我々はユア号の上に小さな共和国を作っていた。厳しい規則はなかった。私自身が、厳しい規則に縛られることが嫌だったし、良い仕事は、規則に支配されていては出来ないことを知っていたからだ。今までの体験から、私はできるだけ自由を保証するシステムをとり、おのおのが自らの独立性を感じられるようにした。感性の鋭い人たちは、強要よりも自由を保証した扱いをするほうが、はるかに自主性を発揮する。こうした中で、誰もが自分が機械の一部ではなく、考える人間であることに初めて気づくのだ。仕事に対する情熱が増せば、仕事のできは当然よくなる。私はユア号の採用したすべてのシステムに太鼓判をおす。仲間たちも同様に考えてくれたようで、毎日が、これから何年も続く辛い闘いの前奏というより、きままな休暇旅行のようであった。
ユア号航海記より一部抜粋
ユア号の北西航路探検は1903年6月。アムンセン30歳と11ヶ月。ほぼ31歳。
すでにこのときからこのような考えを持っていて、
そのまま南極探検でも「楽しむ感覚」がいろいろな場面で登場します。
前回画像を載せた、雪めがねコンテスト。
そもそも雪めがねって何かといいますと、雪目を防ぐためにかけるめがねのことで、
じゃあ雪目って何かといいますと、 積雪の反射光線,紫外線によって眼の角膜・網膜に起こる炎症で、
その炎症によって目が見えなくなっている状態になってしまうと南極探検では、かなりまずい。
というわけで、だれが一番良い雪めがねを発明するかを競うコンテストが行われ、
その記念撮影がこの画像でしょう、きっと。
真面目腐ったこの一枚がなんともおかしいのですが。
ビョーランさんが入賞。どの人でしょか。
一番左の、鼻あてと一体鼻雪めがね作成者はハッセルさん。
アムンセンはどこかとさがしてみたものの、これもギャグなのかみなさん帽子を被っていて、
顔の長さと座る位置からテーブル一番奥ノルウェー国旗の下の人かなとも思うけれど、
ちょっと若いかなぁ、違う人かもしれないな。
それからデポの図
そもそもデポって何かといいますと、
同じコースを通って帰ってくるわけですから、あらかじめ帰りの分の食糧や燃料、犬の餌に備品などなどをそこにデポり、
置いておくと運ぶ重量は軽くなるという利点があるのですが、
帰りに見つけられなかったら見落としたら飢える、という可能性もあるわけです。
(アムンセンはぎりぎりではなく、デポを見落としても100マイルは移動できるだけの食料&燃料は常にキープしていたそうです。)
そこで私が唸った、アムンセンのデポ標識の配置を説明しようと思います。
もう絶対見落とさないもんねという執念の標識です。
中央にあるのがその命をつなぐデポ。
その横東西方向にずらっと旗が並んでいますが、竹ざお20本をデポの両側に10本ずつ、先端に黒旗をつけ、
旗と旗の間隔は900メートル取り、デポの両側9キロにわたって標識を配置、
竹ざお1本1本に番号を打ち、それぞれどの方向デポがあり距離はどれだけか必ずわかるようになっています。
南北方向には雪塚、この雪塚にも干し魚を配置し(埋めたのか竹ざお代わりにしたのか)犬の嗅覚食欲にも訴えかけた。
すっごいなぁ!
それに距離計と羅針儀、天測。
きっちりきっちり慎重に慎重の積み重ね。
デポを作って大きな目印のケルンを作って終了にしないのがアムンセンなんですね。