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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



淀川の河口に形成された三角州の砂州は、古代から難波八十島と呼ばれていたが、安治川と尻無川に挟まれた九条島もその一つである。

安治川



それらの島々は次第に陸化し、やがて江戸時代になると河口周辺部の新田開発が急速に進み、九条島も1624年(寛永元年)ごろから干拓工事が始められるようになっている。

茨住吉神社は、寛永年間に社殿が造営されて、神社としての規模が整い、新田・河川の守護神として住吉大社の神が祀られたというので、380年の歴史を持つ神社である。



しかし、67年後の元禄4年の地図を見ると、九条村からかなり離れた場所に、鳥居と小さな祠があるだけの粗末な「いばら住吉」として描かれている。



茨の文字が住吉の前にあるのは、当時この地に日本固有のノイバラが多かったので、茨住吉とされたという説があるが、上流に茨木市があるようにノイバラは淀川に縁のある植物なのである。

境内



当時の九条島の小高い所には樹齢数百年の楠木があり、その傍に祀られていた小祠を改築しただけの神社ではなかったかと思われる。

この楠木は、戦時中まで生き生きと枝葉を伸ばしていたが、空襲で焼けて枯れてしまい、今は枯れ木のままの姿で境内の東側に置かれている。

市杵島姫神社の説明板の後ろが枯れた楠木



社殿造営から218年後の1842年(天保13年)の地図には、茨住吉神社の東側に九条村宮東という集落ができているのがわかる。



さらに1881年(明治14年)の地図には川口居留地から1キロほど南に小さな茨住吉社が描かれている。



1903年(明治36年)になると、神社の周囲の田畑は人家となり、大正・昭和初期にかけて西大阪の中心街・歓楽街として繁栄し、神社境内も昼夜参拝者の絶えることなく、当時の氏子は、四万戸を越えていたという。



しかし1945年の空襲で周囲の街と共に焼失してしまい、1965年になってから社殿が再建されているので見た目にはまだ新しい神社である。




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