッチしていました。
お昼もだいぶ過ぎ、お腹も空いてきたので、レストランで食事をすることにしました。セルフサービスでした。遅い時間ということもあって百人も入れるようなホールにいたのは、数組のみでした。でも味はなかなかのものでしたよ。
食事のあと、再び園内を散策、お花畑は、季節の花の入れ替わりの時季でしょうか、花はなく、小さな苗が植えられているだけでした。羊のエリアでは、青々と育った若草を羊が食べていましたが、ぶちぶちと音がして、引きちぎっているような音が聞こえていました。あと人懐こい陸ガメや、ポニー、サラブレッドもいる乗馬体験コーナー、大きな池にはボートもあって、多くのファミリーで賑わっていました。ちびっこには楽しいエリアですね。

「イングランドの丘」を出て、次に向かったのが本日、最後の目的地、高田屋嘉兵衛の高田屋顕彰館・歴史文化資料館「菜の花ホールです」五色町まで海に面した松林を横目に海岸線を走り、30分ほどで目的地に到着しました。
ロシアに捕らわれの身となり、一年後、自ら交渉の結果、日本に帰ることができた高田屋嘉兵衛。私の頭の中では、この高田屋嘉兵衛と大黒屋光太夫とを、どうも混同してしまっていたようです。館内では、大型スクリーンに、以前、NHKでテレビ放映された番組が15分程度に短縮されて放映されていました。そしてホールを出る頃、時刻は、ちょうど、16時になっていました。想像以上にいろんな観光地がある、淡路島、こんどは、違った季節にまた訪ねてみたいと思いながら帰路に着きました。



イングランドの丘 バラ園


高田屋顕彰館・歴史文化資料館(菜の花ホール)

旅の詳細な画像は、こちらでどうぞ。未熟なカメラマン/日帰り旅日記
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淡路島に行ってきました。

2012-07-02 22:02:04 | 観光名所

ヒマワリと三尺バーベナ

6月23日、生まれて初めて淡路島を訪ねました。井原からの所要時間は約2時間半。山陽自動車道・三木JCTから南下し、明石海峡大橋を渡って淡路ICで下車するというとてもわかりやすいルートです。しかしいつも思うことですが、岡山県の西の端、井原からみると、岡山県内でも、岡山ICから東が何と遠いことか。
明石海峡は初めて渡りましたが、さすがに巨大です。橋からの海は、残念ながら霞がかかってよく見えませんでした。
淡路島観光、今回の最大の目的地は、「あわじ花さじき」です。私の掲示板にお便りをいただく添付画像に、「あわじ花さじき」のものが度々ありました。ということで私も一度行ってみたいと思っていたわけです。
 淡路ICを降りて、山道を走ること約15分で「あわじ花さじき」到着です。散策に一番近い休憩所前の駐車場は、すでに満車と思いきや、タイミングよく一台が空いてなんとか停めることができました。休憩所で売られていたのは、みかん、あれ!?よく見ると玉ねぎでした。淡路島は玉ねぎの一大産地なのですね。
せっかくなので、日本の玉ねぎの産地を調べてみました。春まきと秋まきがあります。日本一生産量が多いのが、北海道(春まき)で全体の5割強、だそうです。次に佐賀県、兵庫県(主に淡路島)(ともに秋まき)と続きます。ということで、日本で3番目なのですね。

遊歩道を歩くとすぐに視界が開けてきます。大阪湾方向を見下ろす傾斜地に広がる花の丘は圧巻です。でもシーズンオフなのか花壇にはケイトウやサルビアが咲いていましたが、花畑のポピーは終わったあとなのでしょうか。少しさびしい感じもしました。確認のため、まず展望台にあがってみることにしました。それにしても、二段からなるこの展望台の階段、尋常ではありません。何と急なことか。でもさすがに見晴らしはいいですね。
展望台から降りて、お花畑に向かおうとしたとき、どこからかきれいな馬に乗った女性が丘を降りていきました。乗馬のあの帽子と、ムチ、たずなさばきも巧みで落ち着いており、「かっこいい!」と思いました。あとで調べてみると、この近くに乗馬クラブがあり、「あわじ花さじき」も馬に乗って散策できるとのことでした。

さて、花壇に、少しですが、ヒマワリも開花していました。そして一番見ごたえがあったのが、三尺バーベナ、たくさんのチョウやハチ達が飛び交い、絶好の被写体となりました。木陰やベンチでお弁当を広げる、カップルや女性グループ、そしてファミリー、天気がよければ海も見えて最高だったでしょうが、今日のところは、雨が降らないだけでも良しとせねばなりません。(つづく)



乗馬を楽しむ女性


歓びの庭

さらに詳細な画像はこちらでどうぞ! 未熟なカメラマン/日帰り旅日記
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