今日は昨日のアイフォン6落下&ヒビショックで、まだ一行も本を読んでいません。
あまりファンタジーは読まないのですが(といってもダレンシャンは全巻読破してしまったけど)、
本屋大賞1位になった上橋菜穂子さんの「鹿の王」を読んで見たくて、
守り人シリーズも買い積んだままなのに、ふらふらと書店へ。
で、本の値段を見たら、ヒビが入ったアイフォンがぱっと浮かんでね、
出費のことを考えるとさすがにダルマ状態、今日は我慢して帰ってきました。
で、上條菜穂子さんの歳を知ってびっくり仰天。てっきり70代だと思ってた。
どうも戸田奈津子さんとイメージがごっちゃになっていたみたいです。
さて、ヒビが入っても時間は刻々と過ぎてゆきます。
今日はまた10日が経ち、このシリーズの日がやってきました。
いつものようにこの10日間に読んだ(読み終えた)本の17ページの6行目をアタマから書き写しています。
17ページって、意外と絵とか扉とか区切りのページが多くてね、文字がないことも多々あります。
あとは雑文です。
ねむり/村上春樹
猫とあほんだら/町田康
しかしよいことばかりとは限らず、それだけ広いのにもかかわらず価格も安いこの物件
蕎麦屋の恋/姫野カオルコ
「いいですよ。夕食どきだから、観てるうちに腹がへるだろうし」
東京日記 卵一個分のお祝い。/川上弘美
一把きっちり食べて、満足する。
いまだ下山せず!ドキュメント山岳遭難捜索/泉康子
話が入ったのは、四日夜九時だった。その日一日の、山とは縁遠い世界からの切り替えがきかず、杉
おひとりさまの老後/上野千鶴子
態になった。
いい階段の写真集/BMC
幕末三〇〇藩 藩主とお姫様/新人物往来社編
村上春樹氏。
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、私は村上春樹さんの小説挫折組です。
初期のころから小説は読んでいたんだけれど、あの「ノルウェイの森」、それも上下巻で、???が飛び交い、
以後村上春樹氏の本は手を出さなくなりました。
でもね、なんだかそれってもったいない気がして、
数年前に「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んでみると、
これがすんなりすとんと脳に腹に身体に落ち着くのね。
エッセイは無理なく読めることに気がつき、エッセイや旅行記ばかり読んでいたのですが、
今回、ふと背表紙と目と目がカチっと合い、図書館から「ねむり」を借りて読んでみました。
読める。読めたわ、私、読めた。
不眠症の主婦の話を快眠症の私が読むのもなんですが、
ラスト近くに突然の緊迫感、そしてラストは、あれ?どうしてはっきり書き記さないんだ。
いろいろ含みを帯びた終わり方は想像する楽しみ以上に激しいストレスを欲求不満を生むのですが。
だれか、すっきりさせてください。
突如として引っ越しをしようと思ってしまった。
物件を見に行ったら玄関の庇の下で二匹の子猫がふるえていた。
掌に載るくらいに小さな、子猫であった。
いやぁ、もうじんじんきゅんきゅんです、この子猫との出会いから始まる一連の出来事。
なんだか大島弓子氏の「綿の国星 第一巻」を町田家でふたたびみたいな感じで、
オルセンのケージ入りの場面なんてもう泣き出しそうになってしまったし(笑)。
町田さんはこれが3冊目なのですが、やっと心が通じ合えたような、そんな読感。
愛蔵書になりそう。
直木賞受賞のあの記者会見でのジャージ姿が忘れられず、
一度読んでみたいと思っていた姫野カオルコさん。
もしかしたら、姫野さんも私同様、筋肉愛や美への思いが強い人なのではないかと。
酒井順子さんも同じ匂いを感じる人ですが。
短篇3作品中2作目にでてくる小林君、彼がそうでした(笑)、男女の性差や老若にかかわりなく、
無意識に美というものの本質的な要素をみきわめてしまう青年で、バレエであろうが彫刻であろうが、
人の顔の一部にも文字にも「かんじがいい」ものに惹きつけられてしまう。
って私もそう、すっごくこの感覚はわかるんです。美の本質的なものかどうかは違うかもしれませんが。
だから某所(ジム)は大好きで、カラダの使い方の上手い人、きれいな筋肉の動きがキラっと目の前にあると、
男女に限らずもううっとりしてしまうんです。失礼ながらも目で追ってしまう。
できるなら触らせてもらいたい。その張りや弾力、力を入れた時の強張りと弛緩。
なんて書くとまるっきり変態ですが、下心というか変態的なそんな気持ちや要素は一切なくて、
ただただ美しいと感じるものをこの目で見てこの手で触ってみたいだけ。
小林君を書いた姫野さんもきっとこの系統の人物だと思うのですが。
いやぁ、ノグ氏損失は痛手だ。
川上弘美さんの東京日記1は再読。
まだ後の日記に比べ多少控え目で、ひょっとすると詩の要素がどこかここかにあるのかもしれない。
といいつつ、詩的な表現ではなく簡潔さかな。
少ない言葉で的確にぴちっとおさえて(よくわからないけれど、将棋や碁のようなイメージもあり)、
だけどなのにこのゆるさと飛び感と静けさはなんなんでしょう。
薦められ読んでみた「いまだ下山せず!」は意外にも骨太なノンフィクションでした。
もっと悲壮感漂う悲しい本かと敬遠していたのですが、読んで納得。
地名や地形やパーティー名や日時を把握するまではちょっと大変だったけど、
このカバーにもなっている、遭難行方不明の3名の写真が出てきたあたりから、
怒涛の一気読み。
捜索現場を決定する泉さんのプレシャーはいかなるものだったのか。
なんだかシルバーシャンツェを探し歩いたあのプレッシャー(と比べると差がありすぎですが)を思いだしてまったり。
最近、死ぬことをよく考えます。
誰でも自分が死ぬことは常に頭の片隅にあると思うのだけれど、
それが漠然とした死だったり、迫って感じる死であったり、時期によりさまざまで、
私が今感じている死はとても身近でとても怖くて怖くて、そのうちまた漠然側に移行するのだろうけれど、
だれでも死ぬときはひとりきりで、結婚していてもしていなくても、子供がいてもいなくても、
死ぬのはまるっきり個人的な出来事で、たとえ死の床でだれかに手を握ってもらっていても、
死は他人にとっては他人の死でしかなく、親子夫婦であろうが個人の死でしかなく、
自分が死ぬときになって初めて自分の死を体験するのだけれど、
体験する自分は死んでしまうとそれがどういうものなのか死んでしまうからわからない。
でも死の場面はいろいろあるし、布団に横たわり死を迎えれるとは限らないし、それは選べないし怖い。
今日のニュースで観た、パラオの熱い炎に焼かれて死んだ人たちの気持ち、
冷たい水に飲み込まれ失われた多くの人たちの命がある。選べないし、それはとても怖い。
怖いけど、死はだれにでも必ずやってきて、未来永劫繰り返される。
書いてありました、死後できるだけ早く発見されるようなネットワークを作っておきなさいと。
これから先どうなってあと何年生きているのかわからないけれど、忘れちゃいけない言葉だな。
いやぁ、さっきの姫野さんのときに書いたのとかぶりますが、
階段や建物も好きなんです(笑)。窓の金具とかね、天井の装飾とかね。
歩いていて、やけに感度というか周波数というか、もう激しく反応してしまう家やビルがあるんだけど、
そういうのって無断で立ち入ったり写したりできないし(たまにこっそりやっちまいますが)、
入ってみたい建物はいっぱいあって、それこそ触ってみたくてうずうずでね、
何なんでしょうね、この感覚は。
カバーの階段、なんだかホッキ貝みたい。
あー、長くてすみません。
また変なこと書いているかもしれませんが、私昔の人の写真を見るのも好きなんです。
男の人なら面構えというか、まず笑顔なんてありませんから、当時の人は何を思いカメラの前に立ったんでしょね。
女性はというと、まずその髪型にぐぐっときてしまいます。
当たり前ですが地毛で、私がタイムスクープハンターを愛していたのはここではみな地毛だったからで、
あの時代劇の叩いても割れないような硬いヅラではなく、地毛ならではの曲線と頼りなさが美しすぎる。
それに着物の着方もさすが本場、綺麗でね、
なんというか、今のカチっとした着方とはちょっと違ってて、
だらしなくまで行っている人もいるけれど、紙一重の美しさというか色気というか、
平均身長は150センチくらいだったっけ(うろ覚えです)、猫背で内股幅狭く歩くのが平均的だったとか。
そうよね、着物だと膝から下であるくような感じでしょうし、草履だとつま先歩きになる。
間違っても時代劇の大奥のどばーっと一同だだだだだにはなっていなかったはず。
いやぁ、いいなぁ、この時代はどんな匂いがしていたんだろう。
戦や自害を考えると浮かれてキレイキレイと言ってられないけれど、
こういう世界の延長に今の私たちが生きていてるということを考えると、
はぁ~っと深くため息が出てしまうのですが。
以上、今日は綺麗とか美とか、そんな言葉が多かったかな。
シャンちゃんはめんこくてめんこくて、一日眺めていたい気分になる119回目でした。