たにしのアブク 風綴り

86歳・たにしの爺。独り徘徊と追慕の日々は永い。

東京・目黒区に行く② 「八百屋お七」の井戸から目黒川を渡り、五百羅漢寺、目黒不動尊まで

2015-12-04 21:51:10 | 社会見学

前回に続いて目黒に行った事の2回目です。
大円寺を出て左に行くと「目黒雅叙園」の前に達します。
道の一角には「八百屋お七」の井戸というのがありました。
「お七の井戸」と、ここまでが前回に書いたことです。
「八百屋お七」の話は、知る人ぞ知る話ですね。江戸時代の悲恋ラブストーリーです。



八百屋八兵衛一家は大火に遭い、菩提寺に避難します。
八兵衛の養女のお七は、その寺で寺小姓の吉三郎と恋に落ちます。
再建された家に戻ったお七は、吉三郎に会いたさに家に火を放ちます。
お七は火あぶりの刑に処せられました。
それを知った吉三郎は出家して、お七の菩提を弔うため荒行に励みます。
そのとき水垢離を取ったのがこの井戸だということです。



目黒川の太鼓橋に出ました。赤い看板の解説を見て、
目黒区の木は「椎の木」だと知りました。
目黒川の桜は都内でも知られた名勝地です。
すっかり枯れ葉になった桜の木が川に映っています。
満開の時期はさぞ見事なことだろうと想像できます。



所々に観光案内の道しるべがあったり、道にも埋め込み標識がありました。
山手通りには入り、しばらく行くと松雲羅漢像のある羅漢寺の交差点です。
右側の小路に入りしばらく歩くと黄檗宗の海福寺がありました。



黄檗宗(おうばくしゅう)とは、
「たにしの爺」喜寿まできて、初めて目にした宗派でした。
ネット検索で臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つであることを知りました。



その先、すぐのところに天恩山五百羅漢寺がありました。
道路から少し入ったところから石段が続いています。
開基は松雲元慶禅師(1648~1710)、本尊は釈迦如来ということです。



300体を超す仏像は元禄時代に、松雲元慶禅師によって十数年にわたり彫像されたもので、
江戸期を代表する木彫りとして東京都の重要文化財に指定されているという。

200円成りの拝観料を払って羅漢堂にはいると、
たくさんの羅漢さんが、悟りへの道しるべと共に迎えてくれます。
境内は写真禁止なので、らかんさんに逢うには直接足を運んでください。

羅漢とは、修行して煩悩を拭い去り、
人間としての真実の智慧を完成した聖者で、
人びとからの供養をうけるにふさわしい聖者という意味だということです。

聖者に囲まれていると、凡人には及びもつかない世界のようで、迷宮に来た気分になります。
修業しますから不埒な心得者をお許しください。
記念にお線香を一策買い求めました。



ランチは併設されている「らかん茶屋」で「らかん膳」をいただきました。(写真右奥)



この後、道標に沿ってしばらく歩き、目黒不動尊こと瀧泉寺まで行きました。
瀧泉寺(りゅうせんじ)は不動明王を本尊とし、
天台宗3代目座主の慈覚大師が9世紀に創建したと伝えられています。







朱塗りの仁大門を入ると広い境内があって、
大きなスズカケの木、イチョウの木が色づいていました。
正面に長い石段があり、その奥に本殿があります。





本堂へと登る石段の左手に池があり、2体の龍の口から水が吐き出されています。
慈覚大師が独鈷と呼ばれる仏具を投げたところ、泉が湧き出し、
独鈷(とっこ)の滝として今も涸れることなく湧水が出続けているという。
池には水かけ不動もあります。



大本殿の回廊を回って後ろ正面に立つと、露座の銅製仏像がありました。
膝前で印を結ぶ胎蔵界大日如来像です。



広い境内にはさまざまなお堂や石造が置かれていました。
勢至堂、愛染明王、護衛不動尊、不動明王の使者とされる八大童子の山など。





また、青木昆陽の墓と碑、本居長世の歌碑、北一輝の碑なども。
さまざまな、いろいろな拝所がありすぎて混迷しそうです。



門を出たところには権八と小柴の比翼塚がありました。
「比翼塚」というのは、愛し合って死んだ男女を一緒に葬った塚だということを知りました。



この後、林試の森公園に向かいました。



<この項未完>
今日はここまでにします。